別れの形

十枚目:別れるまでの覚悟

 翌日、水族館に着く前からステラの体に異常が生じた。最初は僕みたいに単なる風邪かぜ気味ぎみだと思って、体の調子が良くなるまで館内のカフェで時間を潰した。しかし、時間が経っても熱は下がらず、軽いしわぶきは悪化して息切れが激しくなった。周りからいささか迷惑そうな顔で睨まれ、これ以上は危ないと判断した僕は救急車を呼ぶためにスマホを出した。が、途中からアリマさんに阻止され、持っていた携帯は奪われた。

 「各務です。メッセージで送った住所まで車一台をお願いします」アリマさんは僕の代わりどこかに電話をかけて現場を伝えた。「エマージェンシーコード、レッドのU012です。今からそちらへ向かいますので先生たちにコールを入れてください。あ、後は牡丹たんのさんに連絡して人形を準備してください」

 僕は近くのベンチに座り、冷たい缶飲料コーラーをハンカチに包んでわきの下に当てて、ステラの熱が下がるまで様子を見た。五分が経過してアリマさんの電話が再び鳴った。電話で呼び出した車が駐車場まで着いた模様だった。速い、と感心しつつ、早速ステラを背中に乗せて早歩きで階段を降りた。僕と違ってアリマさんは、慣れたような顔で冷静に歩いた。

 駐車場には黒い車の三台が一列に並んで既に出発の準備を整えていた。三つの銀の線が円の中に集まったマークが特徴的なベンツから降りた三人の運転手たちは、慇懃いんぎんに挨拶を終えた後、アリマさんに従って車のドアを開け、頭がぶつからないようにエスコートしてくれた。

 「出発してください。着替えるまで暗幕の配置もお願いします」

 搭乗者とうじょうしゃの安全を確認した運転手は無口で車のウインカーを出し、前後にある車と一緒に高速道路へ向かった。僕は、目的地も分からないまま、ただ無念さを飲み込んだ人のように小さなステラの手を握らせてもらった。

 あっという間に車は東京市内に入り、東京中心の巨樹を通り過ぎてからは、窓の向こう側がだんだん見慣れた景色に変わって行った。やがで僕たちを乗せた車が止まった場所はとある病院の地下駐車場だった。

 「お待ちしておりました、各務様。ご指示いただいた通り各センターから協力を得てカプセルのご用意が終わっております」

 「花園の先生たちからはまだ連絡が届いていない状況ですか?」

 「申し訳ありません。もう一度連絡を入れてみますので少々お待ちください」

 二人の会話に追えかけなかった僕は、ステラを優しく抱き込んで車から先に降りた。車のドアを開けて地面に足を踏んだその先には、黒いスーツを着た人々が病院のゲートまで一列に並び、背筋を伸ばし、腰から頭にかけて一直線になるように腰を曲げながら、アリマさんに向けて敬礼けいれいをした。皆、スーツの左襟にたんぽぽ模様の社章しゃしょうバッジを付けている。

 感心している場合ではない。僕はステラを抱えた状態で病院の中に足を運んだ。

 「ここからは各務様の以外は立ち入り禁止です。お手数をおかけしますが、被験者被験者は私の方からお預かりいたします」

 背が高い警備員が片手を広げて中に入ろうとした僕を立ち塞がった。

 「弥蛇山みだやまさんのところに見覚えがない方が入りましたね。新人さん?」とアリマさんが奇妙な笑顔で警備員の方を眺めた。

 「大変失礼致しました。おい、君、各務家のお連れ様に何の真似だ。速く道を開けろ」

 「いいえ、大丈夫です。マニュアル通りに対応したので問題にはなりません。ただ——」着替えが終わったアリマさんが車から降りて皆の前に姿を表した。「相手が悪かったです」

 アリマさんは油断ならない数分間を送って、人を軽蔑けいべつするような眼でこう告げた。

 「今日までお疲れ様でした。あなた様は今から首です。また、二度と各務家が運営している会社や子会社に就職はできなくなりましたのでご理解をおねがいします。ご不満などありましたら法務チームまで連絡してください」

 瞬時に首になった警備員は言い訳もできず地上に追い出された。アリマさんから初日に会った時の冷たい空気が流れてきて、私のうなじに当たった。

 「それでは、行きましょう。研究室には私も拝見させていただきます」

 冷静なアリマさんの後ろを追って。僕は素早く関係者と共にエレベーターに乗り、地上三階にある第三研究室の前に達した。どこか見覚えがある施設だ。と思えば、ここは先日に訪れた花園大学医学部附属病院であることが分かった。

 「失礼したします。お子様を引き受けてもよろしいでしょうか」

 誰かがステラを引き受けるために僕の前に来た。虎徹先生だった。僕の顔はすっかり忘れた人のように、ステラを移動式ベッドに寝かせて体の状態を確認した。虎徹さんは手元にある紙カルテに記載された内容をアリマさんに見せながら何かを深刻に伝えた。カウンセリングシートを読んだアリマさんの顔色が悪くなった。せめて治療がいつ終わるかでも聞きたかったが、アリマさんを含めた関係者全員が僕を除いて研究室の中に入った。僕は、肩を下に押し付ける無気力感に襲われながら、一人で病院の廊下に立って時間を潰した。

 僕は、ステラが元気になるのを一日千秋いちにちせんしゅうの思いで待ちわびた。あたりは夕闇が光りに照されて、空から紫だちたる雲が降りはじめた。夜になって気温が下がり、外から吹いてくる風が冷気を膝まで立ち上らせている。僕は、不意と昼夜ちゅうやまるまる何も食べていなかったことに気づき、タイミングよくお腹がグーっと鳴った。何はともあれ、食事をしなければ、と思って近くの自販機から天然水を買った。一口飲んだ冷たい水が食道を通り、空っぽの胃袋まで流れ込んだ。腹が減っても食欲がなくまた座っていたベンチに戻り、呆然と病院の壁をうつろにと見詰めた。

 「誰もいない廊下に一人で何をしているんだ?」

 人声に顔を上げると私服姿の香月さんがそこにいた。裏地の開襟シャツに度の無い黒縁の伊達メガネの姿が、仕事上がりで飲みに行く予定の社会人のようだった。僕は元気を失った声で挨拶をした。

 「あ、香月さん。お疲れ様です。先日は色々すみませんでした。暴れるつもりはなかったですが、ステラのことで取り乱した姿を見せてしまいました」

ステラを取り戻すためとは言え、病院の施設や多くの人々に怪我をさせた。悔悟の念にさいなまれる良心を犠牲にして、自分が犯した犯罪行為を忘れるほど、僕は愚かな大人たちとが違う。当時は全てが終わる日に罪を償おうと思ったけれども、計画が変わった今は別の方法を考えている。

 「家族にまで、堅苦しいことを言わなくてもいいと思うんだけどね。私よりは、病院の関係者や他の人々に謝りなさい」香月さんはバックからメモを取り出して僕に渡した。「これ、爆発に巻き込まれた人々の連絡先リスト。今週中には連絡した方がいいよ」

 受け取ったリストを上から順番通りに確認したところ、こひなさんの名前を見出した。ここで本名を書くとは思わなかった。連絡先の欄は空欄になっている。僕は香月さんにこひなさんのことを聞いてみた。

 「彼女さん?」、と質問に質問で返ってきて、僕は積極的に否定した。

 「最近、意外なところで意外なハルくんの一部をと見ている気がする」と感心する香月さんは話を続けた。「その子からは携帯電話を預かっている。ちょうど充分が終わったばかりだから、電源を入れてすぐ使えると思う」

 「ありがとうございます。すぐ電話してみます」

 「周りの人は大事にしてね。いつ、何が起きるか分からないからさ。あと、薬もちゃんと飲みなさい」

 さよならを伝える香月さんを送ってから、僕はガラケーの電源をつけた。まずは連絡先に目を通した。保存されている電話番号は一つしかなかった。『本邸ほんてい』と記入されている。このタイミングに電話をかけても、流れ的に言い訳で終わりそうだった。どう会話を始めようか一瞬迷ったすえ、咄嗟とっさに心を定めて通話ボタンを押した。しばらく呼出音が五秒単位で繰り返され、僕は頭の中で言葉を整理した。

 「はい、ナオミです。どちらのどなたでしょうか」

 「すみません、炭咲ですがこひなさんから電話を——」

 「ねぇさん!あの男から電話が来た。どうする?」と遠く離れたところに向かって大声で僕の電話を伝えた。「わかった。もしもし?悪いけど、ねぇさんが五分後にかえしの電話をするって言うから、ここで一旦切るね」

 言い返す暇もなく、電話はそのまま切れた。約束した五分が経ち、本邸から着信が入った。僕は両手の指でそっと眼を押えながら、深く溜息をついた。先に謝ってから話を始めよう、と小さく呟いて電話に出た。

 「炭咲です。先日はお世話になりました」と短い挨拶で会話を切り出す僕である。「今、ステラの調子が悪くなって病院に来ています」

 反応はないけどスピーカーの向こうから息漏いきもれ声が耳元にささやく。「はあ、ずるいよ、炭咲くん。嘘でもステラを盾にして逃げないでくれる?」

 「いや、そう言うつもりではなかったです。」と慌ててこひなさんに状況を伝えた。「今朝、ステラの調子が急に悪くなって、急いで車に乗って水族館から病院まで来ました。ステラの家族と一緒です」

 「へェ、デートしたんだ。ウチはそれっきり新吉原へ連絡でもすると思ったのに、すっかり忘られていたわけね」

 地雷を踏んでしまった。なんか思ってたのと違って、謝るつもりで言った言葉がやけにこひなさんを不機嫌にさせているような気がする。どう反応すればいいか迷っている間、こひなさんが先に会話を続けてくれた。

 「で?結局、本当の家族を探したんだ。ステラは喜んでいる?」

 「喜びました。が、実は少し心配事に悩んでいます」

 「あら、何かあったみたいだね。言ってごらん。男の悩み事はウチの専門だから、真面目に聞いてあげる」

 「こひなさんに正直に言ってもいいですか?」僕は昨日から考え込んだことを文章に固めて声に変えた。「ステラのことが怖いです」

 「ええと、ステラを失うかが怖いの?それともまだ君自身への自信がないから?」

 「後者の理由で前者の結果になるか怖いです」

 こひなさんは話を聞いてこう言ってくれた。「色々あったみたいだね。ステラの家族と何かあった?」

 僕は父親との会話からアリマさんと移行した契約の話まで、四日間起きたことをこひなさんに共有した。途中からステラの暴走したことと、樹の一族については秘密にして出来るだけ全部話した。

 「なるほどね、炭咲くんと仲良くなるなんて羨ましい。少し嫉妬するかも」こひなさんは軽く笑った。「二人の会話でステラちゃんを実家に連れて行く話でもした?それともステラが行きたくないと言われたの?」

 まるでこひなさんが目の前で話を聞いているように、僕は気安い雰囲気で胸の奥に埋めていた話をペラペラと喋った。こひなさんが話し相手だと、誰にはばかることなく話ができる。今までずっと沈黙を守った心の声が、ブレーキが壊れた車みたいに口の中から暴れ出し、感情は心臓の鼓動と高ぶった。

 「身内の人から、今後は実の父親として、ステラの面倒を見てくれと頼まれました。でも、僕もノバナ出身で、良い手本になりそうな大人おやが周りにいないです。僕は、自分がいい大人になる想像ができないように、僕がいい父親になる想像もできないです」

 大人に対して不信感を持っている僕にとって、誰かに相談することは実に難しいことだった。素直に大人ひとを信じて助けを求めようとしても、二度も痛い目を逢った僕に、三度目は来なかった。話をする前に相手から何かを奪われるかを先に心配した。

 香月さんには悪いと思っている。しかしそれが、例え親戚でも、父親と同じ大人である限り、きっと優先順位があり、僕もその中に含まれていると思う。ただほど高いものがない。だから、大人には借りを作らない。僕のモットーになった言葉に、愛が一欠片も含まれていない理由は、僕が傷つきたくないからである。

 こひなさんが大人になれないノバナだから信用できる、との意味ではない。同じ年齢の子供として、似た心の傷を負った経験があるから、話しやすい相手だと感じているのだ。うまくは説明ができなくて僕も未だにこれがどんな意味を持っているかをよく分かっていない。たぶん、今後もこの違和感は正体を表さないままで終わるだろう。

 僕の事情を聞いたこひなさんは細長い沈黙を破り、ベッドにじっと体を寄せ、消え入りそうな声でこう言った。

 「告白……されたの?」

 何か大事なことを言い忘れた気がして早速に訂正をかけた。「あの、誤解です。ステラの姉の方から頼まれたことです。まだ返答はしていません」

 「なあんだ、そうだったの?びっくりしたよ」こひなさんはほっとしてため息をついた。「ご両親が亡くなっり、ひとりおや家庭かていだったりする?」

 「いいえ、親はいると思います。こひなさんと面識がある人です」

 「ウチが知っている人の中でステラを捨てた家族がいた?誰なの、その人は」

 「各務家のアリマさんです。病院も一緒に来て今はステラの治療を手伝っています」

 「えッ?」と、こひなさんが思わず一言の声を発した。「…炭咲くん、今、各務先生と言った?本当にウチが知っているあの各務先生がステラの家族だったの?」

「僕も信じがたいと思いましたが、ステラがアリマさんのことを親しげにネネと呼びながらととても親しげだったから、嘘ではないと思います。アリマさんもこひなさんを知っていると言いましたので、間違いなく同一人物です」

 こひなさんの反応を聞き、多少の釈然しゃくぜんとしないものが胸に立ち込めて喉が詰まるような感じがした。それはちょうど、漠然と異常を察知したときの気分に似ている。

 「こひなさん、何か気になる部分でもあり——」まで話したところで研究室の中から虎徹さんがマスクを外しながら廊下に出た。着ていた服に誰かの血がついている。

 僕は、携帯電話を閉じて廊下の椅子から体を起こした。短い息抜きの時間を邪魔したいとは思えないけど、中の状況が知りたいたくて自販機から缶コーヒーを買い、虎徹さんに近づいた。六時間以上つづいた労働に虎徹さんの目の下には濃いくまができ、体は動ける力はあるものの、白眼の外側がまっ赤に染まって疲労が溜まり、唇には乾いてやつれ果てている。人に話をかける行為に対して罪悪感を感じる場面はとても珍しかった。

 「失礼しますが、各務家の娘はどうなりました?大丈夫ですか?」僕はぶっきらぼうな口調で声をかけた。「病名だけでも教えていただけたら幸いです」

 虎徹さんは言った。「ナロコウイルスに感染された状態で体内から大量の力を消耗しょうもうした影響で高熱と炎症が多発しています。まだ適切なワクチンの種類を探せなかったのでこれからは集中治療室ICUに入院させ、明日朝までは様子を見ることにしました。各務先生は、まだ出るまで時間がかかると思われます」

 話を聞いてから僕は考え込んだ。先日の暴走がステラの具合を悪くしたとしたら、僕にも責任がある。だが、何の能力と権力も持っていない僕に残されたのは、外で手術が無事終わるまで無気力に陥った状態で待つ事だった。この長い一日の間に、久しく欲望の対象として思い込んだステラの父親になるのはどんなに難しいことか、僕は限界をしみじみと痛感せざるを得ないのである。

 「まだ学生さんでしょう。多くても高校生くらいに見えるけど」と疲れに染みついた声が僕を妄想から呼び寄せる。「各務先生から聞いたぞ。あの子の保護者としていてくれたみたいだね。詳しい事情は知らないが、責任を負う覚悟を持つだけで子育てをうまくできると思わない方がいい。子育ての理論や教育方針など知った親でも、手強いと思うくらい激しい労働だ。特に、君のような学生さんが背負うには『アレ』はリスクが高すぎる」

 相変わらず初対面でも、見た目で人を判断して相手を機嫌きげんそこねる。年下だからと言って何でも言える立場だと思っているに違いない。僕は、斜め前の椅子に座っている目の鋭い、彫りの深い顔立ちの男から、目を逸さなかった。いかにも冷徹れいてつな印象の男で、同時に傲慢ごうまんさも備えている。

 「お説教、ありがとうございます」と、愉快ではない会話を切り上げた。

 「ずいぶん、乱暴な言い方をしたが、君も内心で第三者の口から、子供が子供を育てるはずがない、と聞きたかったでしょう」

 僕は堂々と虎徹さんの言葉を否定しようとした。が、その直前に自販機に微かに映った自分の顔を見て、静かに口を閉じた。

 「はあ、缶コーヒーのお礼に一言言わせてもらうけど。聞くか聞かないかは君の判断に任せる」缶を開けた虎徹さんがふうっとため息を漏らした。「今回の件で、親の責任の重さを理解したはずだ。まだ年若い君が、ありもしない父性愛の火に心を燃やしても、明確に形を結んでいない関係はいずれか忘れられる。それところか、せいぜい頑張ってあの娘の幸せを祈る他に何ができる」

 消毒剤しょうどくざいの匂いが鼻先に漂い、缶コーヒーの甘い砂糖の匂いが消えていく。そして、喉に残っていた胃液の違和感に、なおも強くせきこみながら、根戸は不意に、たった一滴の涙をこぼしていた。思いがけないことだった。

 「あの人から何を言われてどんなお願いをされたかまでは聞いてない。聞きたくもないが、各務家のことだから、どうせろくな事は考えていないだろう」疲れが取れない顔を軽く擦り上げて次のことを言った。「もう各務家の人に振り惑わせない方がいいぞ。アレは、本家の当主様が治療が終わるタイミングに合わせて、直々に回収しに来る予定だ。そうなると、君の役目はもういらないと思うが、各務先生からは個別に聞いた話でもあるか?」

 僕は驚いた眼で虎徹さんを見詰めた。

 「何だ、当主のことは知らなかったか。ってことは、また先生が勝手にやらかした話になる。本家でアレをわざと逃したと言う噂を聞いたけど、それはまったく根も葉もないうわさではなかったかも知らない。はあ、どうでもいい。君ももう帰れ。ここにいたってアレとはもう会えないことはもう確実だ」

 虎徹さんは飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に捨てて再び研究室に戻った。僕はまた一人で廊下の椅子に座っている。

 裸になった気分で体が微かに震えた。その感情を腹から我慢するように唇を横に引き結び、眉間に力を入れ、目を見開く。だが、あおい瞳に映るすでにめまいと吐き気に見舞われ、もともと白い肌から血の気がひき、立っているのがやっとだった僕はどこかにあるはずのトイレに走り掛けた。

 途中ぶつかった人たちは、皆僕を睨むようであったが、それを気にする暇はなかった。とにかくぼんやりと気がついた時、僕はしきりにトイレの便器に顔を突っ込んで口から水を吐いていた。吐いて、泣いて、心臓が破れかけ、肺は充分な空気を求めてあえぎ、腹の底で沈んだものがなくなるまで吐き続けた。喉がイガイガと引っかかり、また塩辛い涙の味が舌の上に感じられる。

 それは、不快感ふかいかんの味だった。

 何も残っていない腹の中から最後の一滴いってきまで水に流した僕は、蹌踉ながら立ち上がると、トイレ個室の壁に手をついて体を支えつつ、洗面台まで歩き出した。廊下の方から人々が集まって中を覗き見していたが、僕には気にならなかった。

 気を取り直すために冷たい水で洗顔をすませると、無様な姿をさらした顔が目の前にいた。水に濡れてやや蒼白な色を帯び、灰色の唇はしかばねに近く、狂犬きょうけんのような瞳は赤く染まっている。流れ落ちる水を服でぬぐう事も、垂れてくる前髪かき上げる事さえもしなかった。ぼっと見つめた鏡に映る像が自己であることを知って、僕は握り拳を一方へ突き出した。

 洗面台の上が飛び散った鏡の破片と木炭の粉で汚れた。僕は、割れた鏡から切り傷を負った自分の顔をしばらく覗いた後、下に落ちた欠片を踏みつけながら、トイレの外に集まった群衆の中をかすめて通り抜け、その場を立ち去った。外は、何も見えないほど真っ黒に変わっていた。

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