花園の子供たち

八枚目：人生は思い通りにはいかない（２）

　「お前も、この家から出てけ」と、気が狂（くる）った僕が冷たい声で言い流した。

　話は少し遡（さかのぼ）って、三人暮らしを始めてから四日目になる朝。前日のスケジュールで訪れた映画館でインフルエンザにかかった僕は体調を崩し、頻（しき）りに咳が出ることで熱も同時に上がった。だるさが全身を覆ったあの時、生存本能で体を動かして水を飲んだ。少しでも元気を取り戻したら二人と一緒に出かけたかったが、半日で治せる病気ではなかった。

　「アリマさん、今日は、僕の調子が悪くて、外出が難しいと思います。面目（めんぼく）無いですが、ステラと二人で、出掛けてくれますか？」

　今日、予定されていた日程は葛西臨海（かさいりんかい）水族館だった。海の近くにある水族館で、家から一時間ほど離れた場所にある。電車とバスを乗り換えする手間があり、アリマさんから、水族館まではタクシーで移動することを提案された。僕は無論（むろん）、僕のためにそこまでする必要はない、と強く引き留めた。

　「ダメです。一緒に行かないと意味がありません。午後に出発しますので、頑張って体を休ませて治してください。お願いします」

　「いや、午前中に、治れる病気では、ないから、無理です」

　しかるに頑固なアリマさんは一歩も譲らない態度で話を進めた。

　「午後の予定を変更して、先に病院から行きます。その後、お薬を処方してもらって、水族館まではタクシーで行きます。姉さまにはインフルエンザが移らないように室内でもマスクはつけてください」

　「おい、なんだその言い方は？話が全然噛み合わないじゃないか。僕は休みたいと言っただろう」大声を出したせいで喉がいかれた。

　話を聞いたアリマさんは淡々と着替えの準備を行なった。「予定をキャンセルする選択肢（せんたくし）はありません。炭咲さんには契約を移行する義務があることをお忘れになってはこまります。お分かりになりましたら、午後までゆっくり休んでください。タクシーが到着次第（とうちゃくしだい）、具合（ぐあい）が悪くても、本日の予定通りに動きます」

　「死にかけている人に対して契約移行の話は酷くないですか？口頭（こうとう）で契約する時は義務の話なんて聞いてないです」人の話を無視する態度に怒りを感じる。「アリマさんの話は分かりました。ステラのパパ役はここまでにします。後は僕がいないところで好きにしてください」

　「逃げるおつもりですか？」と、アリマさんが舌打ちをした。「最初に、パパ役を何だと思って契約を引き受けました？父たるものの意義は子供が生（う）まれてから一緒に生（しょう）じる条件付きオプションです。自分より子供を優先的に考える。己（おのれ）を犠牲（ぎせい）にしても自分の子を守りたがる。世間的常識から脱出して、どうにかしてこの世で子供の夢を実現したいという苦労と努力する人が親です。炭咲さんも一応親はいるから私の話が伝わると思います」

　話の最中にステラが入り込んで二人の間に止まった。すでに出かけるための準備万端が整った状態で僕とアリマさんの顔色をうかがった。さっきまで平和だった雰囲気が、なぜ殺風景になったか、ステラはたじろいでいた。

　「炭咲さん、あなたはまだ姉さまのパパです。それだけは忘れないでください」

　頭の回転が遅くなった今、アリマさんの話は半分以上聞き流していたが、彼女の口から出た言葉がふと耳にひっかかった。義務とは何だろう。と何度も自問すると、僕は匕首（あいくち）を胸もとにつきつけられたような気分がした。しかし僕は今になっても、自らにパパ役を強（し）いる義務感を感じなかった。ある意味で、どこかで親になれる覚悟ができていたかもしれない。でも、僕に今の状況に差し当たる覚悟はしていなかったに違いない。

　遭遇（そうぐう）した子供（ステラ）が、誰もが望まない死の安らぎに埋もれていた僕を自分の世界に取り縛り、互いに一種言いようのない強い親近感（しんきんかん）を抱ける関係を、僕が気づかない間に結ばせた。思いも寄らぬ偶然な事から一人の子供と相知（あいし）るに到って、僕の性情（せいじょう）は不思議な方向に導いている。

　僕は初めて味わう感情に心臓が押（お）し拉（ひし）がれる感覚を覚えた。これは漠然（ばくぜん）としたあいつへの怒りを思い出した。似ていても本質は違う。敢（あ）えて言えば、これは、自己嫌悪（じこけんお）に近かった。

　「怖いパパはダメ。ネネに優しくして」隣で話を聞き齧（かじ）ったステラが軽いパンチを繰り出した。

　僕は奥歯を固く噛み合わせ、肩で息を吐いて背筋を伸ばした。泣き腫（は）らしたようなステラの顔が目の前で邪魔になった。

　「人の耳元でギャーギャーと騒ぐんじゃねえぞ。今はアリマさんと話中だ。邪魔気なるから、僕の前から退（ど）きなさい」と、右腕を上げてステラの肩を押（お）し退（の）けた。

　「姉さまに何の真似ですか？ネネ、大丈夫？」

　アリマさんの慌てた声にふと目が覚めた。僕は、ステラの体重が、簡単におしのけられるほど軽くはないであろうと考えていた。

　「いや、僕は」

　傷つけるつもりはなかった、と言う前にステラと目が合ってしまった。ステラは激しいショックに打たれたて、泣きそうな顔で僕を見つめている。罪悪感が心の底から噴き出た。

　「パパの大嫌い」

　それだけ言い残して、ステラは素足のまま外に出て、堅い鋼鉄（こうてつ）の階段を走って降りた。呼び止めようとして手を伸ばしたが、壁の方から不吉な音がして視線を移した。ステラの足に赤い糸が絡まり、プッシュピンで固定した写真やらが全部剥がされていた。玄関のドアには糸が通った隙間に紙が詰まってゴミのように見えた。　

　虚無（きょむ）の中から醸成（じょうせい）されるかのように長い一瞬の沈黙を破り、僕は口を開いた。「お前も、この家から出てけ」

　「何を言っているのですか、あなたは。あのまま、姉さまがまた行方不明になったら、タダで済むと思わないでください」

　アリマさんは僕のコートを借りて、玄関のドアを開きっぱなしにしたまま、家出したステラを探しに行った。

　僕は一枚のちぎり絵になった関係図を見上げ、独りでくすくすと笑った。何だか、大（おお）いに空振（からぶ）りをした気分だ。ジェットコースターのような感情の波（なみ）に振り回されも、幼い子供に八（や）つ当（あ）たりで暴力を振る舞った行為は、決して正当化（せいとうか）にはならない。既に起きた事に後悔を重ねても無駄だ。

　熱が下がるまで待てない、と僕は取り急ぎ灰色のチェスターコートを着て、玄関のドアを鍵で閉めた。通常の日よりも強い雪で外の寒さで白い息が口の周りに広がった。確かな朝の時間帯にも関わらず、曇り曇った天気が街中に影を落として夜よりも暗く見える。まだ家を出て五分も経ってないから大丈夫だと自ら思わせるものの、心の中から不安がひたすらに足を急がせた。

　この街には都内でもノバナが多く滞在（たいざい）している。業界（ＴＧＣ）内ではネペンテスの鉢（ばち）と呼ばれて、ノバナを狙って寄ってくる虫（むし）どもを排除する依頼が毎朝会社まで依頼が来る。実戦経験が足りなかった新人の頃は、先輩の指示に従って動いたが、あの時に遭遇した虫どもの力は人のレベルをはるかに超えていた。

　「はあ——、もうこの街を離れたかも知らない」と自分を責めた。

　足跡が雪で消えてこれ以上追跡が難しいと思った時、雪畑の上に何かが視界に入った。それは、僕が壁にピン留めして使った赤い糸と同じ物だった。

　助かった、と本気で感謝した。ステラが出かける時に糸が体のどこかに引っ掛かって地面に引きずっているみたいだ。僕は、雪の積もった住宅街で見つけた道標（みちしるべ）を追い、ステラがいるところまで駆け出した。

　道路の端っこで右に曲がり、小さな端を渡ってまた別の街に着いて足が止まった場所は、四月に完工予定の工事現場だった。帰り道にあるから見慣れた場所である。周りに人影は見当たらない。

　赤い糸は入口（パネル）ゲートの奥まで続いている。他に探す方法は思いつかなかった僕は、入口の近くにある安全ヘルメットを被って中に入った。金属製の板の足場と防護ネット、養生シート等で囲まれた内側は、外からの光が遮断（しゃだん）されて、夕暮れに近い暗さの雰囲気がした。雪風で単管パイプが互いの体をぶつけて清（きよ）く気持ち悪い音を鳴らしつつ、暗闇から目に見えない誰かの手が僕の足を誘い込んだ。

　「……けて」と、人の声が闇の奥から聴こえてくる。「た……け」

　大気中の水分が重くなった。一歩ずっつ時間をかけて声が聴こえる方向まで近つくと、人の顔と片手が闇の真ん中に浮かんで、力が抜けた状態でうめき声を出した。赤い糸はあの人の片手にぶら下げられている。声の正体を確かめて分かった。あれは、ノバナを狙って街に潜り込んだ虫どもの一員だ。僕は、ステラを脅（おど）かす存在を先に見つけ出して安心をする一方で、とても嫌な予感がして後退りに引っ込めながら、前方に向けて警戒を強めた。

　「タスケテ——」

　遺言（ゆいごん）らしい言葉の限りを尽くして、完全な闇に飲み込まれ、怪しげな姿は消え去られた。ここで僕は闇の向こうで何かの動きを感知した。その何かは、ギザギザに並んでいる歯で人の肉と骨を噛み砕き、喉越しともによく、餌を胃袋の中に入れ込んで、最後は物足りないように舌鼓を打った。

　幽（かす）かに闇の向こうから姿を現した存在は、左右の眼球を別々に動かして、大振りな長い鼻といった彫りの深い顔立ちには、何と云うのだろう、野生の威嚇（いかく）とでもいうようなものが感じられる。有無を云わさぬ威圧感が、存在そのものから発されているようにも思える。

　やや大きめの爬虫類はぜいぜいと荒い息をついて僕の方に近寄った。しかしその実態は人の目で確かめず、馴染（なじ）みのない足跡を地面に残すだけだった。アルファベットのＹを連想させる足取りは根本から二つに分かれ、その先にまた分かれた二本と三本の指を持っていた。二日前に遊びに行った動物園でも観たことがある生き物だ。

　「巨大カメレオンは聞いたこともないぞ」と、透明に見せかけた野獣（やじゅう）に感心をしつつ、勝てない相手（ケモノ）に戦意を喪（うしな）ってところへ頭の中が白くなった。勝てるところか巣（す）から生きて帰れる自信さえ無くなっている。

　動物園で観たカメレオンはわずかに二十分の一秒で、ちぢんでいた舌の筋肉が伸ばし、舌の先から出でる粘液で獲物をくっつけてとらえた。目にもとまらない速度を僕が避けるとは現実的に無理がある。まして、人間の無力さに打ちのめされるような気がした。

　「下手に動かない方がいいです」隣から聞き慣れた女の子の声が響いて僕の耳元に届いた。「姉さまはこの中のどこかに隠れています。先に姉さまを探してください」

　「アリマさんは無事ですか？」内心ではステラが先だったが、一人しかいない妹の安全も確認しないとあの子に申し訳ないことだと思った。

　「私の心配をする前に、まずは自分に差し迫（せま）った危機を脱する対策を捻（ひね）り出しなさい」

　改めて言うまでもなく、頭の中で大量の思考がぐるぐると渦巻き、カメレオンと対面した事態を打開（打開）する方法を模索し続けている。しかし完全にパニックになったステラの顔が目の前にちらつく。

　弱肉強食の世界でステラは僕よりも小さな生き物だ。カメレオンがここにいる理由はとにかく無視して、所在不明のステラがいる場所を見つけ出すことを最優先で考えた。

　「炭咲さん、直ちにその場から離れてください」

　アリマさんの合図に合わせて、巨大の影が地面に長く這（は）った。そこへ突然現れた謎の爬虫類は不気味な地鳴（じな）りを起こし、僕ともう一匹カマレオンの間に割り込んだ。黒（くろ）みを帯（おび）びた緑色の体を持った色違いのカメレオンは、口を開けて餌を奪い合うために激しい喧嘩を始めた。

　僕は色とりどりに変わる二匹のカメレオンから逃げ出して、独りで怯えているはずのステラを探しに、暗い鉄骨の中を走り回った。

　「ステラあァ、どこにいるゥゥゥ。僕の声が聞こえたら、答えてェェェ」

　「パパのこと嫌い。もうあっちにいって」

　反応は意外と上の方から聴こえて来た。

　どうやって二つ上の階に行けるのかを頭の中で想像して、周りを察したところ、土木作業員が作業時に使う仮設階段を発見した。階段は狭いせいで、建物の壁に張り付いて歩かないと単管（たんかん）パイプに上着が引っかかった。ちょうど小さい子供が自由に通れる階段だ。七階建てのビルの高さで、命綱（いのちづな）もつけずに移動できる精神力はどういうことだろう、と今更ステラの恐れない勇気と大胆（だいたん）さは認めざるを得ない。

　「危ないから、一緒に降りよォォ。アリマさんも今、ステラのこと心配しているゥゥ」

　今回は上から、だだだだ、と走る音が響き、同時に階段全体が軽く揺れ動いた。喧嘩を終えたカメレオンが一匹でもここに戻る場合、僕を含めて足場の作業床の上にいる皆が危ない目に遭うかもしれない。

　「ステラ、どこだあァあァあァァ。危ないから、動かずに僕が行くまで待ってろォォ」と叫んだ瞬間、誰かの悲鳴があがった。

　「ネネ、危ない！」

　顔を出して上の階を確認すると一匹のカメレオンが単管パイプを木の枝のように掴んで登っていた。地上で逢った二匹のカメレオンとはまた別種である。カメレオンの視線の先には、走る子供の人影がかすめた。先に動き出した獣よりステラがいる階まで行くことは現実的に難しいと判断した僕は、階段ではなく工事用で設置した鉄パイプを踏んで上まで登り始めた。

　「ステラから離れろ」と、聞き取れないはずの人の言葉にギョロリと目玉が反応した。

　しかして、カメレオンは言葉通り僕を見下ろしつつ、体を前後に動きながら、だらけた尻尾を隙間なく巻き取って腹の部分に密着させた。

　向こうも僕の存在に気づいて意識をしている様子である。

　カメレオンとの距離が三分の一ぐらいのところまで追いついて、僕は再び階段で動き出した。二、三段階を一気に駆（か）け上（のぼ）ると、風邪気味の疲れなど感じる暇を与えなかった。

　「ここからの先は、関係者意外に立ち入り禁止だ」

　僕は、一回の深呼吸で体の中心を片足に乗せた。そしてすぐ、膝は内側に向けて腕を伸ばし、体を回転させてカメレオンの腹にパンチを放（はな）った。爬虫類の皮膚は硬くて肩がずきずきと痛んで来る。だけど、いきなりの攻めに危険を感じたカメレオンは体を膨らませ、噴気音（ふんきおん）を出した。

　「カメロンちゃんを傷つけないで」

　ステラの声だ。顔を上げて様子を確認する途端、カメレオンの尻尾が僕の首を巻き取り、きつく締め付けた。息が苦しくなって体に力が入らなくなり、大人しくカメレオンの目の前まで運ばれた。初めて自分より大きな爬虫類と対面して、背筋にざわっと鳥肌が立った。

　僕はカメレオンと後ろめたいアイコンタクトを通して、お互いの存在を認め合った。と言っても、一方的に食べられる直前まで追い詰められている僕だった。

　「パパを食べちゃダメだよ。カメロンちゃん、こっちにおいで」

　ステラが子供をあやすような口振りで、やわらかな声で巨大な爬虫類を呼びかけた。カメレオンは素直に言うことを聞いて、僕をステラの前に降りてくれた。助かった、と僕は安心しつつ、ごほんごほんと苦しく咳き込み、意識を取り戻した。あと数秒で気を失うところだった。

　「ス、テラ？」と自分の前に立っている存在に身の安全を確かめた。「どこか、怪我はしてないか？」

　「邪魔だって言ったのに、なんでステラのことをサガしたの？」

　「ごめんなさい。僕が、ステラに悪いことを言ったから、謝りに来た」陰（いん）に籠（こも）らず直ちに僕の過ちを認めて二人の関係をやり直そうとした。「ここは危ないから一旦、下に降りてから話しない？」

　話を聞いたステラは顔を横に振った。「パパがステラの胸をちくちくとしたから一緒に帰らない。だから、別に、あやまんなくてもいい」

　ステラは拗（す）ねた顔を隠したが、白い雪の光はなお、余裕のある顔の奥を照らし出している。その余裕がおとなぶっているもののように、僕にはステラの本音が映って見える。と当時の僕は勘違いをしていたと思う。

　まだ子供だと油断するには、ここ二、三日の間で急成長して僕を驚かせた経歴がある。水を吸い取るスポンジのように、新しい全てを学習して自分のモノに換えている。

　最近、と言ってもまだ一週間も経っていない関係だが、ステラから昔の自分の姿が見え始めた。これからは荒い言行（げんこう）には注意を払う、とステラの前で膝を折った状態で自分の行動を省（かえり）みた。

　「僕がどうすればいいか教えてくれない？誠意（せいい）が伝わるまで謝りたい」

　「セイイ？ステラはムジュカチい言葉は知らないの」ステラが皮肉（ひにく）れた口調で言い返した。「さっきのステラが話したこと、全然聞いてないんだ。サビしい」

　ステラに冷たくされて少なからず驚いた僕だった。焦るまいと意識しても、頭の中とは裏腹に、心の底では夏の嵐のように揺れていた。

　せめて、今まで交わした会話の中でステラが怒った理由が教えてくれれば、『それ』に近い返答でもできるのに、『それ』を判（わか）らない僕は、思いをまとめないまま何でも喋ろうと口を開いた。すると頭の中で、たまたま煌めいた過去の過ちが、稲妻（いなずま）のように脳裏から飛び出してきた。

　「分かった、アリマさんに怒ったからだ。そうだろ？」

　ステラは言った。「パパ、何を嬉しげな顔をしているの？ステラ、まだ怒ってるよ」

　両腕でしっかりと膝を抱き、幼い顔が不機嫌な表情を浮かべている。

　「続きを聞かせてください」

　 結局、僕は先ほどの部屋でやらかして暴言を思い出したが、ろくな謝り方法は知らず、かといってこのまま放置するわけにはいけないので、ここは一先ず頭を下げてステラの機嫌を伺った。

　「アリマさんに本当に申し訳ないことを言ってしまい、すみませんでした」

　「違う、違うの。それじゃないの。なんでステラの前で嘘をつくの？」

　と無邪気な顔で攻め込まれた僕は、かつて新吉原で経験した違和感が底深く這い上がり、ふと不安を感じた。ステラの声が図星（ずぼし）をさし、自分の頬を冷や汗が伝うのが分かるほど、今の僕は緊張している。

　今まではとりあえず謝ってその場を取り繕（つくろ）いた。お互いわざと口に出さないと言う暗黙的なルールを守ってただ表（おもて）の礼儀だけを弁えて聞き流してくれた。それをステラは敢えて関係の中に取り出して、「本当にパパが怒った理由ってなに？」、と僕が本音を問（と）うに落（お）ちず、語るに落ちるまで待っている。

　「大丈夫、ステラはパパの話ぜんぶ聞いてあげる」ステラが頭を撫でながら慰めの言葉を返した。

　ステラの手先の温もりに、あいつが嫌いになった理由を思い出した。

　僕は昔、父親（あいつ）を世界一で尊敬した。クレシックな音楽が好きだった父親の書斎からは、いつも音楽が流れ込んだ。毎月、生活費がなくて貧乏な食卓を用意しても、本に関しては気にせず買ってくれた。おかげで僕は、六歳になってからは父親が集めた研究用の資料を少しでも読めるようになった。知らない単語があった場合には、自力で調べたり、父親に質問して答えを得た。

　外国の諺（ことわざ）に、「尺（しゃく）の目盛（めも）りも知（し）らずに朝服（ちょうふく）を裁（た）つ」というのがある。何にも知らないで最も難しいことをなそうとするの意味で、まさに昔の僕を示すことわざだ。

　それほど父親は、僕の世界の全てだった。

　そのゆえに、あの日に、父親が立てた仮説を証明する場で、僕は第一適応者として接木（つぎき）の手術を受けた。実験は大成功だった。元々僕が持っていたトゲが活性化して手術は問題なく終わった、と後から香月さんの言葉で聞いた。

　『君たちを育つために俺の目標を諦めたくない。だから、君は俺に恩を返す必要はある』とあいつが言った。

　結果的に、あいつは喉から手が出るほど欲しがった出世を叶い、残りの二人は一握りの灰になった。僕のせいで家族が散散（ばらばら）になった。

　施設に入って一週間は服も着替えないままあいつが来ることを待ってた。僕を見落としてしまうのではないかと、もしやっと不安だからだった。一ヶ月が経ってからは、あいつに電話をして謝った。僕が悪いことをしたからだと勘違いしたからだ。一年が経過して、僕は、あいつへの復讐を誓った。そうでもしないと、自分もあいつと同じ道を歩む未来が来るかが怖かった。

　あいつ一人のために、我を捨て、未来を捨て、家族も捨てた。

　あいつ一人のせいで、名を捨て、過去を捨て、命も捨てた。

　どころで、ステラが僕の本音を聞きたがる。昨日と明日が一つの点として噛み合った今、ステラは僕のどこまで知っているのか怖い感情に首が縛られた感覚がした。

　昨日まで赤の他人だった女の子が、僕と僕の父親の間に、僕とステラ自身の間に、またしても、すべての知り合いと僕との間に、張られていた人間関係のすべての瞬間に潜んでいる記憶の残滓（ざんさい）を掴み取って、口惜しさがやむと心の中が空っぽになることを畏（おそ）れる僕に、快（こころよ）い情を抱いて娘になりたいと告白する話は、単にめでたしめでたしの一幕にすぎなかった。

　「アリマさんは正しい事を言った。僕も知っている。それなのに何故か僕は、僕が一番嫌いなあいつと同じ態度で、二人を傷つけてしまった。うまくパパの役割を果たせると思ったのに、全然できていない」世間に気兼（きが）ねして立ち留まった時間が動き始め、つぐんでいた口から爽やかな味がした。「僕は、あいつの陰から永遠に逃れないかも知らない」

　この親にしてこの子あり。父親（あいつ）から産まれた僕に、父親（あいつ）の背中を見届けて生きて来た僕が、果たして父親（おや）の存在になれるか。自信を無くした僕は、小さく独り言をこう呟いた。

　「最初から君の保護者（パパ）にならない方が良かった」

　「違う、違うの。パパはステラのパパなの」と、その切ない訴えに、仰向いたステラの顔はすぐにでも泣きそうな表情をしていた。

　目はかっと見開かれ、ついに涙に濡（ぬ）れて、僕の胸は痙攣（けいれん）するように波打（なみう）った。「パパはステラが選んだパパなの。ステラはパパが好きなの」

　わずかでも僕の話を紛らすために、ステラが言葉を切った。人生には想い出したくなく、うまく言い紛らしてしまいたいような時があるものだ。ずっとあとになってみれば、惨（みじ）めな空気に埋もれ、それもばかばかしく感じられるだろう、とステラの瞳に映った自分の顔を眺める。

　ステラは磊落（らいらく）な性格な子だ。今日の出来事は明日になると綺麗に忘れて元気そうに新しい一日を過ごす。きっと僕の話を聞いて嫌がっても、いつかは理解してくれる筈だ。

　「ごめん、ステラ。やはり僕は、ステラのパパには——」

　「いやだ、いやだ、いやだ。聞きたくない、キキタクないない、ない！」

　互いの関係から愛情が不意に起こってくるのを、僕はしばしば避けていた。中途半端な優しさが内なる感情として父性愛を呼び起こし、人知れぬ情の炎に心を燃やしながら、形として明確に結ばれないように、ステラと心の距離をおいた。実のところを言えば、情緒的（じょうちょてき）な理由ではなく、「僕なんかがステラの保護者になれる資格があるか」、との根本的な質問から始まった不安が胸に去来（きょらい）したことだった。

　「ステラのパパを返して！」

　動揺するステラの鳴き声に足場が軽く震え動いた。規模の浅い地震かと思い込んだが、それに比べて地表での伝わってくる揺れは小さい。

　「極めてセンシティブな姉さまです。それ以上は刺激しないでください」

　背後から密かに忍び寄った声が僕の耳を打った。「アリマさん？」

　「説明は後からにします。今は姉さまを抱き抱えて落ち着かせてください」アリマさんの目に怯えに似た色（かげ）が瞳にさしていた。「ネネ！」

　やはり聞き違いではない。アリマさんもステラを「ネネ」と呼んでいる。これで二度目だ、と思っている間に不安定だった足場がカメレオンの重さを耐えれなかった部分から崩壊された。僕は前方にに身を挺（てい）して、ステラの頭を右手で塞いで懐に抱き抱えた。下に落ちる間際に一本の単管パイプを掴み取り、ギリギリいっぱいに命拾（いのちびろ）いした。

　でも、この状態で長くは持たない。二人の重さを耐えるには体もパイプの方も限界は時間の問題だった。

　僕は腕に体重を乗せた。足元に何かが触れるまで耐え続けて、鉄筋（てっきん）に足先が届いた時、上に向かってジャンプをした。

　「アリマさん、ステラを頼みます」

　単管パイプに反動をつけて、ステラをアリマさんがいる階まで打ち上げた。その後にすぐ鉄のパイプが折れた。ステラは無事に足場の上に着き、僕は七階建ての高さから地上一階に落ちるまでの数秒間を空中で滞在（たいざい）した。

　内側から建物の残骸が連鎖的に他の屑鉄を巻き込んで、崩れ落ちる中で、冬風に震える工事現場は砂煙に包まれた。風が耳を切り裂き、やがて平和が地上に訪れた時に、重さを失った心臓は、いつもと違って鼓動を打ち忘れたように水の中に泳いでいる。朦朧（もうろう）とした意識の中で、僕は下敷（したじ）きになった体を動かしてみた。不思議なことに、手足の痛みが少し和（やわ）らいで来る。頭の中は霧がかかったように白くなり、そこで大きなあくびが出た。まだ朝を迎えて数時間も経っていないというのに、軽い眠気がぼんやりと視界を覆ってくるのを感じる。

　「あ、なんだか、疲れた」

　少しだけ、沈しずんだ気分が晴れたような気がした。その網膜（もうまく）にステラの像を捉（とら）えようと目を細めたが、脳からは血の気が引き、意識は混濁（こんだく）して行く感覚で全身から力が抜けた。

　「パパ、死んじゃだめ」と、何処から少女（ステラ）が泣き声を迸（ほどばし）らせた。

　音が篭（こも）ってステラの声が良く聞こえない。程なく体は強い寒気（さむけ）を感じ、手足がわなわなと震え出した。激しい渇（かわ）きを覚えた喉は、息を吸うたびに、顎の下から噴き出させた血で咳が出た。おかしい、僕は死なないトゲを持っている体を持っていた。が、いまは死にかけている。

　初日にステラを助け、初めて新吉原に泊まり、初めてあいつに刃向（はむ）かい、初めての動物園にも行った。今更、ステラといる時間は何事も初めてだったことが不思議に思う僕がいる。それぞれ悪くない時間が多かった。無彩色の白か灰色かに分かれていた人生が、有彩色を連想できる人生に変わった。

　死にいたるまでちょうどいい季節だ、と僕は未練なく思いを抛（ほう）って空を漂流する積乱雲を見上げた。大地（だいち）が再び大きく揺れ動いた。時が来たと、僕は周りの変化を謙虚に受けいるとして目を閉じた。

　「パパはステラが救ってみせる」

　壊れたコンクリートのブロックで覆い隠された地面から太長い木の根が噴き上がった。僕の体は暖かい温もりを背負ったオレンジ色の光に包まれ、生々しい何かが喉の奥に流れ込まれた。忽（たちま）ちに飲まないと死ぬ。僕にそう言っているように全身の細胞（さいぼう）が光を吸い取った。

　意識が明確になって、一番最初に眼にした光景は、地面から生えた樹の根元が、壊れた周りの残骸を支える壁になって、外まで出られる通路を作ってくれた。僕は雨の匂いがする森のトンネルで、道の真ん中に倒れているステラと隣のアリマさんを見つけた。

　「姉さま、姉さま！」

　「一体、これは、何なんだ？」

　「全部、あなたのせいじゃないですか！あれほど姉さまを刺激しないように注意したよね？代わりに身を投げて姉さまを助けることはありがたい話ですが、また姉さまが力を使う羽目になって状況は最悪に向かいました」

　僕は状況に慌てる暇もなく、ステラの様子を伺った。ステラは汗をかきながら、ふう、ふう、と荒い息を吐（つ）いた。体も微妙に震えている。初めて見る症状に、応急処置のやり方も忘れてしまった。

　「姉さまがまだ意識がある内にここから出ましょう」

　重いコンクリートのカケラを支えた樹の根からわずかな音が聞こえた。後はもう、ステラが建てたと思われるこの一時（いちじ）凌（しの）ぎのトンネルから離れること優先になった。

　「一人で走れますか？」　

　僕はステラを抱えてアリマさんと一緒に全力疾走でトンネル内を脱け出した。外で確認した工事現場は、見た限り、今にも倒壊しそうな雰囲気であった。余震（よしん）に備（そな）えて工事現場からかなり離れた場所まで二人は足を止めなかった。

　時間が経って間もなく、工事現場から一大轟音が街中に広がった。家にいた人々は、おのおの自分のよしと思うところをたずねて動きはじめた。窓を開けて災難の正体を確認しつつ、消防車のサイレン音に外まで歩み寄る人もいる。その景色は、感情と人との交響楽（こうきょうがく）であって、そのテンポにはきわめて、多彩（たさい）な表情を産み出した。

　その中で僕は、一人で道を遡（さかのぼ）った。