六枚目:契約

 ゲストルームは三階下に位置したオフィスエリアにあった。訪問したゲストがリラックスできる睡眠室やドリンクコーナー、簡単に服を任せるクリーニングサービスも備えている。僕は早足で周りの施設を確認しながらゲストルームBの前でノックをする緑埜社長の後で黙って立っていた。

 「はい、入ってください」と女の子の声が聞こえた。

 「失礼致します」

 部屋の中にはグレーブラック色のシャツドレスを着た一人の女性がゲスト用の椅子に座り、業務用のタブレットを弄りながら、連絡を待っていたようだった。眉毛の形を平行にすることで柔らかな印象がする。肌なじみのよい色でアイシャドウを塗り、唇もナチュラルに近い色でツヤツヤした。職場の先輩が忙しい時にタクシーの中でよくメイクを仕上げることろを隣で見届けたから、生かじりの知識は持っている。尚且つ、手首やネックレスに着用したアクセサリーもエルメス製で決して安くない高級品である。

 この人は敵陣てきじんに負けを認めるために訪問したわけではない。様々なアイテムで自分の身を鎧で纏って機先を制して攻めに来た女将軍ジャンヌダルクだ。

 「息子さんを現場に連れてくるなんて緑埜さんらしくないですね」

 「ははは、申し訳ございません。事前に連絡できなかった部分はお詫びします。特に問題は起こしませんので失礼をお許しください」

 心ならずも緑埜社長のメンツを丸潰した状況になった。だから僕が一緒に来ることを反対したのか、と先ほどの会話を思い出した。結果的には今の未来が変わらないけれど、素直に理由を教えてくれたら納得はしてあげたと思う。

 各務家の代理人は僕を見詰め、指を顎に当て話をかけてきた。「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」

 「名前ですか?僕は炭咲千春と申します」と聞かれた名前だけ教えて口を閉じた。

 「初めまして、炭咲さん。失礼でなければ両手の傷について聞いてもいいですか?見た感じでは木炭化がある程度進んでいるようですが」

 「あ、もしかしてくさかったですか?元々は包帯などで隠していますが、今は余裕がなくてして忘れました。感染される恐れはないので安心してもいいです。ただの火傷と同じレベルです」

 「失礼な質問にも親切に答えてくれてありがとうございます。文献と論文にも生きた花に木炭化は発見された実例はなかったので、つい失礼なことを犯してしまいました」と言いつつ、また変な頼み事を次の会話で言い出した。「もし問題なければ近くで直接確認してもよろしいですか?もちろん、嫌なら断ってください」

 すかさず向こうから契約書の話に乗らなくて多少は変だと思った。何を企んでいるかも読めない相手だ。緑埜社長の様子を察したところ、特に止めはしなかったから僕は彼女に近づいて両腕を見せた。まだ熱気が収まらない状態で触ることは遠慮してもらった。

 「言われた通りにまさしく木炭化されていますね。ありがとうございます、これで確信できました」それを言い終わった彼女は僕の胸ぐらをつかめた。「不愉快な親子同士です。図々しく各務家の相手に嘘が通用すると思いました?最初から襲った犯人が緑埜家と関係したのであれば、交渉にもならなかった話です。あの子をどこに隠していますか?」

 僕は、意見を述べ続ける彼女の声に流されながらも、疑問に思った話を、一旦ぶつけて見た。「最初からって、何の話ですか?僕は子供を襲ってないです。むしろ僕もあの子を探しに来ました」

 「想像力が足りない言い訳ですね」奇妙な話を並べて今度は壁側に立っていた緑埜社長に突っ込みを入れた。「緑埜さん、余計な真似をする前に自分の立場を考えてください。緑埜家の副社長であるあなたの息子が、ガーデンズ学園で火事を起こした真犯人だとマスコミに流されたら、この場で一番困る人は緑埜さん自身です」

 圧倒的に不利な状況になった緑埜社長は携帯を下ろして通話を切った。ガーデンズ学園で発生した事件に僕が直接に関わっていることは知らなかった顔をしている。各務家の娘がどうやってあの人も把握できなかった事実を知っているかは僕には分からない。けれど、これで状況が大きく変わった。

 「各務コーポレーションの資産をただちに返していただければ、今の話は契約書の秘密条件に追記して口外しないことを約束します。当然ながらマスコミにも、緑埜家の当主にも箝口かんこういたします」彼女の目がキラキラと輝いた。「私の提案について、いかがでしょうか」

 状況の急展開に頭がついて行けていないかのように緑埜社長は、「承知しました。今から下の者に連絡して女の子を連れてくるようにします」、と落ち込んだ声で熊捕さんに電話を入れた。

 僕も二人の会話に少しまごついたが、結果的にステラを取り戻せる話になったから黙って見守った。

 五分後、部屋にステラと熊捕さんが一緒に入った。ステラは部屋の中を不安げに目をぎょろつかせて警戒心を高めた。目元は泣いたせいで腫れ、涙を流した跡が顔に残ったままだった。

 「ステラ、こっちにおいで」

 僕の声を聞いたステラが目を大きく開き、少女漫画みたいな大粒の涙をポロポロと溢し始めた。心臓がハリに刺される痛みがした。あの小さな子が泣く姿をただ見守っていられなかった僕は、込み上がる感情を抑えながら、大手を広げてステラを抱き上げた。

 「パパがいなくなって探した。会いたかった」

 恐らく今この瞬間は、残り年数が少ない人生の中で、昨日の出来事のように何度も何度も覚えられ、忘れ得ざる記憶としてこころの奥に刻まれるだろう。そう思いながら、ステラが落ち着くまで頭を撫でてあげた。

 「姉さまから離れてください!」

 横から僕とステラの間に割り込んだ人は各務家の代理人だった。大人気ない言葉付きでステラを「姉さま」と呼んでいる。なにはともあれ、僕はまずステラの安全のため、各務家の人から距離を取ってステラの耳元に囁いた。

 「ステラ、あの人はお知り合い?」

 「ううん、ステラ知らない。初めて見る人」

 怪しい挙動でステラが再び怖がり始めた。ステラから否定され、知らない人扱いをされた彼女は慌てて自分の名前を紹介した。

 「姉さま、私です。姉さまが大好きなネネです。お忘れになされました?」

 僕は腕を前に出して自分自身をネネと名乗った各務さんを止めた。「これ以上、近寄らないでください。子供が怖がっています」

 話を聞いたネネは冷静を取り戻し、丁寧にステラと二人だけにしてくれることをお願いした。流石に僕はステラを危ない目に合わせたくないと断り、結局、僕も一緒に部屋に残って話を聞くことにした。

 「しばし姉さまと後ろ向いていただけますか?二分で準備を終わらせます」と謎の話を引き出して服を脱ぎ始めた。

 全く予想がつかない人だと思うものの、ステラと共に後ろの壁を暫く見詰めた。僕と会えてやっと心を休めたステラは、その短い間にすやすやと居眠り落ちた。寝ている子供の体温が心臓に届いて僕も少し眠気がさした。ステラは人に安心感を伝える不思議な子だ。

 「お待たせしました。もう振り向いても大丈夫です」

 あくびを押し殺そうとしたタイミングにネネから許可が落た。あたふたと寝ているステラの頭は手のひらで抑えてから、ぐるりと体を百八十度回転した。

 初めは別の人かと思った。さっきまで会話を交わした各務家の代理人が膝を折り、床に額がつくほど頭を垂れていた。全裸だった。背中と背筋には何一つかけてない素肌の状態であのまま顔を上げたら、危なっかしい面があった。

 「な、何ですか?服まで脱ぐほど僕にお願いする筋合のものではございません。服は着てください、お願いします」と目をぎゅっとつぶって懇懇こんこんと相手にさとした。

 「ここに来る際に余分の服を持ち込みできませんでした。一時しのぎの対策として人形の服を身に付けましたので、あまり驚かないでください」

 声が微妙に若く聴こえた。気のせいだと思いながら、中々目を開けて相手を確認することが難しく感じた。

 「あの、炭咲さん。会えたばかりの私を完璧に信じてくださいとは言いませんが、一度だけ私の話に従ってもらえますか?ずっと目を閉じたままで会話するわけにはいかないと思いますよ」

 人形の話で思い出した。新吉原のこひなが着用したスーツも確かに人形と呼ばれた記憶がある。お風呂場で人形の体に記載されていた製造メーカーは、各務コーポレーションだった。

 「もしかして新吉原のこひなさんと知り合いですか?」と確認用の質問をネネに投げた。

 「えっ、こひなちゃんを炭咲さんが何で知っていますか?まだ未成年なのに?どうして?」意外な人脈にリアクションが壊れた。「すみません、答えになりませんでしたね。はい、こひなさんとは長い付き合いです。毎週、定期的に訪問して人形の点検てんけんを行なっています。今日は契約の件でリスケしましたが、来週に予定を入れました」

 話を聞いて床に身を伏せた「人形」の背中を詳しく目で通した。首の辺りにタンポポのタトゥーが彫られている。僕は、それが製造メーカー名の代わりであることを知った。人と人形の境界線は、もはや人の目で区別がつけないほど差分はゼロに近い。人間より人間らしく作られた精巧せいこうな人形を今日で二台、いや二人と遭遇した。意外と人形は自分の日常と遠く離れていない場所から繋がっている気がする。それに対して、人形を着たノバナでも社会活動から排除されず、普通に皆と一緒に生活できる可能性を確かめた。

 「あの、炭咲さん。中身の私はここです」

 黒い姫カットスタイルの女の子が椅子に座って僕を見上げていた。うるつや肌からピンク色の唇が人の目を捉え、オレンジ色の瞳と目が合った途端どこか懐かしい思いをもよおす。この子はステラと姉妹関係に間違いない、と僕は確信に満ちた独り言を呟いた。

 「あらかじめ、正式にご紹介いたします。わたくし各務かがみ家の有馬アリマと申します。姉さまが色々お世話になっております」小さな体から大人に負けないほどの気迫を感じる。「ちなみに炭咲さんはおいくつですか?」

 十四歳だと答えた後、次々と質問が僕に飛んできた。「どこ出身ですか?現在の収入をお聞きしてもよろしいでしょうか?姉さまのお名前は何故ステラにしましたか?ご両親とは仲がいいですか?ガーデンズ学園の共通テストが行われた当時にテロを起こした理由は何ですか?お付き合いしている女性はいますか?」

 まるで任意にんいで呼ばれ、警官から取り調べを受けるように会話が進んだ。ステラの家族を前にして嘘はつけないと判断した僕は、一つずっつ答えを出して上げた。

 「——後は、ガーデンズ学園で起きたテロのことは僕が気を失ってから発生した出来事なので詳細は知らないです。こひなさんが一緒にいたから、彼女は何か知っているかも知りません。あと、付き合っている女性はいません。以上です」

 僕の回答を黙って聞いたアリマさんはタブレットからその日の記事を検索して僕に見せた。「犯人は首の上が炎になって周辺一帯を燃やして逃走し、未だにも容疑者も特定できていない状態。現場にいた証拠も燃やされてバベルではカラスにも依頼して犯人探しを行なっている」

 記事の最後には防犯カメラで薄く映った首なしの写真を載せて犯人の正体を推測すいそくする内容が書かれていた。僕の記憶に頼ると、カカシから首を斬られた直後にこの事件が発生したと思われる。だとすれば、学園の関係者たちは犯人が誰であるか分かる可能性が高い。僕はそう思い込んでアリマさんにこの仮説を伝えた。

 「バベルの関係者から聞き出した情報には、生憎防犯カメラが原因不明の理由でその時間帯のデータが、全部、使えなくなったみたいです。復元できたデータもこの写真一枚だけです。防犯カメラを管理した担当者も真犯人のことは覚えていないと言いました」とアリマさんは話を一度止めて息を吐いた。「実は、炭咲さんの正体を事前に把握できた理由もこひなちゃんの人形から得た動画のおかげです。各務コーポレーションが作った人形は眼球から取得したデータを個人や本社のクラウドサーバー上にアップロードされるように設定されています。今回の事件も人形が機能を停止する前にサーバー上に動画がアップロードされていました。犯人の正体は撮れていないですが、私としては姉さまと一緒にいた炭咲さんの方は重要ですので、そのデータを参考して、バベルに通報する前に私の方から先に緑埜社長に連絡して所在を調べました」

 話を聞いてより一層真相が分からなくなった。「記事には人的被害は〇人と記載されていますが、これは本当ですか?」

 「事実です。こひなちゃんも姉さまも現場にいた受験生三百十二名も、全員傷一つなく無事でした」

 「こひなさんからは僕に関して話を聞いてなかったみたいですね」

 「はい、ですから少し裏切られた気持ちもあります。しかし炭咲さんを隠したといえども私には些少さしょうなことです。後でゆっくりと事情を聞いてあげれば済む話ですからね」と言い残して次の話題に移すアリマさんだった。「ところでこの後の予定はどうなさいますか?」

 予定の話で僕は特にないと答えた。「ステラを家族に会わせたし、そろそろ僕も家に帰ろうと思っています」

 「良かったァ。ちょうど私からのお願いがありまして、このまま姉さまと一緒にしばらく炭咲さんの家で泊まってもよろしいでしょうか?もちろん、生活費は支払います」

 この子は一体なにを言い出している、といきなりに三人暮らしを提案された僕は冷静な判断力を失い、素直に戸惑った。真面目に親から育てられてもいない僕が子供の面倒を見る素材は、通りすがりのワンコでもせせら笑うネタにされる。

 「五日間だけです。姉さまが炭咲さんから独立できるまで、五日の間は今まで通りにパパ役を務めていただけますか?五日まで待たなくても、姉さまが慣れる次第に家からは出ます。約束します」

 なにかの家庭事情があるだろうと思いながらも、頭の中では簡単に割り切れないものが残っていた。それはアリマさんにステラの話を聞かされたり、僕のことについて質問されて、あいまいなお願いをされたりした時から、そろそろ芽を出していた感じだったが、第三者の立場になってこのことを思うと、いよいよそれが重くるしく胸をおさえつけるのだった。  

 自分以外の存在に責任をとれるほど、僕は器が大きい人間ではない。どっちかというと、ただのガキに近かい僕が境遇きょうぐうのうえでは弱者として成長しつつ、人生態度においてはむしろ自己主張の強い強者としての役割を負っているだけだった。お人形のように無邪気むじゃきなステラに保護本能をかき立てられるのが正常な本能であり、思わず保護本能に誘われた現時点では、今後も、保護者の立場へと延長されてゆくことに違いあるまい。

 「五日間を一緒に生活しなくても、寝ている間に実家まで連れ戻したら本人は気付かないと思いますが、ダメですか?」

 それを聞いたアリマさんは人を軽蔑するような目で僕を睨めた。「今のは最低でした。姉さまの前では絶対言わないでください」

 「最低」の言葉が口を封じて何も言い返せなかった。結局、話は僕が望まない方向に流れ、五日間は各務家の姉妹と一緒に生活することになった。決定的にアリマさんがステラの妹である証拠はないが、ここまでステラを考えてくれる人は家族しかできないと判断して、最終的にステラに聞き出す前に僕が住んでいるハイツに出発することにした。

 頻繁に留守している部屋だから、掃除ができていないことを思い出した時、アリマさんは人形を着て出かける準備を済ませていた。

 「それでは、行きますか?引き続きよろしくお願いします」と元気そうな声で出発を告げるアリマさんに、僕は家に着くまでコンビニに寄って掃除道具を買ってもいいか先に了解を求めた。アリマさんは、「いいですが、どれほど汚いですか?必要なら私も手伝います」と言われて、「まぁ、まぁ」とうっかり誤魔化ごまかした。

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