五枚目:血を流した親子関係
東京の空から降るゆきぶさが地面に積もり、通りすがりの足元に踏まれ薄く固まった。冷たい冬風が吹く際にマスクをしていない鼻が赤い花になって鼻水を垂らす。着ている服も東京に訪れた冬の寒さを守ってくれない。にも関わらず、乾いた炭の
改札口を通ってしばらく時間が経ち、浅草行き方面の列車が入った。中には家族単位の乗客とキャリア持ち乗りの観光客がいた。寒い時期に似合わない服装をしている僕を珍しい目で見詰め、危険だと感じた外国人は隣に席を移して座った。
気にすることではない、と思いながらスーツのポケットにあるモノを出して確認した。中から会社の社員証とハンカチが出た。社員証の裏には何故か一万円札が挟まれている。非常時に使えると思って遠慮なく別のところにしまっておいた。
僕はスマホの電源ボタンを押して時間を確認した。画面ロックがかかったスマホの背景に韓国アイドルの写メが映り、時計の数字は午後十四時を示している。そろそろ目的地の虎ノ門駅に着く時間になった。
「この電車は浅草行きです。間もなく虎ノ門です。電車とホームの間が広く空いているところがあります。足元にご注意ください。出口は左側です」
虎ノ門に一生は来ないと心の中で決めた僕だが、ステラのために仕方なく自分が立てた
地上に上がってから右側にある
一緒に降りる人はなく一人だけカラスの本拠地に着いた僕は、壁に貼ってあるオフィスレイアウトから
「何のご用件でしょうか」
真面目そうな印象を持った女性が真面目な声で僕に話をかけた。身長は僕より高めだった。僕は素直にポケットからセキュリティーカードを見せて紛失品を返しに来たと目的を明かした。
「それは
僕は答えた。「花園大学医学部附属病院からです」
「かなり遠いところからお届けにきましたね」と疑惑があるような言い方で話し続けた。「お名前をお聞きしたいですが、宜しいでしょうか」
僕はまた答えた。「あなた方には緑埜家の
話を聞いた中村さんの顔色が変わった。やはりここが正解だった。僕は迷いなく相手の膝を内側の方に蹴り、右手で首を強く握りしめ、片手で相手の片脚をとり、そのまま後ろ側へ押し倒した。重心が崩された中村さんは反撃もできない状態で地面に倒れた。喉を押し続ける以上、勝手に助けを呼ぶことは難しいと思われる。
「フクロウさんと呼ばれる老人が連れ去った女の子を探している。白い髪色に年齢は小学校一年生くらいで、言葉使いが下手な子だ。知っているだろう、どこに隠している?」
目玉が動揺している。素直に教えそうだから喉から力を抜いてあげた。
「侵入者が発生。アカバナの男性一人です」
自由を取り戻した中村さんが、早速、大声で仲間を呼びかけた。騙された、と思っても問題はなかった。僕は中村さんの声を聞いて一目散に駆けてきたカラスたちと、丁寧に目を合わせた。どこかで見慣れた絵が再びこの場に再現した。全員、数えて四十人くらいがエレベーターの前に集まっている。年齢も性別も違う人々が、僕一人を止めるためにそれぞれ物騒なモノを手にして攻めるを始めた。見た感じではステラはここにいない。だと言って、
「これから行われる全ての暴力と施設の破損などの行為は、皆さんの副社長であり、元聖次郎と呼ばれた
僕からの忠告に近い警告を聞いて
「先に灰になった高橋さんに対して、遅ればせながら心よりお悔やみ申し上げます」
挑発に
命を
「同じ内容を口にするのも、そろそろ疲れますが、皆さんの仲間が拉致した女の子を探しています。白い髪色に年は小学校一年生くらいの小さい子です。言葉使いが下手で、よく泣きます。ご存知の方はいらっしゃいますか?」
考えないようにしていたが、実は最近、一つの重大な
今まで町中で出会った数多いノバナたちを、自分の手で施設に送って来た僕だけど、強い
普段のノバナは警戒心弛めずに別れるまで無言か無関心で一貫した。しかしむしろ、逆にステラは、僕をパパと言う家族として認識してくれた。
最もそれを聞いた時は暗い微笑を浮かべた。僕のようなガキには、しょせん、人の子の親といっても、人格者など少ない、
パパと呼ばれた時から、色を失った僕の世界は、たった一人の子供を守るための世界に造り直され、ステラから存在意義を授けられた。いずれ遅かれ早かれ、別れる関係だと、僕も自覚している。あまり深く関わらない方が別れた後、互いの生活に影響が少ないはずだった。
「もう一度お聞きします。ステラは、どこにいますか?」と僕は不機嫌な声で怒鳴り出した。
頭の中では冷静に判断しようとしても、心はステラを求めている。どうやら僕は、
「少しお待ちください。秘書室の
四十人の中で五人だけが意識を保って状況を見守っている。秘書室は社長室の直下にある部署だ。もしかすると、あいつからの連絡かも知らない。
「その電話、僕が出てもいいですか?」手に持っていた誰かの
「炭咲様」中性的でおとなしい声がスピーカーの向こうから聞こえた。「お久しぶりにお目にかかります。秘書室の熊捕でございます。先日は色々お世話になりました。本日は本社に訪問いただきありがとうございます」
熊捕さんは、本題に入る前から礼儀正しい口調で会話の主導権を握った。初対面からそうだった。あいつの代理人として、あらゆる書類を手短に処理して、僕を施設に任した張本人だ。あいつとは僕よりも深く繋がっている人物である。
「お手数おかけして申し訳ございません。今からお向かいに行きますので一緒に社長室までお越しいただけますでしょうか。緑埜社長がお待ちしております」
「花園大学医学部附属病院から女の子一人が攫われました。
「ご用件については承知しました。恐れ入りながら、通話では共有できる部分が限られておりますので直接会ってからお伝えします。五分後にそちらへ向かいます。少々お待ちください」と言い残して一方的に電話が切られた。
「この階に男子トイレはどこにありますか?」僕は受話器を返して、一人でトイレに入った。
僕は戦いで汚くなった顔を冷たい水で洗い出し、トイレットペーパーで念入りに拭き清めた。洗面台の鏡に映った自分の姿は、髪色が極限まで抜けて真っ白に変わり、長さもだいぶ伸びていた。正しく、無様な格好だと思った。
ここは臨機応変で、水で前髪やサイドの髪を後ろになでつけてオールバックにした。そうすると、少しはマシに見えた。
内蔵が
まだ耐えれる、と乱れた髪をもう一度後になでつけながら、血で汚れた口周りを水で綺麗に洗い出した。鏡に映った自分の顔はまたさっきとは違って、顔色は青くなり、眼の下に黒い隈ができて鼻や歯からは血が流れている。あいつの前では病弱な姿を見せたくないと思って、唇を強く噛んで赤くした。
「お前はまだやれるだろう」と声を出して自ら決意を固める僕だった。
トイレに出るとカラスたちが
「お待ちしておりました、炭咲様」
「お久しぶりです」
「ええ、七年ぶりです。もう立派な男前になりましたね」
熊捕さんがエレベーターから降りて廊下から僕に挨拶をした。相変わらず背が高い人だ、と心の中で感心した。熊捕さんは身長百八十センチの元日本代表の元クライミング選手だった。スーツの上からも筋肉が引き締まって見える。当時も
「前より背が伸びたような気がします。最近筋トレでも行っていますか?」と熊捕さんから
ノバナの僕が成長した
「炭咲様、ドアを閉めます」
二人を乗せたエレベーターは静かに三十階まで上がり続けた。途中から東京市内が一目に入るガラスだけになった壁が出て気まずい雰囲気から逃れた。まだ冬の季節に染まった街は上空から見ても白だった。東の方から新吉原と思われる高い建物もここから見えた。東京タワーよりは低くても、東京に済む数万人の欲望を吸い取る場所の存在感は、一度目に入れてからは何処にいても見つけ出せる。お礼とお詫びを言わないといけない人がいる場合はなおさらだ。
「着きました。足元を気をつけてください」
電子チャイム音が鳴り、エレベーターの扉が開かれた。地上から離れているせいか、とてものどかで美しい風景と壮大な建築物が広がっていた。窓の向こうの道なりには、
また、内部は天空いっぱいに広がって見えた。天井を支えている柱は白い大理石で作られ、空から地平線までの彼方を一目で見晴らせる。建築に興味がなくても、これほどの重圧感がある素材で建てたビルディングであれば、地震による崩壊を事前に予防するためにかなりの費用がかかったと思われる。
「炭咲さん、社長室はこちらになります」
熊捕さんに
しかるに僕は、あいつと緑埜家の奥さん、そして女の子一人を合わせた三人家族を
僕はその絵からふつふつと湧いて来る違和感を覚える感情を味わった。
「どうかなさいましたか?」
「行きます」と答えてもう一度、幸せそうな絵画に視線を置いた。
熊捕さんは社長室の前で二回ノックを済ませて門を開けた。事務室内は真ん中に接客用の長いテーブルがあり、壁側には本棚が並べている。曇り空のようなブルーグレーの床とおしゃれな家具はかなりの値段がついた高級品に見える。
「お前はそこに座りなさい。熊捕、お茶を準備しろ。余裕を持ってお菓子も一緒にお願いする」
「畏まりました。京都からのお土産がありますのでお持ちします」
「いや、それは既に各務家の娘に出せたから残っていない。この間、出張帰りで買ってきた温泉饅頭がある。それを持って出せばいい」
この人は望み通りに出世した、と何気に思った。昔から毎日を
「何をボーッとしている。座らないか?」
「
緑埜社長はテーブル前のソファーに体重を乗せた。「座れと言った私の話が聞こえないのか?座りなさい。話はその後からだ」
高圧的な言い草に反論も
「炭咲さんにはウーロン茶を用意しました。饅頭と一緒に飲んでください」とテーブルの上にお茶とピンクと緑色の饅頭を置いた。「それでは、話が終わる際にご連絡ください」
事務室の空気が急に重くなった。饅頭を味見するより早くステラを取り戻して家に帰りたかった。そう言えば、今住んでいる部屋にステラと二人で過ごしても契約上に問題がないかを思い込んだ頃、社長から六年ぶりに親子の会話の
「もう一人暮らしは終えて実家に帰って来なさい。お母さんは未だに君のことで毎日心配している」
「はい?」僕は一度もあの女を母親と思ったことはなかった。「言いたいことはそれだけですか?何か勘違いしているようで教えますが、僕はステラの居場所を聞きに来ました。他に話す内容はありません」
社長は
どの口からそれを言う。「やはり緑埜社長が依頼主だったのですか。なるほど、教えてくれてありがとうございます。あの子は今どこにいますか?」
「実の父親に向かって、その呼び方はなんだ。私はお前をそんな風に育てた記憶はない」
「当たり前です。緑埜社長のお金で育てられた息子は七年前に起きた東京大火災で亡くなられました。あなたと会話をしている僕は、両腕に木炭の傷を負って生き返った炭咲と呼ばれる別人です」僕は熱いウローン茶を一口で飲み干した。「ステラの居場所を教えないことであれば、先に失礼します。お茶はありがとうございました」
「この恩知らず野郎が、お前だけ被害者だと思うか?あの夜に千春と華栄が亡くなった理由は君にも責任がある。いい加減、あの二人の死を他人のせいにすることはやめなさい。過去に取り付いても亡くなった二人は
「充分、説明をしたからお前も承知しと思うが」緑埜社長は携帯を出して誰かに電話をかけた。「ちょうど今日は君の
なんて、おぞましい想像だろう。僕は歯を食いしばり、後のソファーに背中をもたせかけ、天井を見上げた。LED照明の明かりに染まったコンクリートの壁もまた、色のついた泥に見えた。
新しい妹?誰だ、そいつは。僕にとって妹は華栄一人だけだ。それを再婚した元父親が勝手に作った娘で成り変わることはあり得ない話だ。
緑埜社長は席から内線を使って熊捕さんに連絡を入れた。「
「お客様の方はいかがなさいますか?」スピーカーモードで通話内容は全部聞こえた。「契約を果たすまでは帰らないとおっしゃっております」
「各務家に借りを作れるいい機会だ。私が契約書を持って直接会いに行くまでゲストルームには誰も近づけるな。用事が終わってからそちらに向かう」と内線を切って席から去り、机の引き出しを開けて何かを捜した。
「ここ最近、お前が
また自分の柄にもないお
僕は封筒の中を開けて金額を確かめた。一万円札が五十枚と交通系ICカードが二枚入っていた。今まで通り、お金で二人の関係を何とか
結局、お金が入った封筒はテーブルの上に置いて最後にステラの所在を訊いた。
「またその話か?君は、たかが実験体の女の子が実の家族よりも大事だと言いたいか?諦めなさい。アレはもうお前の手から離れている」
「実験体って何ですか、初耳です。あの子は僕が街で救ったノバナです」
「これを読んでみろう。お前が救ったと言った女の子は各務家の娘が作り出した禁断の子供だ。これを第三者がバベルに通報した場合、お前は一朝にして重罪犯になる」
緑埜社長の手には既に
解約相手になる会社名には、『株式会社各務コーポレーション』が表記されており、担当者の名前には空欄になっていた。熊捕さんとの内線で話した内容を根拠にして、各務家の代理人は今現在この建物のゲストルームにいる。これは自分が確かめるしかない、と僕は心の中で考えた。
「分かりました。僕もその場に同席させてください」
「
「何か勘違いしていないですか?はっきり言わせてもらいますが、僕に新しい妹はいません。また、これはお願いではなく提案です。最後に、緑埜社長の娘と僕を二人きり残しても本当に問題ないと思いますか?もしも僕が、実は君の義理の父親は昔、実の息子の体を利用してプロジェクトの実験体に使ったことがある、と真実を伝え——」
最後の言葉でブチ切れた緑埜社長に頬を殴られた。口の中から血の味がする。緑埜社長はぜいぜいと荒いを息を吸い込み、もう一度同じ方の頬を手のひらで叩いた。久しぶりの痛みを感じる。昔はたまに怒られる度に掃除道具で手のひらやふくらはぎを打たれた。あの頃は痛みよりはとても怖くて父親から逃げ回った記憶がある。
「終わりました?随分弱くなりましたね、緑埜社長」
「その不敬な口を
「結果的に家族まで巻き込んで生き残りは僕一人ではありませんか?誰のためなんて、もうやめてください。
「黙れ!」
もう一発殴られたところで、二人の関係がこれ以上悪化することも改善されることもなかった。底から互いを憎んでいつの間にか腐った臭いが漂うことも知らず今でも引き摺っている関係、それが僕たちだと定義を下せる。
流血が
「気が済むまで殴ってもらってもいいです。ただし、その後は必ず僕も一緒に各務家の代理人がいる部屋に連れててください」
緑埜社長は疲れた声で答えた。「お前と口喧嘩することもウンザリだ。好きにすれば良い。お前はあくまで熊捕の代わりで参加することを忘れるな。勝手に邪魔をする場合は会社として個人のお前を訴える。答えは?」
僕は約束を取ってソファーに座って顔についた血を拭いた。子供を取り戻すまで後少しだ。離れてからまだ一日も経っていないのに三日は経った感じがする。次に会う時にステラのお腹が空いたかも知らないから熊捕さんから貰ったお土産をポケットに入れた。餡子味と苺味だった。
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