五枚目:血を流した親子関係

 東京の空から降るゆきぶさが地面に積もり、通りすがりの足元に踏まれ薄く固まった。冷たい冬風が吹く際にマスクをしていない鼻が赤い花になって鼻水を垂らす。着ている服も東京に訪れた冬の寒さを守ってくれない。にも関わらず、乾いた炭の木目きめについた火は中々眠りに落ちないまま、僕の体をき物にして熱さを保った。

 改札口を通ってしばらく時間が経ち、浅草行き方面の列車が入った。中には家族単位の乗客とキャリア持ち乗りの観光客がいた。寒い時期に似合わない服装をしている僕を珍しい目で見詰め、危険だと感じた外国人は隣に席を移して座った。

 気にすることではない、と思いながらスーツのポケットにあるモノを出して確認した。中から会社の社員証とハンカチが出た。社員証の裏には何故か一万円札が挟まれている。非常時に使えると思って遠慮なく別のところにしまっておいた。

 僕はスマホの電源ボタンを押して時間を確認した。画面ロックがかかったスマホの背景に韓国アイドルの写メが映り、時計の数字は午後十四時を示している。そろそろ目的地の虎ノ門駅に着く時間になった。

 「この電車は浅草行きです。間もなく虎ノ門です。電車とホームの間が広く空いているところがあります。足元にご注意ください。出口は左側です」

 虎ノ門に一生は来ないと心の中で決めた僕だが、ステラのために仕方なく自分が立てたおきてを破って寄ってきた。不愉快な地下の臭いと薄暗い光が照らすホームから改札口を探して足を動かした。虎ノ門駅内は出口が迷路のように複雑で工事中の施設が元の通路を封鎖していた。壁に貼ってある地図を読んでも、どこへ向かえばいいか分かりづらい。でも、結局どの道も一つに繋がったことを知った僕は、スマホを改札口の近くにいる役員に任して、真っ直ぐ前方にある通路を歩いてエスカレーターに乗った。

 地上に上がってから右側にある文部科学省もんぶかがくしょうを通り過ぎ、公園の向こう側にある東京ミドリエビルディングに向かった。昼過ぎの時間帯にロビには営業マンたちが隣のカフェからコヒーをテイクアウトして取引先の担当者を待っている。僕はインフォメーションセンターでセキュリティーカードに書いてあった部署の階数を聞き、エレベーターに乗って七階のボタンを押した。

 一緒に降りる人はなく一人だけカラスの本拠地に着いた僕は、壁に貼ってあるオフィスレイアウトから対外たいがい資産管理本部しさんかんりほんぶの場所を探った。レイアウトはかなり分かりやすいイラストで各エリアを案内した。この階には二つの部署がそれぞれのスペースを取り、中にはキッチンとラウンジ、睡眠室などのスペースが各部署別に分けて設置されていた。部署に所属している人数はおおざっぱに見積もっても百人は超えそうだった。

 「何のご用件でしょうか」

 真面目そうな印象を持った女性が真面目な声で僕に話をかけた。身長は僕より高めだった。僕は素直にポケットからセキュリティーカードを見せて紛失品を返しに来たと目的を明かした。

 「それは高橋たかはしさんの物です。本人が帰る次第、私の方から渡しておきます。あ、申し訳ございません。私は中村なかむらと申します。高橋さんと同じ部署の人です」僕からセキュリティーカードを預かってしばらくセキュリティーカードの面と裏面を確認した。「失礼ですが、これをどこから拾ったか聞いてもよろしいですか?」

 僕は答えた。「花園大学医学部附属病院からです」

 「かなり遠いところからお届けにきましたね」と疑惑があるような言い方で話し続けた。「お名前をお聞きしたいですが、宜しいでしょうか」

 僕はまた答えた。「あなた方には緑埜家のぼっちゃんと呼ばれているみたいですが、お分かりですか?」

 話を聞いた中村さんの顔色が変わった。やはりここが正解だった。僕は迷いなく相手の膝を内側の方に蹴り、右手で首を強く握りしめ、片手で相手の片脚をとり、そのまま後ろ側へ押し倒した。重心が崩された中村さんは反撃もできない状態で地面に倒れた。喉を押し続ける以上、勝手に助けを呼ぶことは難しいと思われる。

 「フクロウさんと呼ばれる老人が連れ去った女の子を探している。白い髪色に年齢は小学校一年生くらいで、言葉使いが下手な子だ。知っているだろう、どこに隠している?」

 目玉が動揺している。素直に教えそうだから喉から力を抜いてあげた。

 「侵入者が発生。アカバナの男性一人です」

 自由を取り戻した中村さんが、早速、大声で仲間を呼びかけた。騙された、と思っても問題はなかった。僕は中村さんの声を聞いて一目散に駆けてきたカラスたちと、丁寧に目を合わせた。どこかで見慣れた絵が再びこの場に再現した。全員、数えて四十人くらいがエレベーターの前に集まっている。年齢も性別も違う人々が、僕一人を止めるためにそれぞれ物騒なモノを手にして攻めるを始めた。見た感じではステラはここにいない。だと言って、退いてください、とお願いしも素直に「はい」と言い返す雰囲気ではなさそうだった。

 「これから行われる全ての暴力と施設の破損などの行為は、皆さんの副社長であり、元聖次郎と呼ばれた道田みちださんと僕のあいだのプライベートな問題を一々ほじくり出しては大袈裟おおげさに騒ぎ立てるに必要な手段と思ってください。それゆえ、敵意を持って僕を止めようとする人は、あいつに賛同していると判断して灰にしてあげます。怖い人は逃げてもいいです。あいつと違って、僕は弱者をいじめる趣味はありませんから」

 僕からの忠告に近い警告を聞いてカラスどもはあからさまに嘲笑ちょうしょうしてした。僕もヘラヘラ一緒に笑いながら、中村さんから取り戻した高橋さんのセキュリティーカードを皆の前に投げつけた。

 「先に灰になった高橋さんに対して、遅ればせながら心よりお悔やみ申し上げます」

 挑発にられたカラスどもが一糸乱れぬ動きで僕に怒りを吐き出した。まずは人数を減らす必要があった。最初に駆け込んだ二人のトゲを灰にして、例の方法で拍手を叩いた。鉄と鉄がぶつかる音が鳴りはためき、窓側の強化ガラスにひびが入った。一回目の拍手で同じ傷跡を覚えた身体ぼくは、八つ裂きにされた体の一部を病院のロビーにいた時より速いスピードで再生した。同時に両腕の木炭化も加速し始めた。

 命をけず能力トゲのろいで僕はじわじわと死を迎えている。どのみち、死ぬ体だ。予定された死に対して特に悲しいとか悔しいなどの感情的にはならなかった。唯一の希望として、あいつが大事にしている社会的名誉や今までのキャリアに大ダメージを与えるのであれば、それで満足して、死ねる。

 「同じ内容を口にするのも、そろそろ疲れますが、皆さんの仲間が拉致した女の子を探しています。白い髪色に年は小学校一年生くらいの小さい子です。言葉使いが下手で、よく泣きます。ご存知の方はいらっしゃいますか?」

 考えないようにしていたが、実は最近、一つの重大な懸念けねんがあった。それはステラの存在である。

今まで町中で出会った数多いノバナたちを、自分の手で施設に送って来た僕だけど、強い信頼関係ラポールができた子供は、ステラが初めてだった。

 普段のノバナは警戒心弛めずに別れるまで無言か無関心で一貫した。しかしむしろ、逆にステラは、僕をパパと言う家族として認識してくれた。

 最もそれを聞いた時は暗い微笑を浮かべた。僕のようなガキには、しょせん、人の子の親といっても、人格者など少ない、俗念ぞくねんにまみれた人間たちだと思った。が、今度の場合には、ステラと出会えてからは、家族の死を迎えることこそ相応しいというべきかもしれない人生を送っている僕が、元々いないはずの、親心をふいと感じた。その感覚が、感情が、自分にとって親心とでも呼びたいような、一生懸命守りたい現われ方をしたと思わずにはいられなかった。説明は難しい。理解も不能だった。

 パパと呼ばれた時から、色を失った僕の世界は、たった一人の子供を守るための世界に造り直され、ステラから存在意義を授けられた。いずれ遅かれ早かれ、別れる関係だと、僕も自覚している。あまり深く関わらない方が別れた後、互いの生活に影響が少ないはずだった。

 「もう一度お聞きします。ステラは、どこにいますか?」と僕は不機嫌な声で怒鳴り出した。

 頭の中では冷静に判断しようとしても、心はステラを求めている。どうやら僕は、情愛じょうあい中毒に落ちたようだ。

 「少しお待ちください。秘書室の熊捕くまとりからお電話が入りました。出てもよろしいでしょうか」

 四十人の中で五人だけが意識を保って状況を見守っている。秘書室は社長室の直下にある部署だ。もしかすると、あいつからの連絡かも知らない。

 「その電話、僕が出てもいいですか?」手に持っていた誰かの肉片にくへんを放り投げて僕が内線電話に耳を傾けた。

 「炭咲様」中性的でおとなしい声がスピーカーの向こうから聞こえた。「お久しぶりにお目にかかります。秘書室の熊捕でございます。先日は色々お世話になりました。本日は本社に訪問いただきありがとうございます」

 熊捕さんは、本題に入る前から礼儀正しい口調で会話の主導権を握った。初対面からそうだった。あいつの代理人として、あらゆる書類を手短に処理して、僕を施設に任した張本人だ。あいつとは僕よりも深く繋がっている人物である。

 「お手数おかけして申し訳ございません。今からお向かいに行きますので一緒に社長室までお越しいただけますでしょうか。緑埜社長がお待ちしております」

 「花園大学医学部附属病院から女の子一人が攫われました。社長あいつ命令ですか?それともただのビジネス犯罪ですか?」

 「ご用件については承知しました。恐れ入りながら、通話では共有できる部分が限られておりますので直接会ってからお伝えします。五分後にそちらへ向かいます。少々お待ちください」と言い残して一方的に電話が切られた。

 「この階に男子トイレはどこにありますか?」僕は受話器を返して、一人でトイレに入った。

 僕は戦いで汚くなった顔を冷たい水で洗い出し、トイレットペーパーで念入りに拭き清めた。洗面台の鏡に映った自分の姿は、髪色が極限まで抜けて真っ白に変わり、長さもだいぶ伸びていた。正しく、無様な格好だと思った。

 ここは臨機応変で、水で前髪やサイドの髪を後ろになでつけてオールバックにした。そうすると、少しはマシに見えた。

 なりを整えてトイレを出ようとする寸前すんぜんに僕は口から大量の血を噴き出すように吐いた。しきりに咳をし、痰が詰まっている苦しみと共に、ひどい目眩がしてその場で座り込んだ。短時間にトゲを使い回した反動バウンスが始まった。

 内蔵がついに限界を超えて悲鳴を上げているような気がする。とにかく、外にいる人々にばれない内に、急いで香月さんからもらった薬を喉に押し入れた。

 まだ耐えれる、と乱れた髪をもう一度後になでつけながら、血で汚れた口周りを水で綺麗に洗い出した。鏡に映った自分の顔はまたさっきとは違って、顔色は青くなり、眼の下に黒い隈ができて鼻や歯からは血が流れている。あいつの前では病弱な姿を見せたくないと思って、唇を強く噛んで赤くした。

 「お前はまだやれるだろう」と声を出して自ら決意を固める僕だった。

 トイレに出るとカラスたちが三三五五さんさんごごに群れを作って人が出るまで待っていた。僕は外で待機していた女のカラスにヘアゴムを二個借りて後髪をポニーテールに結んだ。

 「お待ちしておりました、炭咲様」

 「お久しぶりです」

 「ええ、七年ぶりです。もう立派な男前になりましたね」

 熊捕さんがエレベーターから降りて廊下から僕に挨拶をした。相変わらず背が高い人だ、と心の中で感心した。熊捕さんは身長百八十センチの元日本代表の元クライミング選手だった。スーツの上からも筋肉が引き締まって見える。当時も四十路よそじだった熊捕さんは、今年で五十路いそじなったと言うのに、体だけ見ると三十路みそじに負けないほどきたえられている。

 「前より背が伸びたような気がします。最近筋トレでも行っていますか?」と熊捕さんから依然いぜんたるうちに気づいたことを言われた。「失礼しました。この階に着いてからたくましい気迫きはくを感づき、つい頭の中で思ったことを口に出しました。どうぞ、気にせずお乗りください」

 ノバナの僕が成長したはずがない、と思ってエレベーターの鏡から自分の横の姿を静心なく眺めた。僕の眼にはまだ何の変化も見当たらなく、今もなお低い小さい体に過ぎなかった。

 「炭咲様、ドアを閉めます」

 二人を乗せたエレベーターは静かに三十階まで上がり続けた。途中から東京市内が一目に入るガラスだけになった壁が出て気まずい雰囲気から逃れた。まだ冬の季節に染まった街は上空から見ても白だった。東の方から新吉原と思われる高い建物もここから見えた。東京タワーよりは低くても、東京に済む数万人の欲望を吸い取る場所の存在感は、一度目に入れてからは何処にいても見つけ出せる。お礼とお詫びを言わないといけない人がいる場合はなおさらだ。

 「着きました。足元を気をつけてください」

 電子チャイム音が鳴り、エレベーターの扉が開かれた。地上から離れているせいか、とてものどかで美しい風景と壮大な建築物が広がっていた。窓の向こうの道なりには、寒木瓜かんぼけ椿つばきを始めとした冬の花が色鮮いろあざやかに咲きほこっている。

 また、内部は天空いっぱいに広がって見えた。天井を支えている柱は白い大理石で作られ、空から地平線までの彼方を一目で見晴らせる。建築に興味がなくても、これほどの重圧感がある素材で建てたビルディングであれば、地震による崩壊を事前に予防するためにかなりの費用がかかったと思われる。

 「炭咲さん、社長室はこちらになります」

 熊捕さんにかされ、その後は大人しくエスコートされ、社長室までてくてく歩いた。廊下のインテリアとして骨董品こっとうひんやヨーロッパの古画こがが飾られていたが、興味索然きょうみさくぜんたるつまらぬものだった。

 しかるに僕は、あいつと緑埜家の奥さん、そして女の子一人を合わせた三人家族をえがいた水彩画すいさいがの前で足を掴まれたように立ち止まった。壁の絵の中で、この絵だけが照明しょうめいの光を浴びながら、社長室までの間に色を移している。一家水入みずいらずの団欒だんらんな家族に見える。

 僕はその絵からふつふつと湧いて来る違和感を覚える感情を味わった。

 「どうかなさいましたか?」

 絵画かいがの中にあるあいつは偽善者ぎぜんしゃつらに笑みを含み、正面の僕を見つめた。あの顔と向き合えるまで七年がかかった。て、家族を犠牲してまで仕事に夢中だった人にこの絵は、家族への欺瞞ぎまんに満ちた行為にしか思えない。人付き合いが悪い僕が人のことを評価できないけれど、あいつに関しては断言できる。あれは、家族を作ってはいけない男だ。

 「行きます」と答えてもう一度、幸せそうな絵画に視線を置いた。

 熊捕さんは社長室の前で二回ノックを済ませて門を開けた。事務室内は真ん中に接客用の長いテーブルがあり、壁側には本棚が並べている。曇り空のようなブルーグレーの床とおしゃれな家具はかなりの値段がついた高級品に見える。

 「お前はそこに座りなさい。熊捕、お茶を準備しろ。余裕を持ってお菓子も一緒にお願いする」

 「畏まりました。京都からのお土産がありますのでお持ちします」

 「いや、それは既に各務家の娘に出せたから残っていない。この間、出張帰りで買ってきた温泉饅頭がある。それを持って出せばいい」

 この人は望み通りに出世した、と何気に思った。昔から毎日を書斎しょさいに閉じ籠り、家族には背を振り向いて研究だけに時間を潰した人だった。週末に家族旅行は時間が無駄になるから家で小さなケーキやケンタッキーを頼んで食べた記憶しかない。家族写真は古いデジタルカメラで撮って家のプリンターで印刷し、小さなアルバムに入れて保管した。骨の底まで自分しか知らない人間が、僕の元父親だった。

 「何をボーッとしている。座らないか?」

 「単刀直入たんとうちょくにゅうに訊きますが、二時間前に病院から連れ去った女の子は今、何処にいますか?」

 緑埜社長はテーブル前のソファーに体重を乗せた。「座れと言った私の話が聞こえないのか?座りなさい。話はその後からだ」

 高圧的な言い草に反論も交渉こうしょうの余地も許せなかった。僕はステラの話をする思いを切って大人しく一番離れた席に座った。

 「炭咲さんにはウーロン茶を用意しました。饅頭と一緒に飲んでください」とテーブルの上にお茶とピンクと緑色の饅頭を置いた。「それでは、話が終わる際にご連絡ください」

 事務室の空気が急に重くなった。饅頭を味見するより早くステラを取り戻して家に帰りたかった。そう言えば、今住んでいる部屋にステラと二人で過ごしても契約上に問題がないかを思い込んだ頃、社長から六年ぶりに親子の会話の序開じょびらききをした。

 「もう一人暮らしは終えて実家に帰って来なさい。お母さんは未だに君のことで毎日心配している」

 「はい?」僕は一度もあの女を母親と思ったことはなかった。「言いたいことはそれだけですか?何か勘違いしているようで教えますが、僕はステラの居場所を聞きに来ました。他に話す内容はありません」

 社長は眉根まゆねしわをきつく寄せて、無言で目をつぶった。「質問を変えよ。これからあの子をどうするつもりだ。まさか、まだ未成年である君が、一生、責任を持って子供を育つなどの戯けたことを言う考えではないだろう」

 どの口からそれを言う。「やはり緑埜社長が依頼主だったのですか。なるほど、教えてくれてありがとうございます。あの子は今どこにいますか?」

 「実の父親に向かって、その呼び方はなんだ。私はお前をそんな風に育てた記憶はない」

 「当たり前です。緑埜社長のお金で育てられた息子は七年前に起きた東京大火災で亡くなられました。あなたと会話をしている僕は、両腕に木炭の傷を負って生き返った炭咲と呼ばれる別人です」僕は熱いウローン茶を一口で飲み干した。「ステラの居場所を教えないことであれば、先に失礼します。お茶はありがとうございました」

 「この恩知らず野郎が、お前だけ被害者だと思うか?あの夜に千春と華栄が亡くなった理由は君にも責任がある。いい加減、あの二人の死を他人のせいにすることはやめなさい。過去に取り付いても亡くなった二人はよみがえってこない。生きた人は前を進むことがこの世界のことわりだ」

 ことわりの言葉が胸に深々と刺さった。この人は血も涙もない人間以下の外道げどうだ。優れた言葉や大人のふりをしてもあやまちをかざるようにしか思えない。緑埜家の奥さんはこの男から何を見て再婚を決めたか疑問が湧いた。家族は死んでも家族だ。無視しようとしても、忘れようとしても、魂に切り刻まれた関係をああだこうだと言われると、しめ殺したくなる。

 「充分、説明をしたからお前も承知しと思うが」緑埜社長は携帯を出して誰かに電話をかけた。「ちょうど今日は君のいもうとが本社に訪れる予定だ。この際に顔だけでもいいから挨拶でもしておきなさい」

 なんて、おぞましい想像だろう。僕は歯を食いしばり、後のソファーに背中をもたせかけ、天井を見上げた。LED照明の明かりに染まったコンクリートの壁もまた、色のついた泥に見えた。

 新しい妹?誰だ、そいつは。僕にとって妹は華栄一人だけだ。それを再婚した元父親が勝手に作った娘で成り変わることはあり得ない話だ。

 緑埜社長は席から内線を使って熊捕さんに連絡を入れた。「優香ユカに電話して今どの辺まで来たか確認をして欲しい」

 「お客様の方はいかがなさいますか?」スピーカーモードで通話内容は全部聞こえた。「契約を果たすまでは帰らないとおっしゃっております」

 「各務家に借りを作れるいい機会だ。私が契約書を持って直接会いに行くまでゲストルームには誰も近づけるな。用事が終わってからそちらに向かう」と内線を切って席から去り、机の引き出しを開けて何かを捜した。

 「ここ最近、お前が仕事バイトを休んでいたくらいは知っている。多い金額ではないが、しばらくこれで生活はできるだろう。受け取りなさい」

 また自分の柄にもないお節介せっかいで人を見くびる。歳を取っても変わらない作りたての表情が、心配するふりをして、百パーセントの嘘をたたえている。一方、相変わらず昔のままでいてくれて安心した。

 僕は封筒の中を開けて金額を確かめた。一万円札が五十枚と交通系ICカードが二枚入っていた。今まで通り、お金で二人の関係を何とか誤魔化ごまかすつもりだろう。益々人を失望させる思考回路を持った男だ。他の人ならお世辞を並べることもできたが、「こいつにだけは借りを作りたくない」と思っている自分がいた。「大事な何かを得るために嫌な人とここまで会話を続けるとストレスで病気になる」と呆れ返っている自分もいた。

 結局、お金が入った封筒はテーブルの上に置いて最後にステラの所在を訊いた。

 「またその話か?君は、たかが実験体の女の子が実の家族よりも大事だと言いたいか?諦めなさい。アレはもうお前の手から離れている」

 「実験体って何ですか、初耳です。あの子は僕が街で救ったノバナです」

 「これを読んでみろう。お前が救ったと言った女の子は各務家の娘が作り出した禁断の子供だ。これを第三者がバベルに通報した場合、お前は一朝にして重罪犯になる」

 緑埜社長の手には既に社内稟議りんぎ処理が終わった契約書が持たれていた。契約書には『花と巨樹の遺伝子情報を組み合わせて、改良品種に成功した新しい花に関する全ての研究資料をミドリエ製薬会社に提供する』との内容が書かれている。契約対象になる新しい花の詳細には性別の「女」だけ表記され、他には名前も特徴もなかった。契約内容も一方的にミドリエの方が得をする条件が殆どだった。常識的にこの契約が締結するとは考え難い。立派な会社を経営している代表が、自ら会社の機密情報をライバル会社に渡す判断をすることは、まず現実的にあり得ない話だ。

 解約相手になる会社名には、『株式会社各務コーポレーション』が表記されており、担当者の名前には空欄になっていた。熊捕さんとの内線で話した内容を根拠にして、各務家の代理人は今現在この建物のゲストルームにいる。これは自分が確かめるしかない、と僕は心の中で考えた。

 「分かりました。僕もその場に同席させてください」

 「却下きゃっかする。一般人が契約に口を挟んでは困る。君はユカが着くまでここで待ちなさい」

 「何か勘違いしていないですか?はっきり言わせてもらいますが、僕に新しい妹はいません。また、これはお願いではなく提案です。最後に、緑埜社長の娘と僕を二人きり残しても本当に問題ないと思いますか?もしも僕が、実は君の義理の父親は昔、実の息子の体を利用してプロジェクトの実験体に使ったことがある、と真実を伝え——」

 最後の言葉でブチ切れた緑埜社長に頬を殴られた。口の中から血の味がする。緑埜社長はぜいぜいと荒いを息を吸い込み、もう一度同じ方の頬を手のひらで叩いた。久しぶりの痛みを感じる。昔はたまに怒られる度に掃除道具で手のひらやふくらはぎを打たれた。あの頃は痛みよりはとても怖くて父親から逃げ回った記憶がある。

 「終わりました?随分弱くなりましたね、緑埜社長」 

 「その不敬な口をつぐめなさい。我慢にも限度がある。私が、誰のためにそのプロジェクトに参加した知らないのか?」緑埜社長は怒りに飲まれ、顔が真っ赤になったまま体を震えた。

 「結果的に家族まで巻き込んで生き残りは僕一人ではありませんか?誰のためなんて、もうやめてください。卑怯ひきょうですよ、その言い方は。僕に同意を得たとしても何も知らない子供が親に逆らって断れると思ったあなたに責任があると思いませんか?正直になりましょう。俺は失敗して逃げた。俺は自分の家族を犠牲にしてここまで来れたと、堂々と娘に言ってみてくださいよ」

 「黙れ!」

 もう一発殴られたところで、二人の関係がこれ以上悪化することも改善されることもなかった。底から互いを憎んでいつの間にか腐った臭いが漂うことも知らず今でも引き摺っている関係、それが僕たちだと定義を下せる。

 流血がはなだしい二人の間に無心な内線電話はずっと鳴り続いている。繰り返して鳴る電話を緑埜社長は線を抜き取って壁に投げつけた。壊れた破片が体に当たり、小さな傷になった。 

 「気が済むまで殴ってもらってもいいです。ただし、その後は必ず僕も一緒に各務家の代理人がいる部屋に連れててください」

 緑埜社長は疲れた声で答えた。「お前と口喧嘩することもウンザリだ。好きにすれば良い。お前はあくまで熊捕の代わりで参加することを忘れるな。勝手に邪魔をする場合は会社として個人のお前を訴える。答えは?」

 僕は約束を取ってソファーに座って顔についた血を拭いた。子供を取り戻すまで後少しだ。離れてからまだ一日も経っていないのに三日は経った感じがする。次に会う時にステラのお腹が空いたかも知らないから熊捕さんから貰ったお土産をポケットに入れた。餡子味と苺味だった。

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