三枚目:新吉原とその娘たち

 何もない空間へやに僕一人が立っている。黒闇くろやみの天井に不慣れた光が漂い、おりからの暗い色の壁髪が周りのあかりを吸い込んだ部屋だけど、その代わりのように扉の隙間をふち取る赤いりんが部屋の陰に混じってほのかに輝きながらも、しばらく消えずに波静なみしずかに揺蕩たゆとっている。

 朦朧もうろうとした意識の中でふいに目の前の景色に、より黒い影が光を捉え、扉の前で執拗しつように部屋の中に入ろうとして、いずれか断念したように姿をひそめた。

 心の中で生じる不安にドアノブを握り締めた途端、手のひらが焼かれる痛みを感じ、すぐ手を放した。肌は黒く硬張こわばって、だんだんと血の気が引いていく。かすかな不安が心をよぎった。

 しばらくして火の面影が立ち、絶えず部屋の中にに消えない懸念けねんを放り込み、ありのように僕の心身を虫喰むしばみながら、由来も知らない脅威きょういが胸を揺れ動かす。

うれいに沈んだ心は、いても立ってもいられぬような感情で、心臓の鼓動は高まり、自らの頭脳の延長上に新しい幻覚をきずき、そこにいつわりの息を吹き込んだ。

 暗澹あんたんたる気持ちと共に差し迫った危険を感じる。感情が沸き立つ際に、目の前の扉を潰す勢いで体をぶつけた。だが、確かに存在した扉は壁に変わり、後ろに少し錆びついた白いドアが現れた。僕は後ろに現れたドアまで全力で走り、またいきなり消える前に、ノブを回してドアを開けた。

 ドアの向こうの世界は、どんよりした空模様の下に雪が積もった荒野が広がった。厚い雪雲ゆきくもが群れを組んで移動する羊のように次々と空を覆い、空の下面と大気層の間の間隙の先には、僕が開けたドア以外に他の足跡は見えなかった。雲の底の平面が白く染まった荒野と平行してとおざかり、果てしなく続く地平線との間に、一条いちじょう鉛色なまりいろの空をくっきりと残して終っている。僕は、何気なくドアの向こうにある世界に足を踏み入れ、もなく歩き回った。

 不自然だ、と足元から違和感を感じ、目線を向けると、汚れた素足が周りの雪を次第に濃く黒に染めていた。

 慌ててドアまで戻ろうとしたが、ドアから続く汚れた足跡は一筋の線から面になり、地面は本来の色は失われ、徐々に黒の世界に変わり始めた。

 「————」

 何かしら音が、うつろな荒野に渡って聴こえた。あわれな小羊が親羊おやひつじを呼びかけているようだった。僕は、二回目の泣き声を聞いてから、それが、人の赤ん坊の泣き声だと気付いた。赤ん坊の命が危ない、と判断した僕の足は、頭の中で躊躇ちゅうちょする暇もなく、必死に声が聞こえる場所まで地面を踏み荒らした。

 広い空が地平線に沈むように近づいた頃、半径百メートルほどの小さい窪地くぼちが出た。泣き声は穴の中心から聴こえて来る。しかし、窪地の底は雪に積もったせいで、下手に動くと地上に帰ってこれない危険があった。

 案の定、僕が躊躇ためらいがちにもう一度赤ん坊が声を高めて泣き始めた。今はとにかく赤ん坊を救い出すことが最優先だ、と僕は窪地の内側がゆるく長い傾斜けいしゃであることを確認し、下まで滑り降りた。

 底の地面は上と違って雪の下が柔らかい物で埋まっていた。足を一歩踏み出すたびに膝がはまり、あたかも沼の中を歩むような錯覚さっかくを生じさせた。

 「アァ——」

 赤ん坊は、窪地の中心部に近くなるほど金切声かなきりごえうめき声の混乱した音で僕の耳を切り裂き、段々ひどく泣き出した。耳を防いでも脳みそまで入ってくる声は人を狂わせる。いくらそうだとしても赤ん坊を一人にすることはできなかった。

 ようやく泣き声の元まで辿り着いたと思った途端、一線を超えて周りが静かに沈んだ。僕は、あたふたとその辺を駈けまわって赤ん坊の跡を探した。でも、赤ん坊は何処からも見つける事はできなかった。まさかここまで探って何も出て来ないとは思わなかった。

 再び赤ん坊の泣き声が窪地の真ん中から聞こえた。今度は小さい声で泣いている。もしかすると、僕が見逃したかもしれない、と思いつつ、足元を素手で掘り出した。

 地面を掘り出して、僕は奇妙な既視感きしかんに襲われた。今まで散々踏み付いた物は、ただの地面ではなく、数え切れない人形のパーツだったのである。ここでまた、若干の違和感を覚え始めた。そして、自らの手で自分の心臓に乗せ、疲れない鼓動の音を確かめた。

 今の自分は死んでいるのか?と疑問を抱いた僕に足下あしもとから幼い女の子が顔を出して声をかけてきた。

 「パパ」

 眼球を失くしたその顔は感情すら近寄れない清い笑顔をして、禍々まがまがしく口だけで『パパ』と呼び出した。危険を感じた時は既に壊れた人形たちに囲まれ、壊れた手で脚を掴まれていた。急いでその場から離れようと体を動けば動くほど、僕の体は下へ、下へ、下へ徐々じょじょおちいり、周りの人形たちと一緒に地下へほうむられてゆく。

 「パパ」

 その虚空のどこかで、僕をいらだたせるような呼び声が微かに耳に刺さった。それを皮切かわきりに、捨てらたものどもがそれぞれの口で哭泣こっきゅうし、おぼろげな僕の記憶にパパの言葉が刻まれるまで呼びかけ続けた。

 意識がとおのく前に見上げた空はまた飽きもせず雪を地上に散らした。雪はうずたかく積もり始め、僕は、朦朧した眼で、光が点になるまでじっとそれを見つめた。

 「お父さま、私は、ここにいます」

 誰かが自暴自棄やけくそになった僕を人形の墓場から引き出した。顔も知らないそのは、うるんだ声で僕を、お父さま、と呼んでくれた。涙ぐんだ少女の眼には複雑な感情が隠られているように見える。僕は手を伸ばして涙を拭いてあげた。

「君は……、誰だ?」

 僕が女の子の名前を聞く寸前に、目が覚めた。

 意識はまだ夢の中に取り残され、現実と非現実が混ざり合っている感じがする。僕は闇に目が慣れるまで時間を待ちながら、手探りして、周囲を確認した。指先から、しとしと畳をきちんと敷きつめた平坦な部屋の床が伝わる。どうやら僕は、荒野に積もった雪の中でも、受験生で溢れた道上でもなく、初めての場所に誰かによって運ばれたみたいだ。

 隣に誰かがいる、と僕は小さな寝言を聞き、その辺りは避けてゆっくりと壁に手が当たるまで這いずった。しばらくゆくと、ふいと柔ない人肌が手のひらに入り、無意識的にそれを二回、み続けた。

 「…嫌だ、まだやりたいの?…もう今日は無理だってば」

 「いや、あの、その」

 思わぬハプニングに舌を噛でしまった。僕は頭の中が真っ白になって、今の状況になんと謝罪すればいいか、考えてもさっぱり分からなくなった。かく、このままでは誤解を招きそうだから相手の胸から手を離して身体を後ろに引いた。

 「逃げても今はもう遅いの、もう起きちゃったから」

 お互い何も見えない闇の中で、相手は僕の顔を両手で捕まえて懐に引き寄せた。暖かい体温が伝って来ると共に、僕の掌は少しずつ汗ばみ、鼻先に触れ合う人肌の香りが、全身に宿やどって僕の感覚をくすぐっている。

 流石にこれ以上は後になって気まずい状況になりそうだ、と思って離れようとしても相手の太股ふとももに絞められて身体に力が入らなかった。動けば動くほど二人の間には荒い息づかいがあえにぎなり、くびけでハグをされてからは顔の距離もどんどん近くなった。

 危なっかしい、と思った僕は必死に首に力を入れて相手の顔から近づかないように耐え続けた。

 「パパ、起きた?」

 部屋の外からステラの元気な声が聞こえた。子供が自由に歩く回れる場所は、僕が持っている情報の中ではTGCの施設しかない。とはいえ、TGCが運営する施設は必ず男女に切り分けて部屋を割り当てている。しかも、窓がいない部屋は聞いたことがない。

 「あらら、もう降参こうさん?」

 僕が少しステラに気を取られた間に、体がひっくり返され、僕と相手の位置が一分前と違って逆になった。そのまま僕の上に馬乗りした彼女は、僕の上にっかったまま、闇からニコリと歯を出して笑ってみせた。抵抗しようとしても膝で両腕が押されて動けない。顔が近づくたびに髪の毛からシャンプーの香りが僕を困らせた。

 「あの、人違いだと思います」

 僕はなるべく落ち着いた声で相手に話しかけた。

 それを聞いた彼女が驚いて悲鳴を上げた。「あんた、誰?」

 「炭咲千春と言います。まだ十四歳です」

 「聞いていないことは教えなくてもいい。それより、姉さんたち!ここに変態侵入者がいるわよ。はやくおいで」 

 できるだけ会話で今の状況を乗り越えたいと思った僕の希望は無惨に却下された。部屋の引き戸が開かれ、五、六人くらいの子供たちが中に入った。皆、小学生と変わらない身体条件をしている。ついでに僕がミスって胸を触った方は、ちょうど同じ年に見える赤毛の女の子だった。

 一応、言い訳は通じないと判断して早速、土下座をした。

 「大変失礼いたしました」

 「いいの、いいの。一緒に部屋に入れたうちらのせいもあるから」

 そう言われても、僕を軽蔑する視線はまだ消えていないままだ。ちなみにステラはさっきから僕の隣に来て、何故か理由は分からないけど、一緒に土下座をしている。

 「紹介するね。こちらは、今回の共通テストで顔を合わせた少年とその娘さん。名前が、炭咲くんと言いましたよね?娘さんはステラちゃんと呼ばれているらしいから仲良くしなさい」

 返答の代わりに相手から軽く舌打ちされた。孤高ここうを保つ女の怒りで部屋の中にしもが降りそうだ。あの状態だと、容易く許されない気がする。

 「あと、炭咲くん?ようこそ、新吉原へ。挨拶の代わりにこれをあげる」

 小学生ほどに見える女の子からタオルと着替えの浴衣を渡された僕は、唖然あぜんとした顔で目の前にいる女の子たちを眺めた。それぞれ似てない顔をして国籍こくせきも身長も違う女の子たちに囲まれた状況は慣れない光景である。どうして自分がここにいるかは後に聞くことにして、先に部屋の中に視線を逸らした。

 四十畳の部屋にクローゼットと幾つかの鏡台が壁に並んで置いてあった。化粧品は同じ商品が使っている模様だ。それ以外は特に何もない部屋で、いて言えば窓がない部分が不思議だった。大人がいない部屋で子供同士で生活している環境は少し変わっているとも言えるだろう。

 「パパ、パパ。もう大丈夫?」

 ステラが元気そうな声で僕の懐を抱きしめた。さっきの女と同じ香りがステラの髪から漂う。僕は時計を見るために周りを振り向いた。

 「何かお捜しでもある?」

 「いや、何でもないです」と時計がいない部屋にまた驚く僕だった。

 赤い髪色の女の子が軽く手を叩いた。「ならいいけど。奈緒美ちゃん、炭咲くんを風呂場まで案内してくれる?ねぇちゃんが戻るまで食事の準備がするから君にも手伝って欲しい」

 何で私が?と聞きたい顔で奈緒美さんは僕を睨めつけた。

 「先ほどのハプニングでお互い誤解を解く必要があるんじゃない?」

 「別にそれは、あの変態が勝手にナオミの——」

 「必要が、あるんじゃない、の?」

 微妙に語気を強く言う相手に奈緒美さんが尻尾しっぽを巻いて大人しく席から立った。顔だけ見ると、僕と関わることを極端に嫌がっている。僕も一瞬気まずそうな表情をしたが、相手と目が合って笑顔に切り替えた。

 先日、カカシとの戦いで首を斬られた後の記憶がないことを含めて、まだ、新吉原ここについても把握し切れていない情報が多くあった。苦手でも、今はここの住民と感情的に向き合うより、優先的に情報収集を考えて、友好的な関係を立てる必要がある。

 「ステラもパパと行く!」

 かなり力が入った自己表現だ。僕が寝ている間に姉さんたちにひらがなから教えてもらったように言葉の使いが前より豊かになっている。または、元々、優れた頭脳を持って生まれた子供だったかも知らない。

 僕はステラの頭を撫でながらステラはいらないと云った。

 「パパ、ステラはいらない?パパ、ステラのこと嫌い?」

 子供を相手にして言葉が足りなかった、と浅はかだった自分の行動を後悔しても遅かった。すでにステラは、僕の話に心が痛むような顔でしくしく泣き始めている。

 「すまん、すまん。その意味じゃない。ええと、僕と一緒にお行ってもステラはやることがないから部屋に残った方がいい、との意味合いみあいだった」ついでに大事なことを言い残した。「ステラのことは好きだから泣かないで欲しい」

 別に最後の話は、意味を持って話したわけではない。手前で待っている奈緒美さんからくちかたちで『最低』だと言われる前に伝えようと頭の中で考えていたセリフだった。

 「ステラもパパが好き。ステラはパパと一緒にいたい。だから、一緒に行く」

 結局、ステラを含めて三人で部屋を出た。僕が引き戸を閉じた後から、何故か部屋の中が騒がしくなった。そして、隣にいた奈緒美さんがため息をついた。何はともあれ、僕は奈緒美さんの後について広い廊下を歩いた。

 「パパ、ステラのこと見てね」

 余程一晩深く熟睡していたのか、ステラが元気を取り戻した。窓も人も、何もない廊下の上を走り回る姿が、まるで普通の子供のようだった。

 ノバナになった子供は大体、現実を否定してうつに落ちる。僕も過去にTGCの施設に入った初日はトイレに閉じこもって食事もせずに三日を過ごした。

 施設の生活はたいして一般家庭と変わりはなかった。優しい先生たちと健康な食事は子供に良い環境を提供してくれた。さりながら子供たちの成長は小学校五年生で止まったまま、普通の思春期を向かう子供ノバナはいなかった。

 そう、ちょうど部屋にいた女の子たちも僕が知るノバナと同じ雰囲気がする。

 「子供まで連れて新吉原には何しに来たの?」先に奈緒美さんから質問が入った。

 「特に理由はありません」僕は本当のことを教えた。「ガーデンズ学園で気を失ってから記憶がないです。目を覚ました時もここが新吉原だと知りませんでした」

 僕の記憶は、ガーデンズ学園で案山子とあらそって、最後は首を斬れた部分で止まっている。首が元に戻った理由も、新吉原に入れた経緯も僕には知らないことだった。

 「あら、そう?間違いなく、ねぇさんが外で作った新しい彼氏だと思った」奈緒美さんが残念そうにため息をついた。「なぁんだ。つまらない男だね。新吉原の花魁と二人きりにいる間に何もしなかったの?うちにやったように積極的にすればよかったのに」

 「本当に申し訳ございませんでした。あれは、事故だと思ってください」

 「まぁ、別に謝らなくてもいいよ」と言って次の話に乗り替わった。「でも、普通に考えても変だと思わない?受験生しかいない共通テストの当日に、テロを起こして何の得になるかしら。今回の騒ぎで共通テストは秋まで延期になったし、結局、その場にいた学生がそのまま被害に及んだからね」

 「テロって、何の話ですか?」自分が知らない話に物事の詳細を尋ねた。「今回の件は、七年前と同じくカカシの仕業しわざではなかったのですか?」

 「七年前に何かあったの?それと、畑もいない都内で案山子がなんであるの?」奈緒美さんは共通テストの当日に起きたテロの記事が投稿されているサイトをスマホで見せてくれた。「ほら、ここにちゃんと『東京都内でテロ事件が発生』と書いているでしょう。うちはねぇさんの話を聞いてネット上の記事を調べた。その他は知らない」

 奈緒美さんの話は嘘ではなかった。本当にテロの話ばかりメディアに記事化されている。どこにもカカシの正体やバベルに関する記事は、元々起きていない事件のように、検索にも引っかからなかった。僕はあり得る可能性を広げるために奈緒美さんに他のことを訊いてみた。

 「テロを起こした真犯人に関しては、花魁ねぇさんから聞いてないですか?」

 奈緒美さんは僕の質問にすぐ答えてくれなかった。「それを聞いて、あなたになにが出来るの?もしかして復讐でもしたいわけ?」

 「いや、それは……」

 「あなたが新吉原ここに来る前の人生に興味もないし、知りたくもない。けど、ねぇさんと一度関わった以上、これからの人生に変な真似はさせないわ。ステラちゃんも、うちにとって大事な存在になったから、あなたにはなるべく安全な生き方を選んで欲しい。うちが何を話したいか分かる?」

 僕は黙ってうなずいて、ステラの手をそっと握った。奈緒美さんに協力を求めることはもう難しそうだ。仕方がない、とまた一人で今までの出来事をそれぞれに関連つけて頭の中で並べた。

 バベルとガーデンズ学園が裏で結託けったくしている。花魁はカカシを僕と一緒に目撃して、何故か身内の人にまで嘘をついている。カカシが起こした殺戮さつりくの現場は、謎のテロリストに変わっている。一体どこから手を付ければ良いのか分からなくなり、解決するべき課題が増えて軽い頭痛を感じた。ステラが無事で良かったと思う間に僕の足が温泉の前に着いた。

 入口には赤い暖簾のれんのみ付けられている。

 「それじゃ、うちは帰るから終わったら中にある内線を使って部屋に電話して。多分、誰か一人はむかえに来ると思うわ」と奈緒美さんは手をあげて言った。「じゃあね」

 「ちょっ、ちょっと待ってください。ステラと一緒に女湯おんなゆには入れないです。ここに男湯おとこゆはないですか?」慌てた僕はまた舌を噛んだ。

 「はぁ?あのね、うちらの中に男子はいないよ?ここはうちらのプライベートスペースだから男性用の施設はいない。今は誰も風呂場を使わないから安心してサッサと入りなさい」不愉快な顔つきで僕をにらむ奈緒美さんである。

 僕はその顔に何とも言えなかった。

 ステラが先に風呂場の扉を開いて中に入った後、僕は、念の為に外で丁寧にノックをし、「お邪魔します」と合図を打ってから引き戸を開けた。

 中に入って目にした風呂場は思ったより快適で広かった。洗面台には数多いスキンケア用の化粧品と名前も知らない道具が並び立っている。あまり詳しく見ても失礼だから、足を他のところに運んだ。

 脱衣場の床を歩いて適当にロッカーの前に立った僕は、ステラが先に浴衣を脱ぎ散らして風呂に入るまで待った。いくらステラが僕をパパだと思い込んでも、僕は赤の他人である。問題になりそうな部分は事前に避けた方が賢明であった。

 しばらく時間が経ち、ステラの笑い声が浴場から響いて聴こえた。僕は静かに散らかされたステラの浴衣を拾い、扉から一番近いロッカーに服を入れておいた。そして、いよいよ僕も服も抜いてお風呂に入る準備をした。

 「あ、これ誰の服だ?」

 今更、着ている服が私物ではないことに気づき、ショックで体が固まった。普通に考えて、当日着た服はカカシとの戦いでボロボロになった覚えがある。

 忘れよ、と僕は今まで通りに記憶を忘却の中へ溶け込んで、バスタオルを腰に巻けて風呂場の扉を開いた。

 風呂場も脱衣場と同じくらいの広さで作られていた。特にあつ湯とぬる湯はアヒルの口から温泉のお湯が流れ、熱さと特有の匂いが肌と鼻に伝わってきた。先に入ったステラは水風呂の中で水遊びを一人で楽しんでいる。

 それを見届けながら、僕は蒸気が溢れるお湯に入る前に簡単にシャワーを浴びることにした。体のあちこちに負った傷口が肌に染みつき、時間が経って黒紅色の跡を残した。痛みはなくても汚い痕跡だから、石鹸せっけんの泡で跡残さず水に洗い流した。

 顔を洗って鏡に映った自分の顔を眺めた。首が斬れる感触は確かにあった。いわゆる「確定死亡」の状態に一度落ちた僕に、目の前の現実は違和感に満ちている。本物の僕は死んで、鏡の中にいる男が体を乗っ取りした可能性もある。

 自分の顔をあらゆる方向から確かめる中で、首の辺りに黒い一線を見つけた。水垢で見にくい鏡を水で洗い出して、黒い部分に目をさらした。傷跡は首輪のように後まで繋がっている。試しに石鹸で洗っても傷は取れなかった。

 「何だ、そうゆうことか」と僕は冷たい水で泡を流してアヒル天国と名付けられている湯船ゆぶねに足を入れた。ついでに隣に置いてある湯おけを顔にかぶせ、体は寝かせまま、目を閉じた。

 首にある瘢痕はんこんは、一瞥いちべつして木炭化の症状に見られる。七年前に火傷を負った時も両腕に同じあとがあった。詳しく理由は知らないが、細胞の再生される力が身体の中で木炭化を活性化させるようだ。症状自体は、言わば、白血病はっけつびょうに似ている。ただし、僕の場合は、手術でも治らない期限付きの人生でありつつ、木炭かが首まで広がったせいで、その期限も昨日よりも短くなっている状態だ。

 「どうせ亡くなる人生だ。最後も自分らしく生きたいわ」

 独り言をつぶやいて緊張した心を温泉の水にやわらげた。

 まだ体を動けるうちに、ステラの親に連絡をしてみないといけない。これから先の苦難くなんを考えると、手はいくらあっても足りない気がする。テロの影響で共通テストが後回しになり、しばらくは無計画になった今、余った時間をステラのために使用することは対して問題にはならなかった。急ぐ必要はない。僕の体が壊れるまでまだ時間はあるはずだ。

 風呂に入ってからも、なかなか落ち着かず、いろいろな雑念が頭の中を去来する間に誰かの気配を感じた。多分、ステラだろうと僕は単純に思った。

 「ステラには少し熱いから体を深くまでからない方がいいよ」

 「はい、パパ。気をつけます」と穏やかな口ぶりで言い返してきた。

 ステラが歳上の人に敬語を使える子だったなのか、一瞬の間に変な違和感を感じた。特に僕にだけは、他の人よりも親しげに近寄ろうとする甘え子が、いきなり敬語で僕との間に距離を取ろうとする行為は辻褄つじつまが合わない。遊んでもらった吉原の女の子たちから敬語を教えてもらった可能性は勿論ありえる。が、可能性はゼロに近い。

 「あはは、パパ見つけた。パパも隠れん坊する?」

 被っていた湯おけが誰かに乗っ取られ、明るいステラが僕に顔を押し付けた。急な出来事に驚いた僕は反射的に体を起こした。

 「イタイヨォオォオォォ」

 ドンと額とおでこがぶつかり、床に尻餅しりもちをついたステラが涙をした。慌ててステラをなぐさめようと体を起こすと、目眩がしてそのまま意識が飛んだ。暖かいお湯の中で体が一度深く沈み、浴槽のタイルが背中に当たった。

 気を取り戻した時は風呂場の外で寝ていた。時間はそれほど経っていない感覚だった。そして、花魁と目が合った。

 「す、すみません。お世話になりました」

 正確には、太ももを枕として貸してくれた花魁の目を閉じた顔を対面した。さすがに迷惑をかけたと思い、その場で土下座をして謝った。花魁は何も反応をしてくれなかった。一人で言い訳をぶつぶつ述べながら、これは誰のために行なっている謝罪であるかに疑問が沸き始めた頃、後でくすくすと笑みを漏らす声がした。

 「炭咲くん、裸で何しているの?」

 声の正体は赤髪あかがみの少女だった。彼女はウーロン茶に氷を入¥入れたグラスを三つ、トレーに載せて戻って来た。僕は恥ずかしげに頬が少女の髪色より赤く染まり、そそくさと床に落ちたタオルで下半身を隠して座り直した。

 初対面の人に物騒ぶっそうなモノをちらつかせて顔も上げれなかった。挨拶をするタイミングはともかく、床だけを見守り、次に喋る言葉に気を抜かれた。

 「恥ずかしがらなくても、ウチは悪くなかったと思うけどね。そこら中の男よりは断然、頼もしいお姿だった。だから、炭咲くん。もっと自分の体に自信を持ちなさい」と未だにも口に笑みを浮かべて褒め続ける彼女である。

 「誤解です。これには事情がありまして、奈緒美さんがここに男湯はないから、女湯に入ってもいいと言いま——」

 顔を上げて女の子と目が合った瞬間、過去にすれ違った人々の瞳を思い出した。短い人生を生きながらも、数少ない人間関係の中でたいていの人々は、僕にあっては、平素へいそに忘れがちな存在である。しかし彼女の瞳からは、どこか既視感を感じる僕だった。

 「ひょっとして花魁、ですか?」

 「あれ?どうして分かった?ウチの素顔すっぴんはまだ見せてないよね?」花魁は感心して言った。「今まで最初から気づいた人はなかったのに、もしかして炭咲くんは探知系のトゲも持ったりする?」

 「昔から人は瞳の色で覚えました。でも、実際口に出すまでは半信半疑でした」僕は後にひざまずいて大人バージョンの花魁さんを見つめた。「あれは、本物の人ではなく、人形だったんですね」

 人形と呼ばれている『あれ』は、各務コーポレーションが医療目的で開発した人型の着ぐるみである。普通の着ぐるみと違って、シリコンや着用者の髪の毛で作られるため、本物に恐ろしく近い完成度を持っている。初期バージョンまでは、成長が止まった人や子供の身体を持った人をターゲットにして人形を広報したが、段々値段が高くなり、今はごく一部の人やごく一部のプロに対象を変えている。

 花魁の人形も、本物の花魁が大人になった時を想像できる外見を持っている。モデルはかなり最新バージョンで、背面にファスナー見たいな部分があった。

 「近くで見る花魁はいかがですか?」

 「感想ですか?ええと、言わないとダメですよね」と困った顔をした僕は、もう一度目の前の小さい花魁を見上げた。「普通に可愛いくて綺麗なお方だと思います」

 「だよね、ウチもそう思う。だからこっちの体はあまり好きじゃないんだ」

 花魁の反応に驚き、早めに追加の説明を並べた。「あの、違います。今の話はあくまでも生身の方でした」

 「え?ウチのこと?」

 「はい。顔が元々可愛いから人形の方も可愛いと言われると思います」

 花魁の目がまた大きくなった。二回目だ。

 「生身のウチが可愛いって、変な愛情表現だね」と床に座り込んだ彼女の微笑は、他の誰もがはじめて見る清々しさであった。

 「失礼しました。あの、生身と言う表現は決して裸の意味ではなく、服を着ていない状態のことです。本当です」僕は花魁の反応を見て、最後の話はしない方が良かったと後悔した。

 「炭咲くんは変わった人だね。聞いて気持ちよかった。ありがとう」花魁は持っていたウーロン茶を僕に差し伸べた。「飲んで、話はステラを連れてきてからにしよ」

 一人だけ残された僕は人形と距離を取ってウーロン茶を飲みながら二人が戻るまでじっとした。時計もない場所で一分はかなり長い時間に感じる。暇潰しに飲み干したコップから氷を出して口の中に入れた。冷たくて硬い氷だった。

 「ね、ちょっとウチのところに来てもらえる?相談したいことがあるの」

 足を運んだところには花魁さんがねたステラに手こずっていた。床には頑張ってステラの機嫌を直そうとした花魁さんの努力おもちゃが散らかっていて。ステラは部屋の隅で背を向けている。僕の足音にちらっとこちらの方を見つつ、再び壁の方に顔を隠した。だいたいの状況は分かった。

 拗ねた原因は僕にある。だから、おもちゃでもお菓子でも通用しなかったと思われる。

 「ステラちゃん、聞いてくれる?ステラちゃんが大好きなパパがステラステラに話があるみたい」片手はステラの背中を撫でて一方は僕に手招きした。「炭咲くん、そうでしょう?」

 僕は、素早く花魁さんの隣の方に正座して次の反応を待った。

 「本当に?」

 ステラが大きな絆創膏ばんそうこうを貼ったおでこを、小さな手で隠して、僕の方を振り向いてくれた。拗ねた子供の瞳には涙が滲んでいる。

 僕は反省を込めた言葉で頭を下げた。「本当にごめんなさい。僕が気を抜いたせいでステラを傷つけました」

 「『嘘つき。本当は謝りたくないくせに、何で謝っている。ただの自己満足だろう?』」

 この声は、僕が持つ心の呵責かしゃくが生み出したもう一つの罪悪感ぼくだ。あの夜、謝るべき対象に謝れなかった記憶が足手纏あしてまといになり、僕は、あの夜あの時間帯になる度に一人で、ずっと、謝罪の言葉を述べ続けて来た。そして、それは以前に思っていたほど、難かしいことではなくなっていた。そのはずだった。

 「パパもここ痛い?」ステラが僕の額を撫でてくれた。「パパにもあげる」

 ステラは手のひらから潰された絆創膏を僕にくれた。動物のキャラクター絵描かれた可愛い絆創膏だった。

 「パパもステラも一緒だね!」とステラは絆創膏のテープを剥がして僕の額に貼り付けてくれた。

 「先に痛みに共感するのか」僕の話にステラが小首をかしげる。「何でもない。絆創膏はありがとう。おかげで気が楽になった」

 何も知らないステラはパパに抱きついて幸せそうに笑った。やはり、バスタオルでは気が済まない。服が必要だと判断した僕は花魁にお願いして着替えてくるまでステラをお願いした。

 「着替えならここにある。フリーサイズだから体に似合うと思う」

 事前に用意された服は黒地の格子柄が入った浴衣だった。フリーサイズでも僕には手と足が余って紐を使って体に固定した。着てから気づいたけど、柄の模様がステラが着た浴衣と同じ種類だった。

 「うん、やはりウチの目に狂いはなかったわ。ステラちゃんと二人で並んでみる?すごく可愛くてお似合いだよ」

 「この服、かなり高級品に見えますが、僕たちが貰っても大丈夫ですか?」

 「全然、大丈夫。むしろ着る男子がなくて捨てるところだった。それより、炭咲くんはスマホ持っていない?ウチが二人の写真を代わりに撮ってあげるから持ってきなさい、早く!」

 花魁に急せかされるというより、絶えず追われた僕はキャビネットからスマホを出して花魁さんに手渡した。だが、昨日から充電していないせいで電源はとっくに切れていた。どうしようもない状態で、花魁が謎のどこから電源アダプターを持ってきて充電に成功し、念願だった僕たち二人の写真を撮る願望を叶えて見せた。

 「ここまでする必要がありますか?」

 花魁は綺麗に撮れた写真を選んで携帯の画面を僕の前に出した。

「あるよ、きっと。時間が経っても写真は残るからね」細長い眉毛の先が微弱に震える。「たいしたことではないけれど、たまには今の記憶が止まった時間を動かす力になる日が来るよ」

 「ニセのパパ役の僕が、勝手に名前を付けて、勝手に家族ごっこを続けるとしても、別れの結末が決まっている関係を写真で残してもしょうがないと思いませんか?幼い頃の記憶なんて、一年経って忘れてしまいます」僕は思わず思ったことをそのまま口に出した。「すみません、失言でした。今の話を聞かなかったことにしてください」

 花魁が笑窪えくぼを右頬に作り、丁寧な仕草で目を伏せた。「でもね、二人の関係が本当の親子関係ではないくらいは、とうに知っているよ?でも、それが問題になったり、意味がない関係だとは思えない。血が繋がった親子でも子供を捨てる親は数え切れないほどたくさん存在する。ウチの親もそうだった。ウチが可愛くするからお父さんが手を出したと言い表して、最後は新吉原に放り込んだ。お陰様で、働き始めた頃にはそれをタイトルにして、人気ナンバーワンになった。

 ノバナは歳を取らない体を持ち、永遠に若く可愛がられる花だとよく言われているけど、事実上、親に捨てられ、生まれてから捨てられ、金のために身を売られた子供たちの方が多い。皮肉なことに、ウチらは成長が八歳から十歳の間に時間が止まったまま、欲望に塗れた獣の夜を美しく輝かせるための新吉原で、花魁と言う仮面を被って殆どの人生を『ひとり』で過ごしている。

 だから、炭咲くん。ウチには君とステラちゃんの関係が本物であれ、ニセモノであれ、いとしい親子に見えていることが重要だよ。いくら辛い時が来ても今この瞬間を思い出して一人でも乗り越えれる心の余裕を預けたい。これって代償行為だいしょうこうどうかしら。ううん、それよりは、ウチのわがまま?」

 大人に愛され、子供の体に綴じ込まれた彼女に僕は何を言い出せばいいか、軽い戸惑いを覚えつつ、花魁が口を開けるまで待った。

 「は——い、この話はここで終了。写真は何も削除していないから、後でも観ててね」花魁の気まぐれはここで終わらなかった。「まだあれをするまで数日は残っているのに、なんでこんなにセンシティブに反応しているのだろう。うふふッ、変だよね」

 より一層リアクションしづらくなった僕は間抜けな顔で固まった。

 「嘘、嘘。冗談だよ、ジョーダン。あれをするノバナはいないって突っ込まないと照れよ。女を困らせないでください、ステラちゃんのパパさん」

 知らなかった。成長が止まるとの意味を知った僕はステラの方に目を向けた。今はまだ体と精神年齢が同じでも、僕と同じ歳になっても体は過去に追い残される日常が一人の人生を編む。周りは変わって自分自身は何も変わらない。そう思われると彼女たちの感情線が微かに心に触れる。

 「ところで、炭咲くん。もうお互い裸で触れ合った仲だし、一々敬語を付けて距離を取るよりは、そろそろ名前で呼ばない?」と言いながら膝を抱いてステラと顔を合わせた。「ステラもウチを名前で呼んでもいいよ」

 「名前?ステラも呼ぶ!」

 「うふふッ、分かったわ。それじゃあ、教えるね。ウチの名前は——」花魁さんは末っ子を愛しがるようににこりと笑い、はきはきした声でひらがなを一文字ずっつ語った。

 「パパ、ステラお腹すいた」元気いっぱいなステラもいよいよ疲れ切った顔で大人しくなった。「あそこにいかない?」

 僕は、あそこがどこなのかすぐに分からなかった。食べ物がある場所と言えば、コンビニが一番最初に思いつく。ステラと一緒に店で食事をした覚えがない状況から見る限り、ステラが欲しがる正解はコンビニだと思われる。

 「花魁さん、新吉原にもコンビニはありますか?」僕は可哀想な想いをしたステラの頭を片手で撫でた。

 「名前を教えてまだ五分も経ってない間に、忘れた?それともただの意地悪いイタズラ?」

 まだ下の名前で人を呼ぶことはあまりなかった僕は、頭の中で二十回ほど発音の練習をした。あくまで舌を噛まないためである。

 「こ・ひ・なさん、どうか食事の件をお願いしてもよろしいでしょうか?」

 僕の反応に満足したこひなさんは不機嫌のかげりから満ち足りた表情を受けべた。「二人の前にいるウチを誰だと思っているの?新吉原の花魁と友達になった記念に、今まで味わったことのない料理を食べさせてあげる。今頃、食事の準備は終わっているはずだから、部屋に戻ろう」

 意気揚揚いきようようとしたこひなさんの後について、僕とステラは女湯から出て部屋に向かった。

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