三枚目:新吉原とその娘たち
何もない
心の中で生じる不安にドアノブを握り締めた途端、手のひらが焼かれる痛みを感じ、すぐ手を放した。肌は黒く
しばらくして火の面影が立ち、絶えず部屋の中にに消えない
ドアの向こうの世界は、どんよりした空模様の下に雪が積もった荒野が広がった。厚い
不自然だ、と足元から違和感を感じ、目線を向けると、汚れた素足が周りの雪を次第に濃く黒に染めていた。
慌ててドアまで戻ろうとしたが、ドアから続く汚れた足跡は一筋の線から面になり、地面は本来の色は失われ、徐々に黒の世界に変わり始めた。
「————」
何かしら音が、
広い空が地平線に沈むように近づいた頃、半径百メートルほどの小さい
案の定、僕が
底の地面は上と違って雪の下が柔らかい物で埋まっていた。足を一歩踏み出すたびに膝が
「アァ——」
赤ん坊は、窪地の中心部に近くなるほど
ようやく泣き声の元まで辿り着いたと思った途端、一線を超えて周りが静かに沈んだ。僕は、あたふたとその辺を駈けまわって赤ん坊の跡を探した。でも、赤ん坊は何処からも見つける事はできなかった。まさかここまで探って何も出て来ないとは思わなかった。
再び赤ん坊の泣き声が窪地の真ん中から聞こえた。今度は小さい声で泣いている。もしかすると、僕が見逃したかもしれない、と思いつつ、足元を素手で掘り出した。
地面を掘り出して、僕は奇妙な
今の自分は死んでいるのか?と疑問を抱いた僕に
「パパ」
眼球を失くしたその顔は感情すら近寄れない清い笑顔をして、
「パパ」
その虚空のどこかで、僕をいらだたせるような呼び声が微かに耳に刺さった。それを
意識が
「お父さま、私は、ここにいます」
誰かが
「君は……、誰だ?」
僕が女の子の名前を聞く寸前に、目が覚めた。
意識はまだ夢の中に取り残され、現実と非現実が混ざり合っている感じがする。僕は闇に目が慣れるまで時間を待ちながら、手探りして、周囲を確認した。指先から、しとしと畳をきちんと敷きつめた平坦な部屋の床が伝わる。どうやら僕は、荒野に積もった雪の中でも、受験生で溢れた道上でもなく、初めての場所に誰かによって運ばれたみたいだ。
隣に誰かがいる、と僕は小さな寝言を聞き、その辺りは避けてゆっくりと壁に手が当たるまで這いずった。しばらくゆくと、ふいと柔ない人肌が手のひらに入り、無意識的にそれを二回、
「…嫌だ、まだやりたいの?…もう今日は無理だってば」
「いや、あの、その」
思わぬハプニングに舌を噛でしまった。僕は頭の中が真っ白になって、今の状況になんと謝罪すればいいか、考えてもさっぱり分からなくなった。
「逃げても今はもう遅いの、もう起きちゃったから」
お互い何も見えない闇の中で、相手は僕の顔を両手で捕まえて懐に引き寄せた。暖かい体温が伝って来ると共に、僕の掌は少しずつ汗ばみ、鼻先に触れ合う人肌の香りが、全身に
流石にこれ以上は後になって気まずい状況になりそうだ、と思って離れようとしても相手の
危なっかしい、と思った僕は必死に首に力を入れて相手の顔から近づかないように耐え続けた。
「パパ、起きた?」
部屋の外からステラの元気な声が聞こえた。子供が自由に歩く回れる場所は、僕が持っている情報の中ではTGCの施設しかない。とはいえ、TGCが運営する施設は必ず男女に切り分けて部屋を割り当てている。しかも、窓がいない部屋は聞いたことがない。
「あらら、もう
僕が少しステラに気を取られた間に、体がひっくり返され、僕と相手の位置が一分前と違って逆になった。そのまま僕の上に馬乗りした彼女は、僕の上に
「あの、人違いだと思います」
僕はなるべく落ち着いた声で相手に話しかけた。
それを聞いた彼女が驚いて悲鳴を上げた。「あんた、誰?」
「炭咲千春と言います。まだ十四歳です」
「聞いていないことは教えなくてもいい。それより、姉さんたち!ここに変態侵入者がいるわよ。はやくおいで」
できるだけ会話で今の状況を乗り越えたいと思った僕の希望は無惨に却下された。部屋の引き戸が開かれ、五、六人くらいの子供たちが中に入った。皆、小学生と変わらない身体条件をしている。ついでに僕がミスって胸を触った方は、ちょうど同じ年に見える赤毛の女の子だった。
一応、言い訳は通じないと判断して早速、土下座をした。
「大変失礼いたしました」
「いいの、いいの。一緒に部屋に入れたうちらのせいもあるから」
そう言われても、僕を軽蔑する視線はまだ消えていないままだ。ちなみにステラはさっきから僕の隣に来て、何故か理由は分からないけど、一緒に土下座をしている。
「紹介するね。こちらは、今回の共通テストで顔を合わせた少年とその娘さん。名前が、炭咲くんと言いましたよね?娘さんはステラちゃんと呼ばれているらしいから仲良くしなさい」
返答の代わりに相手から軽く舌打ちされた。
「あと、炭咲くん?ようこそ、新吉原へ。挨拶の代わりにこれをあげる」
小学生ほどに見える女の子からタオルと着替えの浴衣を渡された僕は、
四十畳の部屋にクローゼットと幾つかの鏡台が壁に並んで置いてあった。化粧品は同じ商品が使っている模様だ。それ以外は特に何もない部屋で、
「パパ、パパ。もう大丈夫?」
ステラが元気そうな声で僕の懐を抱きしめた。さっきの女と同じ香りがステラの髪から漂う。僕は時計を見るために周りを振り向いた。
「何かお捜しでもある?」
「いや、何でもないです」と時計がいない部屋にまた驚く僕だった。
赤い髪色の女の子が軽く手を叩いた。「ならいいけど。奈緒美ちゃん、炭咲くんを風呂場まで案内してくれる?ねぇちゃんが戻るまで食事の準備がするから君にも手伝って欲しい」
何で私が?と聞きたい顔で奈緒美さんは僕を睨めつけた。
「先ほどのハプニングでお互い誤解を解く必要があるんじゃない?」
「別にそれは、あの変態が勝手にナオミの——」
「必要が、あるんじゃない、の?」
微妙に語気を強く言う相手に奈緒美さんが
先日、カカシとの戦いで首を斬られた後の記憶がないことを含めて、まだ、
「ステラもパパと行く!」
かなり力が入った自己表現だ。僕が寝ている間に姉さんたちにひらがなから教えてもらったように言葉の使いが前より豊かになっている。または、元々、優れた頭脳を持って生まれた子供だったかも知らない。
僕はステラの頭を撫でながら
「パパ、ステラはいらない?パパ、ステラのこと嫌い?」
子供を相手にして言葉が足りなかった、と浅はかだった自分の行動を後悔しても遅かった。すでにステラは、僕の話に心が痛むような顔でしくしく泣き始めている。
「すまん、すまん。その意味じゃない。ええと、僕と一緒にお行ってもステラはやることがないから部屋に残った方がいい、との
別に最後の話は、意味を持って話したわけではない。手前で待っている奈緒美さんから
「ステラもパパが好き。ステラはパパと一緒にいたい。だから、一緒に行く」
結局、ステラを含めて三人で部屋を出た。僕が引き戸を閉じた後から、何故か部屋の中が騒がしくなった。そして、隣にいた奈緒美さんがため息をついた。何はともあれ、僕は奈緒美さんの後について広い廊下を歩いた。
「パパ、ステラのこと見てね」
余程一晩深く熟睡していたのか、ステラが元気を取り戻した。窓も人も、何もない廊下の上を走り回る姿が、まるで普通の子供のようだった。
ノバナになった子供は大体、現実を否定して
施設の生活はたいして一般家庭と変わりはなかった。優しい先生たちと健康な食事は子供に良い環境を提供してくれた。さりながら子供たちの成長は小学校五年生で止まったまま、普通の思春期を向かう
そう、ちょうど部屋にいた女の子たちも僕が知るノバナと同じ雰囲気がする。
「子供まで連れて新吉原には何しに来たの?」先に奈緒美さんから質問が入った。
「特に理由はありません」僕は本当のことを教えた。「ガーデンズ学園で気を失ってから記憶がないです。目を覚ました時もここが新吉原だと知りませんでした」
僕の記憶は、ガーデンズ学園で案山子と
「あら、そう?間違いなく、ねぇさんが外で作った新しい彼氏だと思った」奈緒美さんが残念そうにため息をついた。「なぁんだ。つまらない男だね。新吉原の花魁と二人きりにいる間に何もしなかったの?うちにやったように積極的にすればよかったのに」
「本当に申し訳ございませんでした。あれは、事故だと思ってください」
「まぁ、別に謝らなくてもいいよ」と言って次の話に乗り替わった。「でも、普通に考えても変だと思わない?受験生しかいない共通テストの当日に、テロを起こして何の得になるかしら。今回の騒ぎで共通テストは秋まで延期になったし、結局、その場にいた学生がそのまま被害に及んだからね」
「テロって、何の話ですか?」自分が知らない話に物事の詳細を尋ねた。「今回の件は、七年前と同じくカカシの
「七年前に何かあったの?それと、畑もいない都内で案山子がなんであるの?」奈緒美さんは共通テストの当日に起きたテロの記事が投稿されているサイトをスマホで見せてくれた。「ほら、ここにちゃんと『東京都内でテロ事件が発生』と書いているでしょう。うちはねぇさんの話を聞いてネット上の記事を調べた。その他は知らない」
奈緒美さんの話は嘘ではなかった。本当にテロの話ばかりメディアに記事化されている。どこにもカカシの正体やバベルに関する記事は、元々起きていない事件のように、検索にも引っかからなかった。僕はあり得る可能性を広げるために奈緒美さんに他のことを訊いてみた。
「テロを起こした真犯人に関しては、
奈緒美さんは僕の質問にすぐ答えてくれなかった。「それを聞いて、あなたになにが出来るの?もしかして復讐でもしたいわけ?」
「いや、それは……」
「あなたが
僕は黙って
バベルとガーデンズ学園が裏で
入口には赤い
「それじゃ、うちは帰るから終わったら中にある内線を使って部屋に電話して。多分、誰か一人は
「ちょっ、ちょっと待ってください。ステラと一緒に
「はぁ?あのね、うちらの中に男子はいないよ?ここはうちらのプライベートスペースだから男性用の施設はいない。今は誰も風呂場を使わないから安心してサッサと入りなさい」不愉快な顔つきで僕を
僕はその顔に何とも言えなかった。
ステラが先に風呂場の扉を開いて中に入った後、僕は、念の為に外で丁寧にノックをし、「お邪魔します」と合図を打ってから引き戸を開けた。
中に入って目にした風呂場は思ったより快適で広かった。洗面台には数多いスキンケア用の化粧品と名前も知らない道具が並び立っている。あまり詳しく見ても失礼だから、足を他のところに運んだ。
脱衣場の床を歩いて適当にロッカーの前に立った僕は、ステラが先に浴衣を脱ぎ散らして風呂に入るまで待った。いくらステラが僕をパパだと思い込んでも、僕は赤の他人である。問題になりそうな部分は事前に避けた方が賢明であった。
しばらく時間が経ち、ステラの笑い声が浴場から響いて聴こえた。僕は静かに散らかされたステラの浴衣を拾い、扉から一番近いロッカーに服を入れておいた。そして、いよいよ僕も服も抜いてお風呂に入る準備をした。
「あ、これ誰の服だ?」
今更、着ている服が私物ではないことに気づき、ショックで体が固まった。普通に考えて、当日着た服はカカシとの戦いでボロボロになった覚えがある。
忘れよ、と僕は今まで通りに記憶を忘却の中へ溶け込んで、バスタオルを腰に巻けて風呂場の扉を開いた。
風呂場も脱衣場と同じくらいの広さで作られていた。特にあつ湯とぬる湯はアヒルの口から温泉のお湯が流れ、熱さと特有の匂いが肌と鼻に伝わってきた。先に入ったステラは水風呂の中で水遊びを一人で楽しんでいる。
それを見届けながら、僕は蒸気が溢れるお湯に入る前に簡単にシャワーを浴びることにした。体のあちこちに負った傷口が肌に染みつき、時間が経って
顔を洗って鏡に映った自分の顔を眺めた。首が斬れる感触は確かにあった。いわゆる「確定死亡」の状態に一度落ちた僕に、目の前の現実は違和感に満ちている。本物の僕は死んで、鏡の中にいる男が体を乗っ取りした可能性もある。
自分の顔をあらゆる方向から確かめる中で、首の辺りに黒い一線を見つけた。水垢で見にくい鏡を水で洗い出して、黒い部分に目を
「何だ、そうゆうことか」と僕は冷たい水で泡を流してアヒル天国と名付けられている
首にある
「どうせ亡くなる人生だ。最後も自分らしく生きたいわ」
独り言をつぶやいて緊張した心を温泉の水にやわらげた。
まだ体を動けるうちに、ステラの親に連絡をしてみないといけない。これから先の
風呂に入ってからも、なかなか落ち着かず、いろいろな雑念が頭の中を去来する間に誰かの気配を感じた。多分、ステラだろうと僕は単純に思った。
「ステラには少し熱いから体を深くまで
「はい、パパ。気をつけます」と穏やかな口ぶりで言い返してきた。
ステラが歳上の人に敬語を使える子だったなのか、一瞬の間に変な違和感を感じた。特に僕にだけは、他の人よりも親しげに近寄ろうとする甘え子が、いきなり敬語で僕との間に距離を取ろうとする行為は
「あはは、パパ見つけた。パパも隠れん坊する?」
被っていた湯おけが誰かに乗っ取られ、明るいステラが僕に顔を押し付けた。急な出来事に驚いた僕は反射的に体を起こした。
「イタイヨォオォオォォ」
ドンと額とおでこがぶつかり、床に
気を取り戻した時は風呂場の外で寝ていた。時間はそれほど経っていない感覚だった。そして、花魁と目が合った。
「す、すみません。お世話になりました」
正確には、太ももを枕として貸してくれた花魁の目を閉じた顔を対面した。さすがに迷惑をかけたと思い、その場で土下座をして謝った。花魁は何も反応をしてくれなかった。一人で言い訳をぶつぶつ述べながら、これは誰のために行なっている謝罪であるかに疑問が沸き始めた頃、後でくすくすと笑みを漏らす声がした。
「炭咲くん、裸で何しているの?」
声の正体は
初対面の人に
「恥ずかしがらなくても、ウチは悪くなかったと思うけどね。そこら中の男よりは断然、頼もしいお姿だった。だから、炭咲くん。もっと自分の体に自信を持ちなさい」と未だにも口に笑みを浮かべて褒め続ける彼女である。
「誤解です。これには事情がありまして、奈緒美さんがここに男湯はないから、女湯に入ってもいいと言いま——」
顔を上げて女の子と目が合った瞬間、過去にすれ違った人々の瞳を思い出した。短い人生を生きながらも、数少ない人間関係の中でたいていの人々は、僕にあっては、
「ひょっとして花魁、ですか?」
「あれ?どうして分かった?ウチの
「昔から人は瞳の色で覚えました。でも、実際口に出すまでは半信半疑でした」僕は後に
人形と呼ばれている『あれ』は、各務コーポレーションが医療目的で開発した人型の着ぐるみである。普通の着ぐるみと違って、シリコンや着用者の髪の毛で作られるため、本物に恐ろしく近い完成度を持っている。初期バージョンまでは、成長が止まった人や子供の身体を持った人をターゲットにして人形を広報したが、段々値段が高くなり、今はごく一部の人やごく一部のプロに対象を変えている。
花魁の人形も、本物の花魁が大人になった時を想像できる外見を持っている。モデルはかなり最新バージョンで、背面にファスナー見たいな部分があった。
「近くで見る花魁はいかがですか?」
「感想ですか?ええと、言わないとダメですよね」と困った顔をした僕は、もう一度目の前の小さい花魁を見上げた。「普通に可愛いくて綺麗なお方だと思います」
「だよね、ウチもそう思う。だからこっちの体はあまり好きじゃないんだ」
花魁の反応に驚き、早めに追加の説明を並べた。「あの、違います。今の話はあくまでも生身の方でした」
「え?ウチのこと?」
「はい。顔が元々可愛いから人形の方も可愛いと言われると思います」
花魁の目がまた大きくなった。二回目だ。
「生身のウチが可愛いって、変な愛情表現だね」と床に座り込んだ彼女の微笑は、他の誰もがはじめて見る清々しさであった。
「失礼しました。あの、生身と言う表現は決して裸の意味ではなく、服を着ていない状態のことです。本当です」僕は花魁の反応を見て、最後の話はしない方が良かったと後悔した。
「炭咲くんは変わった人だね。聞いて気持ちよかった。ありがとう」花魁は持っていたウーロン茶を僕に差し伸べた。「飲んで、話はステラを連れてきてからにしよ」
一人だけ残された僕は人形と距離を取ってウーロン茶を飲みながら二人が戻るまでじっとした。時計もない場所で一分はかなり長い時間に感じる。暇潰しに飲み干したコップから氷を出して口の中に入れた。冷たくて硬い氷だった。
「ね、ちょっとウチのところに来てもらえる?相談したいことがあるの」
足を運んだところには花魁さんが
拗ねた原因は僕にある。だから、おもちゃでもお菓子でも通用しなかったと思われる。
「ステラちゃん、聞いてくれる?ステラちゃんが大好きなパパがステラステラに話があるみたい」片手はステラの背中を撫でて一方は僕に手招きした。「炭咲くん、そうでしょう?」
僕は、素早く花魁さんの隣の方に正座して次の反応を待った。
「本当に?」
ステラが大きな
僕は反省を込めた言葉で頭を下げた。「本当にごめんなさい。僕が気を抜いたせいでステラを傷つけました」
「『嘘つき。本当は謝りたくないくせに、何で謝っている。ただの自己満足だろう?』」
この声は、僕が持つ心の
「パパもここ痛い?」ステラが僕の額を撫でてくれた。「パパにもあげる」
ステラは手のひらから潰された絆創膏を僕にくれた。動物のキャラクター絵描かれた可愛い絆創膏だった。
「パパもステラも一緒だね!」とステラは絆創膏のテープを剥がして僕の額に貼り付けてくれた。
「先に痛みに共感するのか」僕の話にステラが小首をかしげる。「何でもない。絆創膏はありがとう。おかげで気が楽になった」
何も知らないステラは
「着替えならここにある。フリーサイズだから体に似合うと思う」
事前に用意された服は黒地の格子柄が入った浴衣だった。フリーサイズでも僕には手と足が余って紐を使って体に固定した。着てから気づいたけど、柄の模様がステラが着た浴衣と同じ種類だった。
「うん、やはりウチの目に狂いはなかったわ。ステラちゃんと二人で並んでみる?すごく可愛くてお似合いだよ」
「この服、かなり高級品に見えますが、僕たちが貰っても大丈夫ですか?」
「全然、大丈夫。むしろ着る男子がなくて捨てるところだった。それより、炭咲くんはスマホ持っていない?ウチが二人の写真を代わりに撮ってあげるから持ってきなさい、早く!」
花魁に急せかされるというより、絶えず追われた僕はキャビネットからスマホを出して花魁さんに手渡した。だが、昨日から充電していないせいで電源はとっくに切れていた。どうしようもない状態で、花魁が謎のどこから電源アダプターを持ってきて充電に成功し、念願だった僕たち二人の写真を撮る願望を叶えて見せた。
「ここまでする必要がありますか?」
花魁は綺麗に撮れた写真を選んで携帯の画面を僕の前に出した。
「あるよ、きっと。時間が経っても写真は残るからね」細長い眉毛の先が微弱に震える。「たいしたことではないけれど、たまには今の記憶が止まった時間を動かす力になる日が来るよ」
「ニセのパパ役の僕が、勝手に名前を付けて、勝手に家族ごっこを続けるとしても、別れの結末が決まっている関係を写真で残してもしょうがないと思いませんか?幼い頃の記憶なんて、一年経って忘れてしまいます」僕は思わず思ったことをそのまま口に出した。「すみません、失言でした。今の話を聞かなかったことにしてください」
花魁が
ノバナは歳を取らない体を持ち、永遠に若く可愛がられる花だとよく言われているけど、事実上、親に捨てられ、生まれてから捨てられ、金のために身を売られた子供たちの方が多い。皮肉なことに、ウチらは成長が八歳から十歳の間に時間が止まったまま、欲望に塗れた獣の夜を美しく輝かせるための新吉原で、花魁と言う仮面を被って殆どの人生を『ひとり』で過ごしている。
だから、炭咲くん。ウチには君とステラちゃんの関係が本物であれ、ニセモノであれ、
大人に愛され、子供の体に綴じ込まれた彼女に僕は何を言い出せばいいか、軽い戸惑いを覚えつつ、花魁が口を開けるまで待った。
「は——い、この話はここで終了。写真は何も削除していないから、後でも観ててね」花魁の気まぐれはここで終わらなかった。「まだあれをするまで数日は残っているのに、なんでこんなにセンシティブに反応しているのだろう。うふふッ、変だよね」
より一層リアクションしづらくなった僕は間抜けな顔で固まった。
「嘘、嘘。冗談だよ、ジョーダン。あれをするノバナはいないって突っ込まないと照れよ。女を困らせないでください、ステラちゃんのパパさん」
知らなかった。成長が止まるとの意味を知った僕はステラの方に目を向けた。今はまだ体と精神年齢が同じでも、僕と同じ歳になっても体は過去に追い残される日常が一人の人生を編む。周りは変わって自分自身は何も変わらない。そう思われると彼女たちの感情線が微かに心に触れる。
「ところで、炭咲くん。もうお互い裸で触れ合った仲だし、一々敬語を付けて距離を取るよりは、そろそろ名前で呼ばない?」と言いながら膝を抱いてステラと顔を合わせた。「ステラもウチを名前で呼んでもいいよ」
「名前?ステラも呼ぶ!」
「うふふッ、分かったわ。それじゃあ、教えるね。ウチの名前は——」花魁さんは末っ子を愛しがるようににこりと笑い、はきはきした声でひらがなを一文字ずっつ語った。
「パパ、ステラお腹すいた」元気いっぱいなステラもいよいよ疲れ切った顔で大人しくなった。「あそこにいかない?」
僕は、あそこがどこなのかすぐに分からなかった。食べ物がある場所と言えば、コンビニが一番最初に思いつく。ステラと一緒に店で食事をした覚えがない状況から見る限り、ステラが欲しがる正解はコンビニだと思われる。
「花魁さん、新吉原にもコンビニはありますか?」僕は可哀想な想いをしたステラの頭を片手で撫でた。
「名前を教えてまだ五分も経ってない間に、忘れた?それともただの意地悪いイタズラ?」
まだ下の名前で人を呼ぶことはあまりなかった僕は、頭の中で二十回ほど発音の練習をした。あくまで舌を噛まないためである。
「こ・ひ・なさん、どうか食事の件をお願いしてもよろしいでしょうか?」
僕の反応に満足したこひなさんは不機嫌の
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