二枚目:パパとノバナ、そして神隠し

 「『ガーデンズ学園に訪問してくれた受験生の皆さんは、各自の受験番号を確認し、先生の案内に従って入場をお願いいたします』」

 僕は結局、電車の遅れで、筋骨すじほねを抜かれたような状態でガーデンズ学園の駅前に到着した。狭い電車の中で、缶詰かんつめのように身体が潰れる間、時間ギリギリまで満員電車の中に閉じ込まれたせいで、駅に降りてから歩く気力もなくなっていた。けれども、地獄はまだ先にあった。駅の改札口かいさつぐちからガーデンズ学園までの広場は、蟻の行進にも似た人波で混雑していて、前方へ進むのにもひと苦しく見える。

 僕が判断に迷っている間、後ろに並んだ三人家族の会話が耳に入った。

 「凄いな、相変わらずここは人々が多いね。先にここで記念写真でも撮ろうか?」

 「正気なの?嫌よ、絶対撮りたくない。撮りたければ、父さん一人で撮ってよ」

 「冷たいな。どうせここから校門ゲートまでは途中から止まれないぞ」

 「それでも嫌です。もう良い、母ちゃんと先に行くね」

 母娘おやこ同士で父さんは残して改札口を通った。仲が良い家族だ、と思いながら、僕も何気なく三人家族の後に控えて駅から出た。

 外は思ったより足を踏み入れる透きがないほど受験生とその家族で混んでいた。意思を持って歩こうとしても、ただただ流れに身を任して前に向かうしかなかった。ふと、気が付けば、一歩大きくガーデンズ学園の校門にのろのろと進んだ自分がいる。

 「ガーデンズ学園は毎年から行方不明になる受験生をリスト化して公開しろ!進学を悪用して罪もない学生たちを誘う行為はやめろ!」

 息抜きしている僕に見知らぬ女性おばさんチラシ一枚を手渡しした。紙には過去に共通テストを受けた学生の顔と名前が載ってある。裏には誰かの連絡先と謎のマークが印刷されていた。

 「君も気をつけてね。ガーデンズ学園は一人で訪れた受験生を狙っているよ」

 深刻な顔で僕を見詰める女性から子供を失った悲しみに染み付いた雰囲気がした。皆が受験生を応援するこの場において、この人々は警告の言葉を囁いている。その気持ちを分からなくない僕は、引き渡されたチラシをそのまま捨てず、カバンの中に入れておいた。

 ガーデンズ学園が失踪事件と絡んでいる、との話は、最近ネット上で炎上している有名な都市伝説の一つだ。ほとんど全ての人は古い噂話うわさばなしだと笑い飛ばすものの、実際にここ二年の間、かなりの人数がガーデンズ学園の中でいなくなった。

 TGCのお問い合わせ窓口にも、毎年この時期になると、似たような捜索願が届いて来る。ノーマルなトゲを持った一般生徒から将来を嘱望しょくぼうされていた能力トゲ持ちの受験生まで様々な子供たちが同じ日に姿を消した。

 依頼はいつも失敗で終わった。そして、失踪者のご両親に頭を下げて謝罪した。まるで犯人に代わって謝るように、何回も繰り返して謝り、全ての恨みを全く無関係の僕たちが受け継いだ。

 当時の話をすると、あれは犯人を捜すレベルではなかった。本当に神の手の元が子供たちの姿を隠したように、受験生の遺留品いりゅうひんや犯人の痕跡は、どこにも残っていなかった。

 ある日、俺は仕事上がりの帰り道で奇妙な錯覚さっかくに襲われた。最初からこの世に存在もしなかった相手を探しているのではないか、と言う、まわしき現実を想像した。その影響で、三月はうつに自らおちいる日が多い。

 バベルはこの件について、未だに何も公式的なコメントを出していない。結局、責任を負う人はない世界で、被害者だけあの日に縛られ、心から苦しんでいる。

 「あれ?なんで赤ちゃん一人でここに来たの?パパとママはどこ?」

 鼻から慣れた匂いがすると同時にスマホの電話が鳴り始めた。父親あいつからの電話だった。僕は着信名を確認してそのまま終了ボタンを長押しした。電話が切れて数秒が経ち、あいつからメッセージが届いた。

 『試験が終わる際に電話すること。近いうちに本社まで来ること。断る場合は来月から実家に戻ること』

 僕は目的がはっきりとした短いメッセージに無関心で返答した。まだ施設にいる頃、一ヶ月に一回、研究目的で採血されることが嫌で、あいつの言いなりに従わず、反抗的な態度を取った時期があった。反抗と言っても、注射針ちゅうしゃばりが火傷の跡に突き立てられる痛みが嫌いだからやめて欲しいとお願いをしたことが全部だった。

 あいつは僕からの願いにこう答えた。「お前にしかできないことを他人に押し付けるな」

 それを聞いた僕は自分を攻め込んだ。「バカ、お父さんは皆を助ける仕事をしている大人おとなだ。きっと、何か物凄い計画を持っている」

 言うまでも無く、あいつに大義名分に従った計画なんて初めからなかった。七年前の火事でママと華栄カエが亡くなった理由も、元はと言えば、あいつの野望が呼び起こした事件だった。結局、骨の底まで自分しか知らない勝手な人間である。

 最近の連絡も今まで通りと同じ筋道すじみちがあると思われる。既に他の女性と再婚して苗字も緑埜みどりえに変えた人だ。何の目的もなく、過去の汚点おてんを人の前にさらけ出すほど、あいつは自ら損になる行動は取らない。きっと、今回も僕のトゲが目立めあてで間違いないだろう。

 「パゥッ、ハ!」

 僕を呼ぶような幼い女の子の声が聞こえてくる。後ろに振り向いたら、コンビニで顔を合わせたノバナが、紅葉のような手で僕のズボンを引っ張っていた。瞳の色、見覚えがある傷の跡に僕があげたマフラーまで、全部ついさっき、コンビニでったノバナである。

 小泉さんに連絡を取ろうとしても、小泉さんが来るまで待つには、間もなく共通テストが始まる時間だった。しかもなお困ったことに、ノバナのむごたらしい格好を見て、人々がざわめいている。下手すれば、通報されて今年の共通テストを諦める事態になり得る。僕はとり急ぎでノバナに自分の上着を来させ、汚れた髪は余分の包帯を使って適当に拭いてあげた。

 「あの、すみません。もしかして炭咲千春くんですか?」

 ノバナの影を追って顔が小さい女の子が声を掛けてきた。僕の名前を知っている人は職場の人以外に数が少ない。なお、僕よりも身長も高い女の子だ。どこかですれ違った場合でも忘れはしない印象を持っている。

 「やはりさっちゃんだよね!久しぶり、元気だった?背は昔から伸びてないね。牛乳は相変わらず嫌い?」と馴れ馴れしく人の弱みを然りげ無く突き刺した。「好き嫌いはダメだよ。ちゃんと飲まないと背は永遠に百五十センチのままで大人になるよ?」

 あの呼び方を聞いて思い出した。昔、同じ施設で知り合った同期が、確かに僕を「さっちゃん」と呼んだ覚えがある。名前が小麦こむぎだったような気がする。

 「あのね、一人だけ喋らせておいて反応くらいはしてよ。ほら、見て。すごいでしょう。この一年間、頑張ってバストアップしたよ?凄いでしょ。身長も百六十センチを超えて最近はバレー部にも入ったからね」

 と自分の頭を深々と下げる小麦を見て、ここまで友情を深めた関係だったか違和感を覚える僕だった。一応、周りの視線を意識して軽く後頭部に手のひらを乗せてあげた。小麦はそれでも嬉しそうににこりと笑顔を見せる。また、それを隣で見上げたノバナが、小麦の笑みを真似して同じくらいの笑顔を作り出した。

 「ええ、この子って何でこんなに可愛いの?ねね、さっちゃんのお知り合い?名前を教えて」

 無邪気むじゃきはしゃぐ小麦は無視して、僕は小泉さんにノバナの所在について連絡を入れた。子供を一人だけ放置するには、大勢の人々が通る道のど真ん中はとても危ない。また同じ状況に置かれた自分が情けないとは思うが、今の状況では子供と一緒に試験所まで入る方法しか頭に浮かばなかった。

 「パッあゥパッ!」

 ノバナが両手を広げてっこを求めた。冷静に考えれば、学園の中には大人の先生たちが常に滞在している。せめて、共通テストの間でも子供を預けることが出来るかも知らない。

 「お前も運がいい奴だね」と僕は冗談じょうだん半分で言った。「お願いだから、連れて行くから大人しくしてくれよ」

 実際、子連れの受験生は僕以外にも他に何人かいるようで安心した。これで受験は問題なさそうだ。

 「後、お前もそろそろ急いだ方がいいんじゃないか?もう直ぐ校門がまるぞ」それだけ言い残して僕はノバナと共に試験所に向かう行列に足を踏み出した。

 「ちょっ、ちょっと。久しぶりに会った幼馴染おさななじみに『お前』呼ばわりはつめたくない?」

 とぼやきつつも、朝九時を知らせるチャイムが園内に響いた。折よく校門が重い音を立てて閉ざされるところで、睨めるように見詰めている小麦の顔は後にされ、急ぎ足で園内へ歩いた。

 そして校門を通ってからは、目立たぬ平凡さで誰一人も文句言わず、じりじりと前方に向かって歩いている。無意識的に秩序ちつじょを守ろうとする姿は、同じ道の上にいる人として絶景ぜっけいだった。ただ、遅れた人々の絶叫ぜっきょうが容赦なく皆の足元に踏まれる景色けしきは、多少歪ゆがんだ一面を人前に見せつける。運が付いてなかった外側の人はまた来年の春か、または秋入学を目指すしかない。

 「でも、逢えてよかったと思う」小麦は歩く速度を僕に合わせて肩を並べた。「おはよう。さっきは私がいきなり声を掛けて驚いたでしょ、ごめんね。初めまして。私は久城家の娘、久城くぼ美縁みよりです。皆にはムギと呼ばれているから好きに呼んでもいいよ」

 「おい、やめとけ」僕はノバナに自己紹介をする美縁こむぎさんを口を止めした。「偶然知り合ったノバナに無責任な真似はするな」

 「その割にはノバナちゃんが随分さっちゃんに好かれているね。マフラーも当然ながらさっちゃんの私物だし、今時のツンデレキャラ?」

 美縁さんに頭を撫でられる前にスムーズに横に逃げた。それを見ていたノバナも僕と同じ方向に頭を動く。さっきから僕と美縁さんの行動をありのまま真似まねるような不安が感じた。気のせいかも知らない。

 「パゥパあ、パゥあぁァ!」

 ノバナが片手で服の襟を掴んでどこかを強い意志を持って指差した。先頭に立った人の背中にへだてられ、視野が確保できない条件にも関わらず、ノバナは前へ進みたいと駄々をねる。

 何度も子供を落ち着かせようとしても言うことを聞かなかった。だからと言って、子供が角を折るまで我慢するには、自分の体力が持たない気がした。僕はため息を深くついてノバナを下に下ろした。親代わりになりたい訳ではない。ほんの少しの人との関係で求められる礼儀れいぎを伝えるだけだ。

 「子供だからと言っても、自分勝手な行動は許されない。分ったか?欲しい物がある時はまずお願いをすること。また、周りに迷惑をかけてはいけないから意地は程々に張ること」と僕は一文字ずっつ丁寧に自分の名前をノバナに教えた。「あと、僕の名前は、炭咲千春だ。た・あん・さ・き、ち・は・る。しばらくお前の世話を見る人だ。名前くらいは覚えなさい」

 ノバナは真面目に僕からの話を聞いているふりをして、自由に動ける状態になった途端に、注意された内容は完全にすっぽかして、猫のような動きで人込みの間を走り回った。出会って僅か一時間強で、子育てに壁を感じる僕である。案外、子供と言う生物は自分に素直な生き物かも知らない。

 「元気いっぱいな身ごなしだね。追いかけなくても大丈夫?」と美縁さんがスマホからSNSの記事を見せた。「そう言えば、今年の受験生の中で花魁おいらんも紛れ込んだみたい。ほら、これを見て。今もファンの人が写真をまたアップした」

 どうでもいい、と思った。僕は風になびく赤いマフラーを目で追いかける真っ最中であり、いずれにしても、美縁さんとの会話はあまり気にとめずに話の半分は聞き流していた。

 「すまん、今なんて言った?」

 「君ってほんとに自己中心的な男だね。昔と少しも変わっていない。せめて、人が話する時はちゃんと聞いてよ」美縁さんから拗ねた声で文句を言われた。「でも、久しぶりに会えて楽しかった。次は一緒に入学式でえるといいね、千春くん」

 初めて下の名前で呼ばれたとき、頭の片隅かたすみから小さな違和感が膨らんできた。その正体をさぐろうとして顔を横に振り向くと、なんの余韻よいんもなく元からそこには誰も居なかったような静寂せいじゃくだけを残し、背の低い見知らぬ女の人が俺を見下ろしていた。僕は慌てて息を止めた。

 「みなさん、ご覧ください。新吉原の花魁が受験生として試験所を通っています」

 人々が騒ぎ出した。噂をすれば、世間でも一番話題になっている人物の突然のお出ましである。興奮に追われた人々が花魁の様子を見るために一カ所にむけて集まった。このままでは人の流れに押し詰められ、群衆ぐんしゅうの下に押し潰される恐れがある。何より下半身に強い圧迫を受け続けたため、もう自力では動くこともできず、背後の人にはさまれる時間は段々長くなった。息苦しい、と思いながらも倒れないように身を保った。

 「パッあ?」

 ノバナが空いた穴からモグラのように姿を現した。手には何故か初めて高級な生地きじを持ちつつ、僕を呆然ぼうぜんと見上げている。

 「へへ、パゥパァァ」

 僕と目が合った一瞬、顔に満面の笑みを浮かべた。

 「僕にどうしろって言うんだ」

 ヘラヘラと笑っている場合ではなかった。一刻も早くここからすり抜けないと呼吸が出来なくて気を失う寸前だ。まさに阿鼻あび叫喚といえる現場の状況で、わずかな時間差で生と死に分かれる。

 しかし同時にノバナは、僕の冷ややかな態度の方が気に入らなかった模様だ。大いに不満そうな顔つきで、赤いマフラーを僕の手首に結び付き、思いきっり下へ引き寄せた。

 その弱い外力に僕は、体のバランスを崩して地面に倒れ込んだ。自分の体が、かなり危険な位置に挟まれていたことはわかっていたが、無防備のところへいきなり加えられた子供が引っ張る力によって、体勢たいせいが崩れるとは思わなかった。

 「いい加減にしろ。今はお前の遊びに付き合う暇がない」とステラに怒鳴り立てる前に体の変化に気付いた。

 呼吸が、だいぶ楽になった。まだ人波の中に混じっている状況でもあるが、上に比べれば下の方はまだ背が小さい僕でも動けるほど隙間がある。この子はそれを知った上で僕を下に引っ張り出したのだ。

 感がいい子だ、と僕はまだ汚れていない手でノバナの頭を撫でてあげた。

 「あり——」

 大丈夫だと思ったのもつか、圧迫に苦しむ人々が生きるために前の人を蹴ったり激しく足掻いたりし始めた。一旦、ここも安全ではないとは判断し、うつ伏せた状態でノバナの後について移動した。ノバナはまた楽しそうに地面を這いつくばってゆっくり前方に進んだ。

 移動しながら、何度も人々の足元に背中と手のこう踏まれた。痛みはなかった。貸し出した制服がれることは気にもしない。の森の中から通り抜ける、と言う。ただそれだけを考えて両手足を激しく動かした。

 「申し訳ませんが、安全のために距離を取って歩いてください」

 人々が集まった場所には、六角形の人間バリケートをこしらえ、誰もすりぬけられないように人々と距離を空けている。そして、その中心には一輪いちりんの花魁が外八文字そとはちもんじを地面に描き、豪華ごうかな雰囲気に周囲から一目置かれている。僕を含め、現場にいる皆が彼女がこぼした洗練せんれんぶりの気配に一瞬の間で取り憑かれた。

 花魁は椿つばき柄が入った着物の裾が地面に引きずることも拘わらず、黒塗りの高下駄たかげたを足袋ないまま履いた状態で、白い素足の美しさが際立きわだつ仕草を多くの人々の前で保ち続けた。

 「誰か、この子の保護者をご存知でしょうか?」

 とても綺麗だ、と感心する間にノバナが問題を起こした。花魁が歩く道を横切って、行ったり来たりしながらうろついていた。それを見た僕は顔が熱くなってきた。

 「おい!」と叫び出しても相手ノバナは気付かず代わりに周りの人から嫌な顔で睨まれた。それに対して言い訳も出来ないから、逆に大きく聞こえるように舌打ちをした。

 一方その頃、ノバナは僕の立場など眼中にもない様子だった。着物の中に入って顔に被せたり、自分を追うボディーガードと鬼ごっこにきょうじている。あれほど元気な声で遊んだら、それを止める僕が悪い人になるだろうか。僕は自分がコントロールできる範疇はんちゅうを超えたノバナをしばらく見守った。そこで頭をしぼった揚句に、大出来おおできの方法を思いついた。

 「迷惑ばかりかけないで、いい加減こっちに来い。ステラ」

 周りのざわめきが一声に静まった。とは言え、肝心かんじんな主人公であるノバナは、まだ花魁の側で遊んでいる。まだ自覚をしていない模様でもう一度、子供に向かって名前を呼んだ。

 「ス——テ——ラ」

 僕が名前で子供を呼ぶ間際まぎわに、ただの野花のばなに過ぎなかったノバナは特に反応を示さなかった。

 「ステラ!今、お前のことを呼んでいる」

 その名を三度目で呼ぶ一刹那いっせつなには、僕のふところに駆け込み、はなになった。

 「パパ、ステラ?」

 ステラがずっと口癖にしていた単語は本当は父親パパのことだったようだ。名前ステラを授けられたノバナは嬉しい顔をして大人しく僕を待ってくれた。

 「可愛いお名前ですね。名前の意味を聞いてもよろしいですか?」

 絵日傘えひがさの影から、花園にも稀なる若い器量好きりょうよしが一息届く距離まで歩み寄った。髪なども黒くふさふさとし、白い肌と黄色を混ぜた茶色の瞳が釣り合う顔立ちは、言葉を失うほど美の完成系に近かった。僕は一瞬前のことは記憶の底にめておいて、名前の由来を目の前の女性に教えた。

 「てられたノバナだから『ステラ』です。特に意味はありません」

 「えッ?ご自身で名前をつけたのですか?しかも野花に?まさかこのまま家に連れて行って育てるお考えであれば、やめた方が良いです」

 意外な返答を聞いた花魁はステラの顔色をうかがった。僕は体を起こしながら服についたほこりを軽く取った。

 「TGC所属の炭咲千春と言います。子供は共通テストが終わる際に施設の方に送る予定です」ポケットから身分証明証を出して花魁に見せる。「今朝、家の近くで知り合ったノバナです。訳があってノバナの方から僕を追いかけてきた状況です」

 「信じがたい話ですが、取り敢えず分かりました」花魁は手に持っていた小さい草履バッグからハンカチを取り出して唾をつけた「元々、ノバナと言う子供たちは親の香りが体に染み付いているわらべです。いつ、どこにいても必ず会いに行きますから、もしかすると、炭咲くんを実の親として認識しているかも知りませんね」

 汚れたステラの顔をハンカチで拭き、髪もその場で持っていたヘアーバンドを使って結んでくれた。たったの五分で、不細工ぶさいくだった子供が別人級に激変げきへんした。

「女は可愛さが武器だからね。常に美を磨かないと大事な時に自分の身を守れないよ」とステラにアドバイスを残す花魁だった。

 周りの目を気付くまで、僕は呆然とした顔で二人を眺めた。

 「『共通テスト管理局から、ガーデンズ学園の共通テストを受験する皆さんへお願いと、御案内を申し上げます。館内での喫煙、客席内でのご飲食、及び同じ受験生への録音、録画、写真撮影はご遠慮くださいますよう、お願い申し上げます。また、試験所の出入りする際に携帯電話など音の出る電子機器は、必ず電源を、お切り下さい』」

 構内に若い女性の声でアナウンスが流された。僕を含めそれに気づいた人は淡々にアナウンスの内容を聞きながら、ポケットからスマホを出した。圏外、と画面の右上に二文字が表示されている。ここから共通テストが始まるのかと思い、周りの反応を察する。ほとんどは慌てて困ったような表情をして、壊れてもいない携帯を叩き込んだ。

 「『ただいまより選別テストを十分間、実行させていただきます』」再びチャイムが鳴り、選別テストと言う謎のテストが始まった。「『周りの人や構内の施設に、打つからないよう、ご注意ください』」

 一瞬の一秒、アナウンスが終わると同時に、人々が一斉に地面に倒れた。僕とステラを除いた全員が、一気に気を失った状況に僕は戸惑いつつ、横たわった人の様子を見守った。呼吸は安定している。死んではいない。ただ寝ているだけだった。

 僕は万が一の事態を想定してステラを抱き上げた。パッと見た限り、半径二百メートル以内に意識がある人はいなさそうだった。誰も起きない広い道の上で下手に動かず次のアナウンスが出るまで待つよりほかに出来ることはない。

 「『間もなく選別テストが、終了されます。構内にいる受験生の皆様は、その場で次の案内まで、少々お待ちください』」

 選別テストの終了を知らせるアナウンスが流れ、白い喪章もしょうのように、深い霧が地上を覆った。あくまで学校側のオペレータが疲巧たくんだ悪戯いたずらだと考えても、視界しかいが確保できない状況では、むしろ非常に危険な事態を招くことになる。テストが始まった時点から、監視官役の先生やスタッフが現場を仕切しきらない部分も納得がいきない部分だった。

 ますます怪しいと思われる状況の中で、僕は自戒じかいの念を込めて校門の方に向かった。テストの合格と不合格は重要ではない。僕一人が残された状況は、常識に考えて特別と言うより何らかの異常があるのではないかと疑った。

 「パゥパ、あれ」

 ステラが指差した霧の向こうから人の形をした何かの影が薄く姿を現した。助かった。他にも生存者がいた、と思うものの、僕は前方に向かって足を運んだ。だがすぐに視界前方へ一点のあかい光が尾を引いて街角まちかどきらめいて消えていった。急に寒くなった気温で全身に鳥肌が立った。一点の光は二点に増え、やがてさびびた刃物がぎしぎしときしむ嫌な音が一緒に聞こえてきた。

 互いの心臓は、これまで経験したことのないスピードで鼓動しはじめた。幻覚でも夢の中でもなく、現実から恐怖をたたずんだまま目の当たりにした僕は、凍りついて動けなかった。

 そこへ突然、霧の中から奇妙な鳴き声が聞こえた。それとともに、今まで視野をさまたげていた厚い霧が少しずつ薄くなり、不気味な存在の正体が明かされた。

 「パパ。あれ、ナニ?」

 ステラの質問に僕はなにも答えられなかった。麦わらでつくられた普通のカカシは、肉眼で視認できるほどの距離でじっと立ったまま、ぽかんと僕の方を見ていた。ボロボロになった紳士服を着て、背中には大きな刃物をかついだ姿は、あたかも花園はなぞのを管理する庭師にわしに似ている。庭師?誰のことだ、と僕は自ら思い出したその名前をまた自ら反問して薄れた記憶から過去の一面を掴み取った。

 『未だに陽の炎を抑える力は庭師にはないようだ』誰かが崩れた棚の下にいる僕を外まで連れ出して命を救ってくれた。

 だが、しきりにかちんかちんと時計の針が動く音が記憶にノイズを入れた。カカシの内部からである。意識からその耳障りな音を離れようとしても、心臓の音より繰り返し繰り返し頭の中に響き渡った。

 霧が消えた園内はその前と同様に暖かったが、もはや軽やかな空気はなかった。すべては小揺るぎもせず、オペレータはもくしている。

 僕は一つ深呼吸をして、再び目の前の存在カカシ見据みすえた。うつろな両目は埋めないかわきで周辺の光を吸い込み、しばし視線を交わしただけで、体が金縛かなしばりにあったようにうなされた。

 瞳が呆気あっけに取られて、立ちつくしていると、少ししてステラが頬をつねる。僕は何とも言いがたい思いを抱えて目をつぶった。重い緊張に満ちた雰囲気に疲れと悪寒おかんがぞうっと体を走る。

 カカシを刺激するような大きな振る舞いは極力避けた方がいいと、僕は予め自ら注意を払った。生き物よりはかざり物に程近い無生物に対して、人間の常識が通用するとは思い難い。

 けれども、基本的に相手が動かない限り、僕の方で先に動くことはリスクが生じる。

 「パゥパ!あれ、ナァあに?」

 しまった、と後からステラの口を防いだ。が、既にカカシはハサミを背負ったまま姿を消していた。カカシを捜そうと周りを睨め回した時、一秒より短い一秒が経ち、やいばやいば交叉こうさする隙間に僕の首が狙われた。僕は半ば反射的に左拳を奥の方にはさみ込めた。瞬く間に首が斬られるところで、かすり傷から血が流れるくらいで済んだ。

 僕はステラの目をマフラーで隠して次の攻撃に備えた。ハサミを腕で止めた時、手応えは感じられなかった。とは言え、麦わらの体で自由自在に振り回せるほど、ハサミの重さは軽くない。要するに、相手の動きには物理的な常識が通用しないとの話になる。正面からカカシの攻撃を立ち向かうとすれば生身の体が刺身のように斬られるだろう、と思いながら、僕は両腕を前に構えた。

 後方から風を切る音が聞こえて右側に身を避けた。足音がないカカシでも鉄の鈍い音は防げなかった。僕は体のバランスを崩したカカシを蹴り倒して、そのままハサミを両手で捕まった。一番邪魔になる武器を奪い取ってカカシを相手する考えだった。しかし思ったより、貧弱な麦わらの手に持たれているハサミを奪うことは難しかった。持ち運ぶ力が足りない訳ではなく、最初から僕の手には負えない物のように動きもしなかった。

 僕が慌てる間に、カカシがじょうじてハサミの片方で攻めこんだ。重傷は避けた割に出血を伴う切り傷を負ってしまった。今の状態で長期戦になる限り、人の体を持った僕の方が断然だんぜん不利ふりだ。

 その時、腹部の奥に錆びたハサミ深がく突き刺さった。何を考える間もなく、内臓が千切れる感触と共に胃袋から逆流する大量の血が顔のあらゆる穴から噴き出た。痛みが脳を支配し、体から神経回路にエンドルフィンが回る。

 「おい、くっそバケモノ。ようやく、捕まえたぞ」

 両腕の包帯から黒い煙が静かに這い出しつつ、人の肉が焼ける臭いが霧の中を取り囲んだ。血がたぎる感覚と火傷やけどの痛みが身体中にある全ての傷口に刺激を与える。それと同時に細胞単位で回復が始まり、骨まで炭化された木炭うでから赤い炎が宿やどり、熱を出して生き返る細胞を一個ずっつまた燃やし続けた。

 外部からの傷に体が反応して、破壊と再生が、僕の意思は問わず、体の中で何数百回も繰り返される。これが、一人で生き残った僕が持った能力トゲであり、呪いである。

 一時的に体を動けるとしても、切羽せっぱ詰まった状況は変わらない。現在も僕は死にかかっている。木炭の周りに触れる正常の細胞は時間が経つにつれて炎症えんしょうが起こし、やがて焼かれた跡を残してがんのように身体をむしばんでいる。一か八かの条件付きの戦いに命を賭ける。一旦カカシの顔面を片手で掴んで破れるまで力を入れた。

 「バケモノでも弱点はあるだろうな!」

 木炭のひらから爆跳ばくちょうを起こして麦わらに火の粉を放した。焼かれた顔は灰になった。有効なダメージを与えたと思うものの、カカシが僕の腹に刺さったハサミを抜き取った。大量の血が臓器の一部と共に腹の中から噴き出され、木炭が燃焼ねんしょうも一緒に加速された。もはや痛みを感じる傷のレベルではなくなっている。でも、これでバケモノを倒すための条件は満たされた。

 カカシはやなぎが風に揺らめくような動きで鋏舞けんぶを踊り、ハサミを僕の首に向けて振り回した。正直に首を狙って来るハサミを木炭で弾いた後、神速で相手の下に潜り込み、燃え上がる拳で腹を突き抜く。火は抑えようもなく麦わらの体に広がった。僕は息を切らしながら、一つ一つのわらが黒い灰となって風に消えて行く場面を見届けた。

 僕は残された錆びたハサミと懐中時計に手に触らず、腹の傷口を急いで火傷で応急処置した。地面に落ちた体の一部は黒い燃えさしになっている。

 「もう大丈夫だ。驚かせてごめんね」と言いつつ、周りを綺麗に後片付けして身を隠していたステラに優しく声をかけた。

 まだ木炭の奥から火の息が噴き出る状態はステラに危険をおかす恐れがあり、遠く離れた場所から様子を見た。

 「パパッ?」

 「違うね。未だに人を間違ってどうする。僕は一時的に君の保護役に徹するだけで父親パパではない」

 「うう、パパ——!」とぐずつき、泣き出したステラは僕の懐に飛び込んだ。身長の高さに差異がない父親でも頼りにはなるようだ。僕は両腕を直角に上げ、ステラが落ち着くまでしばらく待ってあげた。それと、早く自分の血で汚れた服を着替えたいと思った。

 「『危ない!後を気をつけて』」

 オペレータの切迫した声で状況を伝えてくれる。何かの勘違いだろうと思うものの、僕は、そのことに、不安な胸騒ぎを覚えた。突然、止まっていた時計の針がまた動き出す音が、耳元へ聞えてくるような気がした。

 「アブナ…い、キヲツケ…て」

 振り向くまでもなく、後ろにある不吉な声の正体について薄々勘づいた。

 「パパ、あれ、ある」

 アンティークな懐中時計を中心に、一本一本の麦わらが絡み合い、少しずっつ人の形をつくろった。蛇が地を這う音が人の精神こころを悶々とさせる。

 僕はステラから離れて懐中時計手を伸ばした。壊すつもりだった。が、予想外のところで邪魔が入って動きを封じられた。相手は、気を失った受験生の一人、いや二人以上が、上半身だけ動かして僕の木炭を捕まった。

 悲鳴ひめいうなりも出さないゾンビたちは、火傷の痛みも我慢してまで、麦わらの本体には行かせなかった。腕だけではない。足と腰も動きが取れない状態になった。

 今の出来事には違和感がある。僕は細目を開けて人々の体にくっ付いた『何か』を掴み取った。蜘蛛くもの糸に似ている細長い麦わらの織糸おりいとが、人の身体をいとあやつり人形として操作をしている。カカシの能力かそれとも自然の勢いか。一体僕は、何者と戦っているのか混乱を感じる。

 「きヲつけて——おニいチゃン」

 「テメェの口で言うセリフではないだろう」

 程なくしてもやもやとする記憶の隅から、あの夜の記憶かじした。僕が命乞いのちぐいでつかめた足首は七歳の子供に力では手にあまるほど大きな存在だった。切ないなげきはわらい事に扱われ、可憐な小手のこうに炎でねっした杖先でがされる。その記憶が僕の血を再び沸かしている。

 「まさか、テメェも七年前に、あの場にいたのか?」

 父親あいつが見捨てた僕の家族が火災で亡くなった以来、僕は今日に至るまで真犯人を探す毎日を過ごした。孤軍奮闘こぐんふんとうの覚悟でTGCでバイトしながら、七年前の放火事件の情報を集めた。そして、今、その手掛かりを手に入れたことによって感情が高ぶり、絶句してしまった。喜びとも恐れともつかぬ感情に腕がわたわたと震え、脳内ではエンドルフィンがたきのごとく分泌ぶんぴつしまくっている。

 僕は思い切り舌を噛んだ。思ったより口の中から大量の血が出た。出血に続いて、傷口から勝手に再生と回復が始また。木炭の火力は段々高まり、腕を捕まった人々が次々と目を覚まして焼けただれた肉体の苦痛で悲鳴を上げた。これで邪魔者は消えた。

 「バケモノだッ。た、助けて」

 僕は我慢できないほど嬉しくて、満面の笑みを浮かべた。それを隣で目撃したある一人の受験生が僕を恐れ嫌がり、カカシがいるところまで這いずる。

 「私を助けてください」と言った後、生まれ変わる途中のカカシに体を丸ごと飲み込まれた。

 一人が喰われてから、何人かの受験生が麦わらの中に吸い込まれた。カカシが人をうたびに麦わらの形は、より一層、人間と思われる姿になった。顔は男性のモノを、身体は女性のモノを借りている。最後は男の子一人を口に入れ込み、太長い舌で唇をめ回した。

 「おはようございます。自分、あの方の花園ガーデンを守護する案山子と申します。樹の一族であるあなた様にご挨拶を申し上げます」

 知能を持ったカカシが人のように自己紹介の言葉を述べる。中途半端な人間の声で自分をかたる格好が不自然で不愉快な気持ちがした。

 「早速ご提案したいことがありますが、お二人様をあの方の花園から排除はいじょ。いいえ、収穫しゅうかくしてもよろしいでしょうか。できれば今すぐお願いしたいです」

 「図々しい顔で人を排除すると言いつけるバケモノの話を聞く人はいないぞ。それより、テメェは何者だ。何故、あの夜の華栄が僕に話たセリフを知っている」

 「自分が、ですか?いいえ、誠に違います」とカカシが顔を横に傾けてこう言った。「まず一つ、自分であるカカシは一人が全てであり、全てが一人であります。二つ、あれは庭師にわし様があの方から授けられた聖火で、あなた様のような樹の一族をあの方の花園から浄化じょうかした聖なる行為です。三つ、あの方の盗んだ樹の一族はあなた様が二人目です。よって、順次に収穫させていただきます」

 僕は黙って話を聞いた後、口を開けた。「テメェは、バベルの所属なのか?それともどこかの研究所で作られた実験体バケモノなのか?」

 「自分は汚れないあの方の庭に属する存在でありながら、充実なしもべであります。どうか今後の収穫祭にご協力をお願いします」

 「嗚呼ああ、やはりバベルだったのか。それで充分だ」と僕は最後に大きく拍手を叩いて火の粉を起こした。「とりあえず、テメェもあの夜、僕が感じたように、わらにもすがる気持ちを味わせてあげる」

 きよ木炭てつの音が校内響き渡り、叩いた手のひらから火花が散った。身体中の細胞が焼かれる痛覚が神経に伝わり、血管の血が一瞬で脳まで辿り着く。

 僕は手で前髪を持ち上げて、軽く後ろに流した。前方からカカシが駆け込んでいる。僕から相当離れていない場所に錆びたハサミが落とされている。僕は、逆にハサミを拾い上げて近寄るカカシを斬るつもりで大きく横に振り回した。

 カカシは地面を軽く蹴り、華麗かれいな足さばきでハサミの射程範囲外に避けた。

「失礼、これは取り返して貰います」

 空中から慣れた手付きでハサミのハンドルに指を入れ、僕からハサミを抜き取って反対側に着地した。相手の動きに体が反応したけど、手の内には捕まらなかった。

 向きを取り戻したカカシは、ハサミを真二つに分けて二刀流として持ち構えた。そして、カカシが僕から目を離して集中していないことに気づき、また違和感を覚えた。ハサミの刃は僕の方に向けても別の方はまだ向かう先を決まっていない。

 注意喚起の目的とは言え、獣に近いカカシが人間の観点で動くはずがなかった。何か、大事な事を忘れたように嫌な予感がする。

 「樹の一族を二人も同時に収穫できる日は珍しいです」

 ハサミがカカシの手を離れ、速いスピードでステラの方へ向かった。盛り上がった胸が一瞬でぎくっとした。今までずっと一人だった人生の中で、また身内が敵の標的になるとは思わなかった。

 「ステラ、逃げろ!」

 僕の叫びにステラは笑顔で返事した。もう手遅れた。間もなくあの小さい心臓に錆びた刃物が刺され、僕は絶望に落ちたまま、あの夜と同じ絶望を感じるだろう、と僕は息を切らしてステラの方に走った。

 「パパ、逃げる?」

 片方の刃物が何者かによって弾かれ、空中で大きく回転した後に先の部分から地面に突き刺さった。助かった。皆が眠りに落ちている中で他にも意識を取り戻した人がいた。僕は感謝の挨拶代わりで手を振ってあげた。

 それを見たステラは元気そうに同じく手を振ってくれた。

 「可愛い娘に物騒なモノをちらつかせる貴方様は、父親として失格ですわよ」

 ステラの命を助けてくれた人は、同じ受験生の花魁だった。着ている着物が太ももが見えるまで短く千切られたこと以外は、さっきと同じ状態で立っている。

 「すみません、おかげさまで助かりました。ありがとうございます」

 「まともに勝てる相手でもないのに何で喧嘩を売っていますか?先に娘の安全を考えてください」

 「いや、まさか先に子供が狙われるとは思いませんでした。しかもこの子は僕とは無関係なノバナです」

 「この戯けが!言葉の意図を考えて喋りなさい。敵からとすれば、一番弱い対処から狙うことが常識でしょう」

 言われてみれば筋が通る理屈だった。

 「何をぼーっとしています?さっさと娘の安全を最優先にしなさい!」

 花魁に叱られる際も、僕の目はカカシを追っていた。これで相手の動きを予測できないことはよく理解した。遠距離でステラを狙おうとしても花魁がそばにいる限り安全だ。

 地面に刺さったハサミの片方はカカシより僕の方が近い距離にあった。カカシの心臓に当たる海中時計を潰すまでは時間が必要だった。カカシが油断するタイミングに火力を最大に上げ他状態で体を燃やし尽くす。

 頭の中でカカシの動きをシミュレーションしてみた。変則的な動きを目で反応しては遅い。相手の動きを予想して一撃を与えないと一生、カカシにやられっぱなしになることは確かだ。

 僕はカカシが地面に刺さったハサミに目を向けた時を狙って、一歩目の踏み込みから全速で駆け出した。倒れた人々は飛び越え、カカシとの距離を一息に詰める。そして、炎を籠った木炭を相手に腹部に食わせる。ここまでが僕が考えた作戦だった。

 「あなた様であれば、そう来ると想いました」

 電光石火でんこうせっか

 いつの間にかカカシの手元には二つの刃物が一つなり、僕の首を締め付ける寸前まで近寄っていた。さっきみたいに、ハサミが噛み合わせる部分に腕を入れようとしても先に首が刃に触れてしまう。一方、速度がつき始めた足を止めても加速した体はそのまま前へ進むだろう。

 「悪くなかった」

 僕の首はあっさりと錆びついたハサミの刃を受け入り、綺麗に斬られて体から分離された。

『君は生きろ。ヨウの計画に君の死はまだ先のことである』七年前の記憶が小さい点になるまで切り刻まれ、意識の底まで深く沈んだ亡霊の呪いを呼び寄せる。天地が逆転する間にモザイクのカケラが集まった一編の走馬灯そうまとうが僕の脳裏で駆け巡る。

 いよいよ幕が降りる時間だ。

 ステラには本当に悪いことをした。生への未練なのか、あるいは虚しい死に感する後悔なのかは知らない。いずれにしても、僕にはせめてのお祈りすら許されていなだろうけれども。万が一の奇跡が起きて、もう一度やり直せるチャンスが与えられる場合は、一生懸命でステラの親を探してあげよう、と情けない後悔を呟きつつ闇に落ちた。

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