第5話 故郷

 街を歩くことで瑞沢は一つの確信を得ていた。

 この場所を知っている。

 失われた記憶の中で過ごしていたのは、この場であること。

 そして、この街には今、不穏な存在が身を潜めていることだった。


「はい、それじゃあお薬出しておきますから途中で良くなっても出した分は最後まできっちり飲んでくださいね」


「お大事にどうぞ」


「ありがとうございました」


 お礼をいう飼い主の足元で小さいチワワはブンブンと尻尾を振っている。

 二人はその様子を微笑ましく眺めている。

 午前最後の患者を送り出し、病院の扉を閉める。


 瑞沢は花澤の動物病院で助手として働いていた。

 

「いやー、ありがとねー。うちもご覧の通り暇なんだけど、優秀な助手が居ると楽だわー」


「暇だなんて……結構忙しいと思いますけど」


 今日は午前診療で午後は休みの日なので、午前中で20を超える診察をこなしていた。


「私、最初の病院が、そりゃーもう鉄火場でさぁ……毎日日付変わって、休みの日も手術とかで呼び出されてーって病院だったからさぁー。あ、いや、感謝はしてるのよ、ものすごい鍛えられたし。ただ、ああいう時間の中だと、置いてく、取りこぼしていくものも多いなぁーって思って、今はこうやってのんびり仕事してるのよ」


「……なんとなく、わかります。大学病院も、効率的にやらないといけないから、飼い主様はもっと聞きたいこととか有るんだろうなぁって……」


「そそ、場末の小さい病院はそういうとこに寄り添って行こうかなって思ってるわけでー……って、お昼ご飯はどうする?」


「あ、今日ちょっと市役所で聞きたいことがあって」


「OKOK! 今日は午後休みだし、そのまま上がって構わないから。お疲れ様ね」


「はい、ありがとうございます!」


 今日、市役所でここ最近続いている動物虐待事件に関する一般質疑が行われる予定で瑞沢はそれを聞きに行きたかった。

 

「……なんか、すごく既視感が有る」


 市役所は、今まで見た街の風景の中で一番既視感を感じるのだった。

 会見の開かれている会議室へ行くと、すでに会議は紛糾していた……


「えー、市としてもこの連続した死亡例に対して重く受け止めており……」


 会見では河田が淡々とした調子で原稿を読んでおり、瑞沢が聞いてもこれはどうかと思う説明で、当然傍聴者たちも苛立ちを隠せずにいた。


「何度も言ったでしょ!! 遅いのよ何もかも!!」


「具体的に何をするのか!?」


「責任をちゃんと感じているんですかー!?」


 怒号に近い雑言が河田に浴びせられ、隣に座る上長と思われる高齢の男性は下を向いてボソボソと喋っている。河田はめんどくさそうに謝罪の言葉を口にしているが、そのめんどくさそうなことを全く隠せていないために余計に火に油を注いでいた。


「以上で会見を終わらせていただきまーす」


「結局何も具体的なことが説明されないじゃないか!」


「子供に被害が及んだら誰が責任を取るんだ!!」


 罵声を浴びながら河田は会場をあとにする。その時、瑞沢と河田の視線が交差する。瑞沢は、河田の瞳の冷たさと、その下に燃える怨嗟の黒い炎を見たような気がした。


「獣ひとつにうるっせーな」


 誰にも聞こえない、小さな小さなつぶやき。

 瑞沢の耳には、冷たく響いたような気がした。

 思わず瑞沢は立ち上がり、会場の廊下に出る。

 ちょうど河田が通り過ぎるところだった。すでに瞳から冷たさは消えて、愛想笑いを浮かべ、へらへらと罵声を浴びせている愛護団体の間を抜けようとしている。

 すれ違いざま、香水をつけているのか、花の香がする。

 しかし、その香りの奥に、瑞沢の背筋をひやりとさせる匂いのしっぽを捉えた。

 何の匂いか、瑞沢はその正体に思いを寄せ、心当たりに気がついたときにゾットした。


 大学病院などで感染性の病気の動物を扱った後に使う消毒薬、それと動物の遺体が放つ匂いが混じった物、確かに遺体処理などをしている河田から臭っても説明がつくのだが、瑞沢には何故かその僅かな匂いではっきりと理解してしまった。


(この人、多くの動物の命を奪っている……)


 それは、直感なのか、なにかが囁いているのか。

 それでも、瑞沢は確信していた。

 この街で起きている連続虐待事件の犯人は、河田であるということを。


 もちろん、自分の直感だけで大事にするのは無理がある。

 瑞沢はその日から河田の動きを調べるようになる。

 こんな直感を元に本人を問い詰めても一笑に付されるだけだ、情報を集めるしか無い。


「公園へ、あそこならなにか……」


 瑞沢は動き出す。彼女自身は自らのこういった行動は、ブラックボックスになっている記憶喪失時期の経験からくるトラウマのような物が突き動かしていると思っている。それでも、動物のために自分が行動することは自分自身でも悪い気はしない、いや、それこそが自分のやりたいことだと思いたかった。

 それでも時折起こる異常な感覚が、彼女自身の意思ではなく、なにかに縛られた物の性なのだ。という固定観念が、彼女を苦しめていた……


「それでも、私は、この事件を止めたいっ!」


 瑞沢は遺体発見現場である公園は足を早めるのであった。


 公園の遺体発見現場には小さな台が置かれており、可愛らしい花が添えられていた。そしてその場に瑞沢は見知った顔を見かけるのであった。


「あら、瑞沢……さんでしたっけ?」


「はい、三木さん」


 ボランティア職員の三木、彼女が現場の掃除やお花の管理を行っていたのだった。


「もう体調は平気なの?」


「はい、おかげさまで。実は今花澤先生のところでお手伝いをさせてもらっていて」


「あら、看護師さん?」


「いえ、獣医学生なので夏休みの間お世話に」


「あらー、まぁまぁ、それじゃあ獣医さんの卵なのね。

 あなたみたいな優しそうな獣医さんが増えるのは素晴らしいわ!」


 三木の満面の笑みは瑞沢の心に優しい温かな風を送ってくれた。




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