エアコンと亡き妻の遺言 7
「なるほどなあ」
亡くなった奥さんが、なぜ、十年はエアコンの買い替えをしないで欲しいと言ったのか、その理由を話すと、母はそう言ってしきりに感心した。
そして、こう付け加えることも忘れなかった。
「薬になったんとちがうか? その旦那には。浮気性は、あかんで」
家永さんのエアコンの修理のあと、洗濯機を見て欲しいという長島さん宅に寄り、見積もりをして帰ってみると、もう七時を回っていた。
夕食を先に食べ始めていた父と母は、ひとまず悠人の問題は忘れることにしたようだ。その証拠に、二人はいつもの雰囲気に戻っている。
コタツテーブルの上に置かれた鍋からは、甘辛い醤油のいい匂いがしている。すき焼きだ。
予想どおりだったなと、美鈴は思った。どういうわけか、困ったことがあると、我が家は必ず豪勢な夕食となる。悠人の件は、両親をかなり参らせているようだ。
「で、結局どうなったんや。修理したんか? それとも買い替えたんか?」
鍋の中の糸こんにゃくを箸で丸めながら、父が訊いた。
「修理したよ。買い替えは、なし。だって、十年たってないんやから」
美鈴は缶ビールのプルトップを開けた。修理がうまくいった日のビールはおいしいはずなのに、なんだか今日は苦い。
「ちょっと、お父さん、しいたけ、残しといてくださいよ」
母が声を上げ、それから、テレビのチャンネルを変えた。野球を見ていた父が、
「おい、勝手に変えるな」
と、喚く。
このまま、何も変わらなかったら。
すき焼き鍋の湯気の向こうの二人を見つめながら、美鈴は思った。
今日で時が止まってしまうなら、しあわせなままだろうけれど。
世の中は動いている。人も変わっていく。その先に何があるのか、誰にもわからない。
ポケットのスマホが振動して、お箸を持った手のままで画面を開いた。悠人だった。
「今、話せる?」
「ちょっと待って」
美鈴は立ち上がって、店のほうへ行った。
お箸を持ち替えて、しっかりスマホを耳につけると、悠人の声が響いてきた。
「姉ちゃん、今日、秋浜劇場に来たんやってな」
やっぱり、あの、いかついほうの男が伝えたのだろう。たしか、薫といったか。
「ちょうどよかったよ」
悠人の声の向こうに、人のざわめきと音楽が聞こえる。腕の時計を見た。七時四十分過ぎ。今は幕間なのかもしれない。
「薫さんのこと。紹介したいと思っとった。あの人が、俺のいっしょに暮らしとる人やから」
「うん」
もっと何か言ってやりたい。そう思うが、言葉が出てこない。
「俺な、結婚したいと思っとるんや。だから、その前に姉ちゃんに会ってもらいたい」
今度こそ、返事ができなかった。
「姉ちゃん、聞こえとる?」
「――うん。でも、結婚、できるの?」
新聞やネット記事での知識しかないが、日本で、正式に同性カップルが婚姻は認められていないはずだ。
「わかっとる。だけど、結婚式は挙げられるはずや。けじめとして、それだけはしたいんや」
ふたたびテレビのチャンネルが野球に戻ったのか、よっしゃあと叫ぶ父の声がして、美鈴は奥の茶の間を見た。
もう父は寝転がっている。その横で、母がコタツテーブルに肘をついてお茶を飲んでいる。
世の中は動いている。人も変わっていく。
美鈴は茶の間の二人を見つめ続けた。
第一話 了
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