掃除機とルビーの指輪
秋になると、楽しみがある。
満総寺で催される狐祭りだ。
秋もたけなわの頃、稲の刈り取りのあと、満月の夜をねらって、灯明を灯した行列が、町から満総寺までの細道をいく。
もとは山あいの村だけで行われた小さな祭りだったのが、いつのまにか町をあげての行事となった。
行列の先頭には神輿が担がれ、狐に扮した男女が乗る。寺に着くまで口をきいてはいけないという約束事が、秘密めいた雰囲気を作り出し、しずしずと進む行列はすっかり町の観光イベントとなっている。
狐祭りを思い出したのは、イチョウの木が見えてきたからだ。イチョウの木は、町から集落までのちょうど半分の距離にそびえる。
「気持ちいいなあ」
美鈴は両側に広がった田んぼを眺めた。色付き始めた稲の穂が、朝日に輝いている。
生まれ故郷に帰ってきてよかったと思うのは、こんなときだ。
田んぼが切れて、寺の参道に入った。足元が古びた石畳に変わる。門前の集落の入口だ。
今日修理の依頼を受けたのは、その集落にある、政やんじいさんの店だった。掃除機が壊れたから見て欲しいとの依頼を受けてやってきた。
店の名は千六商店。主に農具を扱う雑貨屋だ。
小さな町のことだから、商店主たちはたいてい知り合い同士だが、政やんじいさんと灯しやは、商売だけのつながりではない。
ずいぶん前のことだけれど、政やんじいさんは、町の子どもたちを集めて剣道を教えていて、父も弟子の一人だった。父が大学を出たばかりの頃だ。
政やんじいさんは、剣道の師匠なのに、子どもたちを笑わせてばかりいる人気の先生だったらしい。政長という立派な名前があるのに、政やんなどと呼ばれているのは、そのせいだ。
おもしろい師匠だったが、指導はしっかりしていたという。父は今でも、政やんじいさんへの尊敬を隠さず、頼まれれば、電気工事の仕事以外でも、飛ぶようにして駆けつける。
今日、美鈴がやって来たのは、父に急な仕事が入ったからだった。そうでなかったら、父は自分で来ただろう。普段から美鈴に仕事を頼みたがらない父が、苦虫を噛み潰したような顔で、
「行ってくれ」
と言った。そのときの顔を思い出すと、意地悪な笑いがこみ上げてくる。
千六商店の看板が見えてきた。道に沿って建つ店の中でも、ひと際古めかしい木の看板だ。
店先に積まれた網目の細かいザルの横に、美鈴は自転車を止めた。
チチュッとかわいらしい鳴き声とともに、スズメが遊ぶ。のどかだ。眠くなるような日差しも照りつけている。
と、入口のサッシの引き戸に手をかけたとき、中から女の人の怒鳴り声が響いてきた。
「嘘つかんといてください!」
怒鳴り声の主は、この家の嫁の文子さんだった。父と同世代の六十過ぎの女性で、千六商店を切り盛りしながら、舅と姑の世話もしている。こんな田舎の雑貨屋の嫁とは思えないほど、こざっぱりとした都会的な人だ。
灯しやの母とはちがって、文子さんは、ふわっとした柔らかな声で話す。その人が、怒鳴っている。
「あれが高いもんやから、言っとるわけやないんです。思い出の品やから、言っとるんです!」
「だから、わしは、知らん」
「知らんことないでしょう? おじいちゃんがわたしの箪笥の抽斗を覗いとったって、亜美が。亜美が見とったんですよ!」
怒鳴り声が、わずかに濁った。泣いているのかもしれない。
すると、今度は、別の女性の怒鳴り声が響いた。
「あんた、おじいちゃんを泥棒呼ばわりするんか!」
政やんじいさんの奥さんのタツさんだ。名前の印象だけでなく、気の強いおばあさんで、嫁姑の仲はうまくいっていないと、美鈴は父から聞いている。
父に言わせると、どちらかがひどく悪いわけじゃない。ただ、勤めに出ている跡取り息子の省一の代わりに、文子さんが、一日中、店と八十六歳の舅と八十四歳の姑の世話をしているのだから、揉めるのも無理はないというのだ。たしか大学生の一人娘の亜美さんは、どこかの街で下宿している。
このまま、帰ろうか。
掃除機の修理を頼まれてやって来たけれど、この状態で必要なのは、三人の仲の修復だ。
美鈴は引き戸越しに店の中を見た。三人の立ち姿が見える。
ふいに、ガシャンと大きな音がして、何か白いものが動いた。
咄嗟に、美鈴は引き戸を開けた。
店の壁際にあるスチール机の前で、政やんじいさんが、背を丸めて座っていた。その前には、文子さんとタツさんが立っている。文子さんのほうは、仁王立ちといった立ち方で、タツさんのほうは、精一杯背伸びをしているような立ち方だ。
背を丸めた政やんじいさんの姿に、美鈴は胸をつかれた。
千六商店に美鈴が来たのは、一年ぶりくらいだが、たった一年だというのに、政やん じいさんは、ほんとうの高齢者になっていたのだ。もちろん、八十六歳という年齢を 考えれば、一年前も高齢者だったのだが、以前はもっと矍鑠とした雰囲気があった。それが、なくなっている。
「――灯しやさん?」
文子さんが振り返った。
「修理のお約束が」
続きを言おうとしたとき、両足の間をふわっとしたものが通り過ぎて、美鈴は思わず、
「ヒャッ」
と、叫んでしまった。
猫だった。そういえば、この家には猫がいた。白くて太った猫だった。名前はたしか。思い出せないでいると、
「ボレロ!」
と、文子さんが叫んだ。
そう、ボレロだ。以前ここに来たとき、そう呼ばれているのを聞いた覚えがある。そのとき、タツさんが、
『文子さんがつけた名前やけど、気取った感じが嫌やから、あたしは陰でフクって呼んどる』と言っていたのを思い出す。
ボレロは美鈴の足の間をすり抜けてから、文子さんの横でごろんと体を横たえた。
「ダメ! 危ない!」
文子さんが叫んだのももっともで、床には青色の陶器の欠片が散乱していた。さっきガシャンと大きな音がしたのは、青色の陶器が割れた音だったようだ。大小様々の欠片が、まさにぶちまけたといった感じで、コンクリートの床面に散らばっている。
硝子越しに動いた何かを美鈴が見たのは、陶器の割れた音に驚いて、飛び上がったか、飛び降りたボレロの姿だったにちがいない。
大事そうにボレロを抱き上げた文子さんは、美鈴に向き直った。
「修理ですか」
はいと美鈴が応えようとすると、政やんじいさんがボソッと言った。
「わしが頼んだんや」
「なんでですか」
政やんじいさんが、
「なんやて?」
と聞き返す。ますます耳が遠くなっている。
「なんで、修理を頼んだんか訊いたんです」
文子さんが、がなり立てた。
「壊れたもんがあったから、来てもらったんや。あかんか? 古うなったら、すぐ捨てなあかんか?」
憮然とする文子さんに、タツさんも加勢した。
「あたしら老人は、ものを大切にする癖がついとる。今の若い人みたいに、なんでも使い捨てはせん」
「今度は何が壊れたんですか。この前も、灯しやさんに来てもらったばかりやありませんか」
そういえば、半月ほど前に、父が出向いてきている。あのときは、何が壊れたのだったか。
「何もか古うなっとるんや。わしといっしょや」
政やんじいさんはふてくされたように言って、足先で、散らばった青い陶器の破片を突っついた。
「――もう、我慢の限界です!」
文子さんが、甲高い声を上げた。
「わたしのものを勝手に持ち出して! 勝手にお金に替えて! そんなことされるぐらいやったら、自分で壊したほうがマシやわ!」
文子さんの言うことがほんとうだったら、すんなりと聞き流せる話ではないが、美鈴は黙っていた。自分は電気屋で、家庭内の揉め事に口を挟むべき立場じゃない。
「か、金に替えてやと?」
震える声で、政やんじいさんが言った。顔がみるみる赤くなる。
「ちゃんとわかっているんですよ。本町の質屋の前にいるおじいちゃんを、見たって人がいるんやから」
「あんた、証拠があるんか!」
タツさんも怒鳴った。
「証拠があるんかって、だから、今、言ったやないですか。見た人がいるって」
このままでは、いつまでたっても、仕事をすることができない。
「あのーー修理する掃除機はどこですか」
三人が驚いたように、こちらを振り返った。
「悪かったな。取り込んどったせいで、あんたのことを、すっかり忘れとった」
よいしょと言いながら政やんじいさんは椅子から立ち上がり、陶器の欠片をまたいで、腕を伸ばした。
「これや。ちっともゴミを吸い込まん」
「掃除機! 掃除機が壊れたんですか」
文子さんが呆れたように言った。
「使いすぎですよ」
「きれい好きを悪く言われたらかなわん」
政やんじいさんが、掃除機を美鈴に押し付けた。一般的なキャニスター・タイプだ。
「かなり古いですね」
しゃがみこんで、美鈴は掃除機に顔を近づけた。
「古いいうても、わしほどやないな」
「おじいちゃんと同い年の掃除機やったら、動くはずありません」
文子さん、なかなか口が悪い。
「では、見てみます」
型番を見るために、ホースを片手で持ち、本体を裏返す。
「あんたも、欠片に気をつけてや」
タツさんに注意をうながされても、美鈴の耳には届かない。メーカーと型番を確認して、いつ頃製造された製品なのかと考えている。
いくつもの型番が、美鈴の頭を占め始めた。
タツさんがシャッシャッと箒で陶器の欠片を集める音の中で、美鈴は掃除機に向き合っている。
美鈴の横には、猫を抱いた文子さんがしゃがんでいた。
「ほんとに、すみません。親子喧嘩なんかして」
型番を見てみると、十二年前の製品だとわかった。ということは、部品交換はかなり難しい。
蛇腹ホース部分を丁寧に見てみた。取っ手の近くに、細く切れ込みが入ってしまっている。これでは、吸い込みが弱くなって当然だ。
次に、本体の蓋を開けてみた。ゴミパックにぎっしりゴミが詰まっている。
ゴミパックを手で抑え、フィルターを見てみた。かろうじてフィルターの体をなしている状態で、ここにも埃がびっしりだ。
これもきれいにしないと、原因さえわからない。
「ほんとに、おじいちゃんには困っとるんです。わたしのものを勝手に持ち出すんですよ。省一さんは信じてくれんけど」
ニャアッと、猫が文子さんの胸から飛び出していった。その拍子に、文子さんは尻餅をつきそうになって地面に手をついて体を支え、欠片に触ったのか、痛っと小さく叫ぶ。
コンセント・プラグを確かめてみた。古い家電は、動かす前に、コンセントやプラグに異常がないかを見ないと危険だ。
「人のものを持ち出して、売ってしまうんやから、立派な犯罪やと思いません?」
犯罪という言葉に、思わず美鈴は顔を上げたが、出てきた言葉は、文子さんを拍子抜けさせてしまったかもしれない。
「動かしたいんですが、コンセントはどこですか」
コンセントは、大きな棚とスチール机の間にあった。大きな棚には、いくつもの細かい抽斗がついていて、ネジ番号が書かれたプレートが貼り付けてある。スチール机の上には、ゴチャゴチャと、ペンや計算機や領収書が散乱し、うちわや丸めたままのカレンダーまである。
古い商店はどこも似たようなものだ。高齢に達した店主では、商売を続けるのが困難になっている。
埃の積もったスチール机の下に潜り込んで、机の脚の間から、腕を伸ばしてコンセントにプラグを差し込んだ。
電源は入った。ブウウと、鈍い音とともに、掃除機に電気が通る。
蛇腹ホースの破れを指先でできる限り抑え、ノズルに手を当ててみた。
弱く、風が動く。
風が動くということは、モーターが完全に壊れているわけではないだろう。といって、十二年前の製品では、ゴミをきれいにしても吸い込みがよくなるとは思えない。モーター内部にある部品を新しいものに交換すべきだ。
「灯しやさんに、こんなこと話して、恥ずかしいんやけど。ほかに聞いてくれる人もおらんから」
掃除機に顔を向けたままだが、美鈴は「いえ」と小さく言った。
「修理に来てくれた電気屋さんに、こんなことまで話す家、めずらしいでしょう?」
ふたたび美鈴は、「いえ」と言ったが、嘘ではなかった。修理に出向くと、様々な家があり、様々な修理以外の問題に出くわす。こんな小さな温泉街でも、家々に、形のちがった問題があることを、美鈴は修理の仕事をするようになってから知った。
家の中に入り、その家の家族で使った物に触れていると、お客さんと電気屋の間には、不思議な親しさが生まれるのかもしれない。
一人暮らしの老人に、留守番を頼まれたこともある。高校生から、将来についての相談を受けたこともある。
だからといって、こちらから、積極的に何かを訊いたりはしない。父から、それは強く禁止されているし、禁止されていなくても、自分にはそんな芸当はできないと思っている。
エアコンの修理に行った、家永さんの顔が浮かんだ。
「みっともないところをお見せしちゃって」
と、照れたように笑った顔と、優しそうな丸い目を思い出した。
「ガシャーンって音がしたでしょう?」
文子さんの声に、美鈴は我に返った。
「あれね、わたしが作った花瓶。店に一日、舅と姑といると息が詰まるから、ときどき陶芸教室に行っとるんやけど。そこで作った大作を自分で割った。わたしのものを持ち出すお義父さんへのあてつけで、壊したんよ」
「もったいないです」
「自分の物を自分で始末したんやから、いいの。でも、指輪は」
美鈴の目の前に、文子さんの細くて白い手が差し出された。
「母がくれた指輪だったんよ。ルビーの高価な指輪。もったいないから普段はしてへんけど、ここぞってときには、はめてた。今度同窓会があってね、はめていこうと思ってたんよ。そやから磨こうと思って、箱から出して、ビロードの指輪受けに置いといたの。だから、盗りやすかったんやわ」
文子さんの白い手が、ギュッと丸められた。
「お義父さん、最近、宝くじにはまっとるんです」
「宝くじですか」
「そう。宝くじっていっても馬鹿にできんのよ。千円二千円買うんやないんやから。何万も買うんよ。そのお金欲しさに、わたしの指輪を質屋に持って行ったんやわ」
なんだか聞いていて居心地が悪い。
「当たるんですかね」
美鈴は話題を変えたくなった。
「当たるわけないやないの。そんな、簡単に当たったら、みんな大金持ちやわ。この間なんか、大変やったんよ。当たり籤を失くしたって、家の中の抽斗という抽斗を全部調べて」
「見つかったんですか」
「見つかった。でも、3と8の数字の見間違いでね、外れ」
握りこぶしで口元を覆って、文子さんはうつむいた。
「指輪が出てくるまで、お義父さんとは仲直りせんつもり」
なんとも答えようがなく、美鈴は代わりにパタンと掃除機の蓋を閉めた。
「店に持って帰って、修理させてもらいます。モーターの中のブラシを交換せんといきませんから」
「ブラシ? ブラシが付いてるのはホースの先の吸い込み口でしょう?」
「いえ。ブラシっていっても、カーボンブラシのことで」
掃除機のモーターの中には、カーボンブラシという名の、モーターを回転させるために必要な部品がある。これがなくては、モーターは回ってくれない。名前がややこしいから、いつも説明するのに時間がかかる。
「モーターの中でですね、電気を一方だけに通す必要があって」
美鈴が説明を始めると、文子さんはめんどくさそうに、片手を顔の前で振った。
「ま、なんでもいいんよ。よろしくお願いします」
最後まで説明できた試しがない。
蛇腹のホースを畳んで、美鈴は掃除機を持ち上げた。
ちりりん。
風鈴の音だ。
軽やかな音が、山から下りてくる風に揺れて鳴っている。
風は町の通りをさらうように吹きおろし、季節を教えてくれる。暦の上では秋であっても、山からの風は、次の季節がすぐそこに来ていることを教えてくれる。
ふと手を止めて、美鈴は通りに目をやった。かっつんかっつんと下駄の音をさせて、浴衣姿の観光客が通り過ぎていくのが見えた。浴衣に羽織った半纏に、宿の文字が見える。
例年、九月に入るとすぐに風鈴は下ろされるのに、半ばを過ぎても、冷たくなった風に吹かれている。母が片付けるのを忘れているのだ。
悠人が秋葉劇場に出ていると聞いてから、母は明らかに元気がない。
母は、あまり物事を突き詰めて考えるタイプじゃないと、美鈴は思う。問題が生じると、二、三日はくよくよと悩むが、あとは結果オーライで押し切ってしまう。
だからこそ、浮き沈みのあった灯しやを、なんとか繋いでこれたのだと思う。明るく店を切り盛りする母がいなかったら、灯しやはとうに潰れていたんじゃないか。大型店にお客さんを取られたときも、些細な誤解から信用を失い、電気屋仲間から父が外されたときも、母は灯しやを開け続け、笑顔を振りまいてきた。
それが、今回は様子がちがう。悠人の噂を聞いてから、物思いにふける姿を見かけるようになった。
今日も母の背中は元気がなかった。母はツナギを着ない代わりに、胸元に灯しやとロゴが入った襟付きジャンパーを着ているが、その襟の右側が丸まったままだ。
ちりりん。
風鈴が、また鳴った。
母はその音に気づく様子もない。
「どうしたらええんやろ」
ふいに母が声をあげた。
「お母さん、悠人が心配で」
「秋葉劇場へ見に行ってみたら?」
美鈴は思い切って言ってみた。
「見に行ったら、お父さんに叱られるがね」
「お父さんとお母さんは別の人間やないの。お母さんはお母さんの思うように行動すればいいのに」
「そういうわけにはいかんの。悠人はあたしら夫婦の息子なんやから。それにな」
母は椅子の向きを変えて、体を美鈴に向けた。
「お母さんだって、悠人の生き方に賛成なわけやない。悠人は男の子や。お父さんの自慢の息子やないの。お父さんがいつか悠人が帰ってきて、この灯しやを継いでくれるのを楽しみにしとるんは、あんたもわかっとるやないか?」
そんなことはわかっている。だからこそ、悠人は家族に打ち明けられなかったのだ。
「なあ、美鈴」
母の体が前のめりになった。
「あの子、考え直せんやろか。そんな、男のくせに、そんな、女みたいなことするのやめて」
「考え直すって。そういう問題やないよ。考えてどうこうなる問題とちがう」
「だって。あの子、子どものときから、あんたとちがって、素直な子やった。家族の気持ちを説明すれば、考え直してくれんやろうか」
「だから、ちがうって」
「なんで? なんであの子は普通にできんの?」
普通にという言葉が、美鈴の胸に刺さった。
「そんなんやから、悠人は連絡を寄越さんようになったんや。お父さんやお母さんに何を言っても理解してくれるはずがないって、あの子、ちゃんとわかってたんや」
「あんた、秋葉劇場へ行って、悠人と話してきてよ」
「行くよ。行くつもりや」
ほんとうは、悠人に薫さんを紹介してもらうことになっている。姉ちゃん、いつやったら来れるのかと、あれから何度も催促されている。
悠人は同性の人と結婚したがっている。この事実を母が知ったらどうなるか。
手にしたペンチを握り直して、美鈴は掃除機に向き直った。政やんじいさんの掃除機を預かってから、もう、一週間になるが、まだ修理は終わっていなかった。ここ数日、通りの街灯のLED化のために駆り出されていたのだ。
街灯をLEDに変えるには、地面を一メートル掘る作業が必要で、普通はほかの街から業者を呼んで、灯しやよりも大きな電気店が工事を請け負う。それが、美鈴まで手伝いに出ることになったのは、町の補助金が下り、大々的なプロジェクトとして工事が進められたからだ。本当なら、マイマイ蛾の発生する四月までに行うのがベストだったが、補助金が出たとなっては進めるしかない。
LED取替の仕事が終わり、やっと政やんじいさんの掃除機の修理に取り掛かれると思ったら、今度は、部品が手に入らなかった。政やんじいさんの掃除機は十二年も前の製品で、どこの工場へ問合わせてみても、取り替える部品を見つけることができなかった。
ようやく修理にこぎつけたのは、灯しやの裏の店の倉庫で、古い、だがほとんど使われていない掃除機を見つけたからだ。
その掃除機を解体し、モーターを取り外して、政やんじいさんの掃除機に取り付けることにした。
だから、悠人たちに会いに行けなかったのだ。
美鈴は自分に言い聞かせた。
落ち着いたら、必ず会いにいく。これが、終わったら。きっと行く。
ほんとうに、そうだろうか。
美鈴は自分の心を覗いてみる。
奥底に、ほんとうの理由が見える。
怖いのだ。自分は薫さんに、悠人をよろしくお願いしますと言えるだろうか。そのとき、どんな表情ができるだろうか。
店の事務机に、しょんぼりと座る母の後ろ姿を見た。
自分も母と同じだ。いや、父や母よりタチが悪い。理解あるふりをして、心の底では、父や母と同じように、悠人が普通になって欲しいと思っている。
カチッとブラシをはめ込んだとき、人差し指の爪の先を引っ掛けてしまった。掌で撫でると、かすかな違和感がある。
そのとき、店先に、人が立った。
「ごめんください」
申し訳なさそうに、ちょっと背を屈めて入ってきた客は、そう言うと困ったように棒立ちになった。客の頭に、店の天井からぶら下がっている電化製品の商品名が書かれたポップが当たりそうだ。
「家永さん」
美鈴が言ったのと同時に、母がいらっしゃいませと言った。母が怪訝な顔で、振り返る。
「すみません。営業してますか」
店が開いているのだから、営業中に決まっている。
母が立ち上がった。
「はいはい。やっておりますけど、美鈴のお知り合いですか」
家永さんが口を開く前に、美鈴が立ち上がった。
「この人、お客さんや。この前、エアコンの風が出ない件で修理に行ったマンションの」
そのときのことを思い出し、美鈴は瞬間下を向いて、自分の姿を見た。今日もツナギだ。当たり前だが。
「ああ、あそこの」
母の表情が微妙に変化した。ちょっと冷ややかな目つきになる。
「どうですか。その後は」
母の問いに、家永さんは、えっと目を見開いた。
「どうって――そう言われても」
「また風が出ませんか」
母はふたたび怪訝な顔で、美鈴を振り返った。ちゃんと直せたから。エアコンにまつわるエピソードとともに、美鈴は母に報告してある。
「あ、風。風ですね」
我に返ったように、家永さんが言った。なんだか、やっぱり変な人だ。
「風は出てます。すごく出てますよ」
「すごく?」
だが、母はそれ以上聞き返さなかった。修理に問題がなかったことがわかって、ホッとしたのだろう。
「今日はエアコンのことで来たんじゃなくて」
はいと、母が応えた。だが、家永さんはそのまま、店の中を見渡し黙ってしまった。
助けを求めるように、母が美鈴に目配せを送ってくる。
すると、家永さんが叫んだ。
「あれ! あれですよ!」
家永さんは、商品の陳列コーナーを指さした。
店の中には、売れはしないものの、一応電気店の体裁を保つために、冷蔵庫や洗濯機を陳列している。秋だというのに、除湿機がいちばん前に置かれているのが不自然だが、除湿機は陳列品の中では新しい型だから、どうしても目立つ場所に置きたくなってしまう。
家永さんが指差しているのは、ロボット掃除機だった。
「あれを買いに来たんです」
「はいはい」
母の声がワントーン上がった。
「うちはどの部屋もフローリングだから、ああいうのが便利だなあって」
母がそそくさとロボット掃除機を取りに行った。足取りが弾むようだ。
昔とちがって、今のお客さんは、値段の安い量販店でしか家電を買わない。その量販店も、最近はネット注文で買える店に客を取られているという。ましてや、町の電気店で新しい家電を購入する者はいない。
嬉しそうにロボット掃除機を抱える母の後ろで、希少動物を見るような気持ちで、美鈴は家永さんを見た。
やっぱり、この人、ちょっと変わっている。
「どうぞどうぞ、お座りください」
母にすすめられ、家永さんは店の椅子に座った。なんだかぼんやりして、借りてきた猫、いや、借りてきた熊みたいだ。そう広い店でもないし、商品のほかに事務机や作業台もある。その中で座っている家永さんは、マンションで会ったときより、大きく見える。
美鈴は作業台に戻って、政やんじいさんの掃除機を手にした。もう、ブラシの取り付けは終わった。あとは、モーターのまわりに、新しいクッションカバーを巻くだけだ。
商品の説明を始めた母に、家永さんは、はあとか、なるほどと応えている。
いい声だなと、美鈴は思った。声自体はごく普通の、特に特徴のない声なのだが、間の取り方というか、息継ぎの場所が、聞いていて心地いい。
母と家永さんのやり取りを心地よく聞いていた美鈴だったが、クッションカバーを巻き終える頃には、二人の会話は耳に入らなくなっていた。
修理が終わったら、きちんと点検してみる。当たり前のことだからこそ、美鈴は真剣にやる。
コンセントに掃除機のプラグを差し込み、電源を入れて、モーターや、吸い込みの具合を確認した。
「よし」
と、言いたいところだったが、ほんのわずかではあるものの、吸い込み量が足りない気がした。吸い込み口に手を当てればちゃんと掌の皮膚が引っ張られるが、音が違う。微妙に、足りない。
なんでだろう。
モーターを直したし、もちろんフィルターの掃除も終えたのに、吸い込みの風量に問題がある。
となると、ホースか。
ホースの顔の前に掲げて、中を覗き込んだ。
あれ? なんかある。
本体に近いホースの蛇腹に、何か引っかかっているのが見えた。。道具箱から懐中電灯を取り出し、光を当てると、何かは赤い色をしている。
道具箱に手を伸ばし、美鈴は綿棒を取り出した。そっと小さな赤い光を支える輪っかに引っ掛ける。
取れた。
指輪だ。文子さんがお母さんから譲り受けたという指輪。政やんじいさんが、質屋に持って行ったはずの、指輪。
こんなところに隠れていたんだ。
取り出した指輪は、布で磨くと美しい輝きを放った。
せっかくだから、すてきな箱に入れてあげたかったが、生憎、店に小さくてすてきな箱はなかった。交換する部品を入れる箱で我慢するしかない。格好はあんまりよくないが、指輪が見つかったことだし、何より、政やんじいさんの濡れ衣が晴れる。
スイッチを入れて、もう一度掃除機を動かしてみた。
吸い込みのいい音がした。今度こそ、仕上げだ。
美鈴は掃除機の表面を、本体からホース、吸い込み口と、布巾で丁寧に磨きをかけた。
これで、十二年前の掃除機は蘇った。
――あたしら老人は、ものを大切にする癖がついとる。今の若い人みたいに、なんでも使い捨てにはせん。
そう言ったタツさんの声が蘇る。
大切にされてよかったね。
掃除機に思わず呟きそうになったとき、美鈴は母に呼ばれた。
「美鈴、あんた、明日、行けるか?」
作業台から顔を上げた美鈴は、家永さんと目があった。家永さんの目は、優しそうに美鈴を見つめている。
「行くって、どこへ?」
「この子、作業しとると、なんも聞こえんのですわ」
「お母さん、そんなことより、どこへ行くって?」
「お客さんのとこや。こちらのお客さん、明日、この掃除機、届けて欲しいんやと」
へっ?
声には出さなかったけれど、美鈴の頭の中には、いくつもの?マークが浮かんだ。
これは、持ち帰りできる商品ですが。
「これから寄るところがあるんですよ。申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
家永さんは早口でそう言うと、慌てて店を出て行ってしまった。
はらりと落ちてきた紅い紅葉の葉が、灯しや電気店と書かれた幟をかすめた。
空が高い。ちょっと風は冷たいけれど、申し分のない晴天だ。
「保証書は入れたか?」
店の中から母に喚かれて、美鈴は大きな声で返事をした。
「だいじょうぶ。心配ないって」
今日の行く先は、二軒。政やんじいさんのところと、家永さんのところだ。
二種類の掃除機を自転車の荷台にゴムでくくりけると、なんだかテレビのドキュメンタリー番組で伝えられた、戦後の買い出し風景みたいだ。
こんなとき、車が使えると有難いのだが、今日も灯しやの車は父が使っている。
今日、父は町のはずれにあるホテルへ行くことになっていた。電化製品の部品に、硫化水素発生を抑えるコーティングをするためだ。温泉街特有の対策だ。
いつもなら、車を借りられないと恨む美鈴だが、今朝は気にならなかった。
それに、政やんじいさんのところへは、父に行かせるわけにはいかない。父に、指輪を見つけた件を知られたくないのだ。ずいぶん前のこととはいえ、政やんじいさんは、父の剣道の師匠だ。師匠が泥棒の疑いをかけられている。そして泥棒の疑いをかけているのは、息子の嫁であると知ったら、父はきっと悲しむだろう。
「あんた、あのお客さんと、なんかあるの?」
ハムエッグの黄身を箸でつぶしていると、母に訊かれた。
「なんにもないよ。あるわけないじゃん」
美鈴の返事に、母は納得してくれたかどうか。
だが、嘘はついてないと思う。家永さんとは、ただの電気屋とお客さんでしかない。
母だって。
自転車のサドルにまたがって、美鈴はペダルを踏んだ。重い。ちょっとふらつく。
母だって、家永さんが子ども二人の父親で、若くて派手な恋人がいると知ったら、なんかあるの?とは訊かなかったはずだ。
「なんにもない、なんにもない」
美鈴は歌うように言って、ペダルを漕ぐ足に力を込めた。
「え。見つかったの?」
見た目は悪いが、丁寧に包んできた指輪の入った箱を渡すと、文子さんはそう言って目を見張った。
「どこにあったんですか」
第一声に、よかったわあという言葉と、笑顔が返ってくると思っていた美鈴は、なんだか狐につままれたような気分になった。
「ホースの蛇腹の中に。本体のすぐ近くに引っかかってました」
美鈴の掌から、サッと箱を取り上げて、文子さんは箱を開けた。
箱の中から、赤い指輪が現れた。
「お義父さんが盗んだんやないです。掃除機の中に入っとったってことは、どこかに落ちたのを、掃除機が吸い込んだわけで」
「落ちたのを、ねえ」
文子さんは、指輪をはめて、目を剥いた。
「なんで落ちたんやろな。そこが問題やない? だって、指輪があったのは、わたしの箪笥の抽斗なんよ。それが、なんで、落ちる? 変やわ」
「そりゃ、変ですけど」
「指輪が歩いて抽斗から出たんならともかく」
そして文子さんは、苛立った様子で片手をこすってから、
「誰かが抽斗から出したんは、間違いない。 それはお義父さん以外、おらんのよ」
「でも」
「だってね、灯しやさん」
文子さんが、顔を近づけてきて、声をひそめた。
「お義父さん、呆けとるときがあるの。やったこと、忘れとる」
「――そうなんですか」
「仕方ないとは思うんよ。だって、八十六なんやから」
呆れたように、文子さんは言った。高齢を呆れられたら、老人は立つ瀬がないではないか。そう思ったが、美鈴は黙っていた。相手はお客さんだ。
「ご苦労さん」
店の奥から、政やんじいさんが現れた。
こんにちはと挨拶をしてから、美鈴は掃除機を政やんじいさんの前に置き、
「動かしてみます」
と、プラグをコンセントにつなぐためにしゃがみこんだ。コンセントの場所はわかっている。
と、ボレロが美鈴の横を、サッと通り過ぎた。白くて太ったこの家の猫だ。
「コラ! フク! 邪魔や」
政やんじいさんの声に、文子さんが声を荒らげた。
「変な名前で呼ばんといてください。この子には、ボレロっていい名前があるんですから」
ふんと、政やんじいさんが鼻を鳴らす音が聞こえたが、それ以上の文句は聞こえてこなかった。
プラグをつなぎ終え、美鈴は電源を入れた。勢いよく、掃除機が動き出す。
「オオッ」
政やんじいさんが、感嘆した。
修理の仕事を請け負って、いちばん嬉しい瞬間だ。
掃除機の音を聞きつけたタツさんも、店に出てきた。
「いらない紙はありますか」
美鈴はタツさんに顔を向けた。
タツさんが新聞の広告紙を美鈴にくれた。その紙の上で、掃除機のノズルを動かしてみる。ピューッと気持ちいい音を立てて、紙がぴっちり吸い付く。
「直ったんやなあ。すごいなあ。さすが灯しやさんや」
タツさんは、拍手でもしかねない勢いだ。ここまで褒められると、ちょっと引いてしまうが、やっぱり気分がいい。
「モーターの中のブラシを交換しました。ですが、十二年前の製品でしたので」
照れ隠しに、説明を始める。つい、早口になってしまう。
ふと、政やんじいさんが、割って入った。
「なんで、あんた、うちの掃除機を持ち出した?」
政やんじいさんの目が、美鈴を不思議そうに見つめている。
「あの、修理。モーターが」
「壊れとらんぞ、うちの掃除機は」
美鈴はタツさんと文子さんを順番に見た。文子さんはぐるりと目を回す。タツさんはさびしいような、辛いような表情だ。
「お父さん、掃除機、壊れたんよ」
タツさんが政やんじいさんの腕に手をかけた。
「吸い込みが悪うなってね。灯しやさんに修理を頼んだんや」
「そうか」
遠くを見るような目で、政やんじいさんが応える。
「よかったな。直ったで」
タツさんの声は優しい。
「ああ、よかった、よかった」
政やんじいさんの目は、タツさんも文子さんも見ていない。もちろん、美鈴のことも、ましてや、掃除機も。
呆然とたたずむ美鈴に、文子さんが顔を寄せてきた。
「この調子やから、どういうわけで指輪が掃除機の中に入っとったんかは、永久にわからんな」
店の奥へ入っていく、老夫婦の後ろ姿を見つめた。政やんじいさんの背中に、タツさんの片手が添えられている。
修理代をもらい、店の前に止めた自転車に乗ろうとすると、文子さんがボレロを抱いて出てきた。
「年寄りをいじめるみたいやから、真相はわからんままでいいの。灯しやさんのおかげで、指輪は出てきたんやし。わたしは指輪さえ戻ってくればいいんやから」
「きっと、なんかの手違いで、指輪が落っこちたんやと思います」
「そういうことにしとく。覚えてへんこと、追求できへんのやし。年よりと暮らしとると、言ってもどうにもならんことばっかりやから」
ボレロの首輪に付いた二つの赤い鈴を、文子さんが指先で鳴らした。鈴はしゃらしゃらと音を立てる。
「この鈴な、近所にボレロとそっくりの猫を飼っとる人が越してきてな、目印にうちの猫に付けたんやけど」
かわいい鈴だ。二個の赤い鈴。
「二回失くなってね。それでこれは三個目。おばあちゃんがいっしょにいるとき失くしたんはわかっとるけど、わたし、なんにも言わんかった。二度目なんか、付けたその日に失くなったって言うんやから。なんか、変でしょ」
なんとも返しようがない。そういうこともあるかもしれないし。
「でも、いいの。言ってもどうにもならんから」
だが、猫の鈴とルビーの指輪では、事の重大さがちがう。
「おじいさんが抽斗から持ち出したんやないと思います。父がよく言ってました。政やん先生はおもしろいけど、曲がったことをすると、すごく怒る人やったでって」
「そやね。しっかりしてる頃は、嫁のわたしにも隠し事のない人やった」
抱かれたボレロが、ペロペロと前足を舐めはじめた。
「じゃ、ご苦労様」
ありがとうございましたと頭を下げて、美鈴は自転車に乗った。走り出すと、文子さんの胸から飛び出したのか、ボレロの鈴がまた鳴った。
すっきりしない気持ちのまま、温泉街を走り抜け、美鈴は家永さんのマンションへ向かった。昨日、突然店にやって来て、ロボット掃除機を買った家永さんに、商品を届けるためだ。
わざわざ美鈴に届けて欲しいと言われた理由を、美鈴は考えないようにしている。そう言われたとき、かすかに胸が弾んだ理由も、わざと無視している。
考えてしまいそうになると、初めて家永さんのマンションへ修理に行った日を、無理やり頭に浮かべる。スパンコールみたいな雰囲気の女性と、その女性を、磁石みたいに引き寄せた家永さんの姿を浮かべる。
あのときの二人を思い出すのは、コンセントのプラグを抜いたときと、同じ効果がある。プラグを抜けば、いくらスイッチを押したって電気が流れてこないように、あのときの二人を思い出せば、気持ちは覚める。
マンションの前まで来て、美鈴は気持ちのプラグを抜いた。これで、だいじょうぶ。家永さんと自分は、お客さんと電気屋だ。
インターフォンを押すと、
「だれでしゅか」
と、かわいらしい声が響いてきた。じゅんくんだろう。声の向こうで、別の子どもの泣き声もする。今日は兄弟が揃っているようだ。
部屋の中には、今日もおもちゃや服が散乱していたが、ダイニングテーブルの上は片付いていた。
玄関ドアを開けた途端に、じゃれついてきたじゅんくんといっしょに部屋の中へ入っていくと、家永さんの、
「どうも」
という声が、遠くで聞こえた。どうやら、ベランダで洗濯物を干しているようだ。
「灯しやです。掃除機をお持ちしました」
「ちょっと待ってくださーい。これ、終わったら行きますから」
「構いません」
掃除機の入った段ボール箱を床に置いて、美鈴はついでに散乱していたレゴ・ブロックを集めた。じゅんくんが、くるま、作ろうよと美鈴の手からブロックを取る。
「よし。すごいの作ってあげる」
美鈴はブロックをかき集めて組み立て始めた。ブロックは好きだ。得意といってもいい。
瞬く間に荷台のついたトラックが出来上がった。
「わあ、くるまだあ、トラックだあ」
「じゅんくん、丸いのはない? タイヤを付けんと走れんからね」
「あるよ、持ってくる!」
弾んだ声でじゅんくんが子ども部屋に向かった。美鈴は別のブロックを手に取った。キャブの部分に窓をつけちゃおう。中のシートやハンドルが見えるようにすると、リアルだ。
頭の中に、次々とアイデアが浮かんだ。子どもの頃、弟の悠人が興味を示さなかったせいで、家にはブロックがなかった。女の子の美鈴には、買ってもらえなかった。友達の家に行ったとき、ブロックを見つけると、一人、組み立てて遊んだものだ。
これほどすばらしく、おもしろいおもちゃがあるだろうか。
「――すごいなあ」
声をかけられて、美鈴は顔を上げた。
空になった洗濯籠を下げた家永さんが、立っている。
咄嗟に立ち上がって、美鈴は頭を下げた。
「すみません。あの、掃除機を」
「いやあ、うまいもんだなあ」
恐縮して、美鈴は顔が上げられない。
「あの、掃除機」
「ああ、ありがとうございます」
「一応、作動してみますので」
ロボット掃除機が入った箱を開け、美鈴は中から掃除機を取り出してセットした。電源を入れると、スムーズに動き始める。
「この製品には、段差乗り越え機能も落下防止機能もついてますから、この釦を押してもらえると」
説明を始めると、じゅんくんがやって来た。
箱を抱えている。中にはブロックがいっぱいだ。
「きゅうきゅうしゃもつくって」
「こら、じゅん。灯しやさんは、ブロックを作りに来たんじゃないぞ」
じゅんくんの箱を覗いでみた。きゅうきゅうしゃを作るには、部品がちょっと足りない。
「白いブロック、あるかな」
「あるよ。ぼくのお部屋に来て!」
「おい、ダメだぞ。灯しやさんは忙しいんだから」
いえ、だいじょうぶですと、美鈴は立ち上がり、じゅんくんに手を預けた。
小走りになったじゅんくんに続いて、子ども部屋に向かう。まだ小さいのに、贅沢にもじゅんくんには、ひと部屋がまるまる与えられているようだ。
部屋はおもちゃの山だった。大小のぬいぐるみやら、ボールやら、大人が楽しむようなリモコンで動くスポーツカーまである。
「ここにあるよ」
じゅんくんがベッドの脇にあった大きな箱を引っ張った。中には、多種多様のブロックが入っている。
「母親がいないんで、ついね、せがまれると買っちゃって」
部屋に家永さんも入ってきた。
「先に、トラックのタイヤをつけちゃおうか」
じゅんくんからトラックを受け取って、美鈴は箱から丸いブロックを探し出し、つけた。トラックが動けるようになった。
喜んだじゅんくんが、ブウウゥと声を上げながら、床にトラックを走らせる。よほど嬉しいのか、夢中でスピードを上げる。
「そんなに動かしたら、危ないよ!」
じゅんくんの後を追って、美鈴も走った。ブロックで作ったトラックは、走らせるものではないから、急に壊れることがある。力を入れていた子どもが、前のめりになって転ぶかもしれない。
「あっ」
じゅんくんに続いて、隣の部屋に入った美鈴が声を上げた。
部屋には、布団やスーツケースがあった。物置部屋として使われているらしい、三畳ほどの小部屋だ。その隅に、美鈴は見つけた。
キャニスター・タイプの掃除機と、そして、新しそうなロボット掃除機。
美鈴は振り返って、家永さんを見た。家永さんの顔は、真っ赤だ。
ブウウと声を上げて、じゅんくんが部屋を出て行った。咄嗟に、美鈴も走り出す。
「また、来てもらえませんか」
美鈴は家永さんの、人懐っこい、丸い目を見上げた。近くにいると、余計に家永さんを大きく感じる。
「もう、買うものもないし、修理をしてもらうものもないんですがーーまた、来てもらえませんか」
美鈴の心臓が、早鐘を打ち始めた。
プラグを抜くのだ。気持ちのプラグを抜くべきだ。
「また、会いたいんです」
気持ちのプラグをつまんだ、美鈴の手が止まる。
「正直に言います。初めて灯しやさんが来てくれたとき、エレベーターのところにいた女性と、まだ別れてません。でも、はっきりさせるつもりでいます」
家永さんの目が、美鈴をじっと見つめている。
「子連れの中年で、付き合っている女性と別れられていない男に、また会いたいなんて言われても困っちゃいますよね」
そうだ。そんなのは、困る。
「でも、いっぺんには無理なんです。あなたに会いたいっていう自分の気持ちに気づいたとき、その瞬間に、全部をいい形に持っていくのは無理なんです。でもーー」
呼吸を整えるように、家永さんは息を吐いた。
「でも、少しずつ、あなたに満足してもらえるよう、頑張りますから」
都合のいいやり方ともいえる。けれど、こちらを見つめる家永さんの目に、嘘は感じられない。
じゅんくんとは別の子どもの泣き声がした。弟のほうだ。
「あ、起きたな」
そう言って、部屋を出る家永さんに、美鈴はぺこんと頭を下げて、そしてそのまま、玄関に向かった。
「ありがとうございました」
声を張り上げてから、玄関までついてきたじゅんくんに、バイバイをする。
ちょっと待ってくださいと家永さんの声が追いかけてきたが、美鈴は玄関を出た。
チンと、エレベーターの音がする。
美鈴は廊下を走り、閉まりかけのエレベーターに飛び乗った。
いっぺんには無理だと、家永さんは言った。
少しずつとも、言った。
修理するみたいにはいかないらしい。こことここを新しいものと交換して、こことここをつなげて、ハイ、できた!というわけにはいかないらしい。
悠人のことも。
いっぺんにわからなくてもいいのかもしれない。わかったり、わからなかったりを繰り返していくしかないのかもしれない。
自転車にまたがって、美鈴は走り出した。軽くなった荷台のおかげで、ぐんぐんとスピードが出る。
夕暮れになった温泉街を、美鈴は駆け抜けていった。
すっかり日が落ちると、夜の中に橙色の灯りが浮かび上がる。温泉街のメインストリートに並ぶ店先に、提灯が吊るされるのだ。
観光の目玉にしようと、町の温泉組合が提唱して始まったこの試みは、観光客だけでなく、町の人々にも評判がよく、始められてそろそろ一年になる。
灯しや電気店でも、小ぶりながら、店のシャッターを下ろしたあとの無味乾燥な店先に吊るしている。吊るすのは、もっぱら父の仕事で、店を閉める前に、提灯を軒先へ持っていくのが父の日課となっている。
家永さんのところへロボット掃除機を配達し終えた美鈴が戻ると、ちょうど父が提灯を店の軒先へ吊るしているところだった。
父は背伸びをして、軒先に付いたフックに腕を伸ばしている。
「政やんじいさんのとこ、行ってきたから」
店の脇に、建物の裏へ回る細い通路がある。美鈴はそこへ自転車ををたてかけた。
「ああ。ご苦労さんや」
それから父は、美鈴に向き直った。
「政やん、どやった?」
「どうって、掃除機が直って喜んでもらえたけどな」
「変わりなかったか」
何か言いたそうな表情だ。
「ちょっとな、話がわからんときがあるみたいやったな」
父は、やっぱりなと呟いた。
「知っとったん?」
「つい最近な、鍵戸質店の前で、政やんじいさんを見かけたんや。それで、声をかけたんやが」
鍵戸質店は、本町にある質屋だ。
「お父さんのこと、わからんかったの?」
「いや、わかったんやが」
父は声を落とした。
父が言うには、政やんじいさんは、質店のウインドーに飾られた古い蓄音機を、買おうかと迷っていたらしい。政やんじいさんは若い頃、飾られた蓄音機とそっくりな品を持っていたようで、懐かしさから購入したいと思ったようだ。
蓄音機は値段が張った。一五万円と、値札には書いてある。潰れそうな雑貨店と年金で生活している政やんじいさんには高すぎるだろう。そう思ったとき、政やんじいさんは、財布を見せてくれた。
「その財布の中身を見て、驚いた」
父はそう言って、白髪頭を掻いた。
「財布は分厚くてな。はじめはお札で分厚いと思って驚いたんやが、よく目を凝らして、もっと驚かされた。宝くじやったんや、全部。それを政やん、金やいうてきかん」
「宝くじをお札だと思い込んどるってこと?」
父は頷いた。
政やんじいさんの宝くじ狂いはほんとうだったのだ。そして、文子さんから聞いた政やんじいさんの宝くじ騒動を思い出した。当たり籤が見つからないといって、家中を探したというのだ。父が見た財布にあった宝くじは、そのとき家中からかき集めた外れ籤だったのかもしれない。
「仕方ないなあ、八十六や。お札と外れ籤が頭の中で入れ替わったんやな」
美鈴は文子さんの指輪の件を話すことにした。父の剣道の師匠が、嫁に泥棒だと思われていると知らせるのは気が引けていたが、こういう事情なら話したほうがいいかもしれない。
「お父さん、ちょっと中で、話そう」
おかえりーと、店の奥から母が呼ぶ声がして、美鈴は父といっしょにシャッターを下ろした。
「人聞きの悪いこと、言うな。政やんが、息子の嫁の指輪を勝手に質屋に持ってくはずがないやろ」
美鈴の予想どおり、父はそう言って憤慨した。
今夜の夕食は水炊きで、コタツテーブルの上には、土鍋がグツグツいっている。
「なんでも年よりのせいにされたらかなわん」
つゆの入った椀に小口ネギを入れながら、母も怒っている。
千六商店で見聞きしたことを、美鈴は二人に話した。話してみると、何をはっきりさせるべきかが、見えてきた。
仕事のことで行き詰まり、両親と話して、解決することはよくある。
父は修理の大先輩だし、母も電気屋のお客さんと向き合って数十年のベテランだ。何気ない一言で、美鈴は何度も助けられたと思っている。
「問題は、誰が文子さんの抽斗から、指輪を取り出したかってことや」
美鈴も椀に、小口ネギを入れる。
「そりゃ、政やんやろ。だって、娘のーー亜美ちゃんか? 見たって」
「政やんじいさんが抽斗を覗いたのを見ただけで、指輪を取り出したところを見たわけやない」
「なんの用があって、政やんは嫁の抽斗を覗いてたんかな」
母は首を傾げる。
父が白菜を取ってから、言った。
「宝くじを探しとったんやな。当たり籤を家中探しとったと、おまえ言ったやないか。家の中の抽斗いう抽斗を探しとったと」
「そっか」
美鈴は呟いて、文子さんの言葉を思い出した。指輪は、同窓会にはめていくために、ケースから出して、ビロードの布でできた皿の上に置いておいたという。慌ただしく抽斗を開け閉めして、抽斗の中で指輪は転がっただろう。ついでに外にこぼれ落ちたかもしれない。
「政やんは年やから、目が悪いはずや。抽斗の中をかき混ぜて、指輪を落としたんやろ。老人性白内障に罹っとるんやないか?」
「それを言うんやったら、タツさんのほうや」
母が父に顔を向けた。
「岡田眼科でな、先月タツさんに会ったわ。なんや、昼間まぶしいとか、いろんなもんが二重に見える言うて」
「そりゃ、老人性白内障にまちがいないな。あの年なら、罹って当然やが」
ふと、文子さんの言葉が蘇った。
――鈴は二回失くなってね、これが三個目の鈴。
「ね、お母さん、老人性白内障に罹ると、ものが二重に見えるときがあるんやよね?」
「そうらしいで。丸いお月さんが二つに見えるって、聞いたことがある」
美鈴はポケットからスマホを取り出した。
「あんた、食事中に電話なんかせんといて」
母に睨まれたが、美鈴は無視して、千六商店に電話をかけた。
電話に出たのは、文子さんだった。タツさんに変わって欲しいというと、訝しげな声になったが、素直に呼び出してくれた。
「お義母さん、電話、代わってください。灯しやさんからです」
タツさんが電話口に来るまで、テレビの音が、はっきりと電話越しに聞こえてきた。老人二人が、音量を目いっぱい上げているようだ。こんなことも、文子さんを苛立たせる要因になっているかもしれない。
「なんか、用でしたかね」
タツさんは、ゆっくりと言った。
「ボレロ。文子さんの猫ですけど、最近、鈴を落としませんでしたか?」
「なんやて?」
ああ、しまったと、美鈴は胸の中で舌打ちした。突然こんなことを、しかも電話で言われたら、誰だって返答に困る。
順を追って、美鈴は訊くことにした。極力ゆっくりと、はっきりとしゃべるを、心がける。
まずは、政やんじいさんが失くした当たり籤を、タツさんも探したかどうか。
「探した。お前も探せってうるさいから」
次は、最近、猫が鈴を落としたかどうか。
すると、タツさんは、
「なんで、あんた、そんなこと知っとるんや」
と、小声になった。
タツさんが言うには、庭で猫を抱いているとき、鈴を落としてしまった。文子さんが大事にしている猫だから、鈴を見つけなければと思った。だが、鈴はどこに転がったのか、いくら探しても見つからなかった。
「それで」
美鈴が割って入った。
「鈴の代わりになるもの探そうと思ったんですね?」
「なんでわかった?」
タツさんは、小声にするのを忘れて、地声に戻っている。
「そして、政やんじいさんの当たり籤を探しているとき、代わりになるものを見つけたんやないですか? 文子さんの抽斗で」
「あんた、見とったんか!」
見ているわけがない。
「ちょうど猫が付けていた二つの鈴にそっくりな赤くて丸いものを見つけて、猫に付けてあげたんやないですか」
「あんた、やっぱり見とったんやな」
繰り返されるタツさんの言葉を聞き流して、お礼を言ってから美鈴は電話を切った。顔を上げると、父と母が箸を置いて、美鈴を見ている。
「なんか、ようわからん。あんた、ちゃんと説明してな」
母に言われて、美鈴はスマホをポケットに入れた。
「簡単に言うとね、こういうことや。タツさんがね、猫の鈴を失くしたんよ。それで、当たり籤を探しているときに、文子さんの抽斗でそっくりなものを見つけて、猫の首に付けたんや」
「指輪か」
父が呟く。
「そ。ところが猫は、またそれを落とした。だから、指輪が掃除機に吸い込まれたってわけ」
「でも、鈴は二個や言うたな。指輪は一個やないの」
母は納得していない様子だ。
電話のせいで、お腹が空いてしまった。美鈴はまだ、ほとんど鶏肉を口にしていない。美鈴は大きめに切られた鶏肉を選んで、自分の椀に入れた。
「タツさんが老人性白内障やと、お母さんは教えてくれたよね? タツさんは、一個の赤い指輪が、二個に見えたんよ。これなら、鈴の代わりになるってホッとしたと思う」
ふーんと、母はうなる。
「気の強い姑さんみたいやけど、タツさんも、文子さんに気を使って生活しとるんやな。だから、鈴を失くしたあと、なんとか自分だけで解決しようとしたんやね」
美鈴は箸で土鍋の中をかき混ぜた。鶏肉はたっぷり食べたが、野菜をもっと食べたい。
「ね、お母さん。えのきだけ、もうないの?」
両親と鍋を囲んで、野菜が先になくなることを、美鈴はすっかり忘れていた。
「あんた、よく食べるねえ」
母がよっこいしょと立ち上がった。
第二話 了
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