冬の扇風機

「あんた、行儀悪いで」


 母に言われて、美鈴はぺろっと舌を出した。コタツテーブルの上に残っていた漬物をつまんだのだ。


 十一月の声を聞くと、母は毎年、赤カブを漬ける。

 母の赤カブ漬けは絶品だ。しょっぱさと酸味がちょうどいい具合に混ざり合って、いくつ食べても飽きない。母に言わせると、おいしく漬けるのは、素材選びがポイントなのだそうだ。この時期になると朝市に並び始める赤カブを、母は吟味を重ねた末に買ってくる。

 まだ口の中に残る漬物を咀嚼しながら、美鈴は自転車にまたがった。風が冷たい。町を囲む山々が、そろそろ雪化粧を始める。


 今日、美鈴が向かうのは、町の中心地にあるバー・琥珀だ。店に古くからある扇風機の修理を依頼されている。

 この季節に扇風機の修理とは意外だったが、この夏に壊れたため、捨てようとしたところ、息子の反対にあったのだという。

「羽根が回らんようになっとる。片付ける前に直してもらおうかと思ってね」

 昨日、電話をかけてきたバー・琥珀のオーナーの水口さんの、かすれ気味な声を思い出して、美鈴はペダルを踏んだ。



 町の並ぶ旅館と旅館の間に、忘れられたような細い路地がある。その路地の突き当たりに、バー・琥珀はあった。美鈴がまだ生まれる前から営業しているという、町でも有数の老舗のバーだ。

 オーナーの水口さんは、遠い昔、外国製のウィスキーが珍重された頃バーテンダーだった人で、バブル前に、持ち主が畳もうとしたのを買い取って店を引き継ぎ、渋いバーに改装した。今は、その息子の誠一さんがカウンターの中で奮闘している。

 小さな店だ。細長い店内には、七人座れるカウンターと、テーブル席が二つあるだけ。それでも窮屈さを感じないのは、天井が高いからだろう。

 板張りの壁は焦げ茶色で、床はレンガ敷。クラシカルなペンダントランプが、天井からいくつもぶら下がり、店の雰囲気を高めている。

 

 カウンターの内側の床にしゃがみこんで、美鈴は扇風機と格闘していた。

 想像以上に、古い扇風機だった。黒い本体に、深緑色の羽根。羽根ガードは銀色に光っている。

 大切に使われていたようで、塗装が剥がれている部分もなく、表面上は問題なかった。ただ、分解してみると、コイル部分の一部が断線していた。断線した部分を熱収縮チューブで覆う。

 電源を入れてみた。回りだした。のんびりと、ぬるい風が送られてくる。

 美鈴はコンセントを抜き、工具箱の蓋を閉じた。時計を見る。五時半を過ぎたところ。

 あとは、元通り、扇風機をカウンターの上に置いてくれば、仕事は終わりだ。

 

 美鈴は自分のまわりを見回した。カウンターの内側で修理をしていたから、もし部品の忘れ物があったとしても、飲みにやって来た客に見えることはないが、しっかりと点検しておきたい。

 立つ鳥、跡を濁さずだ。

 父の口癖でもある。何かと父とは考え方が合わない美鈴だが、案外根っこのところはそっくりだなあと思う。

 立ち上がろうとしたとき、バーのドアの鍵を回す音がした。誠一さんが来るには、まだ時間が早い。このバーは、開店が午後七時のはずだ。しかも、小さな店だから、アルバイトも置いていない。

 鍵は預かっている。修理が終わったら、鍵を閉めて、誠一さんの自宅へ届ける段取りだ。


 誰だろう。

 

 そう思ったとき、人の声がした。

 美鈴はしゃがんだまま息を殺し、身構えた。

 男の二人組のようだ。


「おい、どこや」

「あそこ。ちょっと待て」

 泥棒だ。美鈴の体に緊張が走った。そっとポケットのスマホを探る。

「あった、あった」

 一人が嬉しそうな声を上げた。カウンターの反対側の壁から、何かを取り出してきたようだ。続いて蓋を開ける音がする。

「じゃ、おれ、五千円な」

「ああ。おれは四千円」

 大変だ。泥棒がお金を盗ろうとしている。

 ところが、意外な会話が聞こえてきた。


「なんや、ケチくさい。どうせなら五千円入れろ」

 入れろ? 盗りに来たんじゃないのか。

「これが精一杯や、勘弁して」

「しょうもないなあ」

 そおっと、美鈴は体を起こして、カウンターから頭を出した。

二人の横顔が見えた。カウンターの上に置かれた小ぶりのドラセナの鉢の向こうに、三十代とおぼしき二人組がいる。二人とも、ピシッとしたスーツ姿だ。この町ではめずらしいタイプだと思った。銀行員か大手の企業の営業マンといった感じ。でも、この町に銀行はATMしかないし、大企業もない。

 そのとき、突然音楽が鳴り出した。

 うわっと二人が同時に叫んだ。どんなときも、どんなときもと歌声が聞こえる。ずっと前に流行ったJポップ。音楽は電話の着信音だ。

 片方が、悪い、悪いと言いながら、電話を受けた。

「本町二丁目の物件ですか。はい、先方にはですね」

 そう言いながら、頭を下げている。体がこっちへ向いた。美鈴は瞬間的に頭を引っ込める。

 それから二人はバタバタと店を出て行った。

 入口のドアが閉まる音を聞いてから、美鈴はようやく立ち上がった。なんだか、狐につままれたような気分だ。

 

 二人がお金を入れたものはどれだろうと、美鈴は店内を見回してみた。円形のダーツボードの隣に、ボトルキープされたお酒の棚があった。その一段の隅に、真鍮でできた箱がある。B5ほどの大きさで、蓋の持ち手は、同じ真鍮のKの文字。このバー用に、特注したものだろう。

 そっと取り出して、蓋を開けてみた。お札や硬貨が無造作に入っていた。数えてみると、合計で二万八千円ある。

 箱を元に戻し、店の鍵を閉めた。

 

 どういうことなんだろう。

 

 誠一さんの自宅へ向かいながら、考えても考えても、美鈴にはわからなかった。



 琥珀のオーナーの誠一さんの自宅は、灯しやのある通りから、道一本山側に入った先にある。修理が終わったら自宅へ鍵を届けて欲しいと誠一さんが言ったのは、近所だから寄りやすいからでもあった。

 誠一さんの自宅へ鍵を届け、灯しやへ戻ろうとすると、雨が降り出してきた。大粒の雨が急き立てられるみたいに、音を立てて地面を濡らしはじめた。

 不審な二人組のことを、美鈴は言いそびれてしまった。誠一さんがいなかったのだ。急用ができて、出かけたのだという。

 美鈴が鍵を渡したのは、息子の涼くんで、中学生の彼に言うわけにもいかなかった。そのうえ、雨が降り出したので、美鈴は鍵を渡すと、大急ぎで自転車にまたがらなくてはならなかった。雨は重たく、雪に変わるかもしれない。

 灯しやに着いた頃、美鈴はびしょ濡れになっていた。ほらほら早くと、母が持ってきてくれたタオルで頭を包み、店の奥へ急ぐ。

「お風呂、入る」

 美鈴は台所の隣にある風呂場へ駆け込んだ。コンクリートの流しの上に置かれた、すのこを踏んで、サッとツナギを下ろす。

 

 毎度思うことだが、風呂場をリフォームすべきだ。今どき、コンクリートの流しの上にすのこを置いた脱衣所なんて、有り得ない。しかも、店に近すぎる。脱衣所のドアの隙間から覗けば、台所と居間を通って、店の一部が見える。ということは、店からだって見えるだろう。

 そのとき、電話が鳴った。

「はい、お世話になっとります」

 母のよそいきの声が、水音の向こうに聞こえる。

 バスタオルを巻いてすのこの上に立つと、母が呼ぶ声がした。

「美鈴、琥珀の水口さんから電話」

 電話の子機を持って、母が走ってくる。この近さ。便利と言えば便利だが。

 タオルで髪をくるみながら、美鈴は電話に出た。

 

 誠一さんの用件は、涼くんのことだった。琥珀の鍵は自宅に置かれてあったが、涼くんがいないという。

「どこへ行くか、言ってませんでしたか」

 誠一さんは不安そうな声で訊いた。

「いえ、何も。鍵を渡すと、はい、たしかに預かりましたと。言葉を交わしたのはそれだけで」

「そうですか」

 誠一さんの落胆が、こちらまで伝わってくる。

「いつもは行き先を言っていくんやけど、このところ黙って出かけることが多くて……。塾にも行かせてないから、夕方出かける用はないはずなんやけど」

 誠一さんは数年前に離婚して、今は息子の涼くんと二人暮らしだ。つい最近までは、父親がいっしょに暮らしていたが、高齢で身の回りのことが不自由になったために施設に入った。

 誠一さんの仕事柄、夜、涼くんはひとりで過ごしているはずだ。そのせいもあって、心配なのだろう。


「なんやったん?」

 母が子機を取りに来た。

「涼くんが黙って出かけたらしい。行く先がわからんて、誠一さんが、心配しとる」

「そりゃ、心配やな。こんな冷たい雨やし」

 まだ雪にはなってないようだが。


「ちょっと誠一さんのうちへ行ってみるよ。なんか、落ち着かんから」

 琥珀の水口さん親子は、灯しやとは古い付き合いだ。このまま無視はできない。

 灯しやとお客さんとの付き合いは、商売だけに留まらなかった。これは父の方針で、そうして信頼関係を築いてきた。もちろん、一電気屋で、解決できることなどたかが知れている。だが、相談事の窓口として、お客さんの困り事に耳を傾け、解決方法を捜す。

 

 実家に戻って修理の仕事を手伝いはじめたとき、この父の方針に、美鈴はなかなか馴染めなかったし、それが大事とも思えなかった。だが、一年ちょっと灯しやで働いてみて、父の方針の大切さがわかった。売ってナンボ、修理して終わりよりも、得るものが大きいとわかり始めてきた。

 母は、そのあたりを、よく心得ている。

「そやな。ご飯は帰ってからにしよか」

 と、当然のように言った。

「先に食べといて。自宅のあと、琥珀に寄ってくるつもりやから」

 琥珀に寄れば、今日遭遇した奇妙な二人組の話もできる。美鈴は急いで髪にドライヤーを当てた。



 みぞれ混じりの雨になった。

 誠一さんの自宅へ着き、インターフォンを押すと、少し間があってから、玄関のドアが開いた。涼くんが、顔だけ出す。


「よかった。いたんやね」

「なんですか?」

「鍵、渡してくれたかなって、ちょっと気になって」

 父親が電話してきたとは言えなかった。うるさい親だと、中学生なら思うかもしれない。

「――持ってったと思いますけど。ないから、鍵」

 ならいいですと、美鈴は踵を返そうとした。これで用は終わった。琥珀に行って報告しよう。もちろん、もう、連絡はついているかもしれないが。

 美鈴が「では」と頭を下げても、涼くんは、ドアを閉めなかった。どちらかというと小柄だが、大人びた印象の少年だ。まっすぐな前髪と、落ち着いた目つきのせいかもしてない。

「――あの」

涼くんが言った。雨の中でもはっきりと聞き取れる、意志のある声だ。


「ちょっと、訊いていいですか」

 涼くんはそう続けると、ドアを開けて、家の前へ出てきた。

 広げた傘が大人用の黒い雨傘のせいか、目の前の涼くんはずいぶん幼く見える。

「灯しやさんは、うちの店のこと、聞いてますか?」

「聞いとるって、何を?」

 すると、涼くんは、辺りを伺うように視線を流してから、

「店を、東京の人に売るって話です」

 初耳だった。美鈴は即座に首を振った。そして、そんなわけないよと言おうとして、言葉を呑んだ。思い当たることがある。

 扇風機の修理を頼まれたとき、修理内容の話が終わったあと、誠一さんが、店の経営状態について、ふと漏らした言葉がある。

「潮時かな」

 扇風機の寿命について言った言葉だろうと思ったが、そうではなかった。

「いや、扇風機じゃなくてね、うちの店」

 そして、客足が減っていること、マニアックな常連客だけで、どうにか持ちこたえている状態であると、あんまり困ってもいない声音で続けた。

 バー・琥珀を作り上げたのは、先代の親父さんで、誠一さんはなんとなく引き継いだにすぎないと、父から聞いている。先代の親父さんは、店の造りや酒の出し方にもこだわった人で、一時は、町の男たちや観光に訪れた男たちの憧れのバーで、ずいぶん賑わったようだ。

 だから、誠一さんは、琥珀のいいときしか知らない。そのせいか、おっとりとした性格で、バーを経営しているというよりは、画廊を楽しみでやっている金持ちの二代目といった風貌だ。


 町には、二代目や三代目でうまくいっている店もあるが、やっぱり初代のときほど隆盛を極めているという店は少ない。灯しやのように、もともと大きく発展した歴史がない店に激しい浮き沈みはないが、時代の流れには逆らえないから、よほど劇的な改革をしないと、同じ商売で大きく利益を出し続けるのは難しいのだろう。


――やっぱり、僕には向いてないんだな。この商売。

 苦笑いしながら、そういった誠一さんのおっとりした表情を思い浮かべていると、涼くんが続けた。


「親父、店を売って、引越しを考えてるみたいで」

「引っ越しも?」

 涼くんは、うなずいた。

「僕を別の仕事に就かせたいんですよ。そのためには、小さな町にいるより、都会へ出たほうがいいだろうって」

 次の世代に、新しい広い世界に出てもらいたいと願うのは、誠一さんに限った話ではない。町の人々が、将来の話をするとき、よくそう願うのを聞く。特に、二代目、三代目の経営者に顕著だ。小さな町でのしがらみや限界を感じやすいのかもしれない。

「もし、親父からなんか聞いてたらと思ったんです。灯しやさんはうちとは長い付き合いだって、親父から聞いたことがあるから」

「なんも聞いてへんけど」

「――そうですか」

 そして涼くんは、傘の中で生真面目そうに頭を下げ、

「すみません、お忙しいところを呼び止めて」

と、家の中へ戻っていった。

 走りながら、大きな傘を畳み、振り返らずにカシャリと玄関のドアを閉める。

 玄関の電気が消えるのを確かめてから、美鈴は歩き出した。



「めずらしいやないか」

 バー・琥珀の扉を開けた途端、聞き覚えのある声がした。

 カウンターの背の高い椅子に、でっぷりとした体を預けているのは、町のメインストリートで老舗旅館・宝永館を営む庄司さんだった。

 父とは小学校で同じクラスだったという庄司さんは、いまでも「宝ちゃん」「電ちゃん」と呼び合う仲だ。宝ちゃんは、宝永館の宝で、電は電気屋の電。単純すぎる呼び名は、小学校一年生のときに付けあったらしい。父に言わせると、今よりずっと、昔は子どもにとって、それぞれの家の商売が大きな比重を占めていたという。


 いいですか?と誠一さんに目配せを送ってから、美鈴はカウンターの椅子に腰掛けた。入口に近い、レジの横の、客が多いとき、荷物を置く席だ。今夜は客として来たが、この店の電気屋である以上、ほかのお客さんの邪魔にはなりたくない。

 美鈴が座るのを待って、誠一さんが声をかけてきた。

「今日はご苦労さんでした」

 修理した扇風機扇風機は、カウンターの端に置かれたままだ。季節外れだが、店のインテリアとして似合っている。

「それと、すいません、涼のこと。さっき電話がかかってきました。寄ってきいただいたそうで」

「仕事のついでがあったんで、ちょっと覗いただけです」

「行く先を訊いたんやけど、涼のやつ、言わんのですわ。なんか心配事でもあるんなら、打ち明けて欲しいんやけども」

「ーーあの」

 美鈴は声をひそめた。

「お店を売るかもしれないって、ほんとうですか」

 えっと、誠一さんは目を瞠った。

「涼くんに訊かれたんです。何か知らないかって。誠一さんが店を売って、大きな町へ引越しを考えてるんやないかって」

 誠一さんは、ふうっと息を吐いた。

「売って欲しいと言われていることは事実ですよ。結婚式場のオーナーでね。昔、親父がやっている頃、この店の常連だったとかで。経営不審なら、店を閉じるなら、売って欲しいと。それから迷ってます。僕もちょっとくたびれてきたから。それに、涼のためにも、ここより大きい町に出たほうがいいかなと思ってるんですよ。小さな町は窮屈で、それは僕が身にしみて感じとることですから」

 美鈴が黙っていると、誠一さんはバーのマスターの顔に戻って言った。

「何にします?」


「ウイスキーのお湯割りで」

 グラスを口に運んだとき、庄司さんから声がかかって、美鈴はむせそうになった。

「悠人はどうしとる」

「さあ、連絡を寄越さないんですよ」

「そりゃ、心配やな。悠人は電ちゃんの期待の星やで」

 急にウイスキーが苦くなった。

 このまま庄司さんに、悠人の話を続けられるのは、困る。美鈴は体をひねって後ろの壁を見た。不審な二人組が、お金を入れた箱が見える。

 美鈴は思い切って、切り出した。


「今日、扇風機の修理をしていたときなんですが、おかしな事があって」

 誠一さんが、グラスを拭く手を止めた。

「男の二人組が入ってきたんです。はじめは泥棒かと思ったんですが」

 誠一さんが、目を見開いた。

 美鈴は壁に体を向け、指を刺した。

「あれを触ってたんです」

 ああと呟き、誠一さんはグラスを拭き始めた。

「金を入れてったんでしょ?」

「知ってるんですか?」

「これで四度目かな。そう大きな金額やないんやが、僕の知らないうちに、あの箱に金が入れてある」

「知らないうちに、お金が……」

「そうなんですよ。僕がちょっと店の裏でゴミを片付けているときとか、買い出しに行ったときとかに、店に入っているようで」

「でも、鍵は? 鍵を持ってないと、入れんのとちがいますか」

「鍵を開けっ放しにしたときに入られることもあるし、鍵をかけたときも入っとるときがある」

「鍵を持っとるってことですか」

 うーんと、誠一さんは難しい顔になった。

「物騒だけど、何も盗まれてないから、警察に言うのもちょっと。いままでの合計は、三万ちょっと。経営がきゅうきゅうの店だから、有難い金額なんやけどね、気味が悪いから使うわけにもいかん。誰が置いていくのか……」

 そして誠一さんは、期待を込めた視線を向けてきた。


「その二人組の顔は見ましたか?」

 美鈴は曖昧にうなずいた。

「横顔だけですけど。三十代ぐらいやったと思います。二人ともパリッとしたスーツ姿で、この町のひとたちじゃない感じでした」

「パリッとしたスーツ姿ですかあ。めずらしいけど、それだけじゃあなあ」

「不動産関係の仕事で、この町に来ているとか?」

 二人組の片割れが、電話で話していた内容を、美鈴は繰り返した。

「本町二丁目の物件言っとったんですね」

「心あたりはないですか」

 誠一さんは首を振ってから、ピカピカに磨いたグラスをカウンターの上に伏せた。



「金を置いてったって?」

 風呂から出てきた父が、顔をタオルで拭きながら、コタツテーブルの前に座った。 

 父は一枚のタオルで体を洗って、それを固く絞り、体を拭いて出てくる。バスタオルが何枚もあるのに、なぜか一枚のタオルですべて済ませてしまう。

「そうなんよ。変な話でしょ?」

「泥棒やなしに――なんて言うんや、そういうのは」

 バー・琥珀でウイスキーを二杯飲んだ美鈴は、お腹を空かせて灯しやに戻ってきた。コタツテーブルの上には、美鈴の分の夕食が、布巾をかけて置いてあった。それがわかっているから、美鈴はあらかじめ決めたとき以外、外食はしない。


「恩返しやないの?」

 急須にお湯を注ぎながら、母が言った。

「ねえ、お父さん、覚えとらんですか、風船の子」

「ああ、土手のそばのアパートの子か」

「何、それ」

 箸の先を口に入れたまま、美鈴は顔を上げた。

「もうずっと前のことやけどね。うちで春のイベントセールをしたとき、風船を配ったんよ、お客さんに」

 記憶にあった。美鈴がまだ小さい頃には、灯しやでもそんなイベントを催したものだった。新製品を宣伝したり、十パーセント引きというポップを家電に貼り付けて売り出したり。

 年々催す機会が減って、とうとう灯しやではイベントは開かなくなった。いまでも店の裏の倉庫には、その頃使い切れなかったポップの白い紙が、埃をかぶって丸めてある。

「風船は何十個も用意したんやけどね、ちょうど遠足で来てた幼稚園の子らが通りかかって、全部なくなってしまったときがあってね。そのときな、遠足の幼稚園の子らが行ってしまったあとに、五、六歳くらいの女の子を連れたお父さんとお母さんが灯しやに入ってきたんよ。なんや、よう覚えとらんけど、洗濯機かなんか見に来たんやなかったかな。あんとき、東芝さんの新しいのが出たとこで」


「あれは、よう売れたなあ」

「洗濯機のことはいいから。その子が、千沙ちゃんなんやね?」

 最近、両親と話していると、頓に感じる。話がどんどん脱線してしまうのだ。二人とも、まだ六十代。惚ける年ではないと思うが、ちょっと不安になる。

「そう。千沙ちゃんいう名前の子で。風船を欲しがってね、でもないもんは仕方がないやろ。手ぶらで帰ってもらったわ。ところが、帰り道でな」

 母の声が、沈んだ。

「交通事故に遭ったんや。車が突っ込んできたんやて。千沙ちゃんとお父さんは助かったんやけどな。お母さんがなーー亡くなったんや」

 コタツテーブルの上に、重い空気が下りた。

 父がタオルで顔を拭く。言葉がくぐもる。

「本町のとこから、土手へ向かう分かれ道があるやろ。あの交差点とこや」

「そんなに遠くないね、うちから」

「だから、事故って聞いてすぐ駆けつけた。救急車が来て、お母さんが運び込まれるところやった」

「千沙ちゃん、ものすごう泣いててな。それ見てたまらんようになった。で、翌日、風船を届けに行った。灯しや電気店のロゴ入りはなかったから、マッさんとこの文房具屋で風船を買ってな。少しでも気が晴れるとええと思って、両手いっぱいに持って届けたんや」

「そうかあ」

 うなずく美鈴のコップに、めずらしく父がビールを注いでくれた。

「それがなあ。引っ越すことになってな。男手ひとつではまだ小さい娘を育てられんかったんやろ。お父さん方の親戚の家へ引っ越したいうことやった」


「ところがや」

 母が遠くを見るような目をした。

「それからしばらくたって、ときどきうちの店先に、灯しやのロゴ入りの風船が結び付けられるようになったんよ。幟があるやろ、あれの先に二つか三つ。うちとしては、有難かった。風船は目を引くからな。でも、ロゴ入りにするには、印刷代もかかるし、イベントのとき以外はもったいのうて」

「誰の仕業?」

「はっきりはわからんままやけどな。予想はついとる」

 父は母に同意を求めるように、うなずいた。

「風船の印刷は、マッさんとこで頼んだようなんや。マッさんは聞いてもはっきり言わんかったが、千沙ちゃんのお父さんが、運送の仕事をしとる人で、引っ越してからも、ときどきこの町に来ると言うとった」

「じゃ、千沙ちゃんのお父さんが、うちの宣伝用に風船作って、幟にくくりつけてくれたってわけ?」

「多分な」


「どれくらい続きましたかね、お父さん」

「秋になるくらいまで続いたんやないか? 風船がつけられんようになってから、マッさんが言っとった。千沙ちゃんのお父さんは、別の仕事を始めて、もう町へ寄らんようになったと」

 両親の推測が当たっているとすれば、千沙ちゃんのお父さんが、子どもを慰めてくれたお礼に、風船を届けてくれたというわけだ。

「なんか、笠地蔵の話みたいやな」

 皿に残ったおかずを、美鈴は集めた。

「笠地蔵? 昔話のか?」

 母が美鈴の食べ終わった皿を片付け始める。

「笠地蔵は、お礼にどっさり食べ物を運んでくれる話やから、少しずつ風船をくくりつけた千沙ちゃんのお父さんとは、ちょっとちがうけど」

「恩返しのつもりやったんかね。そんなんええのに」

 ちょっと、それ、まだ食べると、美鈴は母が下げた皿の一枚に、手を伸ばす。

「でも、気持ちはうれしいやないか」

 父が言った。

「こっちはお礼をしてもらおうとは夢にも思っておらなんだ。それやのに」

「だから、琥珀さんとこの話も」

 母がバー・琥珀に、話を戻す。

「その泥棒が、琥珀さんにお礼がしたいんやないか?」

 

 父が立ち上がって、さあ寝るかと言ってから、独り言のように続けた。

「テレビや新聞でひどい話ばっかり聞かされるが、案外、おまえの言うような奇特な人が多いんやないか? 世の中」

「そや、そや。ほんとは、ええ人のほうが数が多いんよ」

 母も立ち上がりながら、歌うように言った。

 

 そうかもしれない。知り合いのいろんな顔が浮かんだ。別れた夫の昌也をはじめ、自分が関わってきた様々な顔が浮かんだ。好きな人もいれば、嫌いなヤツもいる。納得できない考えの人もいれば、間違っているとはっきり思える人もいる。

 だが、やっぱり、みんな根っこのところが善人であることに変わりない。

 この割り合いでいけば、世の中にええ人の数のほうが多いかもしれない。

もうちょっと飲みたいな。

 そう思ったけれど、もう、テーブルの上にはなんにもなかった。四角いコタツテーブルの上には、醤油の垂れたシミだけが丸く残っている。

「美鈴、テーブルの上、拭いといてぇ」

 台所から母の声がした。



 翌日悠人からかかってきた電話で、美鈴は悠人の相手に合う決心をした。

 昨日、両親がくれたポジティブ思考のおかげかもしれない。

 だが、秋葉劇場へ行くものだと思っていた美鈴は、

「アパートに来てよ」

と言われて、ちょっと足がすくんだ。

 瞬間返事が遅れた美鈴に、悠人はあっけらかんと続けた。

「手料理、ご馳走したいんや。薫さんが得意でさ」

 あのいかつい男が料理を作るところを想像するのは難しかっったが、世の中のシェフは男が多いのを思い出す。

「十一時半な。琴葉駅に来てな。駅まで迎えに行くから」

 悠人は楽しそうだ。弾んだ声を聞いていると、こっちまで嬉しくなる。

 ワインを持っていくと伝えて電話を切った途端、二階の軒先に吊るされた、季節はずれの風鈴がちりりんと鳴った。

 

 店のほうを覗くと、店先でホウキを手にした母の姿がある。

 今日は黙って行こう。話すのは、二人と会ってからだ。

 悠人のアパートのある琴葉駅がある町は、駅にすると七つ向こうで、大きな町に近く、勤め人の多く住むところだ。

 

 町のメインストリートにある酒屋でワインを買って、美鈴は駅へ向かった。

自転車を駅の無料駐車場に止めて、久しぶりの電車に乗る。目的の駅は鈍行しか止まらないから、観光客の姿はなく、美鈴は古くて埃っぽい座席にゆったりと座ることができた。

 眠ったような車内だった。窓の外の山並みが、ゆっくりと過ぎていく。

 あれは、駒ヶ岳。その向こうに霞んで見えるのは、御嶽山。

 電車が止まって、間延びした駅員の声が、

「ことはぁ」

と告げた。

 ぱらぱらと降りた乗客にしたがって一つしかない改札口に向かうと、改札口に笑顔で手を振る男の姿が見えた。

 

 悠人だ。

 遠目でもわかる明るい茶色の髪が、水色のダウンジャケットを着た肩まで落ちている。電気メーカーに勤めていた頃は、耳の上を刈り上げた短髪だった。それを思うと、変化が大きい。


「変わらんな、姉ちゃん」

「そう? あんたは」

 続きを言いかけて、詰まってしまった。

 ぎこちない沈黙のまま、歩き出す。


「親父もおふくろも元気?」

「まあ、元気」

 悠人が秋葉劇場へ出ていると聞いてから、母が元気を失くしたとは言えない。

「店は、どう」

「どうって、まあまあや」

「儲かっとるんかな」

「そうでもないよ。トントンいうところかな。くわしいことは知らされてへんけど」

「教えてもらえんのか?」

「そういうわけやない。姉ちゃんは修理のことしかわからんから」


 はははと、悠人が笑った。

 駅前の通りを過ぎて、悠人は細い道に入る。

「この先やから」

 うんと、うなずいて、美鈴はまわりを見た。新しい家ばかりだ。壁の色が洒落たベージュ色の家が多い。若い世代が住んでいるのだろう。

「着いたよ」

 顔を上げると、グレーと黒のモノトーンの、真新しい建物が目の前にあった。



 フローリングの部屋に、黒いソファと黒い大型テレビの目立つ、シンプルな部屋だった。

 生活感がない。ただ、六畳の居間の向こうに見えるキングサイズのベッドが、妙に生々しいだけだ。


「さ、座って。くつろいでよ」

 悠人にうながされて、美鈴は浅くソファに座り、ぎこちなくワインを差し出した。

「高価なワインじゃないから、おいしいかどうかわからへんけど」

「ありがとうございます」

 悠人の後ろで、薫さんが言った。

「会ったことあるんやし、かたっくるしい紹介はやめとく。姉ちゃん、薫さんや」

「この間は失礼しました」

 続いて薫さんが言った。こうして見ると、悠人より、縦も横も大きい。

 美鈴は軽く頭を下げた。なんと言っていいのかわからない。そのまま、ソファの前に置かれた背の低い硝子テーブルを見つめてしまう。

 ピーッと、台所で音がした。

「あっ、沸いた」

 薫さんが踵を返した。なんとなく、美鈴も立ち上がる。

「すぐできるから、座っててよ」

 引き続いて台所へ行ってしまった悠人を追うわけにもいかず、美鈴は所在なくソファに腰を戻す。


 やっぱり来なければよかったな。

 そんな後悔が胸に迫ってきた。

 だいたいが、初対面の人と話すのが苦手なのだ。それなのに、弟の恋人に会っていっしょに食事をするなんて、どう考えても自分にうまくやれるとは思えない。まして、その恋人が、弟と同性とは。どんな会話をすればいいのだ。


 トレーに湯気の立つ大皿を載せて、悠人が戻ってきた。

「食事用のテーブルを買ってなくてさ。僕ら、いつもここで食べとる」

 トレーが硝子テーブルの上に置かれ、料理が並べられた。

「すごい」

 思わず漏らした美鈴に、悠人は満面の笑顔になった。

「やろ? 薫さんの料理の腕は、プロはだしなんや」

 油の浮いたスープの中に、大きく切った肉や野菜が入っている。野菜のひとつは、地元で採れたカブだという。

「さ、食べよ。食べよ」

 きれいに磨かれたワイングラスを並べながら、悠人は言い、

「薫うー」

と、台所へ声をかけた。

 悠人の裏返った声の「薫うー」にも驚かされたが、「オウ」と返ってきた太い声にも、美鈴はびっくりしてしまった。そして、

「食べてみてよー」

と言いながら、薫さんにしなだれかかる悠人を目にして、美鈴はワイングラスを落としそうになってしまった。

 だが、想定内だ、まだ。


 二人が簡易な折り畳み椅子を持ってきて、美鈴の目の前に座った。折り畳み椅子はソファより足が長く、美鈴は二人を見上げる姿勢になる。

乾杯をした。

「お招きありがとう」

 美鈴はワインを一口飲み、それからフォークで肉を突いた。やわらかい。噛んだ途端に肉汁が染み出してくる。

 おいしい。いままで食べたどんなボルシチよりも。

「な、おいしいやろ?」

 うんうんとうなずきながら、美鈴はもう一口食べた。止まらない。

「薫さんて、お料理が上手なんやね。悠人はしあわせや。こんなお料理の上手な人といっしょにいて」

 そこまで言ったところで、ウッと薫さんが呻いてうつむいた。そして両手で顔を覆う。

「ありがとうございます。そんな優しい言葉を」

 目に涙を溜めた薫さんは、ふたたび両手で顔をおおって、悠人にもたれかかった。その肩を、悠人が抱き寄せる。

「びっくりせんといて、姉ちゃん」

「……」

「泣き上戸なんや、薫さん」

 いかつい男の肩を、華奢な悠人の腕が抱えている。

 想定外だ。

 美鈴は呆然と二人を見つめ続けた。



 午後一時すぎ。

 冬の弱い光が、向かいの家の洗濯物に当たっている。風が吹くたび、洗濯物がひらひらと揺れて、白い光がまぶしい。


 食事を終えた美鈴は、薫さんが用意を始めたコーヒー所在なく待っていた。目の前に座っている悠人に、かける言葉が見つからない。それで、ただぼんやりと向かいの家の洗濯物を見ている。

 食事の間、結局、美鈴は肝心のことは聞けなかった。わだかまりが三人を包んでいる。

 悠人がようやく口を開いた。

「結婚式のな、式場も決めた。アンジェラーナ・ゲストハウスって言うんや。かっこええやろ。名古屋港の近く。港が見えて、すっごくすてきなんよぉ」

 すてきなんよぉの部分で、声のトーンが上がった。瞳も輝いている。

「薫さんって、いい人みたいやし反対はしたくないけど、お父さんとお母さんがな、なんて言うか」

「姉ちゃんから話してくれんかな。どうしても親父とおふくろと姉ちゃんには出てもらいたいんや」

「でもな、悠人。お父さんとお母さんは、あたしらと世代がちがうんやから」

「世代の問題やないやろ。親やったら、何があっても、俺が自分らの子どもであることを認めてくれるはずや。自分の子どものしあわせを願わん親がおるんか?」

「それは、ちがう」

「何がちがう」

「お父さんもお母さんも、これがあんたのしあわせとは、どうしても思えんのよ」

「なんで? なんでや」

 そのとき、薫さんが、お盆にアイスコーヒーを載せて戻ってきた。


「――あの、ミルクとお砂糖は」

 美鈴は首を横に振って、悠人に向き直った。

「姉ちゃんはあんたの気持ちを尊重したい。だから、結婚式をやりたい言うんやったら、やったらええと思う。でもな」

 折り畳み椅子に腰掛けた薫さんに顔を向け、続けた。

「お父さんとお母さんが考えるしあわせと、悠人と薫さんが考えるしあわせが、ちがうんや」

「しあわせが、ちがう?」

 悠人が薫さんを見て、それから美鈴を見る。

「うまく言えんのやけど」

 不幸の形は似たりよったりだが、幸福の形は人それぞれ。

 どこかで聞いたか読んだかした覚えがある。うまく言えないが、こういうことなのではないか。

 難しいなと、思う。人の不幸には同情しやすい。だから悲しみにも共感できる。反対に、幸福には異を唱えやすいんじゃないか。


「わかりますよ」

 薫さんが、呟いた。

「そこが難しいところで」

「すみません。言いたいこと言って」

「俺は、諦めへんからな」

 悠人が頬を膨らませた。

「真っ白なウエディングドレスを着るのが夢やったんやからな」

 お色直しのドレスについて、しゃべりだした悠人を、美鈴は呆然と見つめた。



 悠人の結婚式は、五ヶ月後の四月の下旬。大安の日曜日。

 父と母を説得する宿題は、悠人のアパートを訪ねて一週間たっても果たせなかった。何度もトライしようとしたのだ。だが、のんびりした両親の顔を見ると、どうしても言い出せない。

 

 やっかいな修理の仕事が舞い込めばいいのにと、思う。そうすれば、余計なことを考えずに一日が過ぎるのに。

 と、ポケットのスマホが震えた。画面の表示は、琥珀となっている。だが、電話の向こうからは、シャンシャンと大音量の音楽が響いてきた。パチンコ店か、ゲームセンターだろうか。

「今、ちょっといいですか」

 バー・琥珀のマスターの誠一さんの、くぐもった声が聞こえてきた。

「例の箱に、誰かが入れていくお金のことなんですけどね。今朝、見てみたら、また三万ほど増えてまして」

「そんなに」

「昨夜はめずらしく席が埋まるほど盛況で、僕はまったく気がつかなくて」

「じゃ、この前の二人組が入れていった金額と合わせると、六万ぐらいですか」

 電話の向こうの音量に負けないよう、美鈴は大声を出した。

「そうなんですよ!」

 誠一さんも怒鳴る。

「こうなってくると、このままにはできませんわ」

「そうですね」

 神社の賽銭箱じゃあるまいし、いったいどういうことだろう。怪しさを通り越して、何か良くないことに巻き込まれているかもしれない。


「突き止めてもらえませんか」

「はっ? わたしがですか?」

 自分は電気屋で、修理が専門。人探し、謎解きなどできるわけがない。

「灯しやさんは、二人組の顔を見たんだから」

「見たって、ほんの数分のことだし」

「灯しやさんなら、この町の、いろんな人たちに顔が利く。修理の合間でいいんです。それとなく聞いてみてもらえませんか。小さな町です。灯しやさんが見た二人組を知っている誰かがいるかもしれません」

 はあと、美鈴は心もとない返事をした。お客さんに、修理以外の用を頼まれる機会は頻繁にあるし、快く請負いたいが、これは、ちょっと……。

 断ろうとしたとき、誠一さんが続けた。

「お恥ずかしい話ですが、自信がないんですよ。お金を置いていった犯人、いや、犯人やないな、置いていった誰かを早く見つけないと、使ってしまいそうで」

 そんなに切羽詰まっているのか。

 美鈴は胸が痛んだ。扇風機の修理代は、通常どおりの金額を受け取っている。こんなことなら、来月でもよかったのに。


 ちょっと、こっちをお願いできませんかねと、電話の向こうで声がして、はいはいと誠一さんが返事をした。

「すみません、アルバイト中なんで。また」

 慌ただしく電話が切られ、スマホは待ち受け画面に戻った。

 美鈴のスマホの待ち受け画面は、大小大きさのちがうレンチとペンチだ。ネットの写真サイトで見つけ気に入って使っている。

 待ち受け画面を、美鈴はぼんやりと眺め、それから山本酒屋店の電話番号を出した。山本酒屋店は、本町二丁目にある。美鈴が見た二人組の一人が、本町二丁目の物件と言っていた。

 お得意さんに、二人組のことを訊いてみようと思った。あてずっぽうだが、何か行動を起こさずにはいられない。

「灯しやです。お世話になってます」

 相手はすぐに出た。ご主人の昭平さんだった。



「ちょうどええときに電話をくださったなあ」

 こちらの用件を切り出す前に、ご主人の昭平さんは言った。

「裏の蔵の電球が切れたもんでなあ、電話しようと思っとったとこですわ」

 それなら今すぐ伺いますと電話を切ってから、美鈴は自転車で向かうことにした。怪しい二人組のことを訊いてみるのは、電球を取り替えてからでいい。

 

 本町にある山本酒屋店はこの町でおそらくいちばん古い酒屋だ。店の裏には、天井の高い立派な蔵があって、昔は樽に入れられた日本酒が所狭しと置かれていたらしい。

 こんちにはと店先で声をかけると、昭平さんがレジの前に座って待ってくれていた。

「まあ、お茶でも飲みんさい」

右側の脚がわずかに短いのか、座ると若干傾く丸椅子に、美鈴は遠慮しながら腰掛ける。

 出してくれたお茶をもらい、一口すすってから、美鈴は前回のときと同様、LED電球の良さを口にしようとした。値段は張るが、耐久性を考えれば、白熱電球を付けるよりも断然お得だ。

 ところが、昭平さんは、自分もお茶をすすりながら、今回も白熱電球でよいと言う。

「もう、取り壊すからなあ、長いこともたんでもええんや。もう、店じまいや」

「取り壊すって、蔵をですか」

「売る予定があるんですか」

 思い切って、美鈴は訊いてみた。

「ここを、か?」

 昭平さんの、眼鏡の奥の目が丸くなった。

「有り難いことにな、売って欲しいと、いろんな人が言ってくる」

「都会から来た不動産屋の人たちもですか」

「そうやなあ。町のもんより、外の人のほうがここに関心があるみたいや」

 まんざらでもないふうに、昭平さんは微笑む。

 訊きたかった二人組について、情報が得られそうだ。美鈴は勢いこんだ。


「ちょっと、人を探しとるんですが。パリッとしたスーツを着た、三十代ぐらいの男の二人組です。ここを見に来た不動産屋の営業マンに、そんな二人組がおらんかったでしょうか」

「そうやなあ。おったような気もするし、おらんかったような気もするし」

 昭平さんの返事は心もとない。

 美鈴は残ったお茶を飲み干した。



 昭平さんとともに、店の裏の蔵へ入り、美鈴は脚立に上って、天井からぶらさがった電気の電球を替えた。昭平さんの希望どおり、白熱球にした。

 電球の取り替えはすぐに終わったが、美鈴の仕事はほかにもあった。蔵の西側の白壁に沿ってぶらさがった干し柿の竿を、真っ直ぐに直し、紐で結わえたのだ。


「助かったなあ、灯しやさんが来てくれて」

 昭平さんは大げさなほど有り難がってくれ、美鈴はぜんざいをごちそうになった。

「じゃ、また、何かあったらお電話ください」

 脚立を片付け、店を出ようとすると、昭平さんに声をかけられた。

「あんたがさっき言っとった男な。富政んところの息子のことやないかな」

「富政?」

「もう亡くなっとるが、この近所に富政いう大工がおったんやが、その息子が、なんとか言う不動産屋に勤めておってな。ここを買い取らせてくれと来ておった」

「二人組やったんですね?」

「ああ。富政とおんなじようなのが、もう一人来た」


 当たりかもしれない。


「不動産屋の名前を思い出せませんか」

「そうやなあ。スミなんとか、いや、ミツなんとか」

 昭平さんは首を傾げてから、ああそうやと、後ろを向いて、レジのある台の上から何やらつまみ上げた。

「名刺を置いてったぞ」

 名刺には、全国的に有名な不動産屋の名前を冠した、営業マンの名前があった。

 富政健太。

 美鈴は昭平さんから、名刺を預かることができた。



 夕方になるのを待って、美鈴はバー・琥珀に向かった。

 琥珀に客の姿はなかった。美鈴が修理した扇風機が、カウンターの隅にぽつんと置かれている。その向こうから、誠一さんが顔を出した。


「本町の山本酒屋店で、こんな名刺を見つけてきたんです」

 美鈴はポケットから昭平さんから預かった名刺を出した。

「富政健太。親父さんの代から二代続けて、うちに通ってくれとる男や。灯しやさん、顔見たら、わかるな」

 はいと、美鈴はうなずいた。

 

 名刺を見ながら、誠一さんは早速電話をかけ始めた。名刺には、富政健太の携帯番号も記されている。

 電話はつながり、誠一さんは砕けた感じで話をした。新しいピザを考えたから、試食しに来て欲しいと頼んでいる。乾いたナッツぐらいしか出さなかった先代のときとちがって、誠一さんは手作りのピザを出す。これが、なかなか評判らしい。

「来てくれるそうや」

 スマホを耳から外して、誠一さんが言った。

「もし、あいつらやったら、やっとすっきりできる。なんや、他人の金を預かっとるようで居心地が悪かったから」

「そうですね。でも、どうしてそんなことをしたのか、まず理由を聞かないと」

誠一さんが、困ったような表情でうなずいた。



富 政健太が友人といっしょに琥珀に現れたのは、電話をしてから二時間以上たった九時すぎだった。同僚の送別会があったそうで、二次会を抜け出して来たのだという。


 二人は寒い、寒いと言いながら、カウンターの、美鈴の席とは遠い場所に座った。 二人は今日もスーツ姿だ。紺色の細身のスーツ。あのときと同じだろう。いや、ちがうスーツなのかもしれないが、美鈴には同じに見える。


「ビールはもういいんで、バーボンをいただきます」

 片方が言うと、

「じゃ、俺もおんなじのください」

と、もう一方が小さく片手を上げた。

 グラスを口に運びながら、美鈴はそっと横に顔を向けて、二人の顔を見つめた。

 まちがいない。あのときの二人だ。

 カウンターの中の誠一さんに、うなずいて見せる。

 誠一さんは、困ったふうに、目を瞬いて、それからうなずき返した。


「なあ、健太」

 富政健太に向き直って、誠一さんが口を開いた。

「打出の小槌って、知っとるか」

 健太が鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。

「昔話やないですか」

 健太の片割れが口を挟んだ。

「そうよ。振るとなんでも願いのもんが出てくるいうやつや」

「ああ、知ってます。一寸法師の話に出てきましたよね」

「そんな小槌があるといいわな」

 若者二人がそうですねえと相好を崩した。

「僕なんか、そんなんあったら、かわいい女の子お願いしますって叫びますよぉ」

アルコールで頬が赤くなっている健太がはしゃいだ声を出す。

「それ、いいですねえ、先輩。僕の分も出してもらおっかなあ」

「自分でお願いしろよお、俊」

 片割れは俊というらしい。

 その俊が、マスター、おかわり!と弾んだ声を上げた。と、誠一さんが俊のグラスに片手で蓋をする。

「なんですかあ? マスター」

 俊のとろんとした視線が、グラスの上で止まった。


「この店にな、あるんや」

「何がですか」

 健太が顔を上げた。

「小槌やなくて、打出の箱や。金が出てくる箱や」

 ふいに、若者二人が居住まいを正したのが、美鈴の場所からもはっきりわかった。

 二人のグラスを、誠一さんがさっと取り上げる。

「ここからは、アルコール抜きで話してもらおう。なんで、あの箱に金を入れた?」

「……それは」

 顔を見合わせた健太と俊が、口ごもる。

「おまえら二人が金を入れたのを、見た人がおってな」

 二人の肩が、瞬間上がる。

「だ、誰ですか」

「誰でもいい!」

 誠一さんの語気が強まった。

「金は有り難い。やが、身に覚えのない金をもらうわけにはいかん。話してもらおうか」

「それはですね」

 俊が口を開いた途端、健太が悠人の口を片手でふさいだ。

「いいじゃないですか。有り難くもらっといてくださいよ。僕らからの気持ちだと思って」

「気持ち?」

「そうです。僕ら、この町に仕事で来たときは、琥珀に寄るのが楽しみなんです。そのお礼ですよ」

「それなら、飲み代でじゅうぶんや」

「それじゃあ僕らの気がすまないんですよ」

 そうそうと、俊が相槌を打って続ける。

「困っているときは、お互い様やないですか」

「なんやと?」

 誠一さんがキレた。思わずグラスを握り締めて、美鈴は三人を見つめる。

「おまえら、俺を馬鹿にする気か?」

「馬鹿にする気なんかありませんよ」

 俊をかばうように、健太は片手で俊の胸を押さえる。

「あの箱にお金を入れたのは、僕ら二人だけやないんです。琥珀の常連の有志が、琥珀のためにカンパしようって始めたんです」


「……カンパ」

 うめくように、誠一さんが呟いた。

「琥珀が経営難で売り出されると聞いて、僕ら、少しでも役に立ちたいと思ったんですよ」

「誰や、その有志は」

「宝永館の庄司さんが、音頭を取りました。清水さんや長尾さんも賛同して」

 ゆっくりと、誠一さんが首を横に振った。

「琥珀は老舗のバーやないですか。こんな田舎の、ちっぽけな温泉街にあるとは思えないほど、かっこいいバーやないですか。琥珀が少しでも長く続けられますようにって、僕らは」

 バンと音を立てて、カウンターが叩かれた。ビクッと美鈴も体を震わせる。

「大きなお世話や。客の同情なんかいらんわ。ましてや、おまえらみたいなひよっこに施しを受けるほど、俺は落ちぶれとらんぞ!」

「ひよっこって……」

 健太の顔色が変わった。

「そやないか? 健太よ。俺はおまえのお父さんをよう知っとるがな。立派な大工やった。曲がったことのできん、筋を通す人やった。おまえと同じ年の頃にはな、もう独り立ちしとったわ。あのおやっさんに比べたら、おまえなんか、まだひよっこ」

 健太が誠一さんを遮った。

「そうですよ。親父は立派な大工で、立派な職人でした。仕事を大事にして、筋を通した。大したもんでしたよ。でもね、そのおかげで、僕の家の家計は火の車だった。筋を通すのは、立派かもしれない。だけど、裏返せば、融通が利かなかったんや。損するのがわかってて、質を落とさない。頼まれた仕事が完成したあとでも、足を運んでメンテナンスして、そのために、次の仕事を受けない。ひよっこで結構。僕は一生、親父に比べたらひよっこや。でもね」

 誠一さんの手元から、健太が酒の入ったグラスを取り戻した。


「僕は家族のことを第一に考えますよ。自分の理想を追い求めて、家族を置き去りになんかしない」

 ふっと誠一さんが笑った。

「家族って。おまえに家族云々言う資格なんかないやないか。結婚もしてへんくせに」

「そうですよ。だけど、マスター。そんなら、マスターはわかるんですか? 息子さんの涼くんの気持ちが」


「涼やと?」

 誠一さんの声が裏返った。

「涼くんがどう思っているか。マスター、考えたことありますか。涼くんはまだ少年ですが、中身は立派な大人です。涼くんは琥珀を守りたいんです」

 ガタンと音を立てて、健太は立ち上がり、俊の肩を掴んだ。

「俊、出ようぜ」

 黙ったまま、悠人も立ち上がる。

 カウンターの上に、今夜の飲み代が叩きつけられた。

「いらん!」

 誠一さんの怒鳴り声を無視して、二人は店を出て行く。

 入口の扉が、乱暴に閉められた。

 カウンターに一人残った美鈴は、誠一さんを見上げた。

「いいんですか」

「いいも、何も。あいつら、寄ってたかって、余計な真似して」

 カウンターの奥から出てくると、誠一さんは壁の箱をつまみ上げ、美鈴を振り返った。


「悪いが、追いかけて返してきてくれんか」

「でも」

「頼むよ、灯しやさん。どんな顔して施しを返したらええんか……」

 美鈴は立ち上がって、打出の箱を受け取った。



 脇に抱えた箱は、美鈴の動きにしたがってカチャカチャと鳴る。中の小銭が、飛び跳ねているのだ。

 薄暗かった路地を抜けると、通りは橙色の提灯の灯の中に、忘れられたように伸びていた。冬の夜、ときどきこんな日がある。


 人通りは少なかった。どこかで笑い声が聞こえた。両側に並ぶ旅館ののれんが揺れている。

 通りは川を渡る橋へ続き、そのまま駅前へつながる。緩い下り坂だ。

 男二人の姿が見えた。健太と俊だ。


「待ってー!」

 叫びながら、美鈴は走った。

 二人の姿はどんどん遠ざかっていく。このぐらいの距離ならすぐに縮められるはずが、思うように走れない。アルコールのせいだ。

「待てー!健太」

 さんと続けたつもりだが、息が切れてしまった。だが、ようやく二人が後ろを振り向く。


「すみません、待ってください」

 立ち止まった健太と俊が、怪訝な表情で走り寄る美鈴を迎えた。

「これ!」

 美鈴は琥珀から持ってきた箱を二人の目の前にかざし、誠一さんの使いであると告げる。

「受け取ってください。誠一さんは、絶対、この中のお金、貰わんから」

「でもなあ。まいったなあ」

「さっきの話、聞きました。どうしても受け取れんというんなら、有志の誰かのところへ持ってください」

 俊がぱっと顔を輝かせた。

「そんなら、涼くんに渡せばいい」

「そんな。涼くんに渡したら、誠一さんに知られてしまうやないですか」

 涼くんにこのお金が渡ったのを知ったら、誠一さんは、また健太たち有志にお金を返そうとするだろう。

 健太がさっと箱をつかんだ。

「だいじょうぶですよ。涼くんは、誠一さんに言わないです。なんでかって、元はといえば、涼くんが始めたんやから」


「涼くんが?」

「涼くんは居酒屋でアルバイトして金を貯めとるんです。まだ始めたばかりだから、六千ちょっとしか入れてませんけど」

 扇風機を修理した、雨の夜が思い出された。夜、家にいない涼くんを、誠一さんが心配していた。涼くんは、父親に黙ってアルバイトをしていたというわけか。

 だが、あのとき、涼くんは、夜、早いうちに戻っていた。居酒屋のアルバイトなら、あんな時間帰れないのではないか。

「はじめは、自分の小遣いを入れとったらしくて。それを、偶然、宝永館の庄司さんが琥珀で飲んどるときに見て、自分の旅館の食堂を紹介したんです」

「バレんように、厨房で働いとるらしいです」

 二人の説明で、美鈴は納得がいった。

 居酒屋といっても、旅館の中にある、宿泊客向けの店なのだ。食堂を兼ねた店で、閉店時間も早い。

「それから、庄司さんが、常連に声をかけてくれました。といって、強制したわけやないんです」

 俊が、えらいなあと言ってから、続けた。

「父親の窮状を知って、アルバイトをしとるんですよ。助けたくなるやないですか」

「いや、それだけやないんや」

 健太が箱に目を落とす。

「マスターは反対しとるみたいですが、涼くんは、琥珀を継ぎたいんです。それで、どうしても潰したくないし、厨房でアルバイトをしとるいうのも、将来、琥珀で自分の作ったつまみを出したいからと言ってました。僕は」

 言葉に詰まった健太の顔を、俊がなんや?と覗き込む。


「僕は心底、涼くんを応援したいと思った。だって、僕やこいつは」

と、俊の肩を突っつく。

「この小さな温泉街に見切りをつけて、出て行きました。大きな不動産の会社に就職できたおかげで、多分、この町の同い年のヤツらより、いい給料をもらってます。でも」

 続きは俊が引き取った。

「町に残って頑張ろういうヤツを応援したい気持ちがあるんですよ。僕らができない分、頑張ってもらいたっていうか……」

 健太の手から、美鈴はふたたび箱を取り戻した。

「わかった」

「わかったって、どうするんですか」

 健太が言ったとき、駅から列車の音が響いてきた。駅は橋を渡った先だが、静かな夜には、町のどこにいても、山あいを進む電車の音は響き渡る。

「琥珀に戻る。これは誠一さんに受け取ってもらう」

 美鈴が踵を返して歩き出すと、後ろで二人が声を上げた。

「よろしくお願いします」

「今度はいっしょに飲みましょう!」

 振り返って、美鈴は手を振った。



 琥珀に戻ってみると、もう、表の看板は片付けられていた。

 店内は静かだった。あれからも、客は入らなかったのだろう。


 美鈴が入っていくと、カウンターの向こうから出てきた誠一さんは、美鈴の手にある箱に気づいて、顔色を変えた。


「見失ったんですか、あの二人」

 美鈴は首を横に振った。

「追いつきました。でも、また、持って帰ったんです」

 誠一さんの顔が強張る。

「これは、誠一さんが受け取るべきやと思ったんです。だから、持って帰りました」

 深呼吸して息を整えてから、美鈴は箱をカウンターの上に置いた。

「これは、涼くんの気持ちが詰まっとるんです。だから、誠一さんが言ったような、施しとちがうんです」

「涼の?」

 美鈴はうなずき、箱を開けた。そして、中身をカウンターの上にばらまく。一万円札、五千円札、千円札ははらりと落ちた。五百円玉、百円玉は音を立てて転がる。

「ちょっと、灯しやさん、何するんや」


「見てください」

 転がった硬貨を、美鈴は腕を伸ばして集めた。

「有志が入れたんやと、健太さんたちは説明してくれました。でも、大の大人たちが、バーの存続のために、硬貨を入れると思いますか」

 誠一さんの目が、訝しげに光る。

「硬貨を入れるのは、子どもの発想です」

「子どもって」

「涼くんですよ。涼くんが、はじめはお小遣いを入れ、あとはアルバイトで稼いだお金を入れたんです」

 えっと、誠一さんの顔色が変わった。

「健太さんと俊さんが教えてくれました。涼くんは琥珀を潰したくないんやと。なぜなら、自分が継ぎたいからと」

「だから、足りない店の売り上げのために?」

 美鈴はうなずいた。

「そんなこと、涼は一言も」

「言えなかったんですよ。だって、誠一さんは、息子には店を継がせたくない。この町にいて欲しくないと言っとったから。でも、涼くんは、店を継ぎたかった。それで、将来のために、庄司さんところの食堂の厨房でアルバイトをしとるらしいです。いつか、自分が店に立ったとき、自分で考えたつまみを出すために」

 誠一さんが、脱力したように、美鈴の横に腰掛けた。

 カウンターの上に、両肘をついて、ため息をつく。

「涼のためやと思ったんです。こんな流行らない、古色蒼然とした店に縛るのは、あの子のためにならんと思ったんです。あの子に、僕とおんなじ苦労をさせたくなかった。だって、そうやないですか。店さえなかったら、もっと大きな町へ出て、好きな仕事に就ける。僕は親父のせいで、その夢が叶わなかった。でも涼には、自由にさせてやりたいと」

 

 ふと、弟の悠人の顔が浮かんだ。

 悠人がここにいたら、

「そうや、そうや」

と、賛同するだろう。

 灯しやを思い返した。灯しや電気店にも、ここに負けず劣らず、古色蒼然とした空気が流れている。

「生まれた町をどう感じるは、人それぞれやと思うんです」

 箱の中に、お金を戻した。大切なお金だ。涼くんの、そして涼くんを応援しようとする、あたたかい大人たちの気持ちが詰まっている。

「あの扇風機」

 誠一さんが、扇風機に顔を向けた。

「あんな古い物、捨てたかったんです。でも、涼が、どうしても捨てるなって言うもんで」

「この店に合うと思います。おしゃれですよ。古いからって、格好悪いとは限らないんやないですか」

 誠一さんは扇風機を見つめ続けた。その横顔が、ほんの少し和らいでいる。



「えらいなあ」

 バー・琥珀での出来事を話して聞かせると、最初に父から出てきたのは、そんな言葉だった。


「店を継ぎたい。そのために、今から修行するとは見上げたもんや」

 父の胸には、灯しやに戻って来ない悠人があるのだろう。そう言いながら、さびしそうにに熱燗を手酌する。

 家に戻ってくると、両親がめずらしく起きていた。いつもなら十時になると消してしまうテレビだが、今夜は懐かしのなんとかという歌番組があったとかで、起きていたらしい。


「琥珀は、家業と後継ぎの気持ちが合ってたんやから、ええけどね」

 つい、美鈴は言ってしまった。アルコールの入っている父に、悠人の話をするのは得策じゃないと、わかっているのに。

「灯しやはちがう。悠人のやりたいことはここにはないんよ」

「なんやと!」

 地雷を踏んでしまった。流しで洗い物をしていた母が、今はやめといてというふうに、目配せを送ってくる。

 だが、いつかははっきりさせなくてはならないのだ。

 そう思ったとき、ポケットの中でスマホが震えた。

「おい、美鈴」

 怒気を含んだ父の声を無視して、スマホを取り出すと、なんとタイミングの悪い。電話は悠人からだった。


「今、まずいんよ。あんたからの電話がいちばんまずい」

 目の前の父親の顔が、みるみる赤くなっていく。

「待て! 切るな!」

と、悠人の怒鳴り声。

 悠人が慌てているのに、美鈴はようやく気づかされた。

「家永さんて、わかるやろ」

「家永さん? なんであんたが知っとるの」

「説明はあとや。とにかく家永さんが事故に遭ったんや」

 突然飛び出した家永さんという言葉に、美鈴は思考が停止し、事故という言葉にパニックになりそうになった。

「聞いとるか、姉ちゃん。舞台の証明が頭に落ちてきてな。今、諸橋病院に連れてかれたんやで」

 すーうっと、まるで頭の上から冷水を落とされたみたいに、全身に寒気が襲った。

「姉ちゃんーーだいじょうぶか」

「行く。これから行く」

 美鈴は立ち上がり、

「待て、美鈴」

という父の声と、

「あんた、こんな遅くにどこ行くの」

という母の声を振り切って、厚手のジャンパーを羽織ると、美鈴は灯しやを出た。

 

 空には、星がきらきらと瞬いている。刺すような風の中、美鈴は自転車を漕ぎ始めた。

                    

             第三話  了


            


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