二つ目のアイロン
諸橋病院は、町の真ん中を流れる飛騨川の支流を上流に上っていった国道の山沿いにある。
整備された駐車場の隅に自転車を置き、救急病棟の入口で尋ねると、家永さんは病室に入った後だった。
病棟のナースセンターで病室を聞いた。二0三号室。大部屋のようだ。
広くすっきりとした廊下を進み、病室の前へ行くと、中から聞き覚えのある声がした。
「やっぱり、中止になるんかしら」
「当たり前や。ディレクターがこんなことになって、どうにもならんわ」
悠人の声だった。もう一人は、わからない。男の声だが、薫さんではないと思う。
そっとドアを開けた。ベッド数は四つ。手前の二つが空いていて、窓際の二つだけにカーテンがひかれている。そして、窓際の右手のベッドの周りだけが、ぼんやりと明るくなっている。声はそこから聞こえてくる。
「ほんとうに、申し訳ない。僕が迂闊だったばっかりに」
忍び足で病室をすすんでいくと、家永さんの声がした。
しっかりした声だ。安堵のため息が漏れる。そんな自分に美鈴は驚いた。
家永さんへの気持ちのプラグを、抜いたつもりが、ずっと差し込んだままだったらしい。
思わず、うつむいて、自分の服装を見た。今日も、やっぱりいつものツナギ。食事の前に着替えをしていればと、思う。
それにしても、なぜ、悠人が家永さんを知っているのだろう。以前、エアコンの修理に行ったとき、家永さんは映像関係の仕事をしていると言った。その仕事と、悠人たちのショーが関係あるのだろうか。
悠人の甲高い声がした。興奮すると、悠人はそんな声になる。
「迂闊とか、そういう問題やないと思います。殺されかけたんですよ、家永さんは。たまたま、メイクさんが呼んでくれたおかげで、真下からははずれたけど。そうやなかったら……」
殺されかけた?
カーテンを引こうとした美鈴の手が止まった。
「そんな大袈裟だよ」
家永さんの声が続く。
「大袈裟じゃないですよ。照明が落ちてくるなんて、普通は考えられんのやから」
「そうや。きっと、誰かが仕組んだんや」
知らない声も悠人に同調する。
美鈴はバッとカーテンを開けた。
「わっ、姉ちゃん!」
「灯しやさん!」
悠人と家永さんが同時に叫び、悠人の横にいた青年が、シッと人差し指を唇に当てた。
「殺されかけたって、どういうことや?」
美鈴が叫ぶと、青年がふたたび、
「だから、シッだってばあ」
と、小声で言う。見覚えのある顔だった。初めて秋葉劇場を訪ねたとき、薫さんといっしょにベンチを運んでいた美少年で、美鈴を「脚立」と呼んだ。
ベッドの上の家永さんは、頭と首に包帯を巻いているものの、顔はおだやかだった。その様子に、ふたたび胸を撫で下ろす。かわりに、ベッドを囲む二人の男に、美鈴はギョッとさせられた。二人ともTシャツとジーンズという普通の服装だが、顔がすごい。目のまわりには青いラメが輝き、唇は真っ赤だ。舞台化粧そのままで駆けつけたのだろう。
「ま、説明するから、座ってよ」
悠人にうながされて、美鈴は広げられた折り畳み椅子に、ぎこちなく腰掛けた。
「家永さんはね、舞台の上にあるライトが落ちてきて怪我したんや」
「ストリップライトやな」
ストリップライトとは、舞台に大道具が組まれたときーーたとえば、舞台上に作られた部屋――に、その屋内を照らすために取り付けられる照明だ。欄間吊りともいわれる。客席からは見えない。通常、一、八メートルの樋形の箱の中に、電球が一列に取り付けられている。
「その桶型のストリップライトが三本取り付けてあってな。その一つが、家永さんが、俺らの踊りを近くで見とる最中に、突然、落っこちてきた。頭の真上に、ドシャーンと」
「うまいぐあいに避けることができて、肩と首に擦り傷をしたのと、びっくりして転んだときに腰を打ったぐらいで、二、三日で退院できそうです」
ホッとしたと途端に、この奇妙なつながりに気づいた。
「なんであんたが家永さんを知っとるんか、まずそれを説明してよ」
ああ、それはと、悠人が額に落ちた前髪を払った。
「家永さんが映画を作っとる人やいうことは知っとるな」
「そうなんですか?」
驚いた美鈴に、悠人が呆れ顔になった。
「なんや姉ちゃん、そんなことも知らんと、家永さんと付き合っとったんか」
途端に、電流を通したみたいに、心臓がドクンと鳴った。
「付き合っとらん」
強く否定した。
「付き合ってない?」
目をぱちくりさせて、悠人が家永さんに顔を向けた。
「病院に運ばれる前に、家永さんに町に知り合いがいるかって訊いたら、灯しやの美鈴さんとお付き合いしてますって……」
家永さんはバツが悪そうに、ベッドの上でもぞっと体を動かし、首に響いたのか、辛そうに顔をしかめ、
「お付き合いしたいって言おうとして……。間違えたんです」
と、ほとんど聞き取れない声で呟く。
「俺、びっくりしたけど、奇遇やなあ、その灯しやの美鈴は俺の姉ですって、言ったんや」
だが、悠人はそれ以上この問題を追求しようとはしなかった。美鈴の顔が、自分でも嫌になるくらい上気してしまったからだ。
「ともかくや」
咳払いをしてから、悠人は続けた。
「家永さんが撮っとる映画にな、俺ら、秋葉劇場のダンサーたちが出演するんや。それで、家永さんが秋葉劇場に打ち合わせに来た。ショーが終わってからやから、九時過ぎやな」
「そしたらですね、事故が起きて」
口を挟んだ美少年を、
「こいつ、仲間の圭哉って言うんや。事故が起きたとき、いっしょにステージにおった」
と、悠人は紹介した。
「俺の見た感じでは、ストリップライトを吊っとるバインド線が、経年劣化を起こしたんやと思った」
「バインド線!」
叫んだ美鈴に、圭哉くんがふたたびシッと指先を唇に当てて囁いたが、美鈴は意に返さなかった。。
「いまどき、バインド線でストリップライトを吊っとったとは」
憤慨した美鈴を、圭哉と家永さんが不思議そうに見つめる。
「バインド線って?」
圭哉がくんが小声で訊いた。
「簡単に言えば、塩化ビニルで覆われた針金のことや。たとえばやな、電線を造営材とかにくくりつけるのに使うんや」
「造営材?」
素人には耳慣れない言葉ばかりなのだろう。だが、悠人はちがう。今こそショーダンサーだが、もとは家電メーカーのエンジニアだ。
「壁とか柱のことをそう言うんや」
「落ちてきたストリップライトは、いつ付けられたんかな」
真新しい外観の秋葉劇場を、美鈴は思い出す。リニューアルされたのは、いつだっただろう。
「さあな。秋葉劇場はリニューアルされとるが、変わったのは、外観や売店のほうだけで、舞台は昔のまんまのはずや」
「僕もそう思うな。古い舞台やもん」
大きく圭哉くんがうなずいた。
「バインド線で吊るのは危険やと、電気関係者なら、皆知っとる話や。ま、昔はそういうこともあったようやけど」
「ということは、やっぱり、経年劣化の事故なんかな」
「いや、俺は、絶対、誰かが意図的にライトを落としたんやと思う。僕らが使っとるときな何ともなくて、家永さんが立った途端に落ちてきたんですよ。まるで誰かが図ったみたいに、ぴったりと」
家永さんは顔をしかめ、包帯を巻いた首筋を撫でた。それから、喉が渇きましたと、ベッドの傍らの棚から、マグカップを取って、一口飲んだ。マグカップには、ポケモンの絵が描いてある。
修理に行ったとき、レゴブロックで遊んだじゅんくんを思い出した。
「お子さんたちは、だいじょうぶですか。もし、何かお手伝いできることがあれば」
母親がいないのだ。父親が入院して困っているのではないだろうか。
「ありがとうございます」
家永さんは穏やかな笑顔を美鈴に向けた。
「だいじょうぶですよ。義母が見てくれていますから」
そう言ったまま、家永さんは、美鈴を見つめ続ける。美鈴も視線をはずせず、二人は見つめ合ってしまった。
「もう、休んだほうがいいですよ。とっくに面会時間は過ぎてるんやし」
圭哉くんが立ち上がり、
「僕らも帰りましょう」
と、悠人と美鈴をうながした。
そのとき、病室のドアがカチャリと音を立てた。続いて、コツコツと、細いがヒールの音が響く。
カーテンが開けられた。その瞬間に、甘い香水の香りがただよう。
「真理」
弱々しく顔を上げた家永さんに、真理と呼ばれた女が、ベッドにすがりついた。
「行こ」
美鈴がさっとカーテンの外へ出た。
「ちょっと、姉ちゃん」
悠人と圭哉も続く。
美鈴は振り返らなかった。知らず知らず大股になる。
「あれ、誰や」
病院の駐車場まで来ると、立ち止まって、悠人が病院のほうに顎をしゃくった。駐車場は建物の横にあり、明るい窓の病棟が見える。
「さあな」
自転車の両立スタンドをはずした。まだ、心臓がバクバクしている。予想できた登場なのに、ひどく動揺してしまった。怪我をした相手を、付き合っている女性が見舞うのは当たり前なのに。
甘い香水の香りが、まだ鼻に残る。
「姉ちゃんと家永さんは、どういう付き合いなんや?」
「なんもないよ」
――すぐに誰かを好きになっちゃうんです。
いつか、家永さんがそう言ったと知ったら、悠人はなんと思うだろうか。
――いますぐは、無理なんです。いますぐに、全部をすっきりするのは無理なんです。
そんな家永さんの気持ちを、悠人は理解できるだろうか。
サドルにまたがった美鈴を、悠人はちょっと悲しそうな目で見た。
そんな目で見ないで欲しいと思う。美鈴にはわからないのだ。家永さんの本心が。そして自分の本心も。ただ、事故に遭ったと聞いて、いてもたってもいられず駆けつけてしまったのは事実だけれど。
「家永さんがどういう人なんか、俺はくわしく知らんけど」
駐車場の端に、圭哉の運転する軽自動車を見つけて、悠人は手を振った。
「命を狙われるような人ではないと思う」
ふいに、風が出ないエアコンの前で、子どものように掌を振っていた家永さんを思い出した。たしかに、物騒な事件に巻き込まれるタイプとは思えない。
「姉ちゃん、明日、秋葉劇場に来て、調べてくれんかな。俺はバインド線の経年劣化やと思ったけど、ほんとにそうなのか、どうか」
「そんなん、姉ちゃんが見たって、あんたの見立てと変わるやろか」
「姉ちゃんは、プロや。俺が気づかんかったところに目が行くかもしれん。俺は心配なんや。もし、誰かが仕組んだことやったら? 仕組んだ誰かは、秋葉劇場の関係者やろ?」
「まあ、そうやろな」
「仕組んだ犯人が関係者やったら、性懲りもなく、また、家永さんを狙ってくるかしれん。そしたら、大変や。家永さんにとっても俺にとっても」
熱が入る悠人を、美鈴は訝しげに見た。
「なんで、あんたにとっても?」
「家永さんがまた襲われて、ひどい怪我でもしたら、この劇場で映画の撮影をするんが流れるかもしれん。それは、困る。だって、映画に出る機会なんか、これ逃したら、もうないかもしれんやないか。俺、どうしても今回、映画に出たいんや。ほんちょっとの端役やけど、記念になると思うんや」
「記念て、あんた、これが最後のショーやあるまいし」
「最後にするつもりなんや」
えっと、美鈴は悠人の目を見た。
「いつまでも若くないしな。薫さんと結婚式を挙げたら、俺、別の仕事に就こうと思っとる」
「灯しやに戻って、電気屋になる?」
有り得ないとは思ったが、言ってみた。案の定、悠人は即座に否定する。
「まさか。俺な、薫さんの腕を活かして、小さなビストロを開きたいんや」
意外だったが、応援したいと思った。新しい夢に挑戦しようとする弟の力になりたい。
「姉ちゃん、あんまり貯金、持ってないけど、少しなら」
「ありがとな。でも、俺ら二人で、ずっと前から準備してたし。それに、なるべく金のかからん方法を考えて、薫さんの実家をリフォームして店にするつもりなんや」
「薫さんの実家って、高知……」
声が弾んでくる悠人とは裏腹に、美鈴の気持ちは沈んできた。
両親に、なんと言えばいいか。薫さんを紹介するだけでも、高い高いハードルなのに、そのあとには、結婚式を挙げる事実も説明しなくてはならない。そして、店を開きたいという希望も。しかも、高知で。
高知は遠い。息子が灯しやから遠く離れてしまうのを、父は嘆き、母は悲しむだろう。
「俺としては、なんとしてでも、家永さんに映画の続きを撮ってもらいたいんや。そのためには、今後の安全をしっかり確かめたい」
美鈴だって、家永さんが今後も安全でいて欲しい。そのために、悠人が言うように、誰かが仕組んだ落下であるかどうか、調べるのはやぶさかじゃない。
「でもなあ。姉ちゃんが勝手に劇場でライトを調べるわけにはいかん」
「だいじょうぶ。支配人に俺が交渉したる。だから、明日、頼む」
背後からライトが伸びてきて、駐車場を圭哉くんが運転する青い軽自動車がやって来た。
「さっきの話な。まだ内緒な」
車のライトに照らされた悠人の横顔が言う。
「さっきの話って、ビストロを高知で開きたいって話?」
「ちがう。家永さんの映画に出たら、俺がダンサーをやめるって話。薫さんには言ってないんや。薫さんは、自分の夢のために、俺が夢を諦めるのは嫌や言うやろうから」
悠人の横顔は、ちょっとさびしげだ。
「薫さんのために、自分の夢を諦めるわけやないのに」
「じゃ、なんで?」
悠人からの返事はなかった。さっと車の助手席のドアを開けて乗り込む。
サドルにまたがったまま、美鈴は走り去る軽自動車を見送った。
秋葉劇場の支配人に了解が取れたと、悠人から連絡が入ったのは、翌朝の八時過ぎだった。
「急がせて悪いけど、午前中に終わらせて欲しいそうや」
それが条件で、悠人は灯しやに修理を頼むと了承させたらしい。もちろん、美鈴も、午前中には仕事を終えるつもりでいた。そうしなければ、夕方からのショーに支障をきたしてしまう。
工具箱を自転車の荷台にくくりつけていると、母が店から出てきた。
毛糸の手袋をした手に箒と塵取りを持った母は、訝しそうに美鈴を見る。
「どこの現場や?」
振り返った美鈴は、まっすぐこちらを見つめる母から、思わず目をそらした。
ゴムバンドを、大げさなほどぎゅうぎゅう締める。
「どこやと、訊いとるんやが」
「うん。えっとーーそや、高坂さんのとこ。洗濯機の調子が悪いって」
咄嗟に、そんな名前しか出てこなかった。
「高坂さん? 御代橋のとこのか?」
そうそうと、うなずき、美鈴は自転車にまたがる。
「先月修理に行ったやろ。また、壊れたんか?」
そうだった。忘れていた。しっかり直した事実が、頭の中から抜け落ちていた。
「ほんとに、高坂さんのとこか?」
いつのまにか、母の持った箒が、荷台に引っ掛けられている。これでは、漕ぎ出したくても漕ぎ出せない。
「あんた、昨日の夜、慌ててどこへ行ったんや?」
家永さんが入院した病院へ行ったのを話していなかった。美鈴はホッと胸をなで下ろした。家永さんの怪我について話すのは、秋葉劇場へ行くというよりもずっとハードルが低い。
「ああ、昨日はな」
続きを言いかけたとき、家の中から父が出てきた。
「待て、美鈴」
父の表情が硬い。
「秋葉劇場へ行くのはわかっとるぞ。三ツ星電気の拓さんから電話があってな」
話の先が読めない。
「三ツ星電気は、秋葉劇場の照明を取り付けた電気屋や。その拓さんが電話してきてな。秋葉劇場の工事は、これから灯しややさんになったんですと」
今日父は、公民館の電気工事に行く予定だ。小さなホールを併設している公民館の、アンテナ設置の作業で、数件の電気屋が共同で行うことになっている。
「拓さんが別の箇所の工事の件で電話したとき、支配人から灯しややの名前が出たそうや」
父の顔が、さらに険しくなる。
「理由はなんや?」
母の箒のせいで、ペダルを踏んだ足を動かせない。こうなったら、ほんとのことを言うしかない。
「昨日の夜、秋葉劇場でストリップライトが落ちて、家永さんに当たったんや。それで、なんでそんなもんが落ちたんか、調べて欲しいと悠人に頼まれた」
「家永さんて、ロボット掃除機を買いに来た」
「そうや。家永さんは撮影の仕事をしとる人で、今度、撮影する映画に悠人たちも出演するらしいんや」
「出演て、映画にか?」
母がかすれた声を上げた。
「あの衣装でか?」
言ってしまってから、母はバツが悪そうに、父と美鈴を見た。
「お母さん、悠人のショーを見たん?」
意外だった。悠人がどんなショーに出ているのか、母は知らないものとばかり思っていた。
「見たんか!」
父が目を剥いた。
「だって、心配やないですか。息子が秋葉劇場でどんなことをしとるか、心配でたまらんようになって」
「行くなと言ったやろが!」
「でも……」
「でもやない!」
父の怒鳴り声に、美鈴の中で、どうにかつなぎ止めていた我慢の糸が切れた。
「見に行ったらええんよ。ううん、見に行くべきや。だって、そうやろ。息子の出演する舞台をなんで見にいかれへんの」
ううっと、父が唸った。顔が赤くなる。
灯しやのある通りを、ピュッーと風が吹き抜けていった。冷たい北風だ。
「息子が心配なんは、当たり前や。どんな仕事をしとるか、どんなところで暮らしとるか、知りたいんが家族やないの。家族やったら、知るべきやないの! わたしはあの子の暮らしとるアパートにも行ったよ」
「おまえ、陰で悠人に会っとるんか!」
「お父さんに許可をもらうつもりはない」
「なんやと!」
お互いの怒りが溜まっている。昨日の今朝だ。昨晩、悠人から電話をもらって、家永さんの入院する病院へ駆けつける前、父と言い合いをしていたのだ。ほかでもない、悠人のことで。
「悠人から会いたいって、ずっと言われとったんや。紹介したい人がおるから、時間を作って来てくれと言われとった」
「紹介したい人?」
母が目を見開く。
「そうや。悠人が付き合っとる人や」
「……付き合っとる人?」
二人がぽかんと口を開けたまま、穴が開くように美鈴を見た。
「男か?」
美鈴は目をそらして、うなずいた。そらしてしまった自分が情けない。悠人のために、もっと堂々とすべきなのに。
「――そんな」
母がゆっくりと首を横に振った。化粧気のない唇が震えている。
美鈴は自転車の荷台の箒をはずして、母に手渡した。
「薫さんいうてな。ええ人やった」
「許さんぞ」
聞き取れないくらいの囁き声で、父が呟く。
「許せるわけない。そんな」
ペダルを踏んで、美鈴は自転車を漕ぎ出した。母が何か言ったが、振り返らなかった。
秋葉劇場の舞台の上には、昨日の事故の痕跡が生々しく残っていた。舞台の上に作られた、高い梁の下に、ストリップライトの硝子の破片が飛び散っている。
悠人が言ったように、リニューアルされたとき、舞台には手をつけられなかったようだ。床板は擦り切れて、ところどころ亀裂が入っている。目立つ穴は、ガムテープで蓋をしてある。踊っている最中に、つま先を入れてしまっては事故につながる。応急処置として貼られているのだろうが、なんともお粗末だ。
しゃがみこんで、美鈴は砕けたストリップライトを手に取った。通常のライトだ。次いで、梁とライトをつないであったバインド線をつまみ上げる。たしかに、古びている。これなら、自然に緩んで落下してもおかしくない。
切れた痕もなかった。
もし、悠人が言うように、誰かが家永さんを狙って、ストリップライトを落としたとすると。
いや、まず、そんなことが可能だろうか。
美鈴は舞台装置の高い梁を見上げた。ストリップライトが取り付けられていた部分は、梁の下の部分。落ちたライトの部分だけが細長く空いて、両側は同じ構造のストリップライトが横に並んでいる。
家永さんを狙ってライトの一本を落とすとすれば、そのライトだけに、なんらかの加工をする必要がある。そして、家永さんが、ちょうど真下に来たときに、どこからか操作をして、ライトを落とす必要がある。
美鈴は割れて半分になったり、ほとんど形を留めていない電球を見ていった。
一つだけが、LEDの電球ではなかった。しかも新しい。
取り付けた誰かが間違えたのだろう。大道具に付けられた照明の電球の取り替えを、必ずしも業者がやるとは限らない。
ふと、薫さんの顔が浮かんだ。大道具の薫さんが、一つだけ電球の種類を間違えるとは奇妙だとは思ったものの、有り得ないわけではない。
舞台裏の倉庫から借りてきた脚立に、美鈴は上り、ストリップライトがはずれた梁の部分を間近に見てみた。
細工された痕はない。
家永さんは、不運だったのだ。たまたま古びたライトが落ちてきた。そのとき、真下にいた。
そう思ったとき、客席から、
「イヨッ、灯しやさん」
と、声がかかった。
「なんや、悠人。来てたんか」
客席の中央あたりで、悠人が座って手を振っている。来たばかりなのか、ダウンジャケットを着込んでいる。
ひょいひょいっと座席をまたいで、悠人は舞台に上がってきた。
「なんか、わかった?」
美鈴が集めてビニール袋に入れた砕けた電球に、悠人が顔を寄せる。
「不審な点はないな」
脚立の上から、言った。
「そうかあ。じゃ、やっぱり偶然の事故か?」
「そやろうな」
事故のほうがいい。家永さんが誰かに恨まれていたとは思いたくない。
「とりあえず手持ちの電球を付けとくから、今日の舞台には支障はないはずや」
「しっかり付けといてくれ。また、落ちてきたらかなわんからな。ダンサーのみんなが、すっごく怖がっとる。特に、真介が」
「なんで、その子が?」
電動ドリルで歪みの残るストリップライトを取り付けていく。上を向いた姿勢は、ちょっと窮屈だ。
「真介いうのが、いちばん、この梁の下に行く回数が多いんや。回数が多いってことは、当たる確率も高いってことやろ」
だが、今日の舞台はだいじょうぶだ。梁に取り付けるバインド線は、新しくした。落ちてくる心配はない。
「手際ええなあ」
悠人が呟く。
そのとき、上手の舞台の袖から出てきた人がいた。小柄な女性だ。顔も体もふっくらとしていて、なんだか鞠を思わせる。耳の上で切られたベリーショートの髪型が、若さを際立たせている。
「おう、陽菜ちゃん」
「おはようございます」
陽菜ちゃんと呼ばれた女性は、明るいけれど、控えめな挨拶を悠人に返してから、ちょっと不思議そうに、美鈴を見た。
「この人、俺の姉ちゃん。電気屋なんや」
脚立の上から、美鈴は軽く頭を下げた。陽菜ちゃんも、つられたように頭を下げる。
「彼女ね、うちのメイクさん」
陽菜ちゃんは、梁を仰いだ。
「怖いですよね、照明器具が落ちてくるやなんて」
悠人は陽菜ちゃんを相手に、落ちてきた照明がどんなものなのかを説明し始めた。どうやら、陽菜ちゃんも、昨夜、家永さんが怪我をしたのを目撃したようだ。
「帰ろうとしたとこやったんです、わたし。ショーも終わったし、撮影の人との打ち合わせには用がないから。そしたら、照明が落ちてきて、危ない!って叫んで」
「そのおかげで、家永さんは助かったんや。そのすぐあと、キャーッて叫んだのは、コータやな」
「そうだと思います。はじめ、ビローンて、照明が梁からぶら下がったときは、みんな叫ぶのも忘れて」
「そうそう。一瞬、みんな、あれ何って感じやった。落ちて、初めて、みんな何が起きたんかわかった」
二人の会話に、美鈴は脚立の上で動かしていたドリルを止めた。
「ちょっと、今の話」
脚立の上から、美鈴は二人の話に割り込んだ。
「ビローンって言ったよね、今」
悠人と陽菜ちゃんが、えっと、美鈴を見上げる。
最後のネジを止めてから、美鈴は脚立を下りた。
「バシャッと落ちたならね、経年劣化かと思ったんやけど、もし、誰かがバインド線を緩めて操作したとすると、あんたたちが見たみたいに、ビローンとぶら下がってから落ちた理由になる」」
陽菜ちゃんの顔に、?マークが浮かんだが、美鈴は夢中で続けた。
「誰かが舞台意外の場所にいて、バインド線の端を持ち、家永さんが真下に来たときに狙いをつけた……」
「そんなら、そのなんとか線の端を持っとった人は、あっちにいたと思います」
陽菜ちゃんは、そう言って舞台の上手の袖を指さした。
「なんで、上手の袖やと思う?」
小柄な陽菜ちゃんに顔を寄せて話しかけた、悠人の横顔がやさしい。
ふと、弟の彼女がこんな人だったらと思った。やさしそうで、あたたかそうな女の子。陽菜ちゃんなら、灯しやの両親も、両手を上げて賛成するだろう。
そう思ったとき、悠人がふいに振り返って、美鈴を見た。心を見透かされたわけでもないのに、慌ててしまう。
型にはめちゃいけない。型にはめようとするから、悠人が苦しむのだ。
陽菜ちゃんが、続ける。
「昨日のあの時間、下手の袖には、緞帳の修理のために機材が搬入されて、立ち入り禁止だったやないですか」
「そうか。みんな舞台へは、上手の袖から出入りしたんやったな」
昨日の光景を思い出すように、悠人は遠くを見るような目をしている
「バインド線の端が上手の袖まで届くかやってみよう」
脚立から下りて、美鈴はゴミ袋を覗き、はずしたバインド線を取り出した。
「ちょっと悠人、こっち持って」
バインド線の端を悠人に渡し、もう一度脚立に上がってみる。それから、梁の部分に使う分だけ抑え、脚立を下りて袖へ向かう。
「――ダメや。ここまでしか行かん」
袖に入る一メートルほど手前で、線は届かなかった。
「ということは、誰かが袖にいて操作したってのは、はずれやな」
「でもな、細工がされとるんは間違いないと思う」
バインド線を丸めながら戻り、美鈴は自分の掌を見た。
「おかしいな。何年も前から取り付けっぱなしのバインド線に、埃も汚れも付いとらんとは」
「あっ」
悠人と陽菜ちゃんが、同時に小さく叫んだ。
「誰かが拭き取ったんやと思う。仕掛けを作るために」
「だけど、どんな仕掛けですか? だって、袖に届かなかったってことは、線の端を持ってて緩めるのは無理でしょう?」
「そうやよねえ。この長さで、取り付けたストリップライトを落とすとなると……」
「この下で、引っ張るしかないな」
身長が一メートル七十センチほどある者なら、手が届く。
「引っ張れるいうことか?」
目を見張った悠人に、美鈴はうなずいた。だが、悠人はすぐに首を傾げる。
「といってもなあ。こんな高いとこの細工、見つからんようにできるやろか。だって、脚立に上がってしか、細工できんやないか」
「ストリップライトの中の電球が、一つだけ、LEDやなかった。取り替えた誰かが間違えたんやと思う。誰かが細工をするために、電球を取り替えるのを装ったとき、間違えて種類の違う電球を付けたんや」
「ということは、電球を取り替えた者が、細工をした者」
はっと陽菜ちゃんが顔を上げた。
「真介くんです。わたし、真介くんが取り替えるのを見ました」
「真介が? なんであいつがそんなことしたんや」
「真介くんって、この梁の下で踊る頻度が高い子?」
「そうや。あいつやったら、ぶら下がったバインド線を引っ張る機会はあったはずやな」
「でも、なんで、そんなこと」
陽菜ちゃんが、口をすぼめた。そんなふうにすると、ますます幼く見える。
「聞いてみようやないか、直接」
悠人はそう言うと、脚立をひょいと持ち上げた。
楽屋で真介くんーー間宮真介という名のダンサーを待つことになった。
まだダンサーとしては新米だという真介くんは、歌も踊りも、その他大勢といったところで、際立った特徴があるタイプではないという。
悠人は楽屋でそんな話をしながら、メイクをはじめ、出演準備をした。入念にメイクをし、裸になって、タイツを履く。
「あんた、いくら目の前にいるのが姉だからって、もう少し恥ずかしそうに着替えてよ」
思わず美鈴が文句を言ってしまったほど、悠人は堂々としたもので、
「やだ、ごめんなさい」
とふざけるばかり。
美鈴には、何もかもが驚きの連続だった。化粧の匂いや派手な衣装。あられもない姿の男たちが行き交う廊下や、なぜか時折湧き上がる嬌声。ここはまったく、自分とは縁のない世界。自分の理解を超えた世界。美鈴は自分がだんだん小さくなってしまうように感じた。
「あらあ、悠人ちゃんのお姉さまなの?」
と、何度も声をかけられ、
「悪いんですけど、上げていただける?」
と、ピラピラした衣装の、背中のジッパーを上げもした。
誰もが、美鈴に遠慮などしなかった。それぞれが個性を作り出し、目いっぱい、その個性を表現しようとする熱気がある。いや、熱気というより、鬼気迫る何かがある。
「なんか、キョーレツやね」
そんな言葉を悠人にこぼすと、
「刺激的と言って欲しい」
と、返ってきた。
「ここでは、誰もが自分の殻を破れる。グズグズ言うもんは、おらん。潔いいんや」
ちょうど悠人は、青く塗った瞼を半分閉じて、長いーー美鈴はこんな長いつけ睫毛を初めて見たーーを、付けているところだった。
「麻薬みたいなもんや。一度この世界に触れると、もう、戻れん。外の世界が、嘘だらけの、ごまかしだらけの、ふやけたもんに思える」
また、悠人が遠くなったと、美鈴は思った。悠人は道を見つけたのだ。自分の生きる道を見つけて、歩き出したのだ。歩き出した悠人が遠くなるのは当たり前なのに、美鈴はちょっとさびしくなる。
「あっ、真介だ」
廊下を歩く青年を鏡越しに見た悠人が声を上げた。
遠慮がちに楽屋に入ってきた真介くんは、悠人が顎でうながした丸椅子に、浅く座った。背中に背負っていたリュックサックを音も立てずに置き、緊張した表情で悠人と美鈴を見る。
「悪いな。忙しい時間やのに」
美鈴を紹介してから、悠人が言った。
「構いません。僕の出番、ずっと後やし」
そうかとうなずいてから、悠人は美鈴を見た。どんなふうに切り出そうか、迷っている様子だ。さっきは、聞いてみようやないか、直接などと、威勢がよかったくせに、なんだか弱腰だ。
「吉良さんの振り付けは慣れたか?」
「いえ、はい」
「なんや、どっちや? ま、わからんことあったら、遠慮なく聞いてよ」
吉良さんというのは、つい最近この舞台をまかせられた振り付け師で、様々な踊りのステップを取り入れる人なのだという。今回は、ちょっとしたバレエの振りがあって、ダンサーたちを泣かせているらしい。
姿かたちがいくらそれらしく見えても、やっぱり男の集団だ。女性とちがって、バレエ経験者は少ないだろう。
悠人は優しかった。一回りは年下の相手に、先輩風を吹かせず、対等に話している。
真介くんが、悠人を尊敬しているのが伝わってきた。目がキラキラしている。踊りのアドバイスを真剣に聞いている。
そして悠人が訊いた。
「つい最近、舞台の照明の電球を、真介が変えたらしいな」
は、はいと、真介くんは答え、
「チカチカしとるのに気づいたもんですから」
と続ける。
それきり悠人は黙ってしまった。助け舟を求めるように、美鈴を見る。
立ち上がって、美鈴は回収してきた、割れた電球の入ったビニール袋を持ち上げた。
「これ、落ちたストリップライトに入っとった電球なんやけど。こんなん落ちてきたんやから、痛かったと思うよ、家永さん」
真介くんの表情が強張る。
「ほんとのこと、話してよ」
言ってしまってから、美鈴は後悔した。真介くんの顔が、こちらに非があると思えるほど、悲しそうに歪んだからだ。
もうちょと、遠まわしな言い方をすればよかった。どうしてそんなことをしたのか、真介くんの気持ちを聞いてから、真実を聞き出せばよかったのに。
また、やってしまった。
なぜ、いつも自分は、直球しか投げられないのかなと思う。
「家永さんには悪かったと思ってます」
うつむいてしまった真介くんは、蚊の鳴くような声で言った。
「でも、家永さんがあのまま撮影を続けると、映画が完成してしまうから。映画が完成したらーーそしたら、悠人さんはダンサーをやめてしまうんですよね?」
顔を上げた真介くんの目が、すがりつくように悠人を見る。
「それは……」
「去年、僕、自分の進路に悩んでて。そんとき、この舞台を見て、感動したんです。こんな世界があるんだって、自分の生きる道が見つかったっていうか」
誰かが練習をしているのか、リズミカルな音楽が聞こえてくる。軽やかな歌声も。
「舞台の悠人さん、すてきでした。僕もあんなダンサーになりたいって、すっごく思ったんです」
悠人の踊りを見たことはなかったし、見たとしても、踊りの善し悪しはわからない
けれど、弟が褒められているのが嬉しかった。弟が他人に感動を与えたのだ。
「僕はここに入ってから、悠人さんを目標にしてやってきました」
椅子の上で、もぞもぞと悠人が体を動かした。照れくさいのだ。
「それなのに、悠人さんがやめてしまうと聞いて、なんか、裏切られたような気がして」
「そんなつもりはない。ここに文句があるわけやないし」
「だったら、なんで、撮影が終わったらやめちゃうんですか?」
「誰に聞いたんや?」
「薫さんです」
「薫さんが?」
悠人は驚いた目を、美鈴に向けた。美鈴は首を傾げて返す。
昨日、悠人は、撮影が終わったら、ダンサーをやめると話してくれた。そして、その話は、まだ薫さんに話していないとも。
だが、真介くんの話によれば、薫さんは、悠人の気持ちに気づいているようだ。
「おまえ、薫さんに頼まれたのか?」
「頼まれたわけじゃないです。薫さんから話を聞いて、僕にできることがあると提案したんです」
提案って。こういうときに、提案と言うか?
「だから、電球を替えるふりをして、ストリップライトと梁をつなぐバインド線に細工したんやね? バインド線を前のより長くして、先をぶら下げて引っ張れるようにした……」
真介くんがうなずいた。
「踊りながら、さりげなくあの梁の下に行って、それでバインド線の端っこを引っ張りました。家永さんが真下に来るタイミングを見計らって」
「おまえな」
悠人が怒気を含んだ声で言う。
「もし打ちどころが悪かったら、大変なことになったんやぞ」
「ほんとにーーすみません」
真介くんがうなだれる。
「ちょっと驚かすつもりだったんです。家永さんがびっくりして腰でも抜かせば、撮影が禁止になるだろうって、薫さんに言われて。まさか、あんなにドンピシャリの場所に、家永さんが立つなんて思わなくて」
「でも、あの細工」
一度照明をはずして、また付け替えるなんて。美鈴や電気関係の業者ならたやすい仕事だが。
「素人にできることやないんやけど」
真介くんは、イタズラした子どものような目で、美鈴を見た。
「僕、工業高校の電気科出身なんです。あんな細工、簡単です」
「コノヤロウ!」
悠人が声を荒らげたとき、楽屋のドアが開いて、
「真介、みんなが探しとるぞ」
と、薫さんが入ってきた。
「あっ、薫さん」
飛び上がるように立ち上がった真介くんの表情を見て、薫さんの表情もいっぺんに強ばった。そして、ふうっと大きくため息をついてから、悠人と美鈴を順番に見る。
「バレたんやな」
悠人が真介くんに、もう、行けと顎をしゃくった。
重い空気が、楽屋の中に流れた。薫さんは悪びれるふうでもない。ゆっくりと、真介くんの座っていた椅子に腰掛けると、胸の前で腕を組んだ。
「――すまん。ただ、これだけはわかって欲しい。怪我をさせるつもりはなかった。ドンピシャリの場所に、家永さんが立つはずないと思ったんや」
うなだれた薫さんに、でもなと、悠人は続けた。
「卑怯やないか? 薫さん」
薫さんが目を剥いた。
「卑怯って、どういうことや」
「だってそうやないか。映画の撮影をやめさせたいからって、真介にあんな細工させて。あいつは新米やから、先輩からの頼まれ事に嫌とは言えんかったんやないか?」
「俺に、電気工事はできん。それに、あいつは俺とおんなじ気持ちやったから」
「おんなじ気持ち?」
薫さんが、まっすぐ悠人を見た。
「おまえにダンサーをやめて欲しくなかったんや」
「やめるかどうかは……」
「やめようと思っとることぐらい、わかる。俺はいっしょに暮らしとるんやぞ。俺は、お前に今の仕事を続けて欲しいんや。俺の夢の実現のために、お前に踊るのをやめて欲しくないんや」
「これでもな。ダンサーを見る目はあるんやで」
美鈴は悠人の言っている意味がわからなかった。薫さんも、不思議そうに悠人を見ている。
両腕を腰に置いて、悠人は鏡の前でポースを取った。それからポンとスリッパを投げ捨てると、転がっていたハイヒールに履き替える。
「誰が踊りの才能があって、誰にないか。俺、見る目あるんや。それでな、見切りをつけたんや」
わざとらしく、悠人は体をくねらせてみせた。艶やかだ。美鈴は心底そう思う。
「俺、才能ない。これ以上やっても、芽が出ん」
何か言いかけた薫さんを、悠人は制した。
「諦めるというのもな、ものすごく大事な才能なんや。やっとることに見切りをつけんと、次のことが始まらん。次に始める何かに、俺の眠った才能があるかもしれん。見切りをつけんと、それが見えてこんのや」
そう言ってから、悠人はふざけた調子で足を動かした。今夜のショーで披露するステップなのか、つま先を内側にしたり外側にしたりしながら、横へ移動する。
と、悠人が瞬間止まって、体の位置をずらし、同じステップを続ける。
「あっ」
美鈴は小さく叫び、しゃがみこんだ。
床にはビニールクロスが貼られている。そのクロスが、ちょうど悠人が瞬間止まった場所で剥がれ、黒いガムテープで補修してある。
「わかった!」
床に腹ばいになったまま、美鈴は二人を振り返った。
「家永さんが、ストリップライトが落ちてくるドンピシャリの場所に立った理由が、わかったよ」
床のビニールクロスに貼られたガムテープをつまむ。
「これや。舞台の床も、古くて亀裂や穴があった。悠人が、今、このガムテームで補修された場所を避けて踊ったみたいに、家永さんも避けたんや。それで、ドンピシャリの場所に立ってしまったというわけ」
賞賛の声を期待して振り向いた美鈴は、あてが外れた。
二人はなんとも言えない奇妙な表情をしている。
「……姉ちゃん、変なかっこ、するなよ」
確かに、無様な姿だった。お尻を二人のほうへ高く上げて、床に顔をこすりつるけている……。
きれいだ。
なんだか、見ているこっちまで胸が高鳴ってくる。
「すてきですよね、悠人さん」
後ろから声をかけてきたのは、陽菜ちゃんだった。
美鈴は今、上手の前から二列目の緞帳の陰で、踊り歌う悠人を見ている。この場所は、うまく隠れないと客席から見えてしまうが、出演者が真横に見られる。
悠人たちダンサーは、数人が輪になって回り、蝶のように手足を広げながら中心に集まっては離れるを繰り返している。
「絶対、帰るなよ。絶対見て行けよ」
舞台へ出る前に、悠人はそう美鈴に念を押していった。
「今度、ちゃんと切符を買って見に来るって」
そう言った美鈴を、悠人は信用しなかった。
「ダメ、ダメ。姉ちゃんは一人で来る勇気なんかない」
さすが弟だ。よくわかっている。
そういうわけで、客席に回ろうとしたのだが、グズグズしているうちにショーが始まってしまい、まるで関係者のように、舞台の袖から見ている。
踊りの輪が崩れ、悠人一人が前へすすんだ。そして、真っ直ぐ伸びた足をたくみに使って、絶妙なステップを見せる。
――諦めるというのも、ものすごく大事な才能なんや。
悠人の言葉が蘇る。
この踊りに才能があるのかないのか、美鈴にはわからない。ただ、舞台から伝わってくる情熱はほんものだと思う。そして、今、このとき、悠人がしあわせであることも。
灯しやの父や母だって。
美鈴は思う。
この悠人のしあわせを知ったら、悠人の生き方を認める気になるんじゃないか。
「あれ?」
思わず小さな叫び声を漏らし、横の陽菜ちゃんに怪訝な顔をされた。
美鈴は顔半分を緞帳の端から出したまま、一人の観客を見つめた。その観客は、夢見るような表情で舞台を見ている。
悠人が早い回転をやってのけると、手を叩いている。その叩き方が、人一倍大きい。ここから音は聞こえないが、きっと、まわりのどの観客よりも大きな音を出しているにちがいない。
「――お父さん」
父が下手の前から七列目、観光客らしき中年の女性たちのグループから、二つ席を開けた場所に座っているではないか。
美鈴は観客席へ向かった。腰を屈めて、美鈴は父の座る場所へ近づくと、美鈴に気づいた父が、目を丸くし、それから困ったように顔を歪めた。
そのまま、そのまま。
声を出さずに唇だけを動かして、美鈴は静かに父の隣に座った。
「母さんに見てこいと言われてな」
舞台では、まだ悠人のソロが続いている。
「絶対行かんぞと言うたんやがーー、見に行かんのやったら、出て行くと言われた」
子どもの頃から、父に口答えをする母を見たことがなかった。まして、出て行くなどと母が言うとは。
「灯しや電気店よりも、悠人のほうが大事や。そう言いよった」
ステップや回転があるたびに、人々から拍手が湧く。父も手を叩く。美鈴も思い切り叩いた。
よかったね、悠人。
お父さん、あんたを、見とるよ。ありのままのあんたを、見とるよ。
舞台で悠人が、何かおどけたふりをして、観客たちを笑わせた。父も笑っている。
美鈴も笑った。悠人はふざけたしぐさもプロだ。笑いすぎて、目尻に涙が滲んできた。涙は舞台が暗くなっても止まらなかった。
ショーが終わり、そそくさと帰ろうとした父を、美鈴は悠人のいる楽屋へ連れて行った。
舞台がはねたあとの興奮と熱気。汗と化粧の混ざり合った匂いが充満し、衣装から落ちた羽根飾りが舞う廊下をすすんでいくと、父は徐々に小さくなっていった。
途中、着替える前の圭哉や真介が、挨拶をくれた。
「わああ、悠人兄さんのお父様!」
「僕の憧れの先輩なんですぅ」
彼らとしては、精一杯の愛想をくれたが、父には伝わらなかったようだ。父の緊張は増し、ろくな挨拶も返せなかった。
ようやく悠人の楽屋にたどりついた。
ところが、中にいたのは、タイミングが悪いことに、薫さんだった。
いや、タイミングがよかったのだ。紹介したいと思っていたのだから。
薫さんは、部屋の端っこで、スタンド式の人型アイロン台の上で、アイロンを滑らせていた。いかつい体を丸めて、懸命にアイロンを動かしている。
アイロンをかけているのは、悠人の衣装だろう。紫色のロングドレスだ。薫さんは大道具のはずだが、こういった雑用もこなすのか、それとも、恋人の衣装の皺が気になってやっているのか。
「悠人は?」
美鈴が声をかけると、アイロンを持ったまま、薫さんは目を見開いて、美鈴と父を見た。
「今、お手洗いに行ったんやけど」
「父が」
美鈴がそう言ったところで、薫さんはアイロンを置いて、頭を下げた。深々と、なんだか謝っているみたいに。
「お父さん、この人、薫さんて言ってな」」
父がせわしなく瞬きした。
「ご挨拶が遅れて、申し訳ありません。栗田薫といいます。悠人くんと仲良くさせていただいてます」
堂々と、はっきりとした口調だった。美鈴はなんだか嬉しくなった。
父はなんと言うだろう。美鈴は知らず知らず息を詰めている。
そのとき、部屋の入口のドアが開いて、悠人が戻ってきた。
このときの、楽屋の鏡越しに見た悠人の顔を、美鈴は一生忘れられないと思う。
驚いた、困ったような。それでいて、嬉しそうな。
まだ青いシャドーが目の周りを覆っている、その大きな目に涙が滲んだことも、絶対忘れられないだろう。
父が悠人に顔を向けた。
「それ、おまえの衣装か?」
悠人が、へ?と妙な声を上げてから、アイロン台の上の衣装を見た。
「そうやけど?」
「なんで、この人がアイロンをかけとるんや」
「皺が気になったもんで、勝手にかけとるだけです」
薫さんが、あわてて言った。いかつい体が小さく見えた。父の鋭い眼光に、すっかり恐縮してしまっている。
「薫さんは、俺のために、すすんでやってくれとるだけや」
悠人の言い分は正しい。こんなことを、とやかく言われたくないだろう。
ところが、父から出てきたのは、意外な言葉だった。
「ずいぶん古いアイロンやな」
父はつかつかと部屋を横切り、アイロン台の上の衣装を手に取る。
「この部分はナイロンやが、こっちのほうはビロードやな。こういうもんに、ドライアイロンを使ったらあかん。スチームで伸ばせ」
「い、一応、スチームも出ますが」
「蒸気の穴が詰まっとるやないか。これじゃ、あかん」
こんな場面で、アイロンの講釈をしている。美鈴は呆気に取られてしまった。いくら電気屋だからって、これはないだろう。
「あかんぞ、こんなアイロンは」
父は言い放ってから、美鈴に顔を向けた。
「お母さんに電話して、うちの売りもんのアイロンを持ってきてもらえ」
何を言い出すかと思ったら。
「いいんや、お父さん。この衣装、特に急いでアイロンかける必要はないんやから」
「そうですよ。後日、わたしが新しいのを買ってきます」
薫さんも恐縮する。
「ええから、美鈴、電話しろ。悠人のために一生懸命やってくれとる人に、こんな古いアイロンを使わせるわけにはいかん」
うん、わかったと、美鈴はポケットからスマホを取り出しながら、廊下へ出た。
電話に耳を寄せて母と話をしていると、楽屋の中から声が漏れてきた。悠人と父の声だ。何を話しているのか、はっきりとは聞こえなかったが、こう言った父の声は聞き取れた。
「よろしくお願いします」
そして、悠人がこう言う声も。
「ありがとう、お父さん」
家永さんが入院する諸橋病院へ続く坂道を、四人は歩いていた。家永さんへ謝罪をするために向かっているのだ。
悠人と薫さんが並び、その後ろに、数歩遅れて真介くんがいる。
明け方に冬の嵐を思わせる雨が降り、それから降ったりやんだりを繰り返している空は、いまだ晴れ間を見せない。
冷たい憂鬱な天気は、いっそう四人の気持ちを重くしている。
「家永さん、許してくれるやろか」
真介くんが、白い息を吐きながら声を上げた。
「わからんけど、謝るしかない」
薫さんの表情も暗い。
「かすり傷やったんが、せめてもの救いやな。家永さんの担当の看護師さんが言うには、あと二、三日で退院できるそうや」
ほんとうに、よかった。美鈴は心底そう思う。そして、悠人たちには申し訳ないが、謝罪をする薫さんと真介くんに付き添うという口実で、こうして見舞いができるのが嬉しかった。
日に日に、家永さんについて、考えをめぐらす時間が増えてきている。何を考えているわけでもない。ただ、家永さんが言った言葉を繰り返したり、話をしたときどきの表情を思い出している。
かといって、どうしたらいいのか、美鈴にはわからない。真理と呼ばれた女性の存在が、大きく立ちはだかっている。
「姉ちゃんが、深刻になる必要ないんやで」
振り返った悠人に言われて、美鈴は返事ができなかった。
ほんとうは、悠人に相談したい。悠人なら、いい方法を見つけてくれるんじゃないか。自分に何ができて、何ができないか。自分はどうしたいのか。はっきりさせてきた悠人なら、解決できるんじゃないか。
病院の前まで来ると、気持ちがふさいできた。
重症や。
そう思った。こんなのは、自分らしくないのだ。いつだって、思い悩む前に行動してきた。結果オーライの性格を、母から受け継いでいたはずなのに。
ナースステーションに挨拶をし、家永さんの病室に行ってみると、昨日まであった向かいのベッドがきれいに片付けられていた。代わりに、水色の風船が二つ、床の上で低くバウンドしている。
「じゅんくん!」
美鈴が叫んだと同時に、ベッドの横でジュースを飲んでいたじゅんくんが、走り寄ってきた。
「わあい、電気屋のお姉さんだ!」
じゅんくんにジュースを飲ませていたのは、真理さんだった。さっと立ち上がって、テロンとしたオレンジ色のスカートの上に広げていたハンカチを取る。そして、美鈴たちに目を向けた。
「今日はなんの修理ですか」
「い、いえ。今日はそういうのでは」
じゅんくんを抱き寄せたまま、美鈴は真理さんを見つめた。言葉が続かなかった。多分、自分より年下のはずで、しかも真理さんは、声を荒らげたわけでもない。それなのに、萎縮してしまう。
悠人が後を引き取った。
「すみません。僕ら、ちょっと家永さんと話があります。申し訳ありませんが」
そこまで言ったところで、家永さんが、声を上げた。
「真理、悪いけど、じゅんに下の売店でおもちゃを買ってやってくれ」
「あたし?」
不服そうに口を尖らせたものの、スカートの裾をひるがえして、真理さんは病室を出ていった。
「えっ? 君が?」
照明が落ちてきた理由を説明すると、家永さんは目を見開いて真介くんを見た。真介くんは、消え入りそうな声で、はい、とうなだれる。
「真介だけが悪いわけじゃありません。真介を焚きつけたのは、俺で」
薫さんが、床に膝をついた。
「この通りです。許してください!」
いかつい薫さんの体がガバと前のめりになる。続いて、真介くんも膝をつく。
「ちょっと、やめてくださいよ」
半身を起こし、イタタタッと、家永さんは呻いてから、
「イタズラが過ぎたっていうわけですね」
「大事に至るところでした。謝っても謝りきれません」
薫さんは、床に額をこすりつけんばかりだ。真介くんは、鼻水をすすり始めている。
「偶然が重なって、こうなったんです。真介くんは、ただ、驚かすために照明器具が落ちるように細工したんやけど、それが、偶然が重なって、ドンピシャリの場所に家永さんが立ってしまって」
美鈴は、真介くんがやった細工と、床の穴の説明をした。言わずにはいられなかった。
「すごいなあ、灯しやさん。相変わらず、いい仕事してるじゃないですか」
本気で感心されているのか、からかわれているのか。
ただ、家永さんの美鈴を見る目は、優しい。ふわっと、何かやわらかいもので、包まれたような気持ちになる。
「まあまあ。頭を上げてください。もう、いいですよ。まだ、撮影が始まったわけじゃないんだし。それに、撮影を中止させようとした理由を聞いたら、怒れないじゃありませんか」
そして家永さんは、悠人に顔を向けた。
「踊りをやめて欲しくないと思われるなんて、すごいじゃないですか」
悠人は薫さんの後ろで恐縮している。
「僕は踊りの専門家じゃないからわからないけれど、悠人くんには、熱烈なファンが少なくとも二人はいるってことだから」
「悠人さんの踊りは、ほんと、他の人とちがうんですよ」
真介くんが顔を上げた。
「さあ、お二人共、立ってください。その情熱。ますます僕の映画に出てもらいたくなっちゃいますよ」
照れくさそうに頭を掻きながら、真介くんが立ち上がり、薫さんも続いた。立ち上がりながら、ふたたび謝罪の言葉を口にする。
そのとき、真理さんが、じゅんくんの手を引いて戻ってきた。
「これ、買ったんだよ!」
じゅんくんがおもちゃの袋を手に、ベッドに駆け寄った。
「また、ミニカーを買ったのかあ」
責める口調だが、家永さんから満面の笑顔がこぼれる。
と、家永さんの視線が、真理さんとぶつかり、二人は瞬間見つめ合った。その視線の中には、二人だけに通じる何かがあって、美鈴の足はすくむ。
ここに自分の居場所はない。そう思う。
「もう、失礼しよう」
美鈴の声に、あっと家永さんが声を上げた。
「まだいいじゃないですか」
すがるような瞳を寄越した家永さんに、真理さんが言葉をかぶせた。
「また、寄ってあげてくださいね」
行こうと、美鈴は悠人の手を引いた。行が訝しげな表情でついてくる。
病院を出たところで、美鈴は悠人に腕を掴まれた。
「ちょっと待ってや、姉ちゃん」
何かを感じ取ったのか、薫さんが先に帰ると、姉弟だけにしてくれた。薫さんは、強引に、真介くんも引っ張っていく。
二人を病院の前の坂道に見送ると、悠人は美鈴の前に立った。
「いいんか? あのままで」
「いいって、何が?」
「素直になりゃあ(なりなさい)」
土地の言葉はいい。こんなとき、優しく気持ちを撫でてくれる。
「姉ちゃんが家永さんを好いとるんは、傍で見ててようわかる」
美鈴は横を向いて、悠人の視線から逃げた。
「俺、家永さんも、姉ちゃんのこと、好いとると思うんやけど」
二人の脇を通った人が、悠人を見た。病院の入口は、人の出入りが多い。
「姉ちゃん、よくわからんのよ、家永さんいう人が」
「なんで?」
「知らん世界の人やしな」
悠人がプッと吹き出した。
「電気屋やったら、わかりやすいんか?」
「派手な世界の人やいうことや。姉ちゃんは、こんな小さな町で、古い家電の修理ばっかりやっとるから」
「そこがええんかもしれんやないか」
「まさか」
美鈴の不安の先には、真理さんがいる。家永さんと真理さんは、年の差こそあれ、よく似合っていると思う。
「あっちで話そか」
悠人はロータリーの中にある、バスのベンチを見ている。
ちょうどバスが行ってしまった後のようで、ベンチには誰も座っていなかった。
ちょっと待ってと、悠人は途中にあった自動販売機で飲み物を買い、走って美鈴に追いついてきた。美鈴にはあったかい紅茶。自分にはコーラ。
「あんた、コーラは苦手やないの?」
「いつの話や」
ペットボトルの蓋を開け、悠人はごくごくと飲んだ。こんな季節に冷たいコーラを飲むとは、悠人は二十代だなあと思う。
「病院に来とった真理さんいう人。家永さんの彼女なんか?」
コーラを飲み干してから、悠人は美鈴に顔を向けた。
「――そうやろな。今は」
「今はって、どういうこと」
「女の人のこと、すぐ好きになるんやって」
「浮気性ってことか」
「まあ、そうかもしれん。修理に行ったときに言われたんや。今は真理さんと付き合ってるけど、姉ちゃんのこと好きになってしまったって」
悠人の目が見開かれる。
「男の勝手な言い分やないか」
「少しずつ、いい方向に持っていきたいって。突然は無理やけど、少しずつ頑張るって」
はあーと、悠人はため息をつき、空のペットボトルで、トントンと手の甲を叩く。
「な、どうしたらええか、わからんやろ」
「正直な人なんやなあ、家永さん」
「こういうの、正直って言う? なんか、わざと混乱させられとるような気がするんやけど」
立ち上がって、悠人はペットボトルを捨てに行った。
悠人が戻ってくるのを待つ間、美鈴はロータリーの先に広がる林と、そのずっと向こうに並んでいる山々を見つめた。
高い山には白い雪が見える。
「きれいやなあ」
戻ってきた悠人が、立ったまま呟いた。
「こういう景色を見ると、町を離れるのが惜しい気がする」
「高知にだって、山はあるやろ」
さびしさを隠すために、美鈴はぶっきらごうに応えた。
「あるけどな。でも、この町から見える山とは違う。おんなじように見えても、やっぱり違うんや。ここには、ここでしか見られん風景がある」
腰掛けて、悠人はまっすぐ美鈴を見た。
「姉ちゃん、自分に自信を持ってや。姉ちゃんには姉ちゃんにしか持ってないもんがある」
「そんなもん、あるやろか」
「ある」
悠人は語気を強めた。
「おんなじように見えても、人はそれぞれ、みんな違う。その違いがええもんなんや。大切にせんなんもんなんや」
「あっ、あれ」
遠い山の斜面に、雲から差した日が当たり、小さな虹を作っている。
美鈴はうっすらと山肌を染める虹を見つめ続けた。
土手の桜が満開を迎え、町を流れる川の水も緩み出した四月半ばの日曜日に、悠人と薫さんの結婚式は決まった。
はじめの予定から、三ヶ月も伸びてしまったが、それまでの紆余曲折を考えれば、決まっただけでも良しとしなくてはならない。
父と母の了解を得るのは、思っていた以上に簡単だった。薫さんの人柄に好感を抱いた父は、普通の嫁を取るような感覚で話をすすめてくれたし、母は、式の話をする前から、同性婚にたいする垣根を取っていた。
二人共、言いたいこと、不安なことはたくさんあっただろう。それを口にせず、悠人のしあわせだけを見ようとした態度には、潔さすら感じた。式当日の段取りについて、悠人たちの希望を聞くたび、驚いたり、不安を感じた美鈴とはくらべものにならない。
場所は、町のメインストリートにある老舗旅館、前坂。灯しやのお得意さんであるツネおばあちゃんが、先代のおかみを勤めていた旅館だ。
はじめ、名古屋港に近い、アンジェリーナなんとかという式場を予定していた悠人と薫さんだったが、式場の名前が舌を噛みそうだとか、遠すぎるだとかいう理由で父の猛反対を受け、前坂に決まった。
前坂は、名前こそ古臭いが、チャペルも併設されているし、披露宴会場もモダンな造りだ。ツネおばあちゃんの跡取り息子が、経営方針を一新したおかげで、若い世代に受ける催しができるようになった。そうでなかったら、悠人も首を縦にふらなかっただろう。提携している貸衣装店のウエディングドレスが洒落ていたのも、悠人が妥協できた理由だ。
いや、まず、前坂の跡取り息子が、同性婚にたいする理解を示してくれたからこそ、話はすすんだ。小さな温泉街での初の試みに、彼は熱意と優しさを持って挑んでくれた。
「おばあちゃん、いい息子さんを持ってしあわせや」
感謝の気持ちをツネおばあちゃんに言ったけれど、わかってくれたかどうか。結婚式の招待状を見たと言って、灯しやにやって来たツネおばあちゃんは、
「花嫁さんの名前を忘れとるぞ」
と、母に繰り返したのだから。
きっとすてきな結婚式になるだろう。
だが、問題は、式を二日後に控えた日に起きた。すべての準備が整い、あとは天気の心配をするだけとなった、二日前の午後、父の従兄弟の正広さんがやって来たのだ。
「欠席?」
奥へ上がれというのに、店の椅子に腰掛けた正広さんに、用件を告げられた父は、そう叫んでから、お茶を運んできた美鈴を見た。
「そう言わんと、なんとかならんかね」
父は穏やかに返した。
だが、山一つ向こうの集落で、農業を営んでいる正広さんは、日に焼けた顔を、これ以上ないほど歪ませて、
「ほんとに申し訳ないが」
と、繰り返す。
「子どもの頃からよう知っとる悠人の式や。どうしても出席したかったんやが」
その先は言われなくても想像がついた。まだまだ古い慣習が残っている地域だ。世間体や噂を第一に気にする共同体に、正広さんは生きている。
「そんなら、祥江さんはどうするな」
従兄弟には、夫婦で出席してもらう予定だった。
「祥江も遠慮させてくれ。それから、子どもらも」
「明人くんや美奈ちゃんもか」
「二人共この町の高校に通っとるんや。わかってくれえ」
店の奥の茶の間で話を聞いていた美鈴は、思わずため息を漏らした。予想できた展開だった。それなのに、手を打たなかった自分が情けない。
親戚への招待状は、父が直接届けている。
「みんな断ってくるはずや。昨日、本家の田村の家で、話をした」
父は言葉を返さなかった。ふうと、大きなため息だけが響いてくる。
本家でそう決まったのなら、親戚一同欠席となるだろう。
美鈴は指を折って、欠席者を数えた。
十二人。
テーブルがまるまる二つ空いてしまう。
悠人になんと言おう。
買い物に出ていた母が帰ってきて、
「正広さんやないですか」
と驚く。
「あれ、もうお帰りですか」
母の明るい声が聞いていられず、美鈴は裏の庭から灯しやを出た。
そろそろ日が暮れる土手の道を、美鈴はあてもなく歩いた。
川の水は少なかった。このところ晴天が続いたせいで、いつもは見えない岩が顔を出している。
岩の上に、春になると見かける黄色い羽根の鳥がいた。鳥は見ているうちに岩を替え、そのまま薄雲の流れる空へ飛んでいく。
簡単なことじゃないんだな。
春になって伸びてきた青い草を摘んで、美鈴はすぐに川に投げた。
人と違う生き方をするのは、簡単じゃない。
これから何度、今日と同じ思いをするだろう。悠人はそれに正面からぶつかっていかなくてはならない。
ふいに、家永さんに会いたくなった。
家永さんなら、今の美鈴のかなしみも憤りもわかってくれるだろう。わかってくれて、笑い飛ばしてくれるだろう。
電話してみようか。
ポケットからスマホを取り出して、美鈴は待ち受け画面を見つめた。
悠人たちといっしょに、病院へ行った日以来、家永さんとは会っていない。あれから、三ヶ月あまり。何度も着信があった。でも、出なかった。
少 しずつ、いい方向に持っていきたいと言った家永さんの言葉に嘘はないかもしれない。でも、それは家永さんと美鈴にとってであって、真理さんにではない。
誰かがかなしむことで、いい方向にすすむことがあるとは、美鈴には思えない。
歩き疲れて立ち止まり、美鈴は顔を上げた。いつのまにか日は暮れて、町の灯が川面に映っている。
道の先に、懐かしい建物が見えた。家永さんが暮らすマンションだ。
川に向いた部屋の窓に、灯しやが見えた。オレンジ色の灯しや。
その灯しやを見た途端、涙が溢れそうになった。
声が聞きたい。
強くそう思う。ただ、そう思う。夢中でスマホの着信をリ・ダイアルした。何を話そうか、考えていなかった。だから、
「灯しやです」
と、言ったきり、泣き出してしまった。
結婚式当日は、薄曇りの天気になった。
「降るかもしれんぞ」
そう言った父の言葉どおり、式の間、パラパラと雨が来たらしい。
だが、披露宴を終えて、二次会に向かうために前坂を出たときは、東の空に雲間ができ、明るい光が覗いていた。
披露宴のテーブルは、心配したほど空かなかった。
家永さんが、仲間を連れて来てくれたのだ。その中には、悠人や薫さんと同じ生き方をしている、デザイナーやカメラマンがいた。彼らは本気で悠人たちを祝福してくれた。熱い拍手が、何度も何度も湧き上がった。
二次会は、バー・琥珀。美鈴は家永さんといっしょに向かうことになった。タクシーを待っていると、家永さんがやって来たのだ。
「今日の僕の役目を覚えてますか」
そうだった。
泣きながら電話をしたとき、悠人の結婚式に出てもらえるよう頼んだ。すると、家永さんから条件を出された。
――灯しやさんの恋人として出席できるなら。
「いい結婚式でしたね」
美鈴の横にたたずんだ家永さんが、言った。タクシー乗り場には、長い列ができている。
「出席していただけて、感謝しています」
「今日だけでなく、これからほんとに灯しやさんの相手になれるよう頑張りますよ」
そう言ってから、家永さんは腕時計を見て、間に合うかなあとつぶやく。
美鈴はそっと、つぶやいた。
「今日からは美鈴と呼んでください」 第四話 了
灯しや電気店 popurinn @popurinn
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