エアコンと亡き妻の遺言 6
クスノキの盛り上がった根が、地面に現れて、ゴツゴツとした突起を作り出している。
その上を歩く蟻を、子どもたちが指先で追いかけている。
ふいに、家永さんが言った。
「弟さん、秋葉劇場に出ているんですね?」
やっぱり、悠人との会話を聞かれていたのだ。
美鈴はこっくりとうなずいた。
他人に肯定すれば気持ちが軽くなるかと思いきや、美鈴は余計に不安になった。悠人が、何か得体の知れない存在と思える。
これから、悠人と、どんなふうに接すればいいのか。
だが、家永さんは、美鈴の不安を吹き飛ばすように屈託がなかった。
「僕は映像の仕事をしているんですが、仕事仲間には、弟さんと同じ嗜好を持つ人がたくさんいますよ」
それから家永さんは、自分の仕事で、彼らが如何に活躍してくれているかを、とうとうと並べ立てた。
「今どき、特別視するなんて笑っちゃいますよ。高い鼻の人と低い鼻の人がいるみたいに、ひとそれぞれ個性を持っている。そう思いませんか」
理屈は美鈴にもわかっいている。でも、父や母、そして自分がわだかまりを持つのは、理屈では割り切れない何かなのだ。
「自分と違う存在を受け入れるのは、難しいのはわかります。でもあんまり難しく考えないほうがいい場合もある」
「こういうのはどうでしょう」
家永さんの丸くて人懐っこい目が、美鈴を見た。
「答を出さないんです。理解できるとも、できないとも、はっきりさせない。わからないまま、すすんでいく」
美鈴は思わず首を傾げた。
「そんなん、できません。受け入れるんなら受け入れる。認められんのやったら離れる」
うーん、そうかあと、家永さんは唸ってから、ぽそりと付け足した。
「でも、人間同士のことだからなあ」
そして家永さんは、ふと思いついたように、言った。
「姉弟は仲がよかったんですか」
「はい。よくいっしょに遊びました。ちょっと遊びの趣味が合わなかったんやけど。あの子はリカちゃん人形で遊ぶのが好きで」
「お姉さんは嫌いだったんですか」
「あんまり好きになれませんでした。わたしはお人形に触ると、すぐ戦いごっこにしたがるほうで」
プッと家永さんが吹き出した。
「リカちゃん人形で戦いごっこかあ。姉弟でずいぶん違うんですね」
「姉弟が反対だったらよかったって、父は思っとると思います」
「どうして?」
「父は弟に店を継いでもらいたいんですよ」
「お姉さんが継げばいいじゃないですか」
「そういうわけにはいかんのです。だってーーわたし、女やから」
コツンと、家永さんが足元の小石を蹴った。それが、コロコロと地面を転がっていく。
子どもたちが、真似をして石を蹴り、走り出した。
「女だと、駄目かあ」
「腕はあるんですけどね」
言ってしまって、自分でもびっくりした。自分で腕自慢をするのは初めてだ。
「腕はある、か。頼もしいじゃない」
「好きなことやから。好きなことやから、きっちりやります。丁寧に、最後まで責任を持って」
「好きなことだから、なんだ。仕事だからじゃくて」
「いえ、仕事だからなんやけど。でも」
「でも?」
「夢中になってやってると、一瞬やけど、しあわせを感じるときがあるんです。その瞬間がなかったら、いい修理はできません」
うわあーんと、小さいほうの子が泣き出した。どうやらかけっこをして、兄に負けたのが悔しいらしい。
家永さんが駆け寄って、子どもを抱き上げ戻ってきた。
「そろそろ家に戻ります。ガキたち、喉が渇いたみたいだから」
「はい。午後一番にうかがいます」
美鈴はぺこんと頭を下げた。
「待ってますよ。腕のいい電気屋さん」
顔が赤くなりそうになって、美鈴はもう一度頭を下げた。
稲荷から家に戻ると、美鈴はその足で自転車にまたがった。修理の約束は午後一で、まだたっぷり時間はあるが、家の中に戻って、父や母と顔を合わせたくなかったのだ。
部品と脚立を積んだ不格好な自転車を漕いで、美鈴はあてもなく温泉街を抜けて、土手に続く道に出た。
このあたりまで来ると、町はごく普通のたたずまいを見せる。温泉まんじゅうを置いた土産物屋もないし、今の時期、町中に立てられている花火大会の宣伝の幟もない。
静かな、田舎町だ。
この小さな町で。
悠人は窮屈だっただろう。自分のほんとうの嗜好を隠して生きていくのに、この町はふさわしくないかもしれない。
世の中の風潮は、美鈴の小さい頃と様変わりしたと思う。ジェンダーなんて言葉が堂々と口にされるようになり、人と違う、個性が大切にされるようになってきた。
テレビやSNSは、人は自由に行き始めたと教えてくれている。
だが。
ここでは、まだまだだ。
この山あいの小さな温泉街では、昔ながらの価値観がいまだ大手を振ってまかり通っている。
緑の葉をつけた土手の桜の木の向こうに、川をまたぐ橋が見えてきた。見慣れた風景だが、今日はいつもとちがって見える。
あの橋を渡ると、秋浜劇場がある。
対岸も同じこの町なのに、秋浜劇場を意識するだけで、橋が特別な意味を持ってしまう。
こんな朝の時間に、劇場はやってないだろう。それにいつか、悠人が見に来て欲しいと言えば、行くつもりだ。
だから、そのときまで待てばいいのかもしれないが、美鈴はどうしても、今、見てみたくなった。
家永さんの考えに影響されたのかもしれない。
難しく考えないほうがいい場合もある。
それなら、早いほうがいいんじゃないか。
早く橋を渡ってしまおうと、美鈴は強く思った。それは悠人のため。そして自分のためでもあるように思う。
川風に吹かれながら橋を渡り、美鈴は対岸に着いた。
秋浜劇場のある対岸の町は、言ってみれば、新しい温泉街だ。
小ぶりながら、モダンな外観の旅館がいくつか建っているし、都会にあるようなカフェもできている。
人工的に作った堀のまわりには、葉の色がやわらかい街路樹が植えられ、若い女の子の観光客たちが、楽々とかわいらしい色のカートを押して歩いているのもうなずける。
川岸に沿った釣り宿や定食屋の並ぶ道を、美鈴はゆっくりとすすんでいった。
昔、ボーリング場で、今は建築資材か何かの倉庫となっている建物の向かいの路地を入る。
コンクリートだった足元が、石畳に変わった。
ここからは、観光客向けに、わざとらしいほどの趣きを醸し出す通りになる。
秋浜劇場は、いつ外観を整えたのか、モダンな作りに変わっていた。言ってみれば、江戸時代の歌舞伎座をラノベ化したような感じだ。
自転車を降りて、美鈴は看板の文字を見つめた。
ニューハーフ・ショー。森の妖精たち。
開演は六時。上演されるのは七月二十五日から九月十六日までとなっている。
看板の横に、今夜の出演ダンサーたちの顔写真があった。羽のついた派手な衣装を身につけている。
一人のダンサーに目が止まった。卵型の小さな顔。アップに膨らませている髪に、紫色のハートのヘア止めをつけている。
ドクンと、心臓が鳴った気がした。思わず、息をつめる。
紫色とハート。それは悠人が小学校の頃から大好きな色とモチーフではなかったか。
ぐっと顔を近づけて見る。シャドーが入った高い鼻が、懐かしい形と重なる。悠人だ。
「すみませーん、どいてもらえませんか」
背後からの甲高い声に、美鈴は思わず飛び上がりそうになった。
大きなビニール袋と二人掛けの小ぶりなベンチを担いだ男が立っていた。声とは裏腹な、さわやかな美少年といった風貌だ。
「す、すみません」
あたふたと美鈴は自分の自転車を脇へどけた。劇場前の歩道を、美鈴の脚立がふさいでいたのだ。
「すみませんねえ。重くって、急いでて」
美少年の二の腕は、女のように細い。
すごい、力持ち。
目を丸くする美鈴に、ベンチが指先で持ち上げられる。
「うわっ」
美鈴は叫んだ。
この男、何者?
そのとき、ふたたび背後から、
「さっさと運べ!」
と、今度は太い男の声がした。男はベンチを二脚も担いでいる。しかも片手で。
男は美鈴を無視して、美少年のあとに続いた。大きな男だ。ラグビー選手みたいな肩をしている。しかも、短髪で四角い顔。ちょっと怖い。
と、ベンチの謎が解けた。ベンチは紙でできているようだ。段ボールのような、太い紙の束。美少年に、からかわれたらしい。
呆然と突っ立って、二人を見送った美鈴だったが、二人の行き先を見て、我に返った。二人は劇場の入口の横の、関係者出入り口と書かれたドアに吸い込まれていった。
自然に体が動き、美鈴は自転車を引っ張ると、劇場の脇の壁に立てかけ、二人が吸い込まれたドアを覗いた。
「ひどいなあ、こんな間違いって、アリ?」
ドアの先は薄暗い廊下になっていて、突き当たりの部屋から明るい光が漏れている。声はそこから漏れてくる。
「大道具、何やってんだよって話だよね。テーブルとベンチを間違えて作ってくるなんてさあ。で、それをスターが仕上げのラッカーを塗るなんてさあ、聞いたことないよね」
さっきの美少年の声だった。甲高くて、どこか碎けてて、風貌のさわやかさからは想像できない声。
合間に、さっきのいかつい男の声だろう。
「ふん」
とか、
「ああ」
とか、短い相槌が入る。
そのあとも、同じ声がごちゃごちゃと文句を並べたが、太い声は相槌以外に何もしゃべらない。
目が慣れて、薄暗い廊下がよく見えてきた。大人がどうにかすれ違えるほどの廊下には、ところどころに鳥が争ったあとのように、羽が落ちていた。ピンクや紫色の二センチぐらいの羽。落としていったのは、きっときれいな鳥だったんだろう。
「あれ?」
ひょいと光の中から美少年が顔を出した。
「さっきの、脚立」
脚立と呼ばれるとは思わなかったが、美少年は明るい笑顔だった。どこまでも機嫌がいい性質のようだ。美鈴はふたたび、すみませんと頭を下げた。
「こっちは劇場の入口じゃないんですよ。こっちは関係者だけ」
わかっている。だから、こんなところに突っ立っている。どうしよう。なんて言えばいいだろう。
「なんか用ですか?」
悠人の。
そう言いかけて、その続きに困った。
もう、開き直るしかなかった。
「この劇場に、柿崎悠人は出てますか。私、悠人の姉なんです」
「お姉さん?」
まじまじと美少年に見つめられて、美鈴の心拍数は急上昇した。
「やだあ、似てなーい」
そのとき、美少年の背後から、ニュッとベンチを二脚運んでいた大男が現れた。
「美鈴さんですか」
「薫さん、知り合い?」
美少年は振り返って、大男を見上げた。
「悠人から話を聞いたことがあるけん」
あるけんとは、どこの言葉か。
ぶっきらぼうな言い方で、薫と呼ばれた大男は美少年を脇にどかした。
近づいてみると、奥二重の目が、体の印象と違ってやさしそうだった。年齢はおそらく三十代半ば。美鈴と同じくらいだろう。だが、落ち着いた雰囲気は、男をもっと年上に見せている。
「今、悠人くんはいないんですよ。衣装の引き取りに行ってて」
「衣装の引き取り……」
「今晩のショーはご覧になりますか」
はいともいいえとも、美鈴は返事ができなかった。
「もし、ご覧になるなら、六時開演で」
「また来ます!」
美鈴はぺこんと頭を下げて、踵を返した。後ろで、ちょっと、ねえと、美少年が叫ぶ声が聞こえても、振り返らなかった。
立てかけた自転車にまたがり、美鈴は思い切りペダルを踏んだ。
もう、はっきりしてしまった。悠人の言っていた新しい生き方を知ってしまった。
ペダルを漕ぐ速度は、どんどん上がっていった。すれ違う観光客が驚いて振り返るほど、美鈴はスピードを上げて走る。
橋が見えてきた。息を詰めたまま、美鈴はペダルを漕ぐ。
わかってあげたいんよ、姉ちゃんは。
その気持ちに偽りはないけれど、簡単には受け入れられない。
気が付くと、橋を渡り切り、秋葉劇場のある対岸が遠くなっていた。
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