エアコンと亡き妻の遺言 5

 通りの先に、小さな稲荷がある。

 小さいながらもこんもりとした木々に囲まれた静かな場所で、町を散策する観光客の格好の休憩所になっている。

 

 まだ朝が早いせいか、観光客の姿は見えない。鳥居のそばにある御神木のクスノキを、美鈴は目指しした。クスノキは大人二人が両手でようやく抱えられるほどの大木で、子どもの頃から、一人になりたいとき訪れた場所だ。

 

 罰が当たってはたまらないから、御神木にもたれずに、表通りから陰になる場所に立つと、美鈴は悠人に電話をかけた。


 心なしか、指先が震えた。

 ほんとうのことを知るには、やっぱり勇気がいる。


 七回目のコールで、悠人は出た。まだベッドの中にいたのか、悠人の声はくぐもっていたものの、要件を告げると、しっかりした声に変わった。

「こんな小さな町やから、すぐにバレるってわかってたんやけど」

 やっぱり篠田先生が見たというのは、ほんとうだったのだ。心の隅で、見間違いかもしれないと、そう望んでいた自分に気づく。

「そうやな、小さい町やから」

 そして悠人はフーッと溜息を吐いてから、

「ショーの話がきたとき、知られるええ機会や思って受けたんや」

 それから悠人は、大きな街の近くで、アパートを借りて暮らしていると言った。


「会社の寮を出たんか?」

 悠人が勤めていた会社は、一流企業ともいえる大きな会社で、立派な社員寮があった。そこで社会人を始められる息子を、父は喜んでいたのに。

 父の顔が浮かんで、チクリと、胸が痛む。

「会社やめて、寮にだけおるわけにはいかんからな」

「――やめたんは、ほんとやったんやね」

「ああ。俺のやりたいこととは違ったから」

 見た目は華奢で、いわゆる世間一般でいう男らしさのない悠人だが、性格はさっぱりしていて、潔い。

 その上、ちょっと頑固で、子どもの頃から、こうと決めたら、どこまでも自分の意志を通す強さがあった。

 

 そして悠人は、芸能事務所に所属して、ショーの仕事をしていると言った。

「芸能人なん? あんた」

 思わず声が裏返ってしまった。

「芸能事務所たって、東京の大きなとことはちがうから。小さな舞台の仕事を回してもらってるだけや」

「食べていけるの」

「ショーのないときは、知り合いのバーで働いとる」

「バーって」

「ニューハーフだけが集まるバーがあるんや。結構繁盛しとる」

 美鈴は継ぐ言葉を失ってしまった。それがどんな場所なのか、美鈴には想像することができない。

「驚かせて悪いけどな。俺のリアルを知ってもらいたいんや」

 悠人の声は明るい。


「なんか、手伝うこと、ある?」

 姉として、弟のいちばんの味方になってやりたい。何を聞かされても、その気持ちに変わりはない。

 一人暮らしは何かと不便だろう。だが、悠人からは意外な返事が返ってきた。

「心配いらん。アパートをいっしょに借りて暮らしとる人がおるんや」

「いっしょに暮らしとる人……」

「付き合っとる」

「そう」

 ほかの返事はできそうになかった。ほんとうなら、どんな人? 今度紹介してよなどという会話が続くべきなのに。


「いずれ、オヤジにはちゃんと話をつける」

 悠人の声音がちょっと変わった。

「店を継ぐつもりはないと、はっきり言うつもりや」

「お父さん、がっかりするやろうけど」

 悠人には好きな道をすすませてやれと、父を諌めた美鈴だったが、父が気落ちするのを見るのは、やっぱり辛い。

「灯しやが潰れるわけやない。姉ちゃんがおるやないか。俺、姉ちゃんが店を継ぐのが合っとると思う」

「認めてもらえへんけどね」


「俺、安心なんや。姉ちゃんの腕はたしかやから」

「あんた、姉ちゃんの腕の善し悪しなんか、わかるの?」

 悠人はハハハッと、大きな笑い声を上げた。悠人にはめずらしく、男性的な笑い方だった。

 最後はこんなふうに明るく電話を切ったけれど、電話を切ったあとは、電話をする前よよりも複雑な思いが胸を占めた。

 両親の思いや期待、弟の夢や希望。そして自分のこだわりや役割が、絵の具が混ざり合ってしまうみたいに、ぐちゃぐちゃだ。

 

 スパッと解決できないものかと、思う。修理すれば、パッと灯しやが灯るスタンドみたいに、滞っている場所、破損している箇所を見つけられればいいのに。

 

 ふうっと、美鈴は大きく息を吐いて、頭上のクスノキを見上げた。葉を広げた大木が、ゆうゆうと風に揺られている。

 梢から、一羽の鳥が勢いよく飛び立った。飛び立った空は、どんよりと曇っている。ところどころに、黒い雲もある。

 

 やっぱり、心配だ。悠人はどうなっていくんだろう。

 そのとき、クスノキの反対側からくすぐったいような笑い声がした。驚いて美鈴は、木の陰から飛び出した。


「あっ」


 目の前にいたのは、家永さんだった。家永さんは、両側に小さな子どもを二人連れている。

 悠人との電話を聞かれたか。

 美鈴はぎこちなく頭を下げた。子どもたちは、ぽかんと口をあけて美鈴を見上げている。

 しゃがみこんで、美鈴は二人の目線に合わせた。


「ごめんね。びっくりさせたね」

 にっこり笑いかけたが、子どもたちの表情は緩まない。

「この前は僕が飛び出したから、お相子ですよ」

 家永さんが、なぜかとても楽しそうに笑った。



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