エアコンと亡き妻の遺言 4

 家永さんのエアコンの部品はそれから二日後に届き、美鈴は翌日、家永さんに電話連絡をした。

 修理の日は、それから四日後。午後一に訪問すると決まった。


 当日の朝、美鈴はいつもの自転車の荷台に、部品の入った段ボール箱を積み、その上に脚立を縄でくくりつけた。脚立は五十センチ程の小型のもので、エアコンの作業にはかかせない。

 段ボール箱と脚立を詰んだ自転車は、かわいそうなくらい不格好になった。そのうえ、うまくバランスを取らないと倒れてしまいそうだ。だが、荷台が重いのはいつものこと。慣れたものだ。


 心配なのは、天気だった。いまにも崩れそうなどんよりとした曇り空が広がっている。雨になったら自転車では無理だ。

 父に車を貸してもらおうか。そう思ったとき、家の中から、

「おれは知らんかったぞ!」

と、父の怒鳴り声が響いてきた。

 

 朝ごはんを食べたあと、父は近所に出かけていたはずだった。

 ときどき父は、朝のうちに近所の商店主たちと、商店街にある柳公園でゲートボールを楽しむ。今朝も出かけて行ったはずだが、もう帰ってきたようだ。ちょっと、いつもより早い。

 店の中に戻って、奥を覗くと、父が、寝転がって新聞を読んでいるのが見えた。読んでいるように見えるが、首から下げたタオルが新聞の上に落ちて、父の視線の先を隠してしまっている。


「どうしたん? 大きな声出して」

 声をかけると、オウと、元気のない返事が返ってきた。

「お母さんは?」

 家の中はしんとしていた。いつもなら、バタバタと、掃除や洗濯をしているのに。

 台所のほうを父に顎でしゃくられて、顔を向けると、たしかに母はいた。

 流しの前に、ただ呆然と突っ立っている。


「どうしたの」

 美鈴は父を振り返った。父は何も言わない。ひたすら新聞の紙面を見つめているが、瞳は動いていなかった。読んでなんかいないのだ。

 そのとき、母の異変に気づいた。

 泣いている。目を真っ赤にして。

「どうしたん?」

「――悠人が」

 キュッと心臓が縮む気がした。悠人と頻繁に連絡を取らなかった後悔が、ざわざわと体中を駆け巡る。

「事故? 悠人が事故にでも遭ったんか!」

 母は大きく頭を振った。

「じゃ、何、なんなんよ!」


「悠人が秋浜劇場に出とると」

「なんも言うな!」

 父が怒鳴った。美鈴は父を振り返って、それからまた母を見た。

 頼りなげに母がうなずく。

 秋浜劇場は、この温泉街に古くからある、踊り専門の舞台だ。

 もとは、温泉街の芸妓たちが踊りを披露するためにできた舞台で、昭和の高度成長期には温泉客でたいへんな賑わいを見せたという。

 だが、時代は変わり、芸妓の数は少なくなった。男が遊ぶ温泉街というより、中年の女同士や家族連れの客が増えるにつれ、秋浜劇場に足を運ぶ客は少なくなった。

 取り壊して、ゲームセンターを作ろうかと、町の温泉組合が言い出した頃、劇場主は新たなショーを考え出した。それが、歌と踊りを披露するニューハーフ・ショーだった。

 

 温泉組合が作ったパンフレットが蘇ってきた。

 派手に化粧をした、いかつい体の出演者たちが、きらびやかな衣装を身にまとって笑っていた。どの出演者が着ている衣装も、胸や脚をぞんぶんに見せるデザインだった。

「――悠人が、秋浜劇場に」

 ということは、悠人は。

――新しい生き方をしている。

 悠人はそう言った。

 悠人が言おうとしていたのは、このことだったのか。


「見てきたわけやないけど、お父さんが、篠田先生から聞いてきて」

 鼻をすすりながら、母は流しの取っ手に下げた布巾を手に取り、それで涙を拭った。汚いなあと思ったが、美鈴は見逃すことにした。

「篠田先生がね、知り合いを劇場で接待したらしいんや。そったら、知った顔が出とるって、びっくりして、さっき――」

 篠田先生は父の幼なじみで、町の中心部で歯科医院を開いている。そしてゲートボール仲間でもある。

「さっき、柳公園で会って、教えてくれたんや」


「なんも言うなと言っとるが!」

 ふたたび父の怒鳴り声がして、母は首をすくめた。それから黙って台所を出ると、裏へ行ってしまった。店の裏は狭い庭になっている。

 葉ばかりになっている紫陽花の向こうに、母がたたずんでいるのを見届けてから、美鈴は母がやりかけにした洗い物の続きをした。


 スポンジに洗剤をつけて、ゴシゴシと茶碗をこする。三人分のお茶碗と湯呑、お皿。勢いよく水を出し、すすぐ。

 悠人の顔が浮かんだ。小さな頃の、いくつもの顔。いっしょにテレビを見て笑っている顔、いじめて泣かしたときの顔。

 

 布巾で洗った茶碗を拭き終えて、父のそばへ行ったが、父はこちらを見ようともしない。

 ようやく口をきいたのは、修理の電話があった後だ。

 洗濯機の故障を見て欲しいという、店の東側、通り一本向こうの、長島さん宅からの電話だった。



「おれは行かんぞ」

 受話器を置くなり、父は言った。

「お前、行ってきてくれ」

 父に仕事を頼まれるのは、初めてだった。実家に戻ってから美鈴がこなしてきた修理は、父が不在のときに受けた注文だけで、一度だって、父は表立って美鈴を灯しや電気の、もうひとりの従業員と認めたわけではなかった。

 それが、この変わり様はなんだ?

「なんで?」

「ええから、行ってくれや」

「なんで、お父さんが行かんの? 今日、そう忙しいわけやないやろ?」

「行けるか!」

 父は吐き捨てるように言って、立ち上がった。

「長島さんは、すぐ近所や。悠人のことを、よう知っとる――そんな家に、恥ずかしくて行けるか」

「なんやて?」

 悠人が秋浜劇場に出ているという噂には、美鈴だって心底驚かされた。ショックといってもいい。けれど、恥ずかしいとはなんだ。

「恥ずかしいもんを、恥ずかしいと言って何が悪い」

 父の本心がはっきりした。父は、本当の悠人を認めようとはしない。

悠人だけじゃない。父は美鈴の姿だって見てはいない。いくら真面目に修理の仕事を手伝っても、父は自分のこだわりを捨てない。

 店は男が継ぐ。女は嫁に行く。

 この二十一世紀に、父は頑なにそう思い込んでいる。だから、美鈴が離婚して実家に戻ってきたことも恥ずかしいと思っているし、美鈴の道具箱の存在も無視したままだ。

「わたしは恥ずかしくなんかない。だって……」

 言いながら、美鈴の唇は震えた。

「悠人は悠人に変わりない。悠人は好きにすればいいんや。悠人が自分で選んで、好きなように生きればいいんや!」

 美鈴を睨みつけたまま立っていた父が、さっと首のタオルを取って投げた。白いタオルは、美鈴の足元に頼りなく落ちた。

 タオルを拾おうとして、美鈴は、いったん伸ばした腕を引っ込めた。そのまま父と睨み合う。

「長島さんのところへは、午後の修理が終わってから、わたしが行く。悠人のことをなんか聞かれたら、言ってやる。秋浜劇場に出てますから、是非見に行ってやってくださいって」

「なんやと!」

 父の怒鳴り声と同時に、美鈴は店を飛び出した。

悠人と話がしたかった。父や母のいないところで、悠人本人に確かめたい。

ポケットからスマホを取り出し、美鈴は闇雲に駆け出した。



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