彼女と海

片栗粉

彼女と海

 灰色の空とぐるぐると渦巻く鉛色の海。

 その狭間に、凛と佇む真っ白な灯台を見て、あの子は言った。

 鈍色の砂浜と同じ色の制服、真っ白な裸足の足、夜の海みたいに黒く長い髪。それだけならまるでモノクロームの世界の住人だけど、夕焼け空を溶かしたようなスカーフと唇が、辛うじて現実の人間なのだと認識できた。


「わたしね、この島(せかい)が大嫌いなの」


 ざあ、と波が引く音と共に、彼女は呪詛とも取れる言葉を渦の中に吐き捨てた。

 裸足の足に、モノクロの波が纏わりついていて、そのままあの海に引き摺り込まれてしまうんじゃないかって寒気がした。


「あなたもそうでしょう?」


 夜空色の瞳がひたりと私を見た。迷わず頷いた。

 陰鬱で、閉鎖的で、息苦しい世界。

 ずっとずっと、色の無い深海で溺れ続けているような、そんな生き方だった。


「あの灯台の向こう側へ行けば、自由があるのかしら」


 行ってみない? と白い手が差し出される。人魚ってこんな感じだろうかと思うくらいに冷たく美しい彼女の手を、取った。


 私の家は島の網元で、それなりに裕福だった。島民の殆どが漁業を生業にしていたから、他の子とちょっと違ってて、学校ではいつも一人だ。みんな「網元さん」とか「お嬢さん」とか上辺だけで笑って、近づいてこない。

 だけど私は知っている。父も母も、跡取りである弟しか眼中にないし、私は大きな船にくっついたフジツボみたいなものだ。

 大きな船にくっついているから、小さな舟たちはただただ避けるだけ。

 自分が海の中にいる悍ましい化け物になったみたいだ。

 だからいつも本の中だけが私を深海から連れ出してくれた。


 そんな時、彼女が現れた。

 父親は偉い学者先生で、研究と病気の療養の為、亡き母親の故郷であるこの島に来たらしい。都会から来た彼女は、まるで夜の女神の化身みたいに美しくて、完璧な存在だと感じた。


「ヘミングウェイ?」


 カナリヤのような可憐な声がして、顔を上げると、彼女がじっと私を見つめていた。

 手の中の『老人と海』を閉じて頷くと、彼女はにっこりと笑った。


「"けれど、人間は負けるように造られてはいないんだ"」


 老人、サンチャゴの台詞だ。長い不漁が続いてもなお決して諦めない彼は、大魚との死闘を繰り広げた。


「わたしも、好きよ。愚かしい程に純粋な彼が」


 彼女は紅い唇に美しい三日月の笑みを浮かべてそう言った。


 彼女がたった一人の心許せる存在となるまでさほど時間はかからなかった。

 いつも一緒だった。

 皆は余所者の彼女をどことなく避けている節があったし、元々つま弾きにされて一人だった私とで二人一緒になるのは自然な事だったのかもしれない。

 放課後も遅くまで共にヘミングウェイを読み、感想を言い合ったり、考察し合ったりした。

 私にとっては、無くてはならない、半身のような、そんな存在だった。


 ある日、彼女が学校を休んだ。

 そんな事は初めてだったので、私は心配だった。

 だから、授業のノートを持っていくという建前で、彼女に逢いに行こうと思った。

 彼女の家は、村から少し外れた岬の、もう誰も住んでいない古い洋館で、彼女の父親が買い取って改装したのだと聞いた。

 急な坂を上り、ぐねぐねとした道を進んでようやく着いた洋館は、灰色の空も相まって何だか酷く不気味だった。

 呼び鈴が無いから、ライオンの頭のドアノッカーでガンガンと扉を叩く。

 何回か叩くと、大きな扉がぎい、と開いた。


「……どうして」


 彼女が驚いたように眼を見開いた。真っ白なワンピースを着ていた。

 心配だったから。と言うと、彼女は一瞬だけ泣きそうな表情をした後、ふわりと私に抱き着いてきた。

 甘い花の香りと、彼女の髪の香りが混ざってどきりと胸が高鳴った。

 だけどその肩が小さく震えていて、私はそのほっそりとした背中を強く抱きしめる。

 胸元の開いた襟から酷い痣や何かに噛み付かれたような傷跡が見えて、私は酷い怒りに支配されていた。

 暫く震えていた彼女は、今にも消えてしまいそうな声で、言った。


「私を、ーーーー」


 ドアの隙間の向こうの暗闇から、深い海の底から這い出てきた不気味な鮫が私を睨み付けているのを感じて、私は彼女を抱き締めながら、ずっとそれを睨み続けていた。


 数日後。私は決めていた。彼女と一緒に逃げる事を。

 逃げる為のボートは父のものから一艘拝借しようと考えていて、事前に燃料や食料、ナイフなどを用意して積み込んでいた。

 絶対に、逃げてやる。

 こんな色の無い深海から。

 月の無い新月の夜に、出発しようと決め、虎視眈々と私はその日を待ち望んだ。


 決行当日。船着き場で彼女を待っていると、制服姿の彼女が現れた。

 見つかりそうになって、荷物も何も持って来られなかった、と申し訳なさげに言う彼女を抱き締めると、花の香りに混ざって鉄錆の臭いがした。制服の襟元にも何かべったりと付いていたが、私は気にせず彼女の手を引いた。


 ボートに乗り、綱を切った。繋ぎ止めるものを失って船が大きく波に揺られる。彼女は少し恐々と船の縁を掴んでいたが、段々楽しそうにきょろきょろと周りを見始めた。

 こんな近くでエンジンをかけると見つかってしまうから、離岸するまではオールを使う事にした。

 二人で慣れないながらも舟を漕ぐ。方角は灯台が見えるのでそれを目指せばいい。

 暫く漕ぐと、洋館のある岬が見えて来た。その上空は映写機が夕陽を投影しているように明るく、赤々と染まっていた。

 洋館が、彼女の家が、焔に舐め尽くされ、燃えている。

 茫然とその光景を見つめた後、反対側に視線をやる。

 彼女の顔や襟に付いていたもの、鉄錆の臭いの正体が赤い光に照らされて露わになっていた。


「ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまった」


 赤い赤い光が反射した瞳から、宝石のような涙がはらはらと流れ落ちる。


「わたしは一緒に行けない」


 どうして、と言おうとしたが声が喉に磔られたみたいに出てこない。


「あなたを利用したの。全部壊してしまう為に」


 そんな事はどうでもいいんだ。なら、私も君と一緒に。

 既にボートは潮に乗っている。岬の火事が松明のように小さくなっていた。


「いいえ。あなたは私と違う」


 いいや、同じだ。君と一緒だ。この世界に絶望し切っている。


「まだ分からないの? 貴女の眼は『まだ諦めていない』わ。叩き潰されたとしても、負けはしない」


 彼女が船の上で立ち上がった。潮風が長い髪を巻き上げて、真っ赤な制服のスカーフを白い指が引き抜いた。


「わたしは『魚』よ。サメ達に貪られ食い尽くされた『骨だけの魚』。だけど、あなたはこんなわたしの心臓に触れてくれた。それだけで充分」


 差し出されたスカーフを、震える手で掴む。

 ダメだ。

 やめて。

 お願い。


「さよなら。わたしのサンチャゴ」


 漆黒の海に吸い込まれるように彼女の身体が消えた。

 その上をさあ、と灯台の光が通り過ぎた。

 何もない。真っ暗な闇だけが揺蕩っているだけ。

 私は半狂乱になって喚き散らし、真っ黒な渦の中に飛び込んだ。


 不思議な夢を見た。

 黄昏時の、黄金色の砂浜で波に戯れる白いライオンの夢だ。私はその光景をただただ浜辺に座って見つめている。

 きらきらと輝く波と、傾いた日差しで染まる白いたてがみを私はずっと眺めていた。


 潮騒の音に混ざって、霧笛の音が聞こえた。


 遠くから、近くから、沢山の誰かが話している。

 五月蝿い。

 五月蝿い。

 五月蝿い。


『闘って、闘ってから死になさい』


 私は、私は。

 貴女が、貴女こそが運命だったのに。


『それでも』


 あなたは生きているわ。


 目を覚ました時、膨大な時間が経ったかみたいに全ての事が変わっていた。

 私は病院のベッドの上で代わる代わる来る家族や、知らない親戚、それと警察の人間の応対に追われた。


 彼女は、父親を刺して自宅に火をつけた後に手紙を二通残していた。

 村の皆と警察に宛てた手紙にはこう書かれていた。


 父親を殺して自宅に火をつけた事。

 私を脅迫して船を出させた事。

 これは遺書だと言う事。


 都会から来た中年の刑事に、君宛てだと渡された手紙にはただ一行だけ。


『とにかく毎日が、新しい日』


 それだけで充分だった。

 朝日が差す病室の中で、私はただ、ひたすらに涙を流していた。

 大魚を、半身を、失ってしまった。

 枕元の赤いスカーフだけが、その慟哭を聞いていた。


 長い年月が経った。

 私は今日この島を出る。

 新月の夜にこっそりじゃなく、晴れ渡る青空の下で。

 堂々と。

 白波を立てる海原に凛と立つ真っ白な灯台を見やる。

 灯台に、美しい彼女の姿が重なった。


「毎日が新しい日。今日は始まりの日だわ」


 ポケットからスカーフを出した。

 一陣の海風がびゅう、と吹き抜け指から紅いスカーフがするりと飛び去った。

 それは鳥のように羽ばたいて、灯台の向こう側へ消えていく。


 もう大丈夫。

 叩き潰されたって、ズタズタにされたって、

 人間は負けないのだ。

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彼女と海 片栗粉 @gomashio

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