篠突く雨

有理

篠突く雨

「篠突く雨」


藤野 ひかり(とうの ひかり)

三賀屋 篠(みつがや しの)


鷸間 美琴(しぎま みこと)

三賀屋 蒼(みつがや あお)



ひかり「…なん、て顔、して」

篠N「所詮どんなに真似たって偽物だ」

美琴「だめ、ひかり!」

蒼N「映える照明と暗い影。それは一等、眩しかった。」


(たいとるこーる)「篠突く雨」


篠N「曇天。僕にお似合いの空はぶ厚い雲で蠢いていた。春を待つ木々の根本にはまだ霜が残る。肩にかかるバッグの重み、右足の次に出すのを躊躇する左足、寝癖のついた切りっぱなしの毛先、その全てが嫌いだった。」


ひかり「篠くん?」

篠「ひかり、ちゃん」

ひかり「今日晴れてよかったね」

篠「曇ってるよ。」

ひかり「ううん、あっち見て。日差してる」


篠N「指された先には雲を引き裂いて注がれる光の道がいくつもあった。」


ひかり「おかえり、篠くん」


篠N「僕の顔を覗き込む彼女、この顔はたしかに僕の初恋だった。」


____


美琴「三賀屋兄復帰したんだ。久しぶり」

ひかり「美琴さん、おはようございます」

美琴「藤野おはよー。うわー兄、なんかまた痩せた?ちゃんとご飯食べてんの?昼奢るからお姉さんにちゃんと食べてるとこ見せて」

ひかり「美琴さん強引すぎ」

篠「はは、」


美琴「でも復帰早くて助かった。続けるんでしょ?弟から聞いてるけど。」

ひかり「ちょっと、」

篠「…まあ、一応」

ひかり「篠く、」

美琴「よかった。本、準備してんだよね。待ってて、持ってくるから」

ひかり「…いいの?」

篠「…その、つもり。だった、から。」

ひかり「でも、…。無理しないでね。」


篠N「僕は去年、この劇団の公演中に倒れた。」


蒼「篠、先に来てたんだ。」

ひかり「蒼くん、よかったね、篠くんようやく外に出られて」

蒼「うん。ひかりちゃんにも沢山迷惑かけたね、ごめんね」


_____


篠N「歓声前の、息を呑む音が響く。眩むほどの照明は舞台の真ん中に立つ彼女へと注がれている。圧倒的な実力差、天性のそれはスカウトからあっという間に駆け上がってきた。千秋楽、そこに立つのは僕ひとりのはずだった。」


ひかり「ほら、顔を上げて」


篠N「急遽書き換えられたラストシーン。」


ひかり「私はあなたを赦します」


篠N「僕が今まで積み重ねてきた努力も報われてきた実力も全部全部が」


篠N「崩れた瞬間だった。」


蒼「篠、台詞」

篠「く、ぁ、」

美琴「BGM上げて!照明落として!幕下ろして」

篠「っ、ああ、あああああ」

ひかり「…篠くん?」

篠「ぐ、ぁ…ヒュッ」

蒼「篠っ、美琴さん袋!」


篠N「目紛しく変わる景色すら朧げで、次に見た景色は白い天井と蛍光灯だった。」


蒼「篠、気が付いた?」

篠「あれ、ここは…舞台、そうだ舞台、僕最後の台詞まだ、言って」

蒼「千秋楽から3日経ってる。」

篠「…何?」

蒼「睡眠不足とストレスだろうって、お医者さんが。」

篠「…いや、でなきゃ、幕、待ってる、」

蒼「篠。」

ひかり「蒼くーん、お茶、」

篠「っ、あ」

ひかり「篠くん!目覚めたんだ。よかったー。」

蒼「ひかりちゃん、ありがとう。」

ひかり「篠くんのも買ってくればよかった。」

蒼「今気が付いたばっかりだから」

ひかり「…篠くん?」

篠「ぅ、」

蒼「篠?」

篠「ぐ、っあ、は、ひっ」

ひかり「蒼くん、ナースコール押して」

蒼「う、うん。」

ひかり「篠くん?篠くん!」

篠「はな、ひっ、く、ぁ、離し、」

ひかり「息、息吐いて篠くん!」


蒼N「跳ねる呼吸と筋張った腕。痙攣する喉からは只管拒絶が伺えた。あの日から兄さんの生活は一変した。」


_____


蒼N「俺にとって兄さんは、所謂憧れだった。内向的で頼りないところもあったけど、努力を惜しまない完璧主義で他人に優しい、そんな舞台俳優だった。」


篠「ごめん、お昼買い損ねちゃって」

蒼「いいよ。食ってるだけマシ。」

篠「蒼打ち合わせ?」

蒼「いや。原野さんと昼飯行くとこ。」

篠「はは。原野さん気難しいのに、すごいね。」

蒼「そう?」

篠「さっきも美琴さんと演出で揉めてたよ」


蒼N「俺は音響スタッフとして美琴さんこと鷸間 美琴(しぎま みこと)舞台監督の元、3ヶ月後に開演を控えた舞台に向けて奔走していた。」


篠「機嫌、とってあげて。」

蒼「うん。」

篠「ご飯ありがとう。」

蒼「兄さん、今日夜は?」

篠「あー。稽古次第、かな?なんか買って帰るから気にしないで」


蒼N「子供の頃、無理やり習わされたバレエ。俺は早々に辞めたが、兄さんは辞めなかった。実家のリビングに飾られた金色の賞、そのほとんどが兄さんのものだ。バレエに歌にダンス、ピアノ、発声教室。1週間を埋め尽くすスケジュール。全部叶えられなかった母の夢のせい。それを死に物狂いでこなしていく兄さんは見ていられなかった。」


篠「蒼は好きなことしたらいい。母さんは僕が何とかするから。」


蒼N「それが兄さんの口癖だった。」


美琴「三賀屋兄ー。」

篠「はい、じゃあ行ってくるね」


蒼N「母の望み通り、兄さんは役者になった。舞台の上、キラキラ輝く世界で息をする為に。」


____


ひかりN「私は短大を卒業して商社の受付嬢に就職した。子供の頃夢見ていたテレビの中には入れないまま、世間一般を生きていた。だけどお芝居が好きだった。夢にしなかっただけで、今でもミュージカルと小さな劇場をよくまわって観ていた。そんな時、3度目の劇場で彼と再会した。」


篠「ありがとうございました、」

ひかり「あ、れ。篠くん?」

篠「え」

ひかり「私、藤野。昔向かいに住んでた藤野ひかり!」

篠「あ、ひかりちゃん。」


ひかりN「小学生の頃に向かいに越してきた三賀屋 篠は私の初恋だった。進学校に通い習い事で毎日忙しい篠くんと遊んだことはほとんどなかった。ただ、たった1時間だけ大人の目を忍んで一緒にイルカ公園で遊んだ。」


篠(幼少期)「ひかりちゃん、夢ってある?」

ひかり(幼少期)「あるよー。」

篠「なに?」

ひかり「私ね、テレビの中に入りたいの。」

篠「テレビ?」

ひかり「ママが見るドラマの中に入ってみたい。」

篠「女優さんになりたいんだ。」

ひかり「そう、なのかな?」

篠「僕はテレビの中じゃないけど、おんなじ夢だよ」

ひかり「そうなの?」

篠「いつか、一緒に叶えられたらいいね」

ひかり「うん!篠くんいつも忙しいから、お話できて嬉しい」

篠「うん。僕、夢叶えたいから。」

ひかり「じょゆうさん?」

篠「はは。そう。母さんが喜ぶから。」


篠「僕、みんなの笑ってる顔が好きなんだ。」


ひかりN「そう言って笑う彼はいつも辛そうで。それは再会した今でも変わっていないようだった。」


篠「舞台、観てくれてたんだ」

ひかり「うん、でも篠くん出てた?」

篠「ううん。今日は手伝いに来たんだ。急に1人休んじゃったみたいで。」

ひかり「そうなんだ。」

篠「僕の舞台は3ヶ月後かな」

ひかり「え!そうなの?」

篠「うん。駅前にビラ出したって言ってた気がする。」

ひかり「えー!観にいってもいい?」

篠「もちろん、ありがとう。」

ひかり「あ、」

篠「何?」

ひかり「篠くんは夢叶えたんだね。」

篠「ああ、うん。なんとかやってる。」

ひかり「私ね今、あっちの会社で受付やってるんだ」

篠「そうなんだ。」

ひかり「…」

篠「ひかりちゃん?」

ひかり「一緒に女優さん、なれなかったなって思って」

篠「…」


篠「もし、興味あるなら、来週ワークショップやるんだ。」

ひかり「え?」

篠「よかったら、息抜きにこない?」


ひかりN「それが私の転機だった。」


____


美琴N「大学時代の先輩に誘われて入ったこの世界。今では有り難くも私の人生に纏わりついてくる。大学の頃はただの息抜き程度だった。それが、全身を打ったかのような衝撃に出会ってからやめられなくなった。」


美琴N「原野俊之の初めて手がけた舞台。脚本はみにくいアヒルの子をオマージュした人間物語。主人公は血の繋がらない家族のもとたくさんの困難を乗り越えて、自らの力で女優へと成り上がっていく。」


美琴N「主演は同じ演劇部の先輩だった。」


蒼「美琴さん?」

美琴「ああ、ごめん。考え事してた。」

蒼「台本ある程度部数刷ってますけど他用意するものありますか?」

美琴「三賀屋兄は?戻ってきた?」

蒼「いや、まだ。」

美琴「ったく、よその箱の手伝いなんていいって言ったのに。」

蒼「いや、原野さんが行けって」

美琴「ふん。」

蒼「…」


蒼「兄さんは使い勝手がいいですか?」

美琴「どういう意味かな、それ。」

蒼「俺も、器用なはずなんですけど。」

美琴「あー、ヤキモチだ。」

蒼「!…そうだって言ったら、どうします?」

美琴「…今日のご飯にミニトマト付けてやろう」

蒼「ふふ、いいっすね。それ。」


美琴N「稽古の合間に彼がくれる“人間でいられる時間”だけが心の支えだった。」


篠「遅くなりました。」

蒼「あ、戻ってきた。」

美琴「遅い。」

篠「すみません。ワークショップ参加あと1人いいですか?」

美琴「1人くらい全然構わないけど」

蒼「あ、」

ひかり「こんにちは、お邪魔します」

蒼「ひかりちゃん?」

篠「そう、偶然会って。美琴さん、彼女藤野 ひかりさんです。参加希望で。」

美琴「どうも、鷸間 美琴です。普段は舞台監督やってるんだけど今日は演出家としてやるからどうぞよろしく。」

ひかり「藤野です!よろしくお願いします!」

美琴「!」

ひかり「?」

蒼「ひかりちゃん、俺覚えてる?」

ひかり「あ、えっ!蒼くん?」

蒼「うん、久しぶり。」

ひかり「蒼くんも役者さん?」

蒼「いや、俺は裏方」

篠「小さい頃2人はよく遊んでたよね」

蒼「そりゃあ兄さんが家に居なさすぎたから。」

ひかり「そうそう。」

美琴「3人は幼馴染?」

ひかり「あ、昔家が近所だったんです」

蒼「そう、道路挟んだお向かいさんで。」

篠「年も近いし、学校は違ったけど父さん同士が仲良くて。」

美琴「へー。」


美琴N「初めて藤野の声を聞いた時、舞台映えすると確信した。両方の口角が均等に上がって頭頂部から響く声。化ける、そう感じると同時に初めて原石を見つけたことに恐怖した。」


篠「美琴さん?」

美琴「ああ、ごめん。ワークショップね。これ後から使う台本。時間までもう少しあるから読んでて」

ひかり「はい。ありがとうございます。」

美琴「これ、三賀屋兄の分」

ひかり「篠くんもやるの?」

篠「手伝い程度にね。」

ひかり「そっか。なんか、嬉しい」

篠「え?」

ひかり「昔みたいで、ちょっと嬉しい。」

篠「…」

蒼「相変わらずひかりちゃん兄さんばっかり」

ひかり「えー?」

蒼「篠くんは?篠くんは?っていつも言ってたよね。」

篠「そうだったの?」

蒼「そうだった。毎回、今日はピアノーとかバレエーとか言うとしょぼくれてた。」

ひかり「もー!蒼くんやめて!」

篠「全然知らなかった」

蒼「言うなって言うんだもん。きっとひかりちゃんの初恋は兄さんだったね。」

ひかり「え、」

篠「え?」

蒼「…うわ。ごめん。」

ひかり「いや、いやいやいや、違うよ!違う!うん、」

篠「はは。そうだったら嬉しかったな。」

ひかり「へ?!」

蒼「顔赤い」

ひかり「もー!」

篠「ひかりちゃん、本読みわかる?」

ひかり「えーっと」


美琴N「10人ほど集まったところで予定通りワークショップは開催した。経験者も数人いる中、ずば抜けて才能を感じたのはやはり藤野だった。感情表現の豊かさと天然の表情管理。ふと、振り返ると原野監督が全ての仕事を停止させて凝視していた。それほどまでに、彼女は異常だった。」


蒼「美琴さん?顔、怖いよ。」

美琴「ああ、ごめん。真剣になってた。」

蒼「…」


ひかり「ありがとうございました!」

蒼「ひかりちゃん、今日本当に初めてだったの?」

ひかり「うん。お芝居見るのは好きだからほぼ隔日で見て回ったりはするんだけど、なんか、すごいドキドキしちゃった。」

篠「…」

美琴「藤野さん、これ。」

ひかり「え?」

美琴「入団届け、的な。やってみない?うちで、芝居。」

ひかり「え、あの、いや私ただの受付嬢で」

美琴「あそこで見てるの原野俊之っていう監督なんだけどさ。」

ひかり「原野、って月9の」

美琴「そう。普通ならできない経験だと思うよ。あの人に演出頼むのこの辺じゃうちの劇団だけだからさ。」

ひかり「でも、」

美琴「三賀屋兄弟もそう思うでしょ」

蒼「俺も一緒にやれたら嬉しいよ。ね、兄さん」

篠「…」

蒼「兄さん?」

篠「あ、う、うん。」

ひかり「えっと、じゃあ、最初は現職と掛け持ちとか中途半端になっちゃうんですけど、」

美琴「いいよ。うん、いい。まずは来られる日、来られる時間においで。」

ひかり「は、はい」

美琴「三賀屋弟。原野監督にそう伝えといて。」

蒼「はあ。」

篠「…」

ひかり「なんか、すごいご迷惑かけちゃった」

篠「…」

ひかり「篠くん?」

篠「…すごいね、ひかりちゃん。」

ひかり「え?」

篠「すごい、」

ひかり「…テレビの中、入れそうだった?」

篠「うん。」


篠「すごいよ。」


篠N「その時から、酷く喉が渇くようになった。」


_____


美琴N「あれから3ヶ月が経ち、初めて藤野を舞台に出した。端役だったとはいえ素人をこの短期間で使うなんて異例だ。その異例をうちの演出家はやってのけた。様々な現場に藤野を連れて周り多くの景色を見せ続けた。」


ひかり「まだすっごくドキドキしてる、」

篠「初舞台、だったもんね。」

ひかり「うん。」

篠「昨日は稽古遅かったけどまたどっか行ってた?」

ひかり「昨日は月9の現場に見学させてもらってた。凄いんだよー、セットってめちゃくちゃ精巧でね?」

篠「うん」

ひかり「たまたま廊下でアイドルとすれ違っちゃった」

篠「そう、なんだ。」

ひかり「知ってる?最近“悪女”で盛り上がってる釘崎、」

篠「…」

ひかり「篠くん?」

篠「あ、うん。ごめん、それで?」

ひかり「…メイク、落とした?」

篠「え、ああ、まだ残ってる?」

ひかり「目の下、」

篠「ん?」

ひかり「隈、」

篠「…色素沈着しちゃったかなー?」

ひかり「それに、痩せたよね?」

篠「…」

ひかり「篠くん、」

篠「さ、最近稽古立て込んでたから、かな?」

ひかり「…」

篠「…今日は早く休むよ。」

ひかり「うん。大丈夫?」


美琴「藤野ー!原野さん呼んでるー」

ひかり「あ、はーい!…篠く」


篠「だいじょうぶ」


ひかりN「今考えれば、どうしてあの時放っておいたんだろうと自分が嫌になる」


蒼「兄さん?」

篠「ああ、何?」

蒼「メイクちゃんと落ちてないよ。」

篠「…」

蒼「ほら、こっち向いて。」


蒼N「片付けも終盤、楽屋で座り込んでいる兄さんは青白い顔のままだった。メイク落としシートを取りそっと頬をなぞると、僅かなラメが取れただけだった。」


篠「蒼、まだ残ってた?」

蒼「…ううん。なんて顔してんだよ。」

篠「え、っと。どんな顔してる?僕」

蒼「死人みたいな顔、」

篠「はは、生きてるよ」

蒼「こんな顔色して、何言ってんだよ。」

篠「…ごめん、ちょっと疲れてて」

蒼「ちょっとって、」

篠「今日は先、帰ろうかな。」

蒼「…待ってて。」

篠「蒼?」

蒼「そんな状態、一人で帰せない。送って行く。」

篠「ごめん、」


蒼N「兄さんは日を追うごとにさらに疲弊していった。幕が開ければ普段通りだが、幕が降りるたび崩れるように膝をついていた。」


美琴N「三賀屋兄の様子がおかしい事には気が付いていた。ただ、それよりも藤野の目まぐるしい成長に気を取られて誰もが彼から目を背けていた。」


蒼N「そんな、千秋楽前日。」


美琴N「原野監督は呆気なく台本のラストを書き換えて藤野ひかりを担ぎ上げた。」


篠「え、」

蒼「原野さん待ってくださいそれは」

ひかり「そうです!さすがに無理です!」


美琴N「三賀屋弟は兄のためにひどく反対した。しかし、意は認められなかった。」


蒼「…」

篠「蒼、ごめん。ありがとう」

蒼「あんまりだろ。兄さんは、ずっと応え続けてきたのに。最後の日にこんな。」

ひかり「…私もう一回掛け合ってくる」

篠「いいんだ。」


篠「もう、いいんだ。」


蒼N「そう言って笑う兄さんの顔は吐きそうなほど不気味だった。」


ひかりN「そして、千秋楽当日」


母「篠、蒼ー。観にきたわよ。」

蒼「母さん。」

母「今日はね、私のお友達も沢山連れてきたの。息子が主演ですもの。やっぱり千秋楽に観なきゃね。」

蒼「…」

母「篠?」

篠「ありがとう、母さん。がんばるね」

母「ええ。素晴らしいわ。私の夢叶えてくれてありがとう。」

蒼「っ、」

篠「…うん」


美琴「覚えた?」

ひかり「…覚えましたけど。納得いきません、私」

美琴「あのね、藤野。この世界はあんたが思ってるより厳しいの。」

ひかり「でも」

美琴「三賀屋兄の為にも、全力で望みなさい。手抜きした方が失礼よ。」

ひかり「…はい。」


蒼N「そして、幕が上がった。」


美琴N「ラストシーン、本当ならば復讐を果たした青年が誰にも知られず自決するはずだった。しかし上書きされた台本は彗星の如く現れた名探偵により罪は暴かれ青年は群衆の前で名探偵に赦しを乞うという全く違うラストになっていた。」


篠N「歓声前の、息を呑む音が響く。眩むほどの照明は舞台の真ん中に立つ彼女へと注がれている。そこに立つのは僕のはずだった。ふと、観客席に目をやると、母が呆れた顔で僕を観ていた。」


ひかり「ほら、顔を上げて」


篠N「急遽書き換えられたラストシーン。」


ひかり「私はあなたを赦します」


篠N「僕が今まで積み重ねてきた努力も報われてきた実力も全部全部が」


篠N「崩れた瞬間だった。」


_____


美琴N「運ばれていく三賀屋兄を見て、原野監督はこう言った。“蛹の中で羽化するか死ぬか、彼はどちらを選ぶと思う?”立ち尽くす藤野は途端顔色を変え監督に掴み掛かった。私はただ、見ていることしかできなかった。」


美琴N「そんな、とんでもない千秋楽を迎えた私達はメディアに取り上げられて注目の的になった。原野俊之はさらに名を売り、藤野ひかりは人気女優に。三賀屋弟は仕事を変え、兄は未だ休職中。そして私は、三賀屋蒼という、心の支えと代償に」


蒼「なんで、なんで!あのまま演らせたんだよ!あんまりだろ!何とも思わなかったのかよ!」

美琴「…。」

蒼「俺たちは傀儡じゃないんだよ。ちゃんと生きてる人間なんだよ。美琴さん、何とか言ってよ。」

美琴「…ごめん。」

蒼「…芝居なんか、大嫌いだ。」


美琴N「このまま甘い汁を啜り続けることを選んだ。」


ひかりN「篠くんが倒れてから何度もお見舞いに行った。けれど、会うたび、私の顔を見るたびに彼は発作を起こした。私のせいだ、私がワークショップなんか行きたいって言ったからだ。私が舞台に立ったからだ。そう、毎日自分を責めた。それでもこの仕事を辞めなかったのは彼にもう一度見てほしいからだった。」


美琴「藤野。今日も行くの?」

ひかり「はい。」

美琴「あんたのせいじゃないんだから、あんまり思い詰めな」

ひかり「じゃあ誰のせいですか。」

美琴「…」

ひかり「篠くんの、せいって。言うんですか。」

美琴「そうじゃないけど、」

ひかり「私のせいじゃないですか。私が、彼からスポットライトを奪ったから」

美琴「違、」

ひかり「美琴さん。私、思い詰めるべきなんですよね本当は。…なのに、なのに。私を見る篠くんの目が忘れられなくて。あれが絶望した顔なのかって、顔のどこの筋肉を動かせばああいう顔になるのかなって、私」

美琴「藤野、あんた」

ひかり「私、最低です。人でなしです。」

美琴「…私も、とっくに人なんてやめてるよ。」


蒼N「兄さんがずっと家にいる。その異常さは未だ慣れない。何度も何度も起こるパニック発作は今までのストレスの成れの果てだった。母はあの公演後、兄を呆気なく見捨てた。俺は舞台の仕事を辞めて、フリーランスでライターをしている。兄を看る事は全く苦ではなかった。そんなある日」


篠「…蒼」

蒼「んー?」

篠「窓開けていい?」

蒼「外雨だけど、匂い平気?」

篠「うん。」

蒼「俺やるよ。」


蒼N「ぶ厚い雲から降り出す雨、アスファルトを焼く匂いがする」


篠「蒼」

蒼「何?」

篠「最後のセリフ、今からでも遅くないかな」

蒼「何のこと?」

篠「“赦して”って、セリフ」

蒼「…ああ、もう終わったからさ。忘れなよ」

篠「言いたいんだ」

蒼「兄さん」

篠「もう一回あそこに立って言いたい」

蒼「兄さん、分かってないだろ。こんなに拒絶してんじゃないか。無理だって。」

篠「蒼、お願い。」

蒼「…」

篠「僕の、夢なんだ。」

蒼「違う。母さんの夢だ。」

篠「ううん。」


篠「僕の、夢だ。」


蒼N「曇天と轟く雷鳴。正気のなくなった兄さんの目。ギラ、と蠢いた。」


蒼N「それからというもの、舞台映像を掻き集めてプレイヤーが壊れるまで繰り返し繰り返し何度も見続けた。」


篠「っ、は、」

蒼「兄さん、もう今日は」

篠「まだ、まだ大、丈夫」

蒼「兄さん。」

篠「蒼、40秒戻して。指が、震えて、押せない」

蒼「…」

篠「60秒、戻して。」

蒼「…っ」

蒼N「何の拷問なんだろう。白くなっていく兄さんの手の甲、爪の痕に血が滲む」

篠「次、ひかり、ひっ、」


蒼N「特に、ひかりちゃんのお芝居を見る時が1番酷かった。」


篠「ぁ、ひ、戻し、もど、し」


蒼N「それでも、何度吐いても、何度気を失っても、兄さんはやめなかった。」


______


美琴「三賀屋兄復帰したんだ。久しぶり」

ひかり「美琴さん、おはようございます」

美琴「藤野おはよー。うわー兄、なんかまた痩せた?ちゃんとご飯食べてんの?昼奢るからお姉さんにちゃんと食べてるとこ見せて」

ひかり「美琴さん強引すぎ」

篠「はは、」


美琴「でも復帰早くて助かった。続けるんでしょ?弟から聞いてるけど。」

ひかり「ちょっと、」

篠「…まあ、一応」

ひかり「篠く、」

美琴「よかった。本、準備してんだよね。待ってて、持ってくるから」

ひかり「…いいの?」

篠「…その、つもり。だった、から。」

ひかり「でも、…。無理しないでね。」


蒼「篠、先に来てたんだ。」

ひかり「蒼くん、よかったね、篠くんようやく外に出られて」

蒼「うん。ひかりちゃんにも沢山迷惑かけたね、ごめんね」

ひかり「ううん。むしろ何にもできなくて、ごめんね。」

美琴「三賀屋弟は?復帰するの?」

蒼「いや、俺はこっちの仕事の取材です。」

ひかり「あ、この間女性誌で蒼くんの名前見たよ!」

美琴「手広くやってんだ」

蒼「まあ。俺器用なんで。」

美琴「音響、戻ってきてもいいよ?」

蒼「はは。もう戻りませんよ。俺は」


篠「…」

蒼「兄さん、大丈夫?」

篠「うん。久しぶりで、すごいドキドキしてる。」

蒼「…」

ひかり「ここ、ここ座って!篠くん」

篠「あ、うん。ごめん。」

美琴「うちの看板女優はあれから成長したんだよー。見た?円盤」

ひかり「美琴さ、」

篠「みた。」

ひかり「…え?」

篠「みたよ。」

美琴「へー。どうだった?」

篠「益々上手くなってた。13分46秒の表情、台詞の抑揚も相まってすごく惹かれた。」

ひかり「篠くん」

美琴「秒数まで」

篠「何回も見たから。」

ひかり「嬉しい。」

美琴「…」

蒼「…」

篠「美琴さん、台本は?」

美琴「ああ、これ。」

篠「原野さん、なんて?」

美琴「特になにも。」

篠「そっか。また見捨てられちゃったか。」

蒼「篠」

篠「また、頑張らなきゃね。」


ひかりN「ヘラっと笑って見せた彼は、何処となく吹っ切れているような気がした。」


美琴N「台本を掴む筋張った左手が小さく震えて」


蒼N「兄さんはまた、息をし始めた。」


_____


美琴N「帰ってきた三賀屋兄は以前と全く違うアプローチをとっていた。昔は穏やかで他人には優しく自分にだけ厳しい印象が強かった。だが今は笑みが消えた顔に鋭い目だけが爛々と厳しさを物語っていた。」


美琴N「特に藤野の動きを瞳孔の開いた眼光は一時も逃さず捉え続けていた。」


美琴N「まるで獲物を狙う猛獣のような。」


篠「っ、はぁ、」

ひかり「篠くん?」

篠「あ、いや、ご、めん。」

ひかり「休憩しよっか。時間もちょうどいいし」

蒼「篠、水飲んで。」

篠「うん。ごめんね。…大丈夫、落ち着いてきたから」

ひかり「でも、」

篠「集中切らせてごめんなさい、続けましょう。」

蒼「…」

ひかり「篠くん」

篠「演って。藤野さん。5ページの頭から」

ひかり「…うん。」


蒼N「兄さんは休職中から演技に向き合う度、発作が頻発していた。今はひかりちゃんと同じ部屋にいるだけでスマートウォッチが心拍数のエラーを叩き出す。なのに、辞めることなく喰らい付いて行った。」


美琴N「復帰後初めての舞台はあの日と同じ劇場で開演されることになった。」


篠「お久しぶりです。原野さん。」


篠「“羽化を選んだ”?何のことですか?」


篠「はは。いいえ、僕はもう」


___


ひかりN「人気作家、戸瀬 知代子作(とせ ちよこ)“繭”の初の舞台化。物語のあらすじは、美人な知代(ともよ)が彼氏に浮気され復讐するというものだった。ラストシーン、知代は浮気相手の赤いハイヒールを履き断崖絶壁から飛び降りる。ぐつぐつと煮えたぎる鍋の中、繭のまま死にゆく蚕のようだ、と締められる、そんなお話だった。」


美琴N「もちろん、知代役は藤野ひかり。人気作家の代表作を今をときめく人気女優が演じると話題になりチケットは瞬く間に完売した。また、三賀屋兄の復帰も喜ばれ、3日間の公演全て全席の予約が埋まっていた。」


蒼「兄さん?準備できた?」

篠「うん。蒼、今までありがとうね。」

蒼「…まだやり直せるよ。」

篠「ううん、僕の生きる現実世界はまるで、息のできない水中みたいだった。産まれてから、ずっと」

蒼「…」

篠「蒼。」

蒼「っ…」

篠「ごめんね。」


美琴「三賀屋ー!向こうで役者陣円陣組んでるから!」

篠「はい。いきます」


美琴「…弟?」

蒼「美琴さん、俺。」

美琴「ん?」

蒼「やっぱり、役者なんて大嫌いです。」


___


ひかり「いよいよ、最後だね。篠くん。」

篠「うん。」

ひかり「また同じ舞台の上でラストシーン迎えられるなんて、本当に嬉しい。」

篠「…」

ひかり「篠くんのおかげで、私、本当の夢が叶った」

篠「…」

ひかり「ね。ありがとう」

篠「…ううん。」

ひかり「ずっと、ここで待ってたよ」

篠「…」

ひかり「またこれからも一緒に、」

篠「僕はここで、」


ひかり「、」


_____


知代(ともよ)「どうして、どうしてよ。どうして私を選んでくれなかったの。何もかもをあげたじゃない。私のお金も、車も、体も、時間も。全部全部あなたにあげたじゃない。あの女の何処がいいの?顔?体?何もかも、私の方がよかったじゃない。ねえ、ねえ!」


男「知代、」


知代「みて、血塗れになったこの靴。あなたが私を選んでさえくれれば、あの女にうつつを抜かさなければ、きっと、綺麗なままだったでしょうね」


男「知代!」


知代「っ、」


美琴N「断崖へ傾いていく知代。叫ぶ男の悲鳴と共に水飛沫と幕が降りる。…はずだった。」


男「まだだよ。」


蒼N「男は彼女の腕を掴み、ラストシーンを書き換える。」


男「まだ、終わってないはずだ。言わせなくちゃ、僕に。さいごの台詞を。」


美琴「な、何やってんの…」

蒼「…」

美琴「こんなの、台本のどこに、原野さん、」


蒼N「男が自ら首に括った麻紐を彼女に差し出して」


男「復讐さ」

知代「ぅ、く、」

男「ほら、言わせなくちゃ」


蒼N「彼女は掴んだ麻紐を少しずつ左右に引いた」


男「ぁ、が、」

知代「ひっ、ぐぅ」


美琴「ちょ、っと、」


蒼N「締め上げられた喉から漏れる最後の台詞」


美琴「BGM上げて!照明落として!幕下ろして」


篠「ゆ、るっ、さな…ぃ」


ひかり「…なん、て顔、して」

篠N「所詮どんなに着飾ったって僕らは化物だ」

美琴「だめ、ひかり!離して!」


蒼N「映える照明と暗い影。それは一等、眩しかった。」


_____


ひかりN「曇天。私にお似合いの空はぶ厚い雲で蠢いていた。去年、舞台上で私は人を殺しかけた。あの舞台をメディアは迫真のラストと良いように拡散した。そして一緒に話題になった三賀屋 篠は役者をやめた。」


美琴N「メディアで活躍を知った三賀屋の母は、その後何度も劇場に訪れてあの舞台の円盤化を執拗に縋った。」


蒼N「兄さんは幸い脳に障害は残らず、声帯が潰れただけだった。」


美琴N「細い腕、白髪の増えた髪。燃え尽きたその表情はあまりにも穏やかで」


篠「笑って」


篠「僕は、みんなの笑った顔が好きなんだ」


美琴N「私達はいつも誰かになろうとするあまり、人であることを忘れていく。エンタメと娯楽の餌にされたただの化物だ。」


篠N「泣き崩れる彼女の顔も、目を逸らす弟の顔も、下唇を噛み締めるあの顔も、今となっては全部がただの快感だった。ああ、漸く僕は僕を演じることをやめられる。」


ひかり「ごめん、ごめんね、篠くんごめん」




篠「ねえ。ひかりちゃん。」


篠「僕の絶望は、どうだった?」

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篠突く雨 有理 @lily000

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