押したい

悪本不真面目(アクモトフマジメ)

第1話

あの背中のあの広い背中のあのくたびれたおっさんのあの背中を押したい。

押したら、あのおっさんは落ちる。死ぬかは分からないが大けがはする高さ。

僕は利き腕の右手だけをジャケットのポッケにしまった。左手はうずかない。

右手だけだ。この気持ち。抑えられないこの気持ち。しかし目線は以前ともあのおっさんのあの背中にくぎ付けだった。引き込まれるブラックホールのごとく。あの背中に宇宙でも感じているのか。右手をポッケにしまったままあのおっさんへと足が近づく。足はポッケに入らない。何をするのだろうか。「押してもいいですか?」と口が喉と結託してそう言うつもりなのだろうか。気が付いたらどうだろうか、目の前にはあの背中のあの背中ではないか。おっさんは幸いにも気が付いてない。左手もうずきだす。こいつは猫をかぶっていただけだったようだ。そうはさせまいとジャケットのポッケから右手が出てくる。両手だ。両手でドンと押す、押すたい、押したい、押させてたもれ。目線はあの背中のあのあのあの。おっさんが振り向いたように感じた。

目に入ってはないけれど脳がそう思っている。そしてその顔は、今朝洗面台で見た顔のよく知るアイツに似ている。それを自分と言うのだろうか。不気味に笑っていたように脳が思っている。ドンと両手で押したはず。


ここにいる前は何をしていたのだろうか。とにかく今は電車を待っている。列の先頭に僕はいる。背後には感覚、感覚なんだが誰もいないような気がする。気配がない。

「まもなく電車が到着します。白線の内側にお下がりください。」

アナウンスが聞こえる。つまりはもうじき電車がくる。音が聞こえる。光が見える。

背中に何かを感じ「あっ」と言いたかったが、そんな隙もなく押された。

電車がやってくる。ベストタイミング轢かれる轢かれる。


「すみません、Σ階押してもらえますか?」

女性の声だ。優しく柔らかい声だ。僕はそんな彼女のありがとうを聞きたくてΣ階を押そうとした。しかし、全部のボタンにはΩ階しかなかった。

「Ω階でもいいですか?」

「はい、本当はΩ階に行きたかったのであなたのおかげで勇気持てました。」

結果オーライΩ階。全てのΩ階のボタンを押した。全部で12個。チンとなって、彼女が前へとやってくる。前を見せないで横向きできた。だから彼女の姿は後ろしか分からない。髪が長く少しいい香りがする。扉が開いた。そこは奈落。

「ダメだわ勇気が勇気が持てませんわ。」

うずかない。だから嫌だ。

「すみません押してもらえますか?」

彼女が奈落へ落ちる。彼女の背中はあの背中のあのあのではないのであのあの。押したくない。

「急いでもらえますか?」

冷たく鋭い刺さる声。寒い。寂しい。僕は彼女を後ろから抱きしめた。

「な、何を!?」

「ダメです、ダメです。」

「もう遅い。」

誰かが、誰かが抱きしめている僕の背中を押した。抱きしめていた彼女はシャボン玉のように割れて消えた。僕は奈落へ落ちた。


背広を着た男性が六メートルの高さから落ちた。目撃者によると何者かに押された様子だそうだ。残念ながら緊急搬送された病院から死亡が確認された。遺体の背中には両手で手のひらの跡が残っていた。それは遺体の手と一致したそうだ。

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押したい 悪本不真面目(アクモトフマジメ) @saikindou0615

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