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「彼が、吸血鬼だったら?」
エイミーの問いに、2人は注目した。文子は、大芽が潰してしまったというトマトの破片を洗い流している光景を思い出していた。先ほどまで一緒にいた人物が吸血鬼である可能性に怯えている文子を、稲田は一瞬見た後、エイミーに対して答えた。
「彼は吸血鬼ではありません。」
稲田はそう言い切った。〝なぜ?〟と聞こうとしたエイミーは、稲田が文子を一瞥したのを見て、彼の判断をここでは呑み込むことにした。
「ゴーくんが言うのなら、確かそうね。」
文子は緊張に固まっていた肩をホッと下ろし、再びタブレットに表示された写真に目を向ける。そして、下段の右端、眼鏡とマスクを付けた若い男性を、文子は指差した。
「あと、この方は現場で見ました。
文子はメモ帳を確認しながら、情報を伝えた。
「つまり、小川家の奥さんや、次男くん自身に動機があってもおかしくない、ってこと?」
「さすがに、動機としては弱いような気がしますが……」
「いいえ。先ほども言ったように、どんな些細なことでも動機になりえます。なりえることが、一番の問題なのです。事前に組合に確認しましたが、この地域に居住している吸血鬼の登録情報は無し。この事件が吸血鬼によるものであった場合、犯人は未登録の吸血鬼であり、正規の教育課程を修了していない可能性が高い。」
エイミーは視線を落とした。文子はエイミーの正面に座っていたが、彼女の様子には気づかず、稲田の発言に対する疑問を投げかけた。
「教育課程?吸血鬼の、ですか?」
「はい。日本における義務教育課程のようなもので、吸血鬼社会と人間社会について学ぶ機会です。同時に、組合への登録も行います。登録することで、身分証の更新や働き口の紹介、入手困難な日用品の支給など、さまざまな支援を受けられるようになります。」
「なるほど……」
文子は稲田の言葉を書き留めながら、吸血鬼のイメージが崩れていくのを感じた。吸血鬼は空想の存在で、得体の知れない何か。そう考えていた文子だったが、稲田の話を聞くに、人間に紛れて生活することも不可能ではないように思えた。むしろ、吸血鬼社会のシステマティックな部分も見え、吸血鬼も大変なんだなぁ、と同情にも似た感情を抱いた。
「そろそろ解散にしましょう。未成年をこれ以上引き留めると、問題になりかねません。」
稲田は腕時計を確認すると、紅茶を飲み干した。
「あら、もうこんな時間。もう少し話したかったのだけど。」
「あなたも身重なんですから、さっさと休みなさい。」
「心配してくれるの?嬉しいわ。」
「あなたが無茶をしたときに、あなたの旦那に叱られるのは私なんですよ。あなたが絡むと特に面倒なんですから、勘弁してください。」
稲田は手早くスーツを整えると、部屋の出口に向かった。
「送っていくわよ?」
「結構です。エイミー、あまり不要なことを部外者に教えないように。良いですね。」
「はーい。」
エイミーの明るい返事にしかめっ面を残し、稲田は部屋を出ていった。
先にマンションを出た稲田は、鞄の中で震えるスマートフォンを手に取った。部屋を出た瞬間から立て続けに3度もかかってきていたことに稲田は気づいていたが、エイミーに話し声を聞かれない方が通話相手にも都合が良いだろうと、あえて無視していた。
「は」
『すぐに出ないか、ゴットフリッド!』
稲田の声を遮った通話口からの爆音に、稲田はスピーカーから耳を離した。自分の判断が正しかったという評価と、この男のために気を使う必要は無かったのではという疑念が、稲田の中に同時に響く。
「あまり大声を出すと、君の妻にストーキングがバレるんじゃないか、エルネスティ。」
『ス!……トーキングではない。』
稲田の電話相手であるエルネスティは、旧友の忠告を受け入れ、途中から声量を落とした。
『愛しい子を宿した愛しい妻が独り異国で働いているのだぞ!せめて見守るのが夫の役目であろう!』
エイミーに見つからないように配置された監視カメラと護衛の多さに、稲田は〝度が過ぎる〟と口走りそうになった。しかし、そう発言した場合、この通話が10分は伸びることを予見して、〝そうだな。〟とだけ返した。
『そんな当然のことよりもだ、タフ。あの人間は信用できるのか?エイミーは誇り高く我らの存在を打ち明けたが、あの
「私に聞くな。判断を下し、行動したのはエイミーだ。だが、彼女のことだ。相手の素性、環境、性格、立場。すべて調べ上げた上での判断だろう。君の自慢の妻を信じたらどうだ。」
エルネスティは〝しかし……〟と苦悩に呻いたが、稲田の発言が真っ当であることを、彼は否定できなかった。
『いや、そうだな。エイミーがどれだけ優秀な人間かは、私が一番よく知っている。だからこそ彼女の意志を尊重し、送り出したのだ。吸血鬼社会が抱える問題の突破口を、彼女は見出してくれる。信じているさ。だが、有事の際には彼女を守ってくれ、タフ──ファンクヴィスト家の秀才よ。古い友人の頼みだ。』
「……普段は喧しい癖に、頼み事の時だけは畏まる。いつもの君のやり口だ。大企業の会長なら、もっと効果的な交渉術を学ぶべきでは?」
『お前ほど無欲で自立した奴を相手に商売はせんよ。』
電話口の向こうでエルネスティは、言葉を選ぶ時間を稼ぐように、長く息を吐いた。
『今回のエイミーの判断は、少し強引なところもあった。理由はわかるな、タフ。彼女も、お前に協力者が必要だと考えている。あんなことがあれば、他人と深く関わることを避けるようになるのも当然だろう。だがな、吸血鬼も人間も、独りでは生きていけないものだ。』
稲田は、心の奥に根を張った蟠りの存在を感じた。均した地面の奥底で、機を待つように沈黙したそれが、何を齎すのか。稲田は、いま考える事ではないと、地面をぐっと踏みつけた。
「エイミーのことは護衛が見ているだろう。私の出る幕など無いと思うが、気にしてはおく。他に要件は?」
『いや、またの機会にしよう。事件が解決したら、一緒に食事でもしようじゃないか。』
「考えておく。」
通話を終えた稲田は、少し熱を持ったスマートフォンを鞄にしまった。冬の夜風が、羽織っただけのコートを吹き抜ける。稲田にとってそれは、特に寒いと感じるものではなかったが、故郷の冬の風を思い出したのか、その身体が強張った。
エイミーの勧めで、文子は車で家まで送ってもらうことになった。文子が伝えた住所をカーナビに入力すると、エイミーは滑らかに車を発進させた。エイミーの様子を窺おうと、文子はバックミラーをチラリと見た。鏡越しに、美女と目が合う。
「あの、質問しても良いですか?」
「もちろん。」
「稲田先生とは、どういうご関係で?」
「私の旦那と旧知の中でね。私とは、知り合って9年になるかしら。」
「旦那さんと……」
文子は、稲田の言葉を思い出した。
「そういえば、妊娠されているんですか?」
「そうなの!まだ4ヶ月だけどね。」
「体の方は大丈夫なんですか?」
「問題ないわ。それに、今回の件には関わっておきたくてね。」
「そうなんですか?」
赤信号で車が止まる。エイミーはそっと手をお腹に当てた。
「この子にも、関係のあることかもしれないから。」
文子には、彼女の言わんとしていることがわからなかった。エイミーはバックミラー越しに微笑むと、青信号を確認して、車を再び走らせた。
「そうだ、ウチの商品に興味はある?協力へのお礼として渡そうと思うのだけど。」
ブランド品に対する興味が薄い文子でも、ヴァーラの商品がかなり高価であることは、容易に想像できた。
「さすがにそれは、もったいないと言いますか。私、化粧品とかそういう物には疎くて。」
「プレゼント用でも良いわよ。コスメ以外でも構わないし。」
文子の頭には、まだ仕事をしているであろう母親の顔が浮かんだ。文子は、いわゆる母子家庭の子どもだ。記憶にない父親とは、文子が幼い頃に離婚したと聞いている。母親は仕事で毎日帰りが遅く、物心付いた頃には、文子は進んで家事をこなしていた。余裕はあまりないが、大きな不自由もない。今の生活支えてくれている母親に文子は感謝していたし、役に立ちたいと思っていた。
大切な人のために考えている文子を見て、エイミーは嬉しそうに笑った。
「今度カタログを持ってくるわね。」
「ありがとうございます。」
「ところで、今週の土曜日は空いているかしら?さっそく調査をお願いしたいのだけど。」
「土曜日ですね。大丈夫です。」
「ありがとう。手間をかけるのだけど、名刺に書かれた私のメールアドレスに空メールを送っておいて。詳細はそのメールに返信するわ。」
「わかりました。」
「そうそう、その名刺は私の協力者である証明にもなるから、持っておいてね。刑事さんにもそれを見せれば、事情はわかってくれるわ。」
文子は取り出した銀色の名刺を見た。とんでもない代物のような気もしたが、少し怖くなった文子は、深く考えないようにした。
築40年の鉄骨アパートの前に、白い高級車が止まる。
「送っていただいてありがとうございます。」
「いいのよ、引き留めたのは私の方だし。それじゃ、また土曜日に。」
「はい、また。」
駅から徒歩20分の寂れた路地に、切り貼りされたような白い車体。それが曲がり角に消えると、見慣れた光景だけが残る。まだ春には遠い空気が、頬の火照りを教えてくれる。この半日の刺激的な体験が夢でないことを確かめるように、文子は内ポケットにしまった銀色の名刺に触れた。
「今日はカレーにしちゃお。」
自身を現実に引き戻すようにそう呟き、塗装の剥がれた階段を上る。鍵を取り出しながら一番端の部屋に向かい、郵便受けに差し込まれたチラシを引き抜き、扉を開けた。
「ただいま。」
誰もいない部屋に響く声。帰ってきたときにしか感じない家の匂いを、文子は目一杯に吸い込んだ。朝出てきた時と変わらない玄関の小物たちに、文子はひどく安堵した。
寝室の一角に置かれた勉強机にカバンを置き、ブレザーを脱ぐ。内ポケットの名刺を取り出し、どこに置こうか少し迷い、机の端に置いた。ブレザーをハンガーにかけてから名刺を見つめて考え、先に連絡することにした。母親が見ればきっと心配する。でも、こんなチャンスは逃したくないし、母親にプレゼントもしたい。だから、こっそりやろう、と。
スマートフォンを操作し、普段はあまり開かない連絡先アプリを立ち上げる。エイミーの情報を登録し、メールを作成する。空メールを、と言っていたが、味気ないかと思い、〝新庄文子です。よろしくお願いします。〟と打つ。まだ少し怖気づく親指が、〝送信〟をタップした。
「はぁ……」
緊張と疲労と胸の高鳴りを吐き出し、文子は普段通り、家事をこなしながら母親の帰りを待った。文子がカレーの具材を煮込んでいる間に、スマートフォンの画面が点灯する。母親からの、もうすぐ帰宅する旨のメッセージ。役割を果たしたホーム画面が暗転するよりも先に、メールの通知が直前のメッセージを押しのける。
〝土曜日の10時に迎えに行くわ。午前中はショッピングを楽しみましょう!〟
ヴァンプ・ファング・チャンス 鈴木 千明 @Chiaki_Suzuki
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