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 文子は縮こまっていた。周囲を観察する目だけが、落ち着きなく動く。ここは高層マンションの最上階の部屋。広い客間はシンプルな内装だが、置かれている家具や小物はどれも高価に見える。

「ごめんね、お待たせしちゃって。」

正面のドアが開き、稲田と女性が入ってくる。女性は手にしたトレイから紅茶を置くと、ニコリと笑った。

住宅街で2人と遭遇した文子は、あれよあれよという間にこのマンションまで付いてきてしまった。女性が悪い人には見えなかったこと、一応は見知っている先生がいることもあり、〝断る〟という行為の居心地悪さと少し好奇心から、女性の誘いに乗ったのだ。

それを今、文子は後悔している。この客間に残された10分ほどの間で独り巡らせた懸念が、どんどん彼女を不安にさせた。

女性は何者なのか。稲田先生とはどういう関係なのか。何を話しているのか。そもそも、稲田先生は信用できるのか。もし2人が悪い人だったら?母親に連絡をしておくべきか。逃げ出すことはできるのか。

しかし、考えるばかりで何も行動に移せないまま、2人は戻ってきてしまった。

「そんなに怯えないで?私に後ろめたいことなんてないし、ゴーくんも、悪い人ではないから。」

女性の言葉に対し、稲田は特にコメントせず、紅茶を飲んだ。

「まずは自己紹介ね。私はエイミー なぎ フルメヴァーラ。エイミーでいいわ。」

エイミーは文子に銀色の薄い板を渡した。受け取った文子は、表面に刻まれた英語を目で追い、それらが氏名や連絡先を示しているのだとわかった。

「普段は会長秘書をしているのだけれど、その会長に頼んで、この街で起きている〝吸血鬼事件〟の調査を担うことにしたの。だから、今は探偵の真似事よ。」

初めて見る金属製の名刺。そこに書かれた会社名に、文子は目を見開いた。

VAARAヴァーラ!?」

コスメティックやファッションの分野で有名な、大企業の名前だ。誰もが知るブランド名の登場に、文子の恐怖心は好奇心に押し返された。

「ヴァーラの会長秘書さんが、なぜ〝吸血鬼事件〟の調査を?」

「それはね……会長が吸血鬼だからよ。」

ブッ!と稲田が紅茶を吹き出し、激しく咳き込んだ。

文子は反応に困り果て、曖昧に笑った。自身も昼間、吸血鬼が存在するていで主婦達に話していたのだが、いざ他人に真正面から言われると、どう返答すべきかわからなくなってしまったのだ。

「信じていないわね?まぁいいわ。私が日本に戻ってきたのは、〝吸血鬼事件〟が本当に吸血鬼によって起こされているのか、確かめるため。そこで日本の警察と、彼に協力してもらうことにしたの。」

エイミーは稲田を手で指した。

「実は彼」

「吸血鬼の研究をしています。」

エイミーの言葉を遮るように、稲田はそう言った。2人の視線が互いに何かを主張し、エイミーが肩を竦めて目線を外す。

「吸血鬼に詳しいゴーくんと一緒に調査をすることになったけれど、私は警察や組合……吸血鬼を支援する組合との調整があるから、付きっきりにはなれないの。でも彼、人間には無関心でしょ?だから、助手が必要だと思ってね。」

文子は、エイミーが続けるであろう言葉を待った。高揚と憂慮が入り混じり、紅茶が胃の中で暴れ回っているように感じた。

「あなたはゴーくんと顔見知りだし、調査にも慣れていそうだから、彼の助手になってほしいの。どうかしら?」

文子は自らの口角が上がってしまうのを抑えきれなかった。せめて、重大な役割だと理解していることを表現するため、舞い上がった気持ちを一度呑み込み、努めて真面目な声音で返答した。

「はい、任せてください!」

エイミーは満面の笑みで、文子に手を差し出した。

「ありがとう、助かるわ。」

2人が握手を交わす横で、稲田は隠しもせずに溜息を吐いた。

「そうそう、これから話すことの中には、警察の捜査によって得られた非公開情報も含まれるの。それについては他言しないように。文子ちゃんなら、できるわよね?」

エイミーの言葉に、文子は少し緊張しつつも頷いた。

よろしいゲライ!それじゃあ、私たちの行動方針について確認しましょうか。これから調査する連続通り魔事件は、その特徴から、〝吸血鬼事件〟と呼ばれているわ。本当に吸血鬼が犯人だと考えている人は、ほとんどいないでしょうね。でも、吸血鬼は実在する。簡単に証明はできないから、ここでは〝信じて〟としか言えないのだけど。」

エイミーは愛嬌のある困り顔を見せた。

「今回の事件が吸血鬼によるものかどうかは、まだわからないわ。もし人間の仕業だったのなら、警察が捕まえてくれるでしょう。一方で、彼らは吸血鬼の存在を信じていない。だから犯人が吸血鬼であった場合、手がかりを見落としてしまうかもしれない。それを補完するのが、私達の役目よ。」

文子はメモを開いた。新しいページに〝キュウケツキは実在する〟と書き、その突拍子の無さに少なからず恥じらいを感じた。掻き消すようにペンを指に挟んだまま細かく振り、〝キュウケツキがのこす手がかり?〟と続けた。

「つまり、〝吸血鬼が犯人である〟という視点でこの事件を見る、ということですね?」

「さすが!理解が早いわね、小さな記者さん。」

エイミーの褒め言葉に緩んでしまった表情を咳払いで戒めた文子は、次の質問を投げかける。

「では、吸血鬼の特徴を教えてもらえませんか?私……そういった分野にはあまり詳しくなくて。」

〝オカルト〟という言葉を、文子はギリギリで呑み込んだ。エイミーが真剣に吸血鬼について話しているのを見て、を表すこともあるその言葉を、口にすることはできなかった。

「それについては、に聞いてみましょう。」

文子の質問を受けたエイミーは、稲田の方を見た。稲田はまた溜息を吐くと、高校での授業と変わらない平坦な口調で話し始める。

「まずは、長寿であること。人間社会に紛れ込む場合、定期的に素性を変えねばなりません。身分証の変更や発行の記録については、組合の方で調べています。次に肌の色。人間からすれば、血色が悪いように見えるでしょう。日光への対策も兼ねて、肌を隠す必要があります。」

「メイクがその1つね。ヴァーラも、吸血鬼のメイクを研究する過程で生まれたブランドなの。ね、ゴー君?」

エイミーの補足に、稲田は物言いたげな目線だけを返した。

「たしか、吸血鬼は日光に当たると死んでしまうのでは?」

文子は、吸血鬼に対する薄っすらとしたイメージとの相違点を挙げた。

「いいえ。人間に比べれば日光への耐性は低いですが、死に直結することはまずありません。人間にも日光に弱い個体がいるでしょう。彼らとそう変わりませんよ。」

ペンを走らせる文子の視線が手帳に向いている隙に、稲田は自らの前に置かれた白いカップを確認し、取手にわずかに付着したクリームをさりげなく拭った。

「他には、本来は夜行性であること、嗅覚が鋭いこと、強靭であり、身体能力が高いことなどが、人間との違いとして挙げられます。あとは、吸血について。現代において、必要な栄養素を摂取する目的で吸血している個体は、かなり少ないと言われています。人間の習慣に置き換えれば、食事ではなく、嗜好や娯楽に近いでしょう。そういえば、被害者から抜かれた血液量の試算はできそうですか?」

稲田に聞かれたエイミーは首を横に振った。

「ダメね。健康に害は無い程度、としか言えないわ。」

「そうですか。吸血量から事件を起こした動機を推測できるかとも考えたのですが、難しそうですね。警察の見解は?」

稲田の思考が文子の質問から外れていくことをエイミーは気にしたのか、文子に謝るような目線を送ってから、稲田との会話に戻った。

「愉快犯と見ているようね。金品も盗まれていないし、被害者たちの周りに大きなトラブルも無いと聞いているわ。」

「あの、」

文子の声に、エイミーと稲田は視線を向けた。

「私が昼間に主婦の方から聞いた話では、被害者達は同じママ友グループで、彼女達の町内会での態度に対して、皆さん不満を持っていた、と。なので、怨恨の線もあるのではないでしょうか。」

エイミーは少し驚いた後、美しい笑顔をさらに輝かせた。

すごいわヒエノ!あなたがいてくれて本当に良かったわ!」

エイミーは文子をぎゅっ、と抱きしめた。嬉しさと気恥ずかしさと良い香りに挟まれ、居所を失った文子の両手が、あわあわとくうを彷徨った。

「でも、あずまさんはどうして言ってくれなかったのかしら。あ、東さんっていうのは、連絡役の刑事さんのことね。」

エイミーは腕の中にいる文子にそう説明した。同時に、彼女の顔が真っ赤であることに気づき、愛おしげに笑うと、ソファに戻った。その様子を無関心に眺めていた稲田は、エイミーの疑問に推測で答える。

「町内会での評判だけでは、動機として相応ではないと考えたのでしょう。人間からすれば、首筋への傷害は非常に危険な行為です。ですが吸血鬼からすれば、大きな害を残さずに吸血することは、できて当然のこと。どんな些細なことが動機であっても、驚きはしません。呆れはするでしょうが。」

「だとしても、情報はきちんと共有してほしいわ。」

「信用されていないのでは?」

稲田の容赦ない言葉に、エイミーはむっ、とわかりやすい怒り顔を見せた。本気ではないのだろう、どこか愛らしさのある表情だ。

「犯人の目星は?」

エイミーの反応にもやはり関心を持たず、稲田は聞いた。

「絞れ込めてはいないみたいね。凶器も特定できていない。」

「噛み傷ではないんですか?」

文子は鋭い2本の歯を想像しながら聞いた。

噛み傷ではないようね。吸血鬼の噛み傷かどうかは、後でゴーくんに確認してもらうわ。よろしくね。」

稲田は返事の代わりに紅茶を飲んだ。エイミーは、棚の上にあったタブレットを持ち出し、話を続ける。

「目撃者も無し。近くの防犯カメラを虱潰しに確認して、犯行が可能な人物をピックアップしているみたいだけれど、数が多すぎる。その中で東くんが目をつけているのは、この6人みたいね。」

タブレットに表示されていたのは、6枚の写真。写る全員が男性で、下段の3枚は隠し撮りされたようだ。その内の2人に、文子は見覚えがあった。

「この人、八百屋のお兄さんですよね?」

文子は上段の1人を指差しながら、タブレットを覗き込もうともしていない稲田に聞いた。

「八百屋?あかぎ商店のことですか?」

写真の下には、〝赤城あかぎ 大芽たいが〟と書かれている。

「サイレンが聞こえたとき、彼は八百屋さんにいましたよね。〝アリバイ〟ってやつじゃないですか?」

「事件現場から商店街まで走れば10分。事件発生からすぐに救急車を呼んだ場合でも、住宅街を縫って進むことを考えると、到着まで約15分。不可能ではありません。」

「あっ、でも、先生が八百屋さんに来るよりも前に、赤城さんと一緒にいたんです。5分くらい。」

「そうだとすれば、難しいですかね。」

稲田の推算を聞きながら考えていたエイミーは、1つの可能性を口にした。

「彼が、吸血鬼だったら?」

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