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高校生達の視線を受けた大男は、彼らの表情を見て何かに気づき、目を瞑った。目の周りの筋肉を弛張させ、ふぅ、と息を吐く。些か丸くなった視線を改めて高校生達に向け、右手を素早く振り上げた。
「きゃっ!」
文子はカメラを守りながらうずくまる。目の前では悲鳴が上がった。
「うわっ!冷て!」
予想もしなかった言葉に顔を上げる。高校生の制服は水で濡れ、手に持っていたタバコの火は消えていた。
「ここでタバコ吸うな。火事になったらどうすんだ。」
大男の右手にはホースが握られていた。その先端からは水が流れ出ている。文子はすぐに自らのカメラを確認し、水が掛かっていないことに胸を撫で下ろした。
一方、水を掛けられた高校生は徐々に状況を飲み込み、彼の苛立ちは大男へと向いた。
「何すんだ、おっさん!」
大男の言動から、彼が恐れる存在ではないと判断したのか、タバコを捨て胸ぐらを掴む。掴みかかったその体の頑強さに些か尻込んだが、負けじと大男を睨んだ。
「おっさんだぁ?まだ23だっつーの。お前、南高か。誰に買ってもらったんだ。」
「関係ねぇだろが!」
「関係あんだよ。ここ、ばあちゃんの店だから。」
大男は左の壁を親指で指した。
「お前らのタバコで火事になったら、お前らが建て直すのか?金出すのか?無理だろ、まだガキなんだから。それとも、そういう時だけは親に泣きつくのか?」
「なんだと!」
高校生は大男の言葉に憤り、拳を振りかざした。
「おい、やめとけ!」
様子を見ていた他の高校生の言葉が、その拳を止める。
「なんだよ!」
殴りかかろうとした高校生は、苛立たしげに友人の方へと振り向いた。
「この八百屋の孫ってことは、そいつ……伝説の
その名前を聞いた途端、高校生の顔から血の気が引いていく。対照的に、大男の顔は赤くなった。
「なっ!?まだあんのか、そのダサい渾名!」
高校生は凶暴な獣を目の前にしたかのように、慎重に大男の襟から指を離し、後退る。
「こいつが、伝説の
「やめろ、その呼び方!」
「でも、
「沈んでねぇよ!そもそも抗争とかしてねぇから!」
「蘇ったんだ、伝説の
「だから、」
「に、逃げろ!」
1人が恐怖に耐えきれずに走り出すと、他の高校生達も、壁や室外機にぶつかりながら、商店街の通りへと逃げていった。狭い脇道には、文子と大男だけが残される。
「はぁ、勘弁してくれよ……」
大男は短い髪を乱雑に掻くと、文子の方を向いた。
「あんたは、あいつらのツレじゃないんだよな。大丈夫か?」
文子はこくこくと頷いた。大男が気遣ってくれているのだとわかったが、その体格と纏う雰囲気の大きさに本能的な恐怖を感じ、カメラを守る手に力が入る。そして、文子は大男の服を見た。暗い脇道ではよく見えないが、飛び散ったような赤い何かが付着している。文子の視線を追い、大男は自らのエプロンを見た。
「そうだ、洗いにきたんだった。」
大男はホースの水でエプロンの表面を洗い流す。文子は勇気を振り絞り、大男に聞いた。
「それ……」
「あぁ、トマトの袋を潰しちまってな。またじいちゃんに叱られる……」
自らの不始末をあらかた流し終え、大男は水の元栓を止めた。
「そういえば、あんたは何してたんだ?」
まだ水の残ったホースを纏めながら、大男は文子に聞いた。
「えっと、〝吸血鬼事件〟の取材を、してました。」
「そこで起きてる通り魔のことか?」
文子は頷いた。まだ怯えている様子を見て、大男はバツが悪そうに、エプロンに付いた水滴を払った。
「ほら、通りに戻れ。店の中、通っていいから。」
大男に続いて、文子は八百屋の裏口から店の中へ出た。
「あら、いらっしゃい。」
店の奥に座っていた高齢の女性は、裏から入ってきた文子に少し驚いた様子だったが、丸まった背をさらに少し曲げて彼女を迎えた。
「お、いらっしゃい、先生。」
高齢の女性に会釈を返していた文子だったが、大男の発した〝先生〟という単語にビクリと肩を震わせた。きっと最寄りの南高の先生だろうと自らに言い聞かせつつも、店の奥から入り口の方を窺った。
「あっ……」
完全に目が合ってしまった〝先生〟は、文子の知る人物だった。
「おや、あなたは──」
文子の顔を見た色白の男性は、顎に手を当てて記憶を巡らせた。
「──たしか……しつこく取材を受けるよう要求してきた女子生徒ですね。」
文子は名前を覚えられていないことに安堵したが、そのうち悔しい思いが勝り、自ら名乗った。
「新庄です!
「人の名前と顔を覚えることは不得手でして。顔を覚えていただけでも、私にしては珍しいことですよ。それも、あなたがしつこかったせいですが。」
稲田は興味無さげに、商品を見繕い始める。
「先生、取材なんて受けたのか?」
八百屋の大男は、笑いながらそう聞いた。
「ええ、冷やかしでしょうがね。」
無感情で誤魔化しようのない返答に、文子は胸の内に不快感が渦巻くのを感じた。
今回、文子が貼り出した記事は、稲田へのインタビュー記事だった。なぜ文子が彼に注目したのかというと、少し前に書いた記事のネタ、先生達に対するアンケートの中で、女子生徒から絶大な人気を誇っていたからだ。しかし、これは稲田の言う通り〝冷やかし〟だと、文子も勘づいていた。
文子は、自分の中の靄をよく見ないように掻き消し、他のことを考えようと努めた。何か無いかと周りを観察しても、目に映るのは野菜と果物ばかりだったが、彼女の耳に気になる音が入ってきた。
「あれ、サイレンの音?」
緊急事態を知らせる車両の音が、遠くから聞こえる。
「ん、本当だ。あんた耳良いな。」
大男に褒められ、文子の表情が緩む。しかし、すぐにその顔が引き締まった。
「もしかして、吸血鬼!」
文子はその予感に走りそうになったが、入り口付近にいる稲田を見て、グッと衝動を堪えた。
「じゃあ先生、さようならー。」
帰宅するような素振りを見せながら、文子は足早に八百屋を出る。稲田の死角に入ったであろう位置から、彼女は駆け出した。
住宅街へと急ぐ。サイレンの鳴る方角へと坂を登っていると、その音が近くで止んだ。代わりに、人々の騒めきが聞こえてくる。大きく息を吸う度、冬の空気が熱い喉をひりつかせる。激しい鼓動が心地良い。疲労した足で角を曲がれば、救急車とまだ薄い人だかりが見えた。文子はカメラで遠巻きから数枚撮影した後、人だかりへと近づく。
「あら、さっきの。」
人だかりの中には、先ほど話を聞いた加藤さんと中島さんもいた。加藤さんは少し興奮した様子で、文子に耳打ちした。
「襲われたの、今までと同じグループのママ!」
驚いた文子の表情を見て、加藤さんはまた何かを噛む動作をしてみせた。中島さんはそれを見てまた笑っている。文子は救急車の方を見た。被害者は救急車の中だろうか、姿はない。近くのカーブミラーも確認したが、それらしき人物は見えなかった。とにかく情報になりそうな箇所を次々撮影していると、物陰からスマートフォンを構えている人物を見つけた。
「あの、彼は?」
その人物を目で指しながら、主婦達に聞く。20歳前後に見える男は、眼鏡にマスクをしていた。その目元は、笑っている様に見える。
「あら、小川さんのところの次男くんじゃない。久しぶりに見たわ。」
加藤さんは目を凝らして男の顔を見た。男は見られていることに気づき、そそくさとその場を後にした。
「たしか、地方の大学に進学したのよね?帰ってきてたのかしら。」
中島さんの言葉に、加藤さんは首を横に細かく振った。
「辞めたらしいわよ。小川さん、最近は町内会の集まりに顔出さないでしょ?次男くんが戻ってきた後、山本さんに散々言われたみたいよ。」
「えー?」
会話に置いていかれそうな文子だったが、機を逃すまいと割り入っていく。
「あの、〝山本さん〟というのは?」
「2人目の被害者よ。例のママ友グループのリーダーなの。」
加藤さんが眉を顰めてそう言うと、隣の中島さんも苦い表情を浮かべた。
「どうしたらあんなに流暢に嫌味が出てくるのかしら。」
加藤さんは甲高い笑い声を抑えきれず、誤魔化すように顔を背けた。その方向に誰かを見つけたのか、彼女は激しく手招く動作をした。
「佐々木さん!」
見ると、黒い長髪を1つに纏めた小柄な女性が、こちらに近づいてきていた。
「あら、髪型変えた?」
中島さんの場違いな質問に、佐々木さんは少し戸惑っている様子だった。
「まぁ……何かあったんですか?」
「通り魔よ、今度は原田さん!」
加藤さんの回答に、佐々木さんは納得したように頷いた。
「そうそう、この子、北高の新聞部なんですって。事件について取材してるって言うからね、山本さん達のこと、いろいろ言っちゃった!」
加藤さんは小声で笑いながら、しかし自慢気にそう話すと、文子を佐々木さんの前に促した。
「佐々木さんね、良い子だから安請け合いしちゃって。山本さん達には迷惑してたわよね?」
佐々木さんは、肯定とも否定とも取れる曖昧な反応をした。
「ちょっと!」
不意に、中島さんが小声で3人に呼びかける。中島さんの視線の先には、スーツ姿の男性がいた。
「こんばんは。」
男性が少し困惑しながら挨拶をすると、中島さんと加藤さんは同じように返した。佐々木さんと文子は、控えめに会釈をする。男性は徐々に増えている人だかりの向こうを覗いた。
「原田さん!奥様が、例の通り魔に!」
今までとは打って変わり、悲痛な声で加藤さんは男性にそう告げた。横から中島さんの笑いを含んだ咳払いが聞こえる。
「ちょっと、見てきます。」
男性は足早に救急車へと向かう。その時、文子の耳には彼の小さな声が聞こえた。
「ちっ、何してんだよ……」
文子は咄嗟に、彼の姿を写真に収めた。
〝吸血鬼事件〟4人目の被害者が出た現場には、しばらくして警察が到着し、現場は封鎖されてしまった。文子もそろそろ帰ろうと坂を下り始める。しかし、思いもよらない光景を目にし、物陰に隠れた。
「稲田先生?え!?」
文子は取材の記憶を辿り、稲田の家がこの辺りではないことを思い出した。事件が気になって来てみたのか、とも考えたが、文子の中の印象では、野次馬になるようなことはしない人物だった。それ故、稲田がこの場にいることは驚きだったが、それ以上に、文子は傍の美女に衝撃を受けていた。ブロンドのウェーブヘアにくっきりとした顔立ち、高級そうなコート越しにもわかるスタイルの良さ。稲田とは全く関わりのなさそうな女性が、彼と親しげに話している。あまりに予想外な光景に文子は固まってしまったが、思い出したように慌ててカメラを構えた。
レンズを覗けば、その先の美女と目が合う。
しまった、と文子は逃げ出そうとしたが、女性は既に近寄ってきていた。
「こんばんは、お嬢さん。私にモデルになってほしいのかしら。」
整った顔に詰め寄られ、文子はしどろもどろになりながら頭を下げた。
「す、すみません!撮ってませんので!」
「別に撮っても良いわよ。ね、ゴーくん。」
女性は稲田の方を向いた。
「良くありません。」
「なによ、私とあなたの仲じゃない。」
「面倒事を押し付ける側と押し付けられる側の関係を写真に収めたいということですか?」
「もう、照れ屋さんなんだから!」
美女の発言に、普段は無表情な稲田が苛立ちを滲ませた。
「そう言えばあなた……」
美女は文子の姿をじっくりと見た。頭からつま先まで精査されているようで、文子は緊張してしまう。
「良いこと思いついた!」
女性の両手が軽やかに鳴り、文子の目線に合わせて少し屈んだ。
「この後お時間あるかしら?良かったら、お茶でもいかが?」
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