ヴァンプ・ファング・チャンス

鈴木 千明

1

 冬の夕暮れは、あっという間に東へと追いやられた。住宅を縫うように曲がりくねった登り道に、まだらに暗闇が落ちる。夕餉の支度に一足遅れた主婦は家路を急いでいた。通りすぎる家々の玄関灯は、未だ夜の気配に気づかず、その訪れを警告することもなかった。

一段と濃い影が落ちる。彼女の行く先に伸びたそれは、疲労を吐き出すわずかな合間に現れた。背後に誰かが立っている。彼女は振り返ろうとしたが、背後から口を押さえられ、襲撃者の姿を目にする代わりに、得体の知れない気配が背中に張り付くのを感じた。抵抗した右腕が掴まれ、口を塞いだ左手の力が強まる。仰け反った状態で身動きの取れなくなった首筋に、鋭い痛みが走った。

女性の恐怖と痛みが呻きとなって、押さえた手の中に響く。首筋に噛み付いた口元が、悦に緩んだ。

女性の体から力が抜けると、買い物袋がどさりと地面に落ちた。首筋から抜かれた牙は、人のそれとは異なる。僅かに湾曲した表面から鋭い先端へ、血が滴り落ちた。

玄関灯がようやく夜を告げる。食材のはみ出た袋と共に女性は捨て置かれ、襲撃者は既に消えていた。



 廊下を歩く少女は、いつになく機嫌が良かった。すれ違う生徒に明るく挨拶をすれば、いつも通り、戸惑ったような反応が返ってくる。それもそのはず、少女は全校生徒の名前と顔を覚えているが、相手にとっては〝新聞部の変な奴〟である。加えて、数ヶ月前に〝元新聞部〟となってしまった。新聞部は3人で構成されていたが、3年生である2人が引退。部活として認定される最低人数を下回り、廃部となった。しかし少女は未だ、カメラとメモ帳を首にぶら下げていた。

そんな彼女の書いた記事は、各教室の黒板に予告無く貼られる。彼女なりの演出であると同時に、できる限り多くの人の新鮮な反応を見るためでもあった。

少女の足取りが軽いのは、まさに今、クラスの人々がその記事を見ているだろうからだ。しかも、今回の記事は読者からの要望も取り入れた自信作で、過去1番の出来だと自負していた。教室の前を通る度、中をちらりと覗く。記事の前に立った数人の生徒と目が合い、誇らしげに笑顔を返して、自らの教室へと向かった。

 教室のドアは開け放たれており、外からでも黒板に貼られた記事が見えた。残念ながらそれを見ている生徒はいなかったが、記事を押さえるマグネットの位置がズレていることから、誰かが手に取ったのだとわかり、少女は安堵した。

「おはようございます!」

教室に入り、いつ通りの挨拶をすると、女子の数人から軽い挨拶が返ってくる。いつもと違ったのは、ある女子のグループが少女を見て、いつも以上に盛り上がっていたことだ。

「シンブンちゃん、ちょっと。」

その内の1人が少女を手招きする。少女は記事を評価してくれるのかと、期待に胸を膨らませた。彼女が近づくと、揶揄ったような小さな笑いが、女子生徒の間で通った。

「あのさ、今話題の〝吸血鬼事件〟ってあるでしょ?」

「え?あ、はい!もちろん!」

少女は自らの記事に関する話題でないことに少し落胆したが、それを表に出さないよう、努めて明るく返答した。

「あれ、調べてきてよ。」

抑えられていた女子達の笑い声は、その言葉で大きくなった。

「えーっと……」

少女は悩んだ。彼女達の言う〝吸血鬼事件〟とは、近くの住宅街で起きている連続通り魔事件のことだ。これまでの被害者は3人。全員が主婦で、共通して〝首筋に噛み付かれた〟と証言している。たしかに高校生の間でも話題性があり刺激的だ。しかし、これは警察が捜査している事件であって、高校生が首を突っ込んで良い事ではない。

「実は……もう調査を始めているんです。内緒ですよ。」

しかし、少女は小声でそう返した。

「さすがじゃん、楽しみにしてんねー。」

〝調査を始めている〟というのは、少女が咄嗟に吐いた嘘だ。大した情報が集められないかもしれない。先生や親に咎められるかもしれない。危ないことに巻き込まれるかもしれない。それでも、少女は〝やる〟と返答してしまった。

その根底にあるのは、〝認められたい〟という欲求。周りの望む自分になりたいという、何の変哲もない欲求だ。しかし、周りの望むまま走り回った自分を、自分自身が望んでいるのか、少女はわからなくなっていた。新聞部に入ったのは、確かに自分が〝やりたい〟と思ったからだ。でも今は、新聞部が無くなってからも首に掛かるカメラとメモ帳が、少し重たくなっていた。


 放課後、元新聞部の少女は住宅街へと向かっていた。報道されている以上の情報はもちろん持っていないため、とりあえず現場近くまで赴くことにしたのだ。

事件の起きている住宅街は、少女の通う高校から歩いて40分ほど離れた地域で、小高い丘に住居が所狭しと並んでいる。近くには商店街があり、住宅街に住んでいる人の多くが、ここで買い物を済ませていた。

 カメラを片手に住宅街に入ると、襷をつけた女性が2人立っていた。

「こんにちはー……」

カメラと制服を見て少し怪訝そうにした女性2人に、控えめに挨拶する。襷には、〝防犯パトロール〟と書かれていた。少女は気まずさに少したじろんだが、足を止めて話しかけた。

「すみません、少しお話よろしいですか?私、北高校の新庄しんじょう 文子ふみこといいます。今、この辺りで起きている連続通り魔事件について調べているんですけど、もしかして、それを警戒してのパトロールですか?」

文子の言葉を聞いた2人は、顔を見合わせた。

「えっと、あなた高校生よね?事件のことを調べているの?」

長身の女性が、淡茶の髪を肩にかけながら、文子に聞いた。

「はい……生徒たちも気になっているようなので。」

文子はカメラを少し掲げ、新聞部であることを仄めかした。正確には既に新聞部は存在しないため、口に出すことはしなかったが、2人は理解したように何度か頷いた。

「そうよ。事件があって、町内会としても何かしなきゃ、ってなってね。子どもも多いから、心配じゃない?今のところママしか狙われていないけど……ねぇ?」

長身の女性は、もう1人の黒髪の女性に同意を求めた。

「警察に任せれば良いんじゃないって思うけど、何にもしないのもほら……被害にあった3人に顔向けできないじゃない?」

黒髪の女性が言葉を濁したように聞こえた。長身の女性は、その言葉の裏がわかっているように、控えめに頷いた。文子は手帳にペンを走らせ、次の質問を投げかける。

「被害者の方とご面識は?」

主婦であろう2人は、困ったような表情で互いに目配せし、辺りを窺った。

「ここだけの話、みんな清々してるのよ。あの3人のいたママ友グループ、町内会でも我が物顔でね。面倒ごとは周りに全部押し付ける癖に、男達の前では〝自分が頑張りました〟みたいな顔して。」

黒髪の女性は、声を抑えてそう言った。

「ちょっと加藤さん、言い過ぎよ。」

「中島さんもそう思うでしょ!このパトロールだって、そのグループのママが言い出したのよ?自分は〝お見舞いで忙しいから〟なんて言って。通り魔に遭ったって言っても、大した怪我でもないし、それで病むような心臓でもないでしょう?」

加藤さんの止まらない愚痴を聞いて、中島さんも思わず笑い出した。

「あ、これ私たちが言ったって書かないでね。」

「はい、もちろん……」

文子は勢いに圧倒されながらも、聞いた内容をメモ帳に書き留めた。

「えっと……犯人に心当たりは?」

「いいえ。でも、動機は〝怨恨〟ってやつよね。」

「顔見知りの犯行、ということですか?」

「そうよ。きっと、あのママ友グループに嫌気が差した誰かが──」

加藤さんは、かぶりと何かを噛むような動作をした。それを見た中島さんは、その姿がツボに入ったのか、口元を押さえて笑い出す。

「つまり、この町内会に吸血鬼が……?」

文子がそう言うと、2人は声を出して笑い出した。

「そんなわけないでしょ!まぁでも、もし本当に〝吸血鬼〟がいたとしたら、あのママ達よりは上手く付き合えるかもしれないわね。やっぱりイケメンなのかしら?」

「やだ、ちょっと!」

2人して盛り上がっているのを見て、文子はメモ帳を閉じた。

「ご協力、ありがとうございました。」

「はーい。」

2人は適当に返事をすると、また2人で話し始める。文子は軽く会釈をして坂を下り、更なる情報収集のため、商店街へと向かった。


 夕暮れの空は、もう半分ほどになっていた。この時間帯の商店街は、主婦たちよりも、仕事帰りの人々が多い。商売の邪魔になってはいけないと、文子は1つ裏の道で取材をしようと考えていた。

帰宅途中のサラリーマンや買い出しに行く店員など、何人かに話を聞こうとしたが、皆足を止めることなく断っていく。主婦のお喋りの有り難さを実感しながら、時間のありそうな人を探す。

キョロキョロと辺りを見回しながら歩いていると、脇道にいた男子高校生たちと、目が合ってしまった。彼らの手にあるタバコには火がついており、口元からは煙が漏れ出ていた。

文子はぎこちなく笑みと会釈を残すと、足早にその場を離れようとした。

「おい!」

左腕を力任せに引っ張られる。華奢な文子は抗えるはずもなく、脇道へと引きずり込まれた。

「何も見てません!誰にも言いませんから!」

文子はすぐにでも解放されようと、あわあわとなりながらそう言った。しかし、男の手は離そうとしない。

「お前、撮っただろ!」

「へ!?なんのことですか!?」

「撮ったろって!」

男の手がカメラを掴む。文子は、喫煙を撮影したと疑われていると気づき、乱暴に扱われるカメラを守るように、彼の手を押さえた。

「撮ってません!本当です!データを見せますから離して──」

「おい、」

男の声に、文子は振り向いた。高校生たちもそちらを向く。狭い道をわずかに照らしていた夕焼けの残火は、大きな影で遮られていた。逆光を受けたその姿は、高校生たちに恐怖を与えるには十分だった。

「お前ら、何してんだ。」

道を塞いだ大男。その喉から出た唸るような低い声が、広くない空間にズシリと響く。金の短髪の下でこちらを見据えた目は、刺されているのかと錯覚するほどに鋭い。そして男の服には、飛び散ったような赤い何か。固体と液体が混じり合ったそれは、服の表面をドロリと流れ落ちていった。

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