もうすぐ日没です。ただいまの東所沢は快晴、気温は-273.15℃です。

mktbn

レイヤードッグミームイーター

 僕は犬のユゲと一緒にぶらついていた。出掛けるぜヒノト、と誘ったのは自分のくせに、ユゲの足は杖を突く老人にも後れを取った。

 空も道もだだっ広い河川敷を下っていく。ランニングする男女の尻を眺めつつ、僕はクーリッシュを、ユゲはその名前を舌に溶かした。

 八月の南関東は当然に汗が噴き出す暑さで、とはいえ日中外を歩ける程度の冷夏でもあった。涼みに入ったコンビニはアイスを存分に余らせていて、特に持ち歩きタイプの商品は誰かが腹を切りそうな売れ行き。気象以前に時世の問題で暢気な食べ歩きは少ないらしい。おかげでアイスケースは選び放題だった。

 吸い尽くしたクーリッシュを手の上に浮かして、CGのように回転させる。それは僕なりの儀式だった。ユゲに名前を食われたこれは、もうすぐ人の意識から消える。記録がなくなるわけじゃない。その記録を誰も思い出さなくなるということだ。

 ユゲは、白く朧気な名前に反してマーブルのモップでしかない長毛種は、僕の儀式を退屈そうに見上げた。神聖に高まった気持ちが一気に冷める。赤ん坊の頃からこちらを知っている犬の前なら誰だってそうなる。自慰とは言わないまでも、アニソンを熱唱しているところに親が現れた気分。

 それでも犬は責められない。これの文脈を殺したのはユゲだし、協力の対価として僕に"浮かせ方"を指導しているのもユゲだった。

「オレは良い気分だよ。このまま放っておいたら、何もかも勝手に片付く気がするよな」

 ユゲの語りは薄笑いだった。僕はゴミを掌に戻した。

「真面目に侵略しなよ、情報生物。大物が凍えて待ってるんだろ」

「震えさせときゃ良いのさ。誰に取られる訳でなし、お前の夏休みだって延びるかも」

「職務怠慢だ。クビになっても僕は知らないぜ」

「なるか? なるかもな。あるいは降格、権能剥奪、機能縮小……夢の愛玩生活だ。愛してくれよ、ヒノト」

「うーん、ワクチンとか病気とかさ」

「真剣に考えてくれて嬉しいね」

 ユゲは身震いのために足を止めた。見せかけのリードは緩まない。止まったのは四肢の動きだけで、犬は滑るように前進し続けている。

 すれ違う人がバグったようなユゲを三度見した。異星人の有機媒体でしかないこの犬もどきの肉球もどきが、地面から数ミリ浮いていることを僕は知っている。


 埼玉東部は封鎖されている。避難者は五十万人。路上と家屋の軒先で長大に敷かれたフェンスの遠い中心は東所沢で、その原因が超常気象にあることまでは公然の秘密だった。

 何が起こったのかはよく分からない。ユゲですら、こういうことは初めてだと語った。「チャンスなのは確かだけどな」とも。宇宙を彷徨う情報生命体の一端にして、物語・文脈・伝説・ミーム・噂etc...を食らう存在が語るチャンスとは、つまり狙い目の観念だということだ。本人の意思とは別に侵略の指示を受けているらしいユゲには、本来選択の余地も無かった。

 埼玉県警と陸上自衛隊が何重にも張り巡らせた障壁と警戒線、関係者以外立ち入り禁止の境界は、犬の前に無力だった。ユゲは監視の目の前でフェンスを押し開き、ブルーシートを破り、バリケードを透過した。誰も僕たちを止めない。誰一人、異常に気付きもしなかった。

 ラインの内側は圏外で、静かだった。外と変わらない深い夏の青空があり、その先の真空が全ての音を吸い取るようで、耳が痛くなる。


 目に付いたセダンを借りることにした。僕がドアを開ける。ユゲがイモビライザーとドラレコを騙す。僕がハンドルを握る。ユゲが助手席から鼻面を出す。ナビはGPSが死んでいた。

 中央分離帯を80km/hで跨ぐ。他に通る車はない。人もいない。物音の全くない家はむしろ人が隠れていそうな気がする。目に付くのは鳥くらい。脂ぎった烏が生ゴミで遊んでいた。

「寒くないぞ」

「ああ、大発見だな」

 ムッとした僕を察してユゲは長い鼻を鳴らした。

「観測機器の異常か、中心にだけ何かあるのか、そもそもが人除けのブラフか。原因は岩の隙間で行き詰まって死を待つしかない獣の悲鳴か、断末魔か。助けを求めているか、介錯して欲しいのかもな。拗ねるなよ、ヒノちゃん。オレにも分からないことはあるんだ」

「うるさいなあ。道も分からないとか言うなよ」

「ご心配には及ばないさ……」

 だがユゲにも想定外はあった。所沢市に入ると、僕らは他者と鉢合わせた。

 犬だ。長い直線道路の交差点に犬が屯していた。車道に、歩道に、生け垣の根元に、群れにも見えない混成の二、三十頭が堂々と寝そべり、座っていた。

 エンジンは掛けたまま車を降りて僕は路上から、ユゲはルーフからワンブロック先のそれを見た。悪夢的な光景だった。人類にとっての悪夢だ。生身の人間に肉体と社会の脆さを自覚させる、夢でしか有り得ない眺めだった。

「お仲間だ。挨拶したら?」

「この星に送られたのはオレだけのはずだが、そうだな、間抜けな管理者が伝え忘れた同胞がいるって言うなら、その方が良いな」

「つまり違うんだ」

「同類と同胞は違う。ああクソ、面倒だぞこれは。種間競争──コンドルとジャッカルとヌタウナギの猟場が被ったわけだ」

「死体にとっては同じ」

「少し待て。話し掛けられている」

 ユゲは言葉を切って硬直した。今度はバグごっこではないらしい。車上に立つ毛むくじゃらの犬体は広告塔のようだった。

「ごゆっくり」

 僕は呟いて犬たちを眺めた。他にやることもなかった。


 よく見ると、犬たちの中に人が紛れていた。人数は犬の半分以下。僕たちが動かないと見て取ったのか、中から数人が近付いてきた。

 犬たちがユゲの同類なら、連中は僕の同類に違いない。とはいえ服装も靴音も統一感のないありふれた通行人の集団は、どうしても脅威には思えなかった。

「こんにちは」

 一人の男が話し掛けてきた。慎重に繕った丁重さとポロシャツが新任教師のように見えた。

 話の内容は予想通りの素性だった。私と背後の人たちはキミのように宇宙存在やら概念生物やらの協力者であり、犬に同行し、今日ここで初めて同類に遭遇した。私と相方のシェパードは宮城から、こちらさんはアキタと都内から──犬との生活こそ区々だったが、あとは大差のない話だった。

「キミたちは?」

「さあ……。僕が生まれてすぐ飼い始めた、と親は言っています。本当の記憶かは怪しいけど」

 教師風は愛想良く頷いた。乗り気じゃないグループセラピーにアイドリング以上の意味はない。僕たちは頭上のユゲと遠くの犬たちを見比べた。

「彼らが今していることは、会議だそうです。誰が武蔵野に跨が……失礼、噛みつくか。その挑戦権を決めると聞かされました。順序がなければ無駄な争いになると。時間は掛かるようですが、私は平和な解決法だと思います」

 教師風はそれが立派なことであるかのように言った。

 不意に一部の犬が立ち上がり、どこかに去って行くのが見えた。初めはフリーの数頭から跳ねるように走って消え、次には人連れの犬も徐々に動き出す。集団が減っていく。

 一頭のアキタが駆けて来て、最初に接近した一人のパンプスにすり寄った。

 幸福で愛らしい午後の光景ではある。笑顔の女とアキタが僕たちに目もくれず、会釈もせず、ただ散歩を再開するように去ったことを気にしなければ、そう暢気に眺められそうだった。

「正気じゃなさそうでしたけど。人も犬も、まるで普通の飼い主とペットみたいだった」

 教師風は再び愛想良く頷いた。反応はそれだけだった。

 僕はまた犬たちを見た。ユゲは動かない。数を減らす犬たちから次はシェパードが近付いてきた。舌を出した駆け足は犬並みに美しく、しかし人知を超える迫力はない。教師風が、ああ、と溜息を付いた。

「じゃあ、またどこかで──は難しいかな。せめて君たちの健闘を祈ります、と言うのもおかしいか」

 僕は初対面の男と握手を交わした。


 ユゲは最後の一頭に、僕は最後の一人になった。

「話は済んだ。行こう。もう近い」

 ユゲはルーフからフロントガラス、ボンネットと一段ずつ降りた。そのまま歩き始める。毛むくじゃらの肩と腰骨が左右に振れる。僕はその後を追った。

「じゃあ、勝ったんだ?」

「勝ち負けか。それが分かるのは最後の一瞬か、そのまた向こう側になるな」

「でも負けた連中は消えた。僕たちは消えてない」

「あいつらは撤収しただけだよ。ついさっき地球にやって来て、適当な現地人を乗っ取ってただけ。野次馬さ。執着がないから、負けたなんて自覚はしない」

 僕は解散した集団を思い浮かべた。彼らは部屋着からスーツまでバラバラの服装と靴で路上に立ち、それを恥じらう様子もなかった。誰一人、僕たちが降りた車を気にも留めなかった。彼らの振る舞いは確かに優しさの域を超えていた。

 ユゲは足を止めない。振り向きもしない。一度やめればもう歩き出せないかのような足運びだった。

「俺が面倒見なきゃ人も犬も置き去りだ。迷惑するよな」

 ユゲが進むまま道を曲がると、急に景色が変わった。ありふれた国道裏の住宅街から公園か林道に出たらしい。そうと分かっているのに、等間隔に立つ太い木の列と、その隙間に広がる地面の奥行きに、手足が抜けそうな寒気を覚える。

 野生動物の縄張りに踏み込んだ気がした。

 すぐ先に黒いベールが見えた。最後のフェンスらしい、と僕たちは直観した。

「弱っているんだよな、獲物って奴は」

「その名はかつて大勢に思われたが、今はほとんど思い出されなくなった。根拠になる地勢が追いやられた上に、半端な保護のおかげで語られることもなくなった。発見する詩人も、もういない。狩るなら今だろうな」

 やめたらどうだ、と言おうとした。帰ろう。勝ち逃げだ。こんな面倒は他の宇宙人に任せて、お前は今まで通り小物を食っていけば良い。

 ユゲが僕を見上げていた。毛むくじゃらの誇りが地面を踏みしめていた。

 僕はベールに手を向けた。振り払う。

「勝っても負けても、僕はこの景色にお前を思い出すよ」

 そうしろ、とユゲは語った。

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