40. 賢者の秘事

 しばらく口を噤んでいたレイが、言葉を発した。


「本で読んだことがあります。過去も未来も、どの世界も。すべての時空を司る神の力が存在すると。著者には賢者殿の名前がありました」


 それを聞いて、おばば様は目をキラキラ輝かせた。


「そうかい。あの書を読んだのかえ。偉大なる先人たちが、魔法の軌跡を解き明かした神秘じゃ。今じゃ、キチガイのタワゴト扱いされとるがの」


 心を落ち着けようと、私はお茶の入ったカップに口をつけた。カタカタと茶器が音を立てたことで、私は自分が緊張しているのに気がついた。


 賢者の秘事。神の領域。過去と未来への回帰。


 なぜか、それを知りたくないと思った。知ってしまったら、とてつもない何かが、押し寄せてくるような気がする。逃れられない運命の力。


 震えている私に気がついたのか、もう一度レイが私の手を握った。今度はおばば様に隠すことなく、テーブルの上で。そこから、暖かい魔力が流れ込み、私の体の震えは止まった。


「師匠は、どうして異次元に?」


「恋しい女のためじゃ。その運命を縛る、神の力に抗おうとな」


「お姉様の運命を、過去から変えようと? そんなことができるのですか?」


「いいや、この世界の運命は変わらん。だが、別の世界には、別の運命がある。そこには別の彼女がおる」


「それじゃ、教官はどうしたって、この世界のお姉様を救えないわ! ただ、違う未来に行くだけでしょう?」


「そうじゃな。神に挑めるなどと思い上がらせたのは、わしの不徳じゃ。手遅れになる前に、なんとかせにゃいかん」


「手遅れって……」


「人が己の領分を超えれば、道は消える。跡形もなくな」


 この世界の崩壊? 教官が過去で別の道を選択したら、この現在いまが消滅する。そして、そこにいるのは、私達じゃない私たち。全てが消えてしまう。


 黙って考え込んでいるレイに向かって、おばば様はゆっくりとこう言った。


「おぬし、シャザードを連れ戻して来てはくれぬか?」


 私は思わず息を飲んだ。そして、その後しばらく、重苦しい沈黙が続いたのだった。


 夕食の用意ができるまで、私たちは部屋で休むことになった。手伝うと言ったのだけど、おばば様に固辞されてしまったのだ。私たちはお客だから、素直にもてなされてくれと言われれば、引き下がるしかない。


「おばば様の願い、受けるつもり?」


 私はぐちゃぐちゃ絡まった髪を櫛で丁寧に梳きながら、ドレッサーの鏡ごしにレイに話しかけた。レイはまだ裸のまま、ベッドに横たわっている。ついさっきまでの情熱は消えて、レイは冷静沈着な魔術師の顔に戻っていた。


 ベッドの側には、抜き身の剣が立て掛けてある。今になって思えば、レイは指南中もずっとこうしていた。


 私を抱いているときは、魔法を発動する集中力に欠くからと。だから、万一にも襲撃されたときには、剣で戦うほうが早いというのが、その理由だった。我を忘れるほどにレイを乱せるのは、この世で私だけ。そう思うと、自然に顔がほころんだ。嬉しい。


「師匠を連れ戻せるなら。けど、俺にできるだろうか」


「おばば様は、できない人にできないことを頼んだりしないわ」


 レイは毛布をバサッと剥いで立ち上がり、惜しげもなくそのたくましい裸体を晒した。私は鏡に映るそれを、こっそりと盗み見る。


「連れ戻した後、師匠はどうなる?」


「分からないわ。でも、おばば様の言うことに間違いはない。このままじゃ大変なことが起こる」


 おばば様は、黒魔術師の可能性を曖昧にぼかした。教官が異次元にいることで、世界のバランスが崩れているからと。先見はおばば様の得意とするところなのに。

 未来が全く見えない。つまり、この世界には未来がないのかもしれない。教官が判断を間違えば、この世界が丸ごと消えてしまう。過去を変えるというのは、そういうことだ。


「お姉様も教官の無事を案じているわ。おばば様に協力しましょう」


「セシルはそれでいいのか。賢者の修行は簡単なものじゃない。数ヶ月は離れ離れだ。そんなに会えないのは耐えられない」


 レイが真顔でそう言うので、こちらが照れてしまった。もちろん、私も寂しい。でも、私たちはもう前とは違う。お互いにお互いだけだと、それがちゃんと分かっている。


「ばかね。私も寂しいに決まっているわ。でも、だからって、二人で逃げるわけにはいかない。このまま進めば、世界中の人々に害をもたらすかもしれない。今なら、それを阻止できる。まだ間に合うんだもの」


「そうか。セシルの目は、世界平和に向いているんだな」


「レイもそうでしょう?」


「俺は違う。セシルが幸せなら、あとはどうでもいい」


「嬉しいけど、私だけが幸せじゃ、私は幸せじゃないわ。だから、レイも幸せじゃないはずよ」


「哲学だな。俺の王女は欲張りだ」


「失礼ね。民を思うのは、王族の義務だわ」


 すでに服を身に着けていたレイは、私の前にひざをつき、私の手の甲にキスをした。


「我が主に祝福を」


 その言葉に、何故かざわざわと心が波立つ。正体のしれない不安が、ひたひたと押し寄せてくる。


「私の主はあなたよ、レイ。身も心もあなたに征服された。完全降伏よ」


「それはいい。もう一度しようか」


「それはダメ!」


 腰に伸びるレイの手をピシャリと叩いてから、私はすばやく立ち上がった。これ以上は無理。おばば様の夕食に遅れてしまう。


「手厳しいな」


「当然よ。夕食まで、もう時間がないわ」


「なるほど。セシルはたっぷり時間をかけるのが好きなんだ」


「いやらしい男ね!」


 私がキッと睨むと、レイは楽しそうに笑った。


 軽い冗談だと思ったのに、その夜も私はほとんど寝かせてもらえなかった。レイはたっぷりと時間をかけて、私をドロドロに溶かしたのだった。

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