39. おばば様とキスマーク
「ようやく来たのお。待ちくたびれたわい」
おばば様は、私たちを見て目を細めた。早朝に村を出発して、島に着いたのは午後も遅くなってから。約半日の船の旅は、魔物に出くわすこともなく順調に進んだ。
「おばば様! お会いしたかったわ。お元気そうでよかった」
「おうおう。王女さんもな」
おばば様は曲がった腰を伸ばして、私の頭を手でぽんぽんと叩いた。そうして、私の後ろに控えていたレイを見つけると、声をひそめてこう言った。
「ほほう。あの子が運命の恋の相手だったんじゃのお。うまくやりおって」
「えっ、おばば様、なんでそんなこと……」
おかしい。レイの魔法の痕跡は、すべてうまく隠しているはずなのに。レイの指南で、これまで相当な修業をしてきた。昨夜、私の体にたっぷり注がれたレイの魔力も、もう誰にも見つからないはずだったのに。
「まあ、魔力はうまく隠しておるな。しかしのう、これは隠せておらんよ。『らぶばいと』っちゅうやつじゃろが」
キスマーク! おばば様に指摘された首筋を、思わず手で抑えた。レイってば、ひどい。教えてくれれば、鬱血痕は治癒魔法で消せたのに! これ、絶対にわざとだわ。
真っ赤になって狼狽する私とは対照的に、落ち着き払ったレイは素敵な笑みを湛えたまま。おばば様の前に片膝をついてしゃがみ、右手を胸に当てて深々とお辞儀をする。
「賢者殿。お目にかかれて光栄です。レイと申します」
「知っておるよ。シャザードの弟子じゃろ。王女さんの恋人になっちょったのは、まあ、知らなんだが。いい男に育ったのう」
「恐れ入ります」
レイの猫かぶり。おばば様まで、すっかりレイの虜じゃないの! この男、油断出来ないわ。
「ふんふん、疲れたろう。とりあえず、家の中に入るがよい。船人たちは離れに泊めるが、お前さんらは、わしのとこでええな?」
「もちろんよ。私の部屋は、まだある?」
「そりゃなあ。じゃが、あそこで二人は狭かろう」
「え? レイは、別の部屋でいいわよ」
「そりゃ、酷じゃろ。お前さんらは今が蜜月じゃ。『はにむぅん』で寝室が別ではのぉ。おばばの野暮だと人から罵られてまうわ」
ハネムーンって! おばば様、一体どこでそんな言葉を覚えてくるの? だいたい、この島には、おばば様しか住んでいないじゃないの。人に何か言われたりなんかしないっ。
「そういうのは、今はいいの! それより、知りたいことがあって」
「シャザードのことかい?」
おばば様がお茶をいれてくれたので、私たちはキッチンの椅子に座った。テーブルの下で、レイが私の手を握る。
昨日から、レイは一時も私を離してくれない。いつも、体のどこかしらが繋がっている状態だった。これが蜜月現象というのだろうか……。
「賢者殿。師匠の行方を、ご存知ないでしょうか」
お茶が運ばれてくると、レイはそれに手を付ける前にそう切り出した。
おばば様は、お茶をズズズっと飲んでから、ゆっくりとこちらに目を向けた。それから、眉一つ動かすことなく、家全体に強固な結界を張った。
空気さえ移動できないくらいに、厳密に密閉された空間。まるで、この世界から切り離されたかのようだ。
「そうじゃのう。お前さんはどう思うかえ?」
「魔力は一切、感知できません。ですが、師匠はここにいる」
「ほう、なぜそう思うんじゃい?」
おばば様の目が、キラリと光った。こういうときのおばば様は容赦ない。レイを試しているんだ。
「島の周囲の海に、不自然な結界が張ってありました」
「ほう。不自然とな」
「はい。邪心を持つものが近づくと、消えてしまう」
「ふむ」
「敵を拒むどころか、呼び込んでいる」
「ほう。で、お前さんは、それをどう思うのかえ」
「目くらましです。ここに師匠がいないと思わせるための。実際、島の中に無限に罠が張ってある。悪意あるものは、弾き飛ばされます」
そんな複雑な構造になっていたんだ。結界が張ってあったのは知っていた。でも、その性質までは分からなかった。レイは、そこまで気がついている。これがレイの、魔術師としての実力。
「するどい洞察力だの。お見事じゃ」
おばば様は嬉しそうな顔をしてから、私のほうを見てウィンクした。どうやら、レイはおばば様のテストに合格したようだ。
「では、師匠はここに?」
「是であり非じゃな。シャザードは、ここにはおらん」
そう言って、またズズズとお茶を飲むおばば様に、今度は私が尋ねた。
「じゃあ、教官はどこに? 生きているんですか」
「かろうじてな。魂の傷が深い。どうやら死に迷ったようじゃ。幽世に逝かずに、異次元に飛んだらしい」
「異次元? そんなものが存在するの?」
「賢者の秘事じゃ。普通の人間には行けん」
「そんな……」
おばば様は、教官に賢者の修行をさせていた。お姉様にめぐり逢うまで、教官はおばば様の後継者として、その未来を嘱望されていたのだ。その賢者の力で、異次元に飛んだ。一体なぜ?
「この世界はの、ありとあらゆる可能性で、ありとあらゆる方向へ分かたれる、道のようなものなんじゃ。並行宇宙というのかの。横並びじゃ」
「聞いたことはあります。でも、その道は選択で閉ざされる。結局、道は一本だけだと」
そう言ったきり、レイは黙り込んでしまった。何か、思い当たることがあるんだろうか。
「そうじゃ、だが、過去に戻れば選択も変えられる」
「時間も空間も超えるってこと? そんなことが可能なんて!」
私の声が密閉された空間に響いた。そんな荒唐無稽な話は、これまで聞いたこともなかった。
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