38. 好きだった女の子

「日没まで、まだ時間がありますよ。レイもずいぶんと久しぶりでしょう」


「風が冷たくならないうちに、少し歩きたいわ。昔と何か変わったかしら?」


「ここは田舎だ。いつまでも変わらない」


 レイが、面倒くさそうに言った。


「それなら、野外劇場に行きたいわ。毎年、あそこでお芝居を観るのが楽しみだったの」


「それはいいですね。あそこはレイのお気に入りだ。ぜひ、一緒に行ってあげてください」


「ええ。レイ、案内をお願いね」


 レイは明らかに嫌そうな顔をした。それでも、渋々ながら案内をしてくれる。


 風は強いけれど、日がでているので寒くはない。両側に海を見ながらヘザーの丘を歩くと、少し行ったところに崖を降りる階段があった。

 石を組み合わせただけの簡単なもの。私が滑らないように、レイが手を引いてくれる。階段を降りきったところでたどり着いたのは、海を背景にして作られた野外劇場だった。


 円形の石造りの舞台を、階段状の石造りの座席が半円を描いて取り囲む。古い神殿風の石門やバルコニーのある石塔も見える。

 日の長い夏のお祭りには、地元の有志で演劇を披露する。幼い私は、それを観るのが大好きだった。一年中おばば様の手伝いをしてお小遣いを貯め、チケットを買ってもらった。


「懐かしいわ。毎年、夏が来るのが楽しみだったの」


「俺もだ。昼は毎日ここに来て、大人たちが芝居の稽古をするのを見てた」


 娯楽のない村では、若者が集って上演する演劇が、子どもたちの唯一の楽しみだったらしい。ただ、本番の上演は夜だったし、券を買うお金は孤児院にはなかった。だから、レイは実際の上演を見たことはないという。


「子供の頃の夢は、ここの芝居に参加することだった」


「俳優になりたかったって、そういうことだったの?」


「可愛がってた弟分が、脚本を書きたがってたんだ。自分の演目で客をたくさん集めて、いずれは大劇団を作りたいって」


「素敵ね。その子は、今どこに?」


「複雑な家の子だ。義理の父親に引き取られたと聞いた」


「連絡は取らなかったの? 牧師様に聞けば……」


「相手は貴族だ。俺が近づけば、迷惑がかかる」


「そんなこと……」


 ないとは言えない。その子が孤児院にいた事情は分からない。でも、そこで知り合った平民のレイが、付き合いを絶った気持ちは理解できる。どうして身分なんてあるんだろう。そんなものいらないのに。


 共和国には身分がない。平民であるレイにとっては、住みやすい場所かもしれない。身分に縛られることなく、自由に生きられる。俳優にだってなれる。


「その弟分のために、レイは俳優になりたかったんだ?」


「いや、俺を見てほしい女の子がいたんだ。夏にだけ、ここに演劇を観にくる」


 心臓が跳ねた。夏にだけ来る女の子。レイはその子のことを……。


「どんな子だったの?」


「月の精みたいに綺麗な子。長い銀髪は月の光を集めたように輝いていて、灰色の瞳は月よりも澄んでいた。でも、彼女の笑顔は太陽みたいに暖かい」


 ドキドキと心臓が早鐘を打つ。レイの方を見ずに、私は舞台のほうに歩き出した。そんな私の背中に向かって、レイは話を続ける。


「その子は、俺たち孤児を見下したりはしなかった。同じ人間として、いつも対等に扱ってくれた」


「どこでその子に会ったの?」


 手が震える。その女の子って…。


「孤児院にお菓子を持ってきてくれたんだ。夢みたいに美味しかったな」


 おばば様と作ったお菓子。島で取れるベリーをふんだんに使ったもの。


「レイは、甘いものが好きだものね」


「あの子からは、いつも甘いバニラの匂いがした。それが忘れられなくて、甘党になったんだ」


「それって、レイの初恋?」


「そうだな。ひと目で恋に落ちた。どうしても、こっちを向かせたかった」


「その子は今、どうしてるの?」


「元気だよ。美しい女性に成長した」


「……今でも、好き?」


「ああ。他の女なんて、目にも入らないくらいに」


 心臓が爆発しそうだった。背を向けたままで立ち止まった私の体を、レイが後ろからそっと抱きしめた。レイの体温に包まれて、私の目から涙がこぼれ落ちる。


「セシルが好きだ。ずっと昔から」


「レイ……」


 後から後から流れる涙をこらえようと、両手で顔を覆う。レイはそんな私を強く抱きしめて、耳元でささやいた。


「セシルが来なくなって寂しかった。だから、牧師様にセシルのことを教えてもらった。身分も魔法訓練施設に入ったことも」


「うん」


「あそこが広く生徒を集めていると知って、牧師様に頼み込んで魔法を教えてもらった」


「うん」


「師匠が選定に来たとき、俺はどうしても訓練生に選ばれたかった」


「うん」


「セシルにもう一度会いたかった。そのために、他の子を出し抜いて、汚い手も使った」


「うん」


「でも、これだけはどうしても譲れなかったんだ」


 知らなかった。レイとは施設で初めて会って、私が恋をしたんだと思っていた。ずっと片思いだと。


「どうして、今まで黙ってたの?」


「セシルは俺を覚えてなかったし、どう見てもストーカーだ。怖いだろ?」


「そんなの。私の気持ちは分かってたでしょ?」


「ああ。だけど、俺の気持ちには、一向に気づいてくれない」


「だって、私だけがレイを好きだと思って……」


 抱きしめていた腕をほどいて、レイは泣きじゃくる私の正面に立った。そして、私の頬を両手で包んで、じっと私の顔を見つめた。


「俺が先だ。俺がセシルに惚れて、追いかけた。振り向かせたくて、側にいたくて。セシルに飽きられないよう、必死だった」


 施設で会った頃、レイは不思議な男の子だった。色んな顔を持っていた。あれは私の気を引くため? あのときには、もうレイは私を……。


 涙でレイの顔が霞んだとき、唇にやさしいキスが落とされた。それは、両思いになって初めての甘い口づけだった。

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