36. 教官の願い
服を身に着けて振り返ると、レイはまだ上半身裸のままで、思い詰めたような表情をしていた。
私はそばに落ちていた白いシャツを拾って、後ろからレイの肩にかける。ほんの少しだけ肩に触れた私の手を、レイは逃さずにすばやく掴んだ。
「誰のせいでもないわ。元首にはすべてが想定内だったはずよ。みすみす人質を死なせたりしない」
「そうじゃないんだ」
後ろを向いたまま、レイは私の手を強く握りしめる。微かに震える背中に、私はそのまま頬を寄せた。他にどうすればいいか分からなかった。
「何があったか、話してくれる?」
今まで、レイがそのときの話をしてくれたことはない。何かに苦しんでいるのは分かったけれど、それを暴こうと思ったことはなかった。
「俺たちは、魔力封じの箱に閉じ込められていた」
「魔力封じの箱?」
「あの国には、違法な魔術が横行している」
「それは……」
訓練所から消えた講師や、行き場がなかった生徒たち。この国の特権階級に見捨てられた者。まさか彼らが……。
「魔術師が魔力を封じる空間を作るなんて。一体、なんのために?」
「表向きは、魔力による不平等を一掃するという理由だ」
持って生まれた魔力すら、不公平な采配だと。彼らは魔力のせいで、己の人生を狂わされたと、そう思っているのかもしれない。
「フローレス様が来たとき、師匠は生きてほしいと懇願した」
「教官は、お姉様の覚悟を拒絶したのね」
「いや、師匠は生死を共にするつもりでいた」
「じゃあ、なぜ急に気が変わったの?」
「分からない。でも、師匠は気がついたんだと思う。フローレス様が、普通の体じゃないことに」
「お姉様の懐妊を知ったの? 赤ちゃんの魔力を感じたのね」
レイは首を振った。お父様は赤ちゃんの魔力に気がついていた。教官なら、絶対に分かったはずなのに。
「俺たちの魔力は封じられていた。でも、師匠には分かったんだ。じゃなければ、あれほど取り乱すはずはない」
「そんなに?」
「フローレス様が死ぬなら、俺を殺すと」
「まさか! 本気じゃないわ。そんなこと、お姉様だって信じなかったはずよ」
「いや、師匠は本気だった。その場で元首に銃を持ってこさせた」
教官がレイの命を? レイを守ると誓った、あの教官が。それほどに、お姉様と子どもの命を……。
「でも、もしお姉様が承知しなければ、教官はレイを助けたわ。今、ここにレイがいるのだって、教官が……」
「そうかもしれない。でも、結果的にフローレス様は死ぬことを諦めた。俺なんかのために、信念を曲げることになった」
「それは違うわ。レイはお姉様と赤ちゃんの命を救ったのよ!」
私は背中からレイを、そっと抱きしめた。自分を責めないでほしい。それがレイのせいなら、私の罪はもっと重い。
お姉様は私のために、レイを無事に帰そうとしてくれたんだ。レイを逃してからでも、死ぬことはできると思って。まさか、自由意思を奪われるとは思わずに。
「俺は、フローレス様を救いたい。師匠が望んだのは、彼女の幸せだけだ」
「ええ、そうね」
「心を操られて生きるのは、人としての尊厳を奪われたのと同じだ。ときには死ぬよりも辛い」
お姉様は、肉体が滅んでも魂は自由であるべきだと言っていた。それなのに、おそらく今は精神の自由もない。
「心に触れることは禁忌。絶対にあってはならない」
もしもお姉様が違法に操られているなら、それは黒魔術かもしれない。闇に手を染めた魔術師が存在する。そんなこと許されない。黙認したら、この世界のルールが崩壊してしまう。
「あの国を探ることはできないかしら。あの元首が黒幕だとは思えないの。彼からは、魔力の片鱗も感じなかった」
「同感だ。影に誰かいるのかもしれない。だが、この世界で師匠以外に、それを暴ける者はいない」
教官以上の力。そんな人はこの世界には……。ちょっと待って! 一人だけ、教官を凌ぐ魔術師がいる!
「おばば様がいるわ! 教官の師匠よ」
「西の賢者か! 彼女なら何か分かるかもしれない」
レイが握っていた手を離して、こちらを振り向いた。彼の肩にかけていたシャツがパサリと床に落ちる。私は目のやり場に困って、急いでこう言った。
「ちょっと、レイ、何か着て! 話はそれからよ」
「なんで赤くなってるんだ。俺の裸なんて見慣れてるだろ?」
「恥ずかしいこと言わないで! とにかく、私はシャワーを浴びるから」
好きな人の裸は、何度見たってドキドキするに決まっている! でも、そうか。レイはもう、私なんか見飽きちゃったんだ。元から興味ないんだし、当然と言えば当然だけど。
浴室にある姿見に、自分の全身を映してみる。レイが触れるようになって、以前よりずっと凹凸が顕著になった。肌の色艶も良くなって、真珠のように輝いている。そんな日々の変化があるのに、レイは私の体には関心がない。
私はため息をついてから、鏡に背を向けた。レイを誘惑できない体なんて、チェックする必要はない。さくさくと侍女のマリアが用意した新しい夜着を身に着けて、私は寝室に戻った。
レイはすでに着替えを済ませて、ソファーに座っていた。目の前のテーブルに置いてあるのは、この大陸の地図。瞬間転移装置の位置も載っている。
ある地点とある地点を魔法で瞬間移動できる装置。魔力がない人間でも、これを仕えば一瞬で別の国に行ける。ただし、あまり長距離は飛べないので、隣国かその隣くらいが限度だ。
「賢者殿の元へは、急いでも三日はかかる」
「島に渡るには船しかないわ。最西端の村から半日の船旅よ」
「あの村に行くには、最後の転移場所から丸一日はかかる」
「そうね。レイの故郷だわ」
「知ってたのか?」
レイがあまりに大きな声を出したので、私は驚いてその場に固まってしまった。何がそんなに意外だったのか、私には全く分からなかった。
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