33. 女の武器

「北にって、どうして急に? 何があったの……」


「今、宰相殿が来ていたんだ。国王陛下からの司令を伝えに」


 お父様の? 私が執務室を出た後で、宰相様がお父様の考えを覆した? うかつだった。もっと急いで戻っていれば、ここで反論できたのに!


「レイ、行き違いがあったの。あなたはどこにも行かなくていいの。話はついているわ」


「聞いたよ。俺の身柄は、セシル王女の預かりになると」


 なんだ、ちゃんと話は通っているじゃない。それなら、問題はない。レイはここにいればいい。


「私はどこにも行かないわ。だから、レイもここにいるの。いいわね」


「……それは、できない」


「主人の意図に背くの?」


「まだ、主人じゃない。その話は承諾できない」


 それはつまり、私に従属せずに、北の要請に従うということ? 教官の行動の動機を、明らかにするための証人として。


「ばかなこと言わないで! 北に行ったら殺されるわ。いえ、行く前に殺されるかもしれない。この国にとっても、レイの存在が危険になるの」


「それは、今も同じだ。俺を召し抱えれば、セシルが爆弾を抱えることになる」


「気にすることないわ。レイはこの国に有益な魔術師よ。むしろ私は宝が手に入るの」


 うそじゃない。レイは私にとって、誰よりも大事な人。そして、お父様の命令があるうちは、彼を私の元にとどめておける。たとえそれが、体だけの関係であっても。


「師匠が生きているなら、弟子の俺が助け出す。フローレス様も。それが本当の国益だ」


「それは分かるわ。でも、今は無理よ。教官の安否も、お姉様の状態も分からないのよ」


「俺の責任だ。あのとき逃げるべきじゃなかったんだ」


「ちがうわ! 教官は私との約束を守ったのよ。必ずレイを守るって」


 そうだ。私は教官に約束したんだ。お姉様を守るって。それなのに、お姉様は共和国に足止めされている。それは私の責任。


「俺がここにいれば、セシルに迷惑がかかる。師匠の失敗は、弟子である俺の責任なのに」


「それなら、レイの行動のすべては、主人である私の責任だわ」


「従者の任は、解かれていた。セシルに責任はない」


 正式ではないけれど、確かに従者の任は解いていた。レイは自由だ。少なくとも、私が彼を縛る理由はない。


「私の従者でなくても、この国の臣下であることは変わりない。あなたは国王に仕えるもので、私はその娘よ」


「他国に捕らわれた王女と臣下を救うことが、真に陛下への忠誠の証になる」


「詭弁だわ! そんなに私の元にいたくないの? そんなに私が嫌なのね!」


「嫌なわけないだろう! 困らせたくないんだ」


 レイが側にいてくれて、私がどうして困るのよ! 困るのはレイでしょう。私から離れることができなくなるんだもの。


 そうか。きっとそれが理由。私に縛られたら、自由に生きられなくなる。好きな人とも一緒になれない。


「分かったわ。それなら、私が北方へ行く」


「何を言ってるんだ? 冗談はやめてくれ!」


 レイは叫ぶようにそう言った。その声はまるで泣き声のようで、私の胸はじくじくと痛んだ。どうして、この選択を考えつかなかったんだろう。レイを解放するには、もう一つだけ方法があったんだ。


「冗談なんかじゃないわ。約束したのよ。教官はレイを守ってくれた。今度は私が、お姉様を守る番だわ」


「そんなもの! 俺とフローレス様では、命の重みが違う!」


「ばかなこと言わないで。命に優劣なんてないわ。私がお姉様と入れ替われば、教官はこの国に戻ってくる。お姉様がいるところに」


「そんなこと、認められるわけがない! なぜ、セシルが行くんだ!」


「教官はレイを助けてくれた。私はもうそれでいい。レイのためにも、私が消えるのが一番いいの」


「意味が分からない。どうして俺を止めるんだ。ここにいれば、セシルは俺の夜の相手をさせられるんだぞ!」


 そういうことか。レイは私の閨に侍るのが嫌だと、そう言っているんだ。


「レイが不本意なのは知っているわ。でも、お願いだから我慢して。娼館にいると思ってくれればいいのよ」


「そんなこと、できるわけがないだろう! セシルを無理やり抱くくらいなら、死んだほうがましだ!」


「無理なんかじゃないわ! 嫌なのはレイのほうでしょう!」


 泣きたくなんてないのに、涙が流れ落ちた。レイが死んでしまうと思っただけで、怖くて叫びだしたくなる。レイのぬくもりを知った今は、もうそれを手放せない。愛がない行為でもいい。私の側にいてほしい。


「泣かないでくれ。これ以上、セシルを悲しませたくない」


「私を悲しませたくないなら、危ないことはしないで。もう、どこにも行かないで!」


 レイはそれに答えることなく、私をそっと抱き寄せただけだった。レイの体温を感じて、私はレイが生きていることに感謝した。私のレイ。私だけの。


「本当にいいのか。陛下は俺を指南役に任命してきた。任務は、生き残るための閨の技術を伝授すること。毎夜、俺に抱かれながら、きつい修業を積むことになる」


「覚悟はできているわ」


「陛下は魔力の強い王孫を望んでいる。子ができるまで、それが永遠に続くんだぞ」


「国のためよ。王女の務めだわ」


「……分かった」


 レイは私の顎に手を当てて、私の顔を自分のほうに向けさせた。そして、その瞳に宿った欲情の焔に、私は身を震わせたのだった。

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