21. 虫の知らせ
お姉様の屋敷に着いたのは、深夜近くだった。
「セシル、どうしたの。こんなに遅くに」
「お姉様! 無事? 何か変わったことはない?」
屋敷の中はいつものように静かで、夜着にローブを羽織っただけのお姉様は、相変わらず美しかった。
でも、いつもとは明らかに何かが違う。教官の結界が震えている。まるで魔力が絞り出されるみたいに。空間が制御を求めて戸惑っている。
「私は大丈夫よ。でも、なんだか様子がおかしいの。空気が歪んでいるような気がするわ」
「お姉様も感じるのね? 私もそう思うの!」
「よく分からないのだけど、とても不安だったの。あなたが来てくれて嬉しいわ」
お姉様の魔力では、結界の微細なゆらぎを感じ取ることはできない。それなのに、何かを感じている。もしかしたら、それは……。
「お姉様、何か心当たりある?」
「シャザード様に……、何かあったのかもしれないわ」
やっぱりそうだ。お姉様が感じているのは、魔法の不具合じゃない。人としての勘。よく言う「虫の知らせ」というものかもしれない。
「安心して。お姉様は私が守るわ。今夜は人払いをしておきましょ。何か起これば、使用人が危ない」
お姉様は頷いて、すぐに屋敷の使用人たちを離れに移動させた。今夜は姉妹でゆっくり過ごしたいと、もっともらしい理由をつけて。
「怖いわ。震えが止まらないの」
「私もです。とにかく、朝まで一緒にいさせて。二人一緒のほうがいいわ」
お姉様と私は毛布にくるまって、二人で身を寄せ合った。とても眠れるような気分じゃない。何かが強く警告している。
深夜二時を過ぎたころ、風もないのに窓枠がガタガタと揺れだした。地震……じゃない。揺れているのは建物じゃなくて空気。誰かが結界に入ってくる。
「シャザード様!」
そのとき、お姉様はそう叫んで立ち上がり、ドアに向かって走り出した。正面玄関の結界が切れたと私が感じたのと、お姉様の声はほぼ同時だった。
私たちが玄関に駆け下りると、意識のない教官を、血だらけになったレイが支えて立っていた。そして、私たちの姿を見た途端、二人はそのまま床に倒れてしまった。
「レイ! しっかりして! どうしたの? 何があったのっ」
「俺は大丈夫だ。師匠の手当を頼む。ここまで飛ぶのが精一杯だった」
転移魔法。一度に二人を飛ばすなんて、普通はできない。そんなことをすれば、相当の魔力を持っていかれる。
「お姉様! なんでもいいわ。回復薬をありったけ持ってきて、レイに飲ませて! 私は教官に治癒魔法を使うっ」
真っ青な顔で立ちすくんでいたお姉様は、私の声で我に返ったように貯蔵庫に走った。ここには、教官がたくさんの薬品を置いていた。そこになら、回復薬もある。
「俺のせいだ。師匠は俺をかばって……」
「いいから、とにかく動かないで! レイは自分の心配をして。教官は私が診るからっ」
魔力値を上げるには、生命力を回復させるしかない。私はありったけの魔力をつかって、教官の回復を試みた。両手を教官の胸に置き、治癒魔法を流し出す。
まるで吸い取られるみたいに、いくら魔力を入れても足りない。こんなになるまで、一体どれだけの力を教官は使ったんだろう。
「セシル、とりあえずこれだけ持ってきたわ! レイ、飲んでちょうだい」
バスケットにいっぱい入った試験管から、レイは必要な回復薬を選んで飲んだ。意識があるレイは、まずはこれで大丈夫。死ぬことはない。
「お姉様、水と毛布を持ってきて! それから、レイに何か食べるものを!」
「俺は大丈夫だ。師匠の回復を手伝わせてくれ」
私はレイを睨みつけた。そんなヘロヘロで、なんの手伝いができるっていうのよ! 自分の力を過信すると命取りになるって、ちゃんと習ったでしょう?
「そんな体じゃ、まだ無理よ。何か口にして、薬をどんどん体中に回して! じゃないと、共倒れるわよ! レイの魔法が回復できなきゃ、教官の命が危ないわ!」
とにかく、意識さえ戻ればいい。回復薬を飲めるようになれば、命の危機は脱する。魔力を吸い取る速度が落ちているから、きっともう少しだ。
「私も手伝わせて」
私の側に座ったお姉様が、自分の両手を私の手の上に重ねた。
「お姉様、無理をしないで! 私も回復薬を飲むから」
「大丈夫よ。私にだって少しは魔力があるのよ。今使わないで、いつ使うの?」
お姉様の手から、ゆっくりと魔力が流れ出す。量は多くないけれど、柔らかくて温かい力。慈悲深い光のような魔法は、優しいお姉様そのものだ。私はそれを治癒魔法に乗せて、教官の体に流し込んだ。
ああ、そうか。お姉様は魔力で教官に呼びかけているんだ。戻ってきてって。その声が届けば、教官は絶対に死なない。お姉様のところに、必ず帰ってくる。
「レイ、無理しても食べて。少しでいいから休んで。すぐに王宮と聖堂に連絡するわ。医師と聖女を派遣してもらうから」
「……待ってくれ」
そう提案した私を引き止めたのは、教官の声だった。
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