自分を主人と呼ぶ淫魔

 それが本当にこいつの発した言葉なのかはわからない。


 ただ、それがこいつの望みなら叶えてやろうとは思った。

 

「持ち上げるぞ」

「……」

 

 お姫様抱っこの形で抱え上げると、そいつはひどく軽かった。

 

 そういえば、精液以外まともに食わせてないもんな。パンとか食べるのか?


「……いやいや」


 自分の考えに首を振る。

 そんな話聞いたこともない。

 そもそも口が動くのかさえ怪しい。

 普通の食事をしないのなら、これが普通の体重か。

 淫魔というのは基本的に体重が軽いのかもしれない。

 150cmぐらいの身長を考えれば、これぐらいなのかも知れない。

 俺よりも一回りも二回りも背が小さい。

 まるで小動物みたいだ。

 俺は裸の体に布切れを被せてから家を出た。

 

「……寒いな」

「……」


 夜道を踏みしめる。


 満月がわずかに地面を照らしていて、そのまま小高い丘の上に向かった。


 あそこならまだ見晴らしがいいだろう。

 

 丘の上に来ると、冷たい夜風が頬を切った。


 腕にいるそいつの髪がたなびいて、月の光に煌めいている。

 

「……本当にお前は、芸術品みたいだな」

「……」

 

 キモい限りだ。


 サキュバスに話しかけるなんて、まじで拗らせ童貞である。

 

 でも、それならそれでいい。


 どうせ俺は生身の女なんて信じられないんだから。


 拗らせ童貞であることを受け入れよう。 


「……」

「……」

 

 丘の斜面に座って、自分の股座の上にそいつを座らせると、その宝石のような瞳は月の下で夜の街を見ていた。

 

 月光を水面のような虹彩が反射している。まぶたが閉じられることはいっこうになかった。目が渇かないのだろうか。


 意識があるのか分からない。自我があるのかも定かでない。もしかしたら、これは俺の独りよがりで終わってしまうのかもしれない。


 だとしたらひどく滑稽だ。俺は要するに人形遊びに興じていたというだけなのだから、こんな深夜に淫魔を連れ出して話しかけてるなんて本当にドン引きものだ。

 

 そう考えると酷く惨めに思えた。自分が虫ケラみたいに見える。いかんな。これだから夜に余計なことは考えないと決めていたのに。

 

 悪い思考が俺の頭を支配する。

 

「……」

「……男が泣くなんてな」

「……」

「……俺は、いつになったらマシな奴に──」


 ──突然、何かに口を塞がれた。

 

 柔らかい感触だ。それは、どこか覚えのあるものでもある。


 咄嗟のことに体を後ろに引いて、それも俺に追従してきた。


 唇を満たす感覚が俺を掴んで離さない。

 

 目の前が暗くなる。


 俺の視界を真っ暗に塗りつぶしていたのは、何度も見てきた淫魔の顔だった。


(は……っ? え、は?)

 

 腕が、俺の首を抱いて、力を入れている。

 蠢く舌が俺の口の中に入ってきている。

 どういうことか、さっぱり分からなかった。

 

(どういうことだ? なんで動いてる?)


 何が起こっているのか分からず、俺はただただ後手をつくばかりだった。


『そいつ』のやることに身を任せて、しばらくの間時間が過ぎる。


 心地の良い感覚が口腔を刺激して、揺蕩う海のような陶酔に俺は沈んでいった。

 

 しかし、次第に頭が回るようになって、今の事態が異常だと気づく。


 すぐにそいつの肩を持って引き離した。

 

「──ぷはっ、お前……!」

主人あるじ様、ようやく目が覚めました」

「は……?」

 

 意味のわからぬ言葉に、俺は腑抜けた声を出した。


 目の前の淫魔が喋っている。


 口を動かして、手を動かして、自分から肺を蠕動させて呼吸している。


 目の前の光景が、全て俺の頭蓋に異常を告げていた。

 

(……なんでだ? 淫魔は、淫魔は喋らないんじゃなかったのか⁉︎)

 

 動けぬ、喋れぬ、文句を言わぬ。

 だから、働き手にもなれなくて男の慰み物になる。


 そういう存在であるはずだ。


 だから、彼女らは生まれながらにして全てを奪われてきたのだ。


 人格さえも認められない。そもそも認めて良いかも定かでないのだ。


 なのに、俺の資格はどうしようもなくそれを人間だと判定した。


 俺の聴覚はその声を人間のものだと判断した。


 生まれてすぐに奴隷として売られる。まるで物のように小屋に展示される。


 着飾られたり大切にされることはあっても、それは人形としてだ。


 決して人としてなどではない。


 ないはずなのだ。


「ど、どうし──っ」


 誰よりも美しい美貌をもちながら、誰よりも持つものを持たない。


 端正な顔と美しい肢体を蹂躙されるばかりの運命、おおよそ底辺に位置する。


 一度覚えれば病みつきの股ぐらの肉を作為的に男達に利用されている。


 そんな存在なはずなのだ。


 自主性がないために全てを奪われた種族。


 淫魔というだけで全てを否定された存在達。


 人の欲から生まれ落ちるという欠陥品。


 そう呼ばれていたはずだ。

 

 なのに、目の前の淫魔は動き、喋り、あまつさえ自分から接吻をしてきた。


 淫魔と接吻なんて、虚しいだけだと誰もが言った。

 

 なのに、どうして……

 

「主人様が健気に私を大切にしてくださったおかげで、ようやくこうして喋ることができます。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」

「なっ……なんなんだ! お前、淫魔は……淫魔は喋らないんじゃなかったか⁉︎」

 

 目の前のそれに俺は疑問をぶつける。

 恐怖から後退りをして、さっきまで胸に抱いていたものを手放した。

 否、それはもう俺が思う物ではない。それはまさしく──


「……おっしゃる通りにございます。最早、歴史に抹殺された、一人の魔術師によってやり込められた悪魔の末裔……物いわぬ木偶にして、皆様の慰み者、淫魔が一人、ニーニャにございます」

「ニーニャって……!」

 

 絶句した。

 それは俺が、俺がつけた名前だ。

 最初の頃にテンションが上がりすぎてつけた名前だが、後になって流石に二度と呼ばぬと誓ったものだ。

 流石に淫魔に名前をつけるなんてどうかしてる。舞い上がりすぎていたんだ。そう自分に言い聞かせて今まで二度と呼んだこともない。

 それを、目の前の淫魔は覚えていた。呼ばれた本人はずっと記憶の彼方に刻んでいた。

 なかったことに、できていなかった。

 

「はい。主人様につけていただいた名前、二度と忘れることはありません。解き放ってくださったご恩を、私の生涯を持って返していこうかと思います」

「なんで……」


 まるで愛おしいものを抱きしめるように拳を胸に当てて、ニーニャと名乗る淫魔は潤んだ瞳をこちらに向けている。


 何の悪夢だ、これは。


 俺の淫魔は……ずっと欲望をぶちまけられてきたんだぞ。


 男の醜い欲望を、その一身に受けてひどく心を痛めているはずだ。


 なのに──


「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。このニーニャ、これより全身全霊を持って主人様に仕えようかと存じます。どうか、よろしくお願いします」

 

 ぺこりと頭を下げる俺の淫魔に、俺は戦慄した。

 

 そいつは、へりくだっていた。


「物じゃなかったのか……?」

「はい、そうにございます」

「……はは──っ」

 

 ずっと、気持ち悪いことを言い続けてきた。

 気持ち悪い姿を見せ続けてきた。

 気持ち悪いことをし続けてきた。


 一人しかいないと思っていたのに、物だって思っていたのに、だから良いのだと自分に言い聞かせてきたのに、全部台無しじゃないか。


 前提から違った。彼女は物なんかじゃなかった。自我のある、尊厳を持つべき人間だった。おおよそ俺が汚していい存在なんかじゃなかった。

 

 どこか人間だったらと一抹の願いを寄せていた俺が悪かったのか?

 

 そんなことを願ったから、現実になってしまったのか?


 ふざけてる。どんな冗談だよ、クソ野郎。


「……なんでだよ」

 

 知っていたら、あんなこと、してこなかったのに。

 

「主人様──」

「近づかないでくれ」


 分かっていたら、傷つけなかったのに。


「あ、あのっ」

「……」

 

 気持ち悪い。


 自分が心底気持ち悪い。


「……」

「……」


 俺は耳を塞いで、足を抱えた。


 もう無理だ。


 ここまでの恥辱を受けて、それでも今まで通り振るまえるか?


 あまつさえ主人? 


 そんなふうに振る舞えるほど厚顔無恥でも豪胆なわけでもない。


 何で俺を主人と呼ぶ。


 何でそんな親しげにする。


 恨むんじゃないのか、普通は。


 分からない。


 分からないから……怖い。

 

「話は分からん。意味も分からん。だが……動けるならどこへでも行け。もう俺の淫魔じゃない」

「そんな……! そんなことをおっしゃらないでください。このニーニャ、全力で──」

「その名を言うのはやめろ!!!」

「っ……」

 

 俺は子供みたいに耳を塞いで叫んだ。

 もう何も聞きたくなかった。

 

「……悪いことをした。今まで迷惑をかけてきた。だが、それで生かされたいのも事実だろう」

「……おっしゃる通りにございます。主人様のおかげで、こうして私は──」

「なら、もういいはずだ。どこへでも好きなところへ行け。自我があるなら、どこかへ行ってくれ……」

 

 情けない話だ。

 いい歳こいた男が、小さく丸くなって懇願するように声を上げている。

 今までいじめてきたのは俺だっていうのに、まるでいじめられっ子のようだ。

 本当に気持ち悪い。誰かに媚びるような姿が本当に気持ち悪い。

 

「……」

「……我々淫魔は本来、物いわぬ慰み物です。それが、このような形で動いていれば私はすぐにあの男どもに狙われて、攫われるでしょう」

 

 淫魔の指す「あの男ども」が、文脈から男どもが奴隷狩りのことを指しているのはすぐに理解できた。

 

「……どうか、お願いです。不躾ぶしつけなことも不届ふとどきなことも存じております。ですが、どうか今しばらく私を家においてはいただけないでしょうか? 私は一人では生きていけません……主人様なくしては生きていけないのです──」

 

 ──酷い話だ。


 俺が聞いてきた話の中で最上級には救えない話だろう。


 だって、そうじゃないか。


 俺が加害してきたやつは、俺の助けがないと生きられないのだという。

 

 それがどれだけ残酷なことなのか、理解できるだろうか?

 

 俺は彼女の申し出を断るわけにはいかない。


 俺は彼女を虐げてきた側だ。断るなんて許されない。


 だが、彼女は一体どんな気分なんだろうか?

 

 自分を物だと思ってずっと嬲ってきたやつを、それでも頼らなきゃいけないこの状況を、彼女はどんな気持ちで受け入れてるんだろうか。

 

 怖い。何を考えているか分からない。


 知りたくない。


 傷つきたくない。


 話したくない。

 

「……どうか、お願いします」

「っ……」

 

 彼女はついに、頭を下げてしまった。


 そのことばに足元が崩れる感覚がする。

 

 何も悪くない少女を、俺が悪いだけなのに、一方的に請い願わせてしまった。

 

 まるで物乞いのように頭を擦り付ける彼女に、やめてくれと叫びたくなる。


 そんな姿が見たくて、今の態度をとったんじゃない。


 違う。違うんだ。俺は──

 

 ……俺が悪いのか。


 この地獄絵図を作ったのは、俺なのか。


「……分かった」

「っ、ありがとうございます!」

「──謝るな」

「……はい」

 

 少女は顔を上げると微笑んでいた。

 

 ニーニャと名乗った少女は、淫魔であっても、もう物ではない。

 

 彼女は喋ってしまった。動いてしまった。


 だから──












 ──彼女がいつ、俺の罪を糾弾するのか気が気でない。





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