今まで何度失った?

 背中越しに手を振るベックを見送った。あいつはなんやかんやで周りのことを見ている。俺のこともお見通しってことか。

 

「……」

 

 帰路の途中で立ち止まる。周囲には喚く子供が走り回っていた。

 

 ニーニャはモノではない。それでも淫魔なのだ。

 

 彼女は俺と一緒に離れないといった。そこにどんな意味があるかなんてわからない。それでも彼女は俺の補助者であることを選んだのだ。

 

 であれば、俺にとっては何でもない人間の一人になってしまう。俺が抱えるべき一人になっていないのだ。

 

 スタンピードは下手すれば街全体を飲み込むほどの魔物を吐き出してしまう。そうやって壊滅した街をいくつも見てきた。

 

 ここからベレットに行くことは可能だろう。だが、果たしてその後は?

 

 俺はベレットで冒険者としてやっていけるのか?

 

 ニーニャを道中攫われずに連れていくことが可能なのか?

 

 仮に住まいを手に入れたとして、これから動く淫魔である彼女を秘匿し続けられる保証は?

 

 様々な可能性が頭の中を駆け巡る。その中のいくつかは俺が彼女を犠牲にしないとやっていけないものもあった。

 

 天秤にかけていた。ずっと、ずっと考えていたのだ。

 

 冒険者という稼業はそこまで安定していない。一度怪我をすれば、そこからずるずると転落していく。

 

 たとえ数年前まで前線を張っていた奴だろうと、怪我をすれば物乞いもどきに落ちるなんて話もいくらでもある。俺はそういうやつをたくさん見てきた。

 

 23、まだ23だ。だが、もう23でもある。

 

 今が戦士としてのピークだ。これから先はどんどんと衰えていく。

 

 その中で彼女を抱えて生きていけるのか?

 

 ──淫魔なのだから、食事の必要はほとんどないだろう。


 だが、彼女の存在は隠し切れるモノでもない。いつかはバレる。

 

 そして、その時に俺は逃げ出せるのだろうか。それまでに逃亡資金を貯められるか?

 

 ──今でさえ彼女にまともな料理も食べさせられていないのに。

 

「……帰ったぞ」

「おかえりなさい、主人様!」

「……ああ」

 

 パタパタとこちらに駆け寄って、健気に出迎えてくれたニーニャの頭を撫でる。

 

 フリフリと揺らした桃髪に指を通せば、絹のようにサラサラと流れていった。

 

 昨日、軽率に触れるなと怒られたばかりだというのにこりもせずに頭を撫でる。そして、それをニーニャは気持ちよさそうに受け入れてくれる。

 

 彼女の存在は、いつか必ずバレる。その時に守り切れるか。

 

 ──答えは否だ。


「今日も頼めるか」

「はい、お任せください!」

「その前に、食事にしようか」

「あっ、はい。お願いします……」

 

 おずおずとかがんで口を開ける彼女の顔に、昨日や一昨日もした通りに下履きをおろして一物を向ける。

 

 彼女への餌付けが終わると、すぐに下履きに手をかけた。

 

「お待ちください」

「何を──んっ」

「ん……ちゅっ。申し訳ありません、垂れておいででした」

「あ、あぁ……」

 

 その僅かな感触に少しだけ情欲が煽られた。


 ニーニャは美味しそうに俺の精液を飲み干している。その姿はやはりどこか芸術品めいていた。

 

『でもな、人間やれることは限られてんだよ』

 

「分かってるよ、そんなこと……」

「ん? 何か言いました?」

「……いや、ニーニャは可愛いなと」

「本当ですか⁉︎」

「ああ、天使みたいに可愛いよ」

 

 また頭を撫でると瞳を閉じて、彼女は微笑む。

 

 まるで犬か猫だな。どっちかっていうと猫のほうが近い気がする。

 

「……今日もお願いできるか?」

「はい! 任せてください」

 

 それでも、俺はまだ決めかねていた。

 

 ◇

 

「──というわけで、引っ越すことになった」

「そうですか……」

 

 ニーニャにスタンピードの説明をして、領主が予算を出し渋っているので別の街に移ることにしたことを伝えると、彼女はいささかしょんぼりと顔を暗くした。

 

「……ここに思い入れがあったか?」

「いえ、そういうわけではないのですが……ここは、主人様が初めて連れてきてくださった場所です。一昨日に見た光景も、もう見られないのかと思うと……」

「……そうか」

 

 こればっかりは仕方がない。永遠のものなどそうはないのだ。

 

「……」

「……」

 

 彼女を腕の中に抱える。

 

『他人のことまで背負おうとして馬鹿を見るなんざ、それこそバカのすることだぜ』

 

「分かってる……」

「……? 主人様?」

 

 考える。本当にこれでいいのか?

 

 ──当たり前だ。スタンピードに対抗しようなんざ正気じゃない。

 

 少なくとも俺の仕事じゃないはずだ。


 領主が金をかき集める。冒険者達がそれに応える。そういう仕組みだ。それでスタンピードは抑えられる。


 その予算が足りなさそうという話だから、とんずらこいて逃げようという話になったのだ。

 

 金がいる。多くの人間を動かすには、それなりの対価という者が必要だ。

 

 俺一人がいくら意気込もうと、どうしようもないことはある。ベックの言う通りだ。人間、一人でできることには限りがある。

 

「……ちょっと、外の空気を吸ってくる」

「はい、いってらっしゃいませ」

 

 家を出る。


 ここら辺は貧乏人の住まう場所だ。少し歩けば子供の声でうるさい場所に出る。

 

「あっ、バラッド兄ちゃん!」

「……よお、坊主たち。元気してたか」

「うん!」

「ねえねえ、また遊んでよ!」

「しょうがねえな、ちょっとだけだぞ」

 

 こいつらはまだ10歳にもなってない。農民の息子ならさっさと家業を手伝わされるのだが、生憎とそこまで貧乏なわけでもないらしい。

 

「ほれ、俺の勝ち」

「あー! ずるいずるいー! 兄ちゃん、ズルっ子だよ!」

「次、俺な! 俺と勝負しろ!」

「はいはい、全員まとめて相手してやるよ」

 

 この子らに遊び道具なんかあるわけない。だから、ガキたちはこうやって互いに顔を突き合わせては石を投げたり枝で地面に絵を描いたりして遊ぶしかない。

 

 随分と遊びのバリエーションが少なかったようだから、ちょっと頭を使ってできることを教えたら、それから懐かれてしまった。


「バラッドさん、いつもすいません……」

「いえ、好きでやってることなので」

 

 近所のおばさんが声をかけてくる。この中のガキの一人の母親だろう。

 

「そういえば、どうするんですか? スタンピードの話は聞いたでしょう」

「ええ……私たちは残ります」

「……そうですか」

「はい。ここを出ても行く場所がありませんし、当てもなく彷徨っても食い扶持を稼げませんから」

「……」

 

 それが現実だ。

 

 冒険者はすぐに拠点を変えられる。迷宮と身体がある限り、食い扶持に困ることはない。

 

 しかし、その周囲に住む人間はそうもいかないのだ。

 

 その大半は、引越しの代金さえも貯蓄できない奴ばかり。家族単位で働いても、手元に残る金は少ないのだ。

 

「バラッドさんはどうするんですか?」

「……俺は、ベレットの方に移る予定です」

「そうですか……バラッドさんが残ってくれたら心強かったんですが」

「……すいません」

「いえいえ、いつも助けていただきましたし、向こうでも頑張ってください」

「……」

 

 彼らは、ここを置いて出ていく薄情な俺にも挨拶をしてくれる。

 

「えー、兄ちゃん。出てっちゃうのー⁉︎」

「何でだよー、残れよー!」

「こらっ、無理言わないの! ごめんなさい、この子たちまだ子供で〜」

「……いえ」

 

 さっきから、この胸につっかえている感情は何だ。

 

「……帰ったぞ」

「おかりなさい!」

 

 座っていたニーニャは、いつも通りの笑顔でまた出迎えてくれる。

 

「……明日には、ここを出ていくからな」

「そうですか……分かりました」

 

 彼女はどこか寂しそうにそう言って。

 

「──仕方、ないですよね」

「ッ……」

 

 そのどうしようもなさそうな横顔に、強い違和感を覚えた。

 

「……」

「……? 主人様?」

 

 キョトンとした様子でニーニャは顔を傾げる。そんな彼女の頭を、もう一度強く撫で回した。

 

「わっ、何を──」

「悪い、ニーニャ。前言撤回だ」

「えっ……?」

「ちょっと、また出てくる」

「あっ……! いってらっしゃ──」


 今度は彼女の送り言葉も受け取らず、貧民街を疾走する。

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