第十四話 太宰と鏡花

 何故、気付かなかったのだろう。

 彼はずっとそこに居たのに、自分は、何も――。

「鏡花ちゃん」

 談笑する調査員たちの輪から抜けて一人外を歩いていた鏡花は、にぶい重みのある頭を上げる。

 そこに居たのは、太宰であった。

 普段より随分と早い時間に寮へと向かっているのに加えて、太宰が個人的に鏡花に話し掛けてくるというのが珍しく、何だか変な気分である。

たまには、一緒に帰ろうか」

 何時もは終業時間よりも前に社を出てふらふら遊びに行く太宰がこのように誘うのだから、何か理由があるのだろう。

 鏡花は頷き、太宰の長い脚が非常に遅く動かされるのに合わせて歩き出す。

「国木田君は、嘘をいているんだよ」

 太宰は鏡花の隣を歩きながら、さらりと云う。

 嘘?

 あの国木田が?

 鏡花の反応を可笑おかしがるように、太宰はふふふと笑う。

「嘘と云ったって、悪いとも限らない嘘さ。よくあるだろう?」

 太宰の底無しの瞳は、変わらず笑っている。

「私と、国木田君と、敦君だけが知っている嘘だよ。知りたい?」

 そこまで云っておいて「知りたい?」とくなど、意地悪なことこの上ない。

 鏡花の内心を読んだ太宰はあっはははと声を上げて笑い、それから、すっと真面目まじめな顔になる。

「敦君が初めて変身できた実在の人間は、賢治君じゃない」

 穏やかにざわめく街を眺める太宰からは、何の感情も読み取れない。

「鏡花ちゃんだよ」

 熱湯と冷水を同時に浴びせられたような心地がした。

「でっ、でも……」

 自分の思考も感情も理解できないままに、鏡花はそう云うことしかできない。

「素直な者に変身しやすいんじゃないのかって?」

 太宰は高い位置にある腰を折って、鏡花の顔を覗き込む。

 鏡花は太宰の細く笑った目に釘付けにされたまま、こくこくと頷く。

「まあ、まだ情報が少ないからね。よく一緒にいる人に変身しやすいのかもしれない。敦君は賢治君と一緒に、よく外回りに行っているだろう。それか、異能の性質がちょっと似ているから、とか。ほら、夜叉も雨ニモマケズも虎も、強くて頑丈。でもね――」

 鏡花には太宰の顔が一瞬、千年を生きた人間のそれに見えた。

「敦君にとっては、鏡花ちゃんは素直だってことかもしれない」

「そんな――」

 自分が、素直?

 ない。

 自分が素直とは対極――とまではいかずとも、遠く離れた場所にいる人間であることは、誰よりもよく知っている――。

「敦君にとっては、ってことだよ。異能というのは、主観的なものだからね」

 太宰は街を吹き抜ける風を蓬髪ほうはつに受けながら、すじとおった鼻でその風を心地良さそうに吸い込む。

「ねえ」

 鏡花を見下ろす太宰の顔は、悪戯いたずらをする前の子供のそれである。

「敦君は自分から私達に、鏡花ちゃんに変身したことは云わないでほしいと頼んだんだ。何故だか分かるかい」

 分からない。

 鏡花には、敦のことが分からない――。

「鏡花ちゃんにもうわけないからだって」

「申し訳ない?」

 賢治には変身してもいいのに、何故、鏡花に変身することが申し訳ないのか――。

「だってさ、鏡花ちゃんに変身できるってことは、敦君は何時でも鏡花ちゃんの身体を見て、触ることができるんだよ。鏡花ちゃんですら見破れないほど完璧に変身した身体を」

「あっ」

 自分の顔が急速に真っ赤に染まっていくのが感じられる。

 太宰はその反応を楽しむかのように、口の両端を吊り上げて笑う。

「ねえ」

「う……」

 鏡花はいつの間にか顔を覆っていた手を外し、恐る恐る太宰を見上げる。

「敦君が帰ってきたら、変身、見破れなかったって云ってあげて。敦君、喜ぶよ」

 彼の、喜ぶ姿――。

「……うん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る