若子

山中

---血。

 まず目に飛び込んできたのは恐ろしいくらいに鮮やかな血の色だった。次いで目に入るのは散らばる肉片。物言わぬ動物であったモノ。その中でうっとりと頬を緩ませている我らが生徒会長。肺の中に送り込まれる濃密な血の匂いが、ここは現実なのだと告げていた。

 異様な光景だった。嘘であってほしいと思った。物音を立てて生徒会長に気付かれでもすれば、次は自分が餌食になるのだということが馬鹿な自分でもわかった。

 逃げなければ。逃げて警察に行かなければと思うのに、しかし足は動かない。浅い呼吸と早鐘を打つ鼓動が、やけに大きく聞こえてくる。木々のざわめきが遠くに感じられ、他のものに焦点が合わない。俺とこいつしかこの世にいないんじゃないかとすら思った。

 俺は自他共に認める不良である。今日も学校をサボって、気分が向いたので山の中にでも入ってみるかと思った矢先のことだった。誰が想像できるだろう。いつも俺を注意してくるこいつが、優等生であるこいつが、動物を虐殺しているなどと。

 呆然としているうちに生徒会長がゆっくりとこちらを振り向いた。目が合う。瞬間、生徒会長は目を見開いた。

「違う!」

 言ったのは生徒会長だった。いつもきれいにたなびいている髪が血を浴び、とてもいつもの美しい髪色とは言えない容貌になっている。慌てる様は、いつも冷静で落ち着いているこの生徒会長からは想像もつかないほどだった。

 何が違うというのか。これをやったのは生徒会長で間違いないはずだ。何をいまさら、と色々な言葉が出かかって、しかし音にはならなかった。この動物を物言わぬモノにしたのは目の前の本人である。証拠に、その手には血の滴る凶器が携えられていた。

「なんで、こんなことしたんだよ」

 相手から目を離さずに、相手を激昂させないように。俺は慎重に、携帯を持つ。緊張からか手汗がすごくて、落としてしまわないかひやりとした。

「なんで!?そんなこと私も知りたいよ!」

「落ち着けよ。落ち着いて、順を追って話してくれ」

 まあそんなことを懇切丁寧に教えてくれるはずもないだろう。自分も到底落ち着いているとはいえないなと思いつつ、刺激を与えないようにゆっくりとした動作で110番を押した。

「ほら、深呼吸。あの生徒会長殿がこうも取り乱すなんてらしくないぜ」

「…それも、そうね」

 どうやら冷静さを少しは取り戻したらしい。生徒会長はゆっくりと深呼吸をする。

「何があったんだよ。ことの発端は?」

「……最初は、なんてことないことから始まったんだと、思う」

 どうやらことの顛末を話してくれるようだ。俺は少しほっとして、しかし電話を鳴らすことはさすがに刺激を与えるだろうかと迷う。

 ここまで落ち着いてくれたのならどこかしらで電話を鳴らすタイミングはあるだろうと考え、とりあえず俺は生徒会長の話を聞くことにした。


 今思えば本当に最初はなんてことないことだった。

 夏場。蚊が多い時期。ある日たまたま手の甲に居た蚊をつぶしたことから始まった。誰かの血を吸った蚊は潰すと赤い花を咲かせる。私はその赤く染まった手のひらを見て、「美しい」と感じたのだ。

 ただ美しいと感じただけ。血の色が好きなだけであったならどれだけよかっただろう。その時私は美しいと感じた以外に、確かに腹の奥がうずくような甘美なざわめきを感じたのだった。

 それだけですめばよかったのに。と思う。血を見る経験が蚊だけですめば、ちょっとした怪我だけであったなら私は苦しまなくてすんだのに。


 忘れもしない、あの夏の日。とある男子生徒がふざけていたら窓を割ってしまいかなりの出血をした。救急車を呼ぶ騒ぎになり、ちょうどそこに居合わせてしまった私は見てしまったのだ。心臓が動くたびに、血が噴き出る瞬間を。

 すぐに出血を止めなければ。先生を呼び助けを求めなければと思ったが、しかし足は動かなかった。その光景にくぎ付けになってしまったのだ。見惚れてしまった、といってもいい。この鮮血を止めるなんてもったいない、と思った。お腹の奥がうずいて仕方ない。この光景の前で自慰をしたい。できたならなんて心地よくなれるだろうと思った。

  あまりの光景に立っていられなくて私は地面にうずくまる。はた目から見れば血を見て気分が悪くなったと取られたのだろう。心配の声をかけられてそのまま私は保健室へと運び込まれた。

 保健室に運び込まれ、私はベッドに寝かされる。しばらく先ほどの光景を思い出して恍惚としていたが、ふと冷静になって、自分の感情の倒錯ぶりに愕然とした。

(血を見て興奮しただなんて知られたら人生の終わりじゃないか)

 品行方正、文武両道、才色兼備。正しいとされている道を歩けるよう努力してきた。なんにでも興味を持つよう努めてきたし、人よりも出来るように人が見ていない場で努力を怠らなかった。周りの人間にも優しく、悪いことには厳しく接した。正直なところ努力をしない、道から外れた人間のことを下に見ていたがそうと感じられるような言動は取ったこともない。私の人生は順風満帆。そう信じて疑わなかったし、周囲もそれを期待していた。汚点は許されてこなかったし、自分もまた汚点なんて許せなかった。

 まさに完璧。それが私であったのに。

(私はなんとしてもこの感情を隠さなければならない)

 他者から見た自分の価値は、他者にしか決められない。そして、自分の価値も自分でしか決めることができない。しかし自分から見た自分の価値が高いからといって、いったい何になるというのだろう。性的倒錯という大きすぎるシミ。他者はこれを見て何を思うだろう。他者からの評価が高くなければ、何の意味もない。他者の評価こそが、自分の価値なんだ。自分が納得出来る結果を出し、なおかつ、それが他者からみても認められるものでなくてはならない。そうであるはずだ。だからこそ、私は自分の道を違えぬよう、感情に蓋をすることに決めた。


 そう思ったものの、血を見る機会なんて日常生活を送っている中でそうあるものではない。あの感情は一時の気の迷い。あの感情は何かの間違いだったのだと思い、ほっとしていた。そう、最初の1週間までは。

 血。血が見たくてたまらない。そんな衝動に襲われた。あの恐ろしく鮮やかな赤。絵の具では足りない躍動に脈動。ああ、命というものはなんて美しいのだろう!心臓というポンプから打ち出された命のきらめき。血こそが命であり何よりも美しいもの。

「痛……」

 気が付けば私は自分の手をナイフで切りつけていた。ああ、そうだ。探さずとも「ここ」にあるじゃないか。体を常に循環している赤が。

 ……だが、足りない。私が見たいのはあの鮮やかな赤。表層を切って出てくるような濁った赤ではなく、あの、動脈を傷つけた時にでる鮮やかな赤なのだ。流石にそれをやれば騒ぎになるだろうし、そもそも自傷だなんて周りに知られれば何を言われるかしれたものではない。

(……なら、外にいる動物なら?)

 まず場所。山に小屋でも建てようか。そうして山の動物を罠にでもはめて……道具はどうしようか。時間は?

 私は準備を着実に進めていった。そして準備を整えれば、それからは至福の時だった。まずは鳥。思っていたよりも力は強かったが、想像よりは大変ではなかったし、その赤は想像よりも満足のいくものだった。人間の血だけに興奮するなら本当に手が付けられないと不安だったのだ。まだ大丈夫、私はまだ正常だ、と思った。

 哺乳類であるならば誰もが持っている普遍的なものなのに、どうしてこうも血というものは私を惹きつけるのだろう。どの体にも埋め込まれている秘められたもの。ああ、それを暴くのはなんと甘美なことか。


「本当に、素晴らしい時だった。このまま時が止まってほしいとさえ思ったんだ。」

「……なんでわざわざそんなことを、俺に教えたんだよ」

「なんでだろうね。こんな自分を肯定されたかったのかもしれない。こんな自分を、受け入れてほしかったのかもしれない。他でもない、自由な君に」

 自由。投げやりな言い方に俺はむっとした。

「自由、ね。お前は自分自身に囚われているだけじゃないのか。そういう自分に酔っていたんだろうが。」

「何、」

「何が自由な君に、だ。自分で望んで檻に入ったんだろう。その檻でよしよしされてたくせにそこの檻の客じゃ認められない部分を他のだれかに認められたいだなんて、虫が良い話じゃねえか」

「それは、」

「それは?」

 勢いで口に出ただけで言いたいことなど思いついていないだろうというのを薄々察しながらも、俺は話の流れを促す。我ながら意地の悪いことだと思う。

 何が血が好きなことは私の唯一の汚点です、だ。確かに俺はこの後警察に電話するしこいつは捕まる。それは決定事項だ。だが、何よりもこいつの性根が気に入らない。こうまで性格の悪いやつが一体何を言っているというのか。シミどころか真っ黒な人間じゃねえか。血が好きだということがもしなくても、いつかメッキがはがれる時が来る。遅いか早いかの違いだっただろう。

「……私は。じゃあ私は、どうすればよかったんだよ」

「知らねえよ。自分で嫌な道を選んだだけだろ。自分の選択ぐらい自分で責任とりやがれ」

 言いながら俺は警察に電話を鳴らす。生徒会長であるこいつは、少年院にでもなんでも入れられるのだろう。顔を見やれば、その顔は涙にぬれていた。

 ぽつり、と水滴が頬に当たった。しばらくして小雨になり、だんだん勢いを強くしていって、土砂降りになる。

  雨がもっと強く降ればいいと思った。このまま強く降って、ここの血を。そしてこいつの罪を洗い流してくれたのならどれだけいいだろうと、自分らしくもない考えに自嘲する。あの騒がしくも平穏な日常の中に、こいつはもう存在することができないのだということが、何よりも寂しかった。

「…医者にでも、なればいいんじゃねえのか」

 ぶっきらぼうに俺は言う。こいつは頭がいい。血が好きだというのなら、血を見なければならない仕事に就けばいい。衝動が抑えきれないのなら、大人になる前に自分を制御するすべを会得すればいい。ただ、それだけの話だ。

「……なれると思う?」

「努力次第だろ。生徒会長殿」

「……努力、ね。誰に言ってるんだよ」

 それは私の本分だよと、生徒会長は笑う。

 サイレンの音が遠くで聞こえた。どう考えてもお先真っ暗なはずのこいつは、どこか晴れ晴れとした顔をしている。それを見て、どうにかなるんじゃないかと、こいつならなんとかするんじゃないかと、少し思った。

「それじゃあね、不良くん。また、どこかで」

「ああ。……また」

 今はただ、その見えない未来が良いものであることを。ただ願うだけだ。どうか良い方向に、進めますように。

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若子 @wakashinyago

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