缶コーヒー

 そのお兄さんは、私に何も期待していないように見えた。


 ただ、成り行きで私を助けただけのこと。

 今は私という存在が煩わしくて、それを払拭するために善意を振りまいているだけ。

 私なんて、お兄さんにとっては道端に生えている雑草みたいなものなんだろうと……そう思った。


 でも、私の身の上話を聞いていくうちに少し興味がわいたのか、あれこれと質問してくるようになった。

 なんで今そんなこと聞くんだろう? 思わずそう考えてしまうくらいに突然に。


 そんなお兄さんの質問に私は何も答えることが出来なかったけれど……そんな私をお兄さんは否定しなかった。


 ただ黙って、私が落ち着くのをずっと待ってくれていた。

 だから私はこの人になら少しだけ話してもいいかな、と思ったんだ。


 けど……それはきっと余計な事だったのだろうと思う。

 何故って……私はあまり話が上手な方ではないから。


 上手く人と目を合わせて話すのは苦手。

 誰かと話すのって、とても緊張するし、いつも不安になる。


 だから、そんなお兄さんの質問に上手く答えることが出来なくて……自分でもよくわからない感情に突き動かされるままに日頃家族にも話さないような事を、私はお兄さんに話していた。


 とても支離滅裂な私の話に、お兄さんは根気よく付き合ってくれた。

 そんなお兄さんの優しさが嬉しくて……

 私はほっと一口コーヒーを飲む


 お兄さんがくれた缶コーヒーは少し苦くって、そして温かかった。

 お兄さんがくれたのは……私という存在への初めての肯定だった。


「君の感じているその感覚は……多分、生きている証なんだと思う」


 お兄さんは言った。


「寂しいって思うのは、君がまだ生きている証拠だから。それはとても大事なことなんだよ」


 と。


 そんなお兄さんの言葉は、まるでずっと抱えていた重たい荷物を降ろさせてくれたかのような不思議な安堵感があって……

 でも、お兄さんのその言葉は少しだけ悲しげだった。


 だから、私は知りたいと思った。

 どうしてこのお兄さんがそんな表情を浮かべるのか……と。


 私の境遇を聞いても、ただ黙って聞いていただけだったお兄さん。

 でも今こうして私に語ってくれるお兄さんは、どことなく悲しそうで、まるで自分自身に言い聞かせているかのよう。


 そんなお兄さんに私は問いかける。


「貴方は……死にたいと思ったことはあるの?」と。


 その言葉を聞いたお兄さんは、少し困ったような顔をしたけれど……やがて小さく頷いたんだ。


「そうだね。死にたいって思ったことはあるよ」と。


 その言葉が、お兄さんにとってどんな意味を持つのか、私にはわからないけれど……でもきっとそれがお兄さんの真実なのだろうと思った。


 だから私はもう一度だけお兄さんに問いかける。


「どうして?」と。


 そんな私に、お兄さんは笑って答える。


「理由なんてないさ」って。


「人が死にたいと思うことに理由なんてない。

 ただ、ふとしたきっかけさえあれば誰にだって起こりうることなんだ」と。


 そう語るお兄さんの瞳は、どこか遠くを見つめていて……私は少しだけ悲しくなった。

 私の境遇について、それ以上お兄さんは何も聞いてこなかった。

 私が抱えている苦しみをわかってくれて……そしてそれだけで私の心は軽くなっていた。

 そんなお兄さんが今、こうやって目の前で悲しそうにしているのを見ているのは辛かった。

 だから私は思わず口を開いていた。


「生きていればいいこともあるよ」と。


 それを聞いたお兄さんは、一瞬呆気にとらえたような顔をしたけれど……やがてお腹を抱えて大声で笑い出した。


「それを君がいうのか」と、滲む涙を拭き取りながらお兄さんは言う。


「君には言われたくないなぁ」と。


 そうだった。私は今、自殺しようとしていたんだった。


 そこに思い至ると、どうにも私もおかしくて、そして何故だか少し笑えた。

 私が笑えたことが嬉しかったのか、お兄さんはもう一度笑った。


 ひとしきり笑った後、お兄さんは言った。


「でも……ありがとう」と。


 そのお兄さんの笑顔に、私は胸が苦しくなった。

 それは今まで感じたことの無いような痛みで……私は自分の胸に手を当てる。

 でもその感覚は嫌なものじゃなくて……むしろ心地よいもので、私の心を温めてくれたんだ。


 だから私も言った。

 ありがとう……と。


 ありがとう。私を助けてくれて……私と話してくれて……私の苦しみを聞いてくれて……そして私に生きる意味を教えてくれて……

 それはまだ言葉には出来なくて、今の私には上手く伝えきれない。


 だから私は代わりに笑った。

 お兄さんに負けないくらい、大きな声で笑ったんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る