第34話 変化

 教室を充たすものは喧騒、その空気の色は幻想。乾燥さえ知らないその季節に乾いた雰囲気を、不気味だといった感想を色付けていく。

「知ってるか、割と近所のうわさなんだけど」

「なんだ」

 そこから語られた非日常のうわさ話。感情さえつかませない環状の輝きを宿した灰色の瞳は彼らを捉えながら彼らを捕らえる話をこぼした。彼らよりも早く、彼らよりも速く、言葉に変えて呟いてみせた。

「壁を這う人が現れるのだよ、それはそれはとても不気味、トカゲのような手をしてウサギのように赤い目を持ち捕らえた人間を殺すまで容赦なく追いかけ回す、その速度は時速六十キロ」

「あら、法定速度順守だなんて随分と親切な怪物じゃないかしら」

 口を挟む者、それは艶のある黒い髪を背中辺りまで伸ばした少女。その目には何故だか教室を覗き込む男、名前の無い在籍者しか映されていないように見える。

「この手のバケモノに法律という概念などない。ただそれだけの速度が出る。それだけだ」

 名前の無い在籍者をその目で捉えて離さない少女、菜穂の瞳は彼の金髪の輝きを受けて優しい陰影を帯びていた。

「もう、そう言わないで。勇人とかいう人のことなんか見ないで私のこと見てよ」

 見て欲しい、その目で触れてその言葉で見せて欲しい。その手触りで聞かせて欲しい。菜穂はふたりだけの時間を分かち合いたくてたまらないといった様子を隠すことなく瞳の輝きに混ぜ込んでいた。

「おかしいな、貴様は自身のことしか考えていなかったはず」

 男に対して返す言葉は輝きに満ちていた。菜穂の声はいつになく艶やかな音を奏でていた。

「あの子が教えてくれた。人と関わることを教えてくれたもの。そしてね、名前もないあなたがいつも傍にいたんだね、なんだかんだ救いになってたんだねって気づいたのよ」

「あれはただ利用しただけだ」

 男は感情を述べることがなかった。情は何処か上に漂っているようでひねり出す意志さえ湧いてこない。どちらかと言えば感情を呼び降ろすことを身体に刻まれた本能で行なうのみだった。

 一方で菜穂は感情を手で繰り続け、音色に変えて。


 本音はしっかりと男の能に刻まれた。


「あのね、私、寂しかったの。何を考えてもすぐに支離滅裂に囚われてなにもはっきりしない中、私が私さえ信じられない中で、あなただけがいつでもすぐ傍にいてくれた」

 だから次は、男の傍にずっといよう、そう決めていた。

「そうか、居なくなってはもらえないのか、計画の邪魔さえしなければどうでもいいが」

「それは出来ないお話だわ。あなたにヒト族を滅ぼした存在になって欲しくないもの」

 男は灰色の瞳で、空っぽの灰の積もったその目で菜穂を捉えながら言葉を向ける。

「そうか、これは本人でさえも興味のないことではあれどこのようなうわさがある。名前の無い在籍者、それもかつては名を持ってこの学校に居たということ。いつの日かの記録に名前と作品が乗っているかも知れない」

 それを聞いて菜穂は駆け出した。目的など走り去った期が語っていた。

「これで脅威はひとつ消えた」

 これまで関わってきた人々、その全てが敵になってしまう。そんな環境の中を生きるにあたって脅威の排除は当然の話だった。

「勇人がうわさ話を追いかける頃か」

 男は勇人が教室という境界線を跨ぐ姿を目に焼き付けて、表情も変えることなく口を動かす。

「そう、我々天使が輝きの元素の中でしか扱うことの出来ない感情が舞い降りるまで。その時は近い。破滅の導きを」

 勇人の背を追いかけ、やがて背中がふたつに増える時を、怜が合流した時を確認し、彼らの歩く様を確認し続ける。

 そこから更なる人物、大きな目と栗色の髪と目を持つ少女が目に輝きを宿しながら並び歩く姿を目にして。

「そろそろか」

 壁を地面と思っているのだろうか、空でも地でもない方を向いたコンクリートの地面を爪を立てながら歩くトカゲの手をしたモノがちょろちょろと勇人の視界の端で蠢いていた。

「あ、あれが」

 ウサギのような赤い目を見開き細長い舌を素早く出し入れする様は新種の爬虫類という言葉を産み落としそうになっていた。

「どうみても……安っぽい」

 勇人と目を合わせ、首を傾けながら舌を鞭のように振り回す。もはや低予算映画の世界の話だった。

「いいや、見つけたからには考えなしで」


 勇人が腕を引いた途端、集う稲妻の中に闇を見た。

――なんだよ、これ、なんだよ

 心の底を這いずる闇、蠢いては波を打つそれは勇人の能の髄にまで直接入り込んで語りかけるに過去を見せた。

 これまでどれだけの闇を〈分散〉してきただろう。その度に、闇を散らすために伸ばし続けた手はどれ程の、幾重の闇を掴み残してしまったのだろう。

 幸詩郎との関り、菜穂の病み、並行世界の自身の鎮圧、羊子から洋子を取り戻したあの日の辛味溢れる情。

 全てが勇人の脳を巡り、現実が見えない。

――それでもだ、それでも目の前の敵を

 伸ばした手、その先に鈴香の笑顔が浮かんだ。

――キミのためなら……どこまでも

 そうして伸ばした手、その向こうで笑顔を見せる鈴香が差し伸べたその手。

 ふたつは交わりながらも触れ合うことなくただ透けて、同じ世界の異なるセカイからは触れることも叶わなくて。

 勇人は決して共に味わうことも出来ない笑顔だけを焼き付けて闇の底へと落ちて行った。


 怜が目にした光景、勇人の姿はいつの間にか変わり果てていた。トカゲの姿は既になく、いつも通りの住宅街の風景の中、勇人の姿だけがこの世の異彩と成っていた。

 身体中を覆う毛のようなそれは柔らかでありながらも脅威の闇を滲み出していて、悪魔と竜の間を思わせる禍々しさに身を包んでいた。

「まさか、これが行き着く先」

 勇人が目を開けた。紅茶を思わせる赤茶色の目には輝きが宿っていなくて代わりに降りのような闇が溜まっていた。

 その目に何を見ているのだろう、怜は大切な友の名を口にした。

「勇人」

 勇人はその目を逸らし、即座に空へと飛び立った。言葉も想いも通じないのだろうか。

 怜は己の無力をただただ内側で煮えたぎる自身への怒りに混ぜて燃やして、それでは救えないと悟り気持ちを無理やり鎮めるだけだった。

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