第33話 亜点

 灰色の空、目の前に堂々と広がるそれをそう呼ぶにはあまりにも感情が濃過ぎて優しすぎて。軽やかで柔らかな空は世界の心の広さそのもののよう。五月の空は明るく元気でありながらも人々に心の余裕を残してくれる。乾いた空の余韻など何ひとつ残してはいなかった。風が運び込む香りは街をかき混ぜ続けた足跡のようで全ては生きているのだ、それぞれに想いはあるのだと幸詩郎は実感を得ていた。

「幸詩郎くん」

 少年を呼びかける少女の声は弱々しくて少しでも離れてしまえば届かなくなってしまいそうだった。

「あのさ、由実」

 しっかりとその手を握りしめて、幸詩郎はその手を額に運んでそっと当てて行く。

「由実はいつもかわいいね」

「もう……嬉しい」

 由実の本心は見えないものだろうか。声に耳を傾けるだけでも彼女の声は欲しいものを、大切な人を目の前にて迎えているような弾みがあった。

――なんでこんなに可愛いのに誰も相手しなかったんだろうな

 一緒に居なければ見えてこないこともある。その手を伸ばして想いを味わったところで、今ここにある想いの香りも味も手触りも得られるものではなかった。

「それはいいけど、やっぱりやるつもり」

 突然飛んできた質問に一度頷く。きっと彼女も納得してくれるだろう、そんな思いが頭を縦に振らせてくれた。

「大丈夫、確かにヒトという存在から少し離れた彼だけど想い自体は見えるはず」

 名前の無い在籍者、その男の想いを手に取ろうという姿勢に対して由実は口を尖らせた。

「私だけを見るって言ったくせに……嘘つき」

「仕方ないだろ、今回は」

 言葉を受け取って、由実は仄かな色合いが鮮やか、そんな春のような笑みを浮かべた。

「ふふ、冗談」

 彼らも知っている通り、最後の戦いの時は近付いていた。



  ☆



 そこに立っているのは男ふたり、背の高い男は鋭い鈍色の眼を持ち髪はしっかりと纏め上げられていた。

「一真は好きな子諦め付いたか? どうにもあまり良くない方向へ向かってるって占い師が言ってた」

「悪いが悪い方へ行ったとしてもやめられねえ。それが騎士だとか王子さまってことだろ」

「はっ、おもしれえこと抜かすなあ、蛮族」

「はっ倒す」

 黙っていた。話すことなど出来なかった。一真が向かっている運命の先、一真が目指す先は王子さまでも騎士でも何でもない悪の存在だということ。盗人か蛮族か、ストーカーと成り得るか、何がどうあれども彼は悪の道へと進んでしまうのだということ。

 一真が守り抜こうとしている那雪には将来一真以外の恋人が出来てしまう、占い師はそう語っていたのだから。

「なんでもいいか、俺には関係なかったし。じゃあな、俺には今面倒ごとを果たさなきゃならねえ時が来た」

 怜は思い返していた。どうしてだろう、なぜこうなってしまったのだろう。勇人はもう昔のように優しく笑って語りかけて一緒に落ち着きのある空気感を、煌めく眼を見せてはくれないのだろうか。

 怜が足を進めている中、気が付けば同じセカイの中にて同じような一歩を踏み込む少女の姿があった。大きな胸と栗色の髪、ネコを思わせるような顔には小さな尻とほっそりとしたお腹が可愛らしくてよく似合っていた。

「洋子か、やっぱり彼氏のことは助けてえよな」

「当たり前だよ、勇人には……あんな顔してほしくない」

 イマイチ気合いの入らない顔、大きな目に宿る意志は激しく燃え上がっていながらも締まらない空気感を出していた。

 立ち止まり振り返り、先ほどまで勇人が立っていた場所へと目を移す。もう見えない位置、そこであった出来事は思い出すだけでもくやしさを与えてくれた。進むための大きな感情の動きをもたらし続けていた。

「私、勇人が再びこの地に足を着いてくれるよう頑張るから」

 言葉の流れを追って逆走するように洋子に向けて視線を送りつけて、言葉を贈る、本音の響き合いは行なわれる。

「ああ当然だ。人類亜点二種の天使だったか、到達はさせねえ」

 彼ら、この狭い界隈の間で天使と呼ばれる存在はどうしていつでもいつまでも幾度でも、人類の滅亡、人類の存在否定を行なうのだろう。そして勇人が鈴香の為に自身を捨てるようにうわさ話を追いかけ続けた結果に行き着いた今という場所。

 このままではあまりにも危うい。この世界をこの上なく愛していたはずの彼がこの世界に大穴を開け破滅の水を呼び込んでしまう、それだけは避けなければならなかった。

「でもさ、どうやって勇人を救うの? 方法分かってるのかな」

 ふと口に出された問いかけ。洋子は何ひとつ知らないのだと改めて確認した上で怜は鋭い笑みを貼り付けて進み始めた。

「安心しろ、ぎりぎりで間に合ってるはずだぜ。俺の告げ口と勇人の説明、んで真昼さんと刹菜の行動、あとは」

 必要なもの、救いの人、あの人物がしっかりと動いてくれるかどうか。弱々しい印象がどうしても先に来てしまうあの人は果たして走り続けることが出来るだろうか。

――頼むぜ、あるところまででいいから守り抜いてくれよ、ショタ坊

 更に誰にも教えていない人物を回す、怜の頭の中では全てが揃っていた。誰も彼もが優しさで動いてくれる。


 世界の中の小さな仲間たちの集まり、それは怜の中の理想のひとつだった。

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