第30話 天使

 図書室の外、窓の向こうは闇に閉ざされて図書室までもが開けた闇の空間へと早変わり。その場を照らすモノはただ薄緑に輝く天使の輝きのみだった。

 左肩から生えた翼はそれひとつではとても飛べそうもない。そう思っていた幸詩郎に答えるかのように左の背中から更に二枚の翼が生えてきた。

 翼に照らされてようやく目に入った由実の姿、その身を飾る服はいつのまにやら制服ではなくなっていた。ローブを想わせる黒いワンピース。その襟と袖、裾など由実の身体を通す穴のそれぞれその先に、白いレース生地がひらひらと揺れていた。幸詩郎の目に映るそれは彩がありながらも何故だか味気なく思えていた。天使の表情の無が悪さをしているのだろうか、飾りというよりも身体を通すときに分かりやすいように、そう言った意図をどのように考えを改めてもそうした想像にまでたどり着いてしまう。

 やがて由実の頭にはシャンデリアともティアラとも取れそうな環が、六つの突起を細い輪で結び中心に居座る一本の軸が全てを支えているような様を思わせる薄緑のガラスの輝きが浮いていた。

 手に握られていた魔導書はいつの間に姿を変えた事だろう。幸詩郎が目を移したその時には薄緑の透き通る本へと姿を変えていた。それら全てが落ち着きと共に絶望と、それr多を纏め上げる無感情が支配していた。


 本の権限を与えられし片翼の天使、ここに顕現 ――


 幸詩郎は由実と、〈本の天使〉と目を合わせることでひとつの気付きを与えられた。そう、その無感情はあの灰色の瞳の男のよう。『名前の無い在籍者』にどこか似ていた。

「ダメだよ、由実、そっち側に行ったら」

 あの感動のひとつも得られない、景色に情も見ることが出来ずに何かの意図によって糸を引かれるだけの人形、それはあまりにも面白みに欠けていて目指してはならない、嫌い続けなければならない存在のように映っていた。

 日常の表情に無情を覆いかぶせて人々に利用されつつも感情を見つめては抱き続ける由実のホントとは正反対に立つ存在のように想えた。

「絶対に、引き戻すから」

 幸詩郎の右手にはいつの間にかアカシャの弓が握られていた。右眼は赤と瑠璃で作り上げられた万華鏡を思わせる色に染まり、由実をしっかりと見つめる。

 無表情の天使、そこにただ立っているだけの天使は本と共に口を開き薄緑の輝きを渦巻かせ衣装の一部のように纏め上げていった。

 弓は引かれ、アカシアの葉が飾られた矢が構えの中に混ざり幸詩郎の右眼はしっかりと由実の想いへと入り込む。天使に隠された少女、天空に墜とされた心、それを内側に視ようと必死に手を伸ばすように想いを差し伸べて。

 そうしている内にも意識の外側では矢が放たれた。闇の中輝きの中お構いなしに全てを瞬く間に駆けて進むそれが由実と幸詩郎の想いを結びつけ、繋がりのセカイを産み落とす。

 幸詩郎は立っていた、いつも見ている街に、ごくごく普通、ありふれたアスファルトにて築き上げられた道路に。

 日差しは不思議と熱を感じさせず空の半分をも覆い隠す優しい緑を着た木々が目の前に広がっていた。

 いつも見ている景色に混ざる非日常は幸詩郎の中に由実の存在を深く刻み付けていた。

「きっとそこに、木々の中にいるんだ」

 街を侵食する不思議な森林は何処までも広がっていて、様々な香りを態度で示していた。

 由実の香りは混ざっているだろうか、彼女の想いはどのような姿をしているのだろう。

 幸詩郎はただ進む。そこに何が待っているのか分からないまま、ただ非日常の中に由実がいるのだろうという根拠のひとつもない想像を握りしめて森林の中へと入って行く。

 向こうはどのような景色なのだろう。遠目で見つめることと中から見ること、まるでわけが違う。

 進む脚はアスファルトを踏み、固い地は森の方へとたどり着いていないのだと訴え続ける。構うことはない、とにかく進み続け、やがて木々の影に覆われ始めることでようやく安心を得た。木々は枝を手のように伸ばしていて、風に揺らされる様はまさに手招きをしているよう。

 そこから導かれるままに進むことでようやく愛しい顔を目にすることが出来た。

 切り株に腰かけて本を広げる丸々とした少女。改めて目にして女の子らしい丸みと柔らかさは素朴なかわいらしさを漂わせていた。

「来たんだ」

「来たよ、由実」

「多分来るって思ってた」

 本を閉じる由実に対して幸詩郎は頭を下げた。そこから分かり切ったあの言葉を口にした。

「ごめん、あれは酷かったよね、ごめんなさい」

 一瞬だけ由実は顔を上げ、再び顔を下した。

「だめ、許さない」

 立ち上がり、歩み寄り、幸詩郎の顔を覗き込み。

 愛おしい瞳は悲しみと嬉しさが混ざり合っていて幸詩郎には本音が全く見えてこなかった。

「許さないっていったの。あのね、小説もあまり読んだことないアナタには分からないかも知れないけど私、恋愛小説が苦手だったの」

 苦手だった、語尾がその話を過去のものだと語っていた。

「退屈だし、羨ましいだけで空しいし、なにがいいのか分からなかった」

 由実の言葉は溢れて止まらない、声は止むことなく森のざわめきや川の囁き、虫の鳴き声さえもこの声をかき消すことはなかった。

「でもね、今読んでやっと分かった。アナタと出会ってから面白いってようやく想えたの。本当は失恋モノだし最後のシーンに私自身を重ねようと思ってたんだけど」

 まだ止まらない。由実の言葉はいつになく長くて、幸詩郎の心の中にほんのりと温かな気持ちが浮かび上がってきた。

「その、結末に行けなかったしなにより全部の道のりが楽しかった。アナタと一緒にこうした人生が歩みたいって本気で想えたの」

「大丈夫、今から帰ろう。今からでも遅くないよ、俺だって由実のこと、好きなんだ」

 由実は顔を上げた。相変わらず何も考えているのかいまいち読み取らせない顔、そこに塗り付けられた貌のメッキは途端に剥がれ落ちた。

「私も、愛してるよ。幸詩郎くん」

 それは明るくありながらも恥じらいに充ちた貌、澄んだ木漏れ日のような表情。これまで幸詩郎が見てきた中で最も不器用で、最も素直な笑顔だった。



  ☆



 気が付いたその時、意識は図書室に引き戻されていた。地面にへたり込み情けない様をこの狭くて静かな世界の中にさらけ出していた幸詩郎とそこにしっかりと絡み付くように腕を巻きつけ抱き締めつつも今にも落ちてしまいそうな少女を目にして。

 柔らかな感触、生々しい温かさと優しい息づかい、呼吸によってゆっくりと微かに動く身体は由実が生きているのだとしっかりと語っていた。

 腕までしっかりと縛り付けるように、他の誰にもその手を伸ばすことは許さないと言わんばかりのしっかりとした腕の回し方に幸詩郎は由実の我が儘を知った。

「分かってるよ。大丈夫、キミのことだけだから、愛するのは、由実だけ」

「ふふ、当たり前」

 由実がふと呟いた。あまりにも静かな声で、図書室でなければ聞き逃してしまいそうなほどほんのりとした弱々しい音色。

 幸詩郎は抱き締められて愛に縛られた腕を引き抜いて由実の背中に回してしっかりと抱いてみせた。

「もう、あんな天使なんかにさせないからな」

「大丈夫、アレはどこかのセカイの近い未来にいる誰か、私じゃない私に残されてるだけ。私はならない」

 言葉は果たして真実を述べているだろうか。分からない。天井を、白い天上の底を見つめ眉を顰める幸詩郎の耳元で、丸々とした顔を近付け地声交じりに囁いた。

「幸詩郎くんが捕まえてくれてる限り、飛び立たないから」

「そっか、じゃあ、あんな姿になることないな……一生一緒だよ」

 振り向いたその視界いっぱいに広がる由実の笑顔につられて幸詩郎もまた、微かな笑みを見せて、愛しいキミのいる世界に心を温めていた。

 知識の中、無表情の中、由実を囲む壁に阻まれてかくれんぼしていた恋慕の想いは隠れることなく堂々と表に立っていた。

 そんな由実は幸詩郎の頬をなぞる。下へと滴り落ちてゆく指、口元を撫でるようになぞり、首筋へと降りた時、由実は表情を平常に戻し、言葉をぶつけに来た。

「それは嬉しい。一生一緒だから、あんな写真とか見ないでね」

 幸詩郎は顔を赤くした。煮えるような恥ずかしさと胸を充たす責めの水が喉元を締め付ける。気まずさと罪悪感に苛まれていた。

「わ、分かってるから」

 辺りを見回して、貸出カウンターに今更目を向けた。そこに居座る司書の年老いた女性は意識を失い椅子を壁に着けて眠っていた。

「司書さんには見られてないな」

「あっ、見られてたらいやだね、出よっか」

 由実は魔導書を仕舞い込んで幸詩郎は服を整える。すぐさま教室を抜け出し廊下を歩いて。

 途中ですれ違う霊体になど目もやらないまま突き進んで。

 さらに途中にて目を向けて来る鋭い目つきの男と子どものような顔をした男。ふたり組の同級生が闇に覆われただの魔法の気配などと語り合っていたものの気にすることなく下駄箱に気がかりを持ち込むことなどなくたどり着いた。

 外は快晴、夕暮れ前の青空はさほど時間を経ていないと色と温度で示していた。涼しくて軽やかな風が吹くこの場所を歩き爽やかな想いを引き連れて由実と隣り合っていた。

「今日の晩ごはん、おごってくれるの」

「ごめん、あれは流石に酷かったみたいだから」

 そう、あの行ないひとつだと思っていたところでそれは由実にとっては信じられないような裏切りだった。きっとそれは変わりないだろう。

「でも許さないけど。ごはんで釣れば許してくれるだなんて、浅い考え」

「ごめん、ホント」

「いいわ、許さないけど、ごはんは一緒に行きたいもの。絶対許さないけど」

 許さないことが関係を繋ぎ止める糸の一本にでもなっているのだろうか、幸詩郎はその視えない糸を小指に巻きつけて由実の手を取る。

「でも行くんだね」

「言っとくけど、私のぽっちゃり体型見たらわかると思うけど身長の割に食べるから。値段高くついても知らない」

 由実の身体へと自然と視線は向かっていた。意識が、内で暴れ回る想いがあまりにも恥ずかしくて逸らしたくてでもずっと浸かっていたくて。

 そんな幸詩郎の感情など悟ることなく由実は紡がれる会話の中に黒々とした糸を織り交ぜていく。

「ねえ、幸詩郎くん、もしあれなら無理しなくていいんだ。あれだけワガママ言って今更なんだけど本当は好きじゃないなら無理しなくて。私みたいになにも良いとこもないししかもアナタを独り占めしようなんて女、アナタにはアナタの人生があるのに」

「別にムリなんかしてないし、今の由実が可愛いからなあ。良いとこないなんて言わないで。惚れた俺までむなしくなるだけじゃなくて……由実の全部を否定するなんて自分にとってもむなしいだろ」

 いいところなど無いように思えてもどこかにあるはず。見つけられるのは自身を含めたすべての人間で、関係の万華鏡の中でいいところが、輝きがひとつもない人物などきっとこの世にはいない。

「俺は由実のこと大好きだ。昨日と今日たった二日で感情振り回されっぱなしだよ」

 きっと晩ごはんを迎える頃には情に振り回され過ぎて疲れ果てているだろう。右往左往して恐ろしいほどに動き回る情緒は由実に抱いた偉大な初恋、ありふれていながらも唯一の感情だった。

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