第六幕 RIGHT LEAD LIGHT ROAD

第31話 風邪

 日常は流れ去る。ある土曜日の外出は勇人と怜の意見が一致したことで鈴香を引き連れて洋子の待つショッピングモールへと足を運んで過ごした。そこでたまたま鈴香がいない内に男性用トイレに向かった怜の手によって勇人も引きずり込まれてそこで霊体を〈分散〉した。

 それから三日後、闇に飲まれよう、いつも通りの戦いの日々に身を投じよう、そう想い靴を履こうとした時のことだった。

「勇人……勇人!」

 届いて来た声は輝きの向こうから、勇人が二度と触れることも叶わない届かない、そんな見えない壁の向こうの眩い世から届いているように思えた。

「どうしたの、鈴香」

 その返事は果たして正しいのだろうか。何も話さずに出て行くことが正しかったのではないだろうか。闇の中、その視界は眩しさに滲んで答えを手繰り寄せることすら出来なかった。

「絶対に……帰って、きて」

 勇人が惑いその手からこぼしてしまった答えは鈴香が持っていた。正しさは少女の闇に消えた笑顔にあった。今の鈴香の顔は見えないものの、果たして勇人が求めている貌をしているだろうか。今にも消え入りそうな声が全て否定し切っていた。

「大丈夫、分かってる」

 安心を抱かせる為に手をドアに伸ばし、声で包み込んで、ドアを開いて、鈴香に目を向ける。

 きっといつも通りの戦いのことなど知らないはずだった。それにしては大袈裟な表現。引っ掛かりを覚えつつもいつものセカイへ、世界の片隅のこの空間へと、足を踏み出した。

「鈴香を狙う悪しきものを討伐できる実力が手に入ればもう行かなくてもいいんだけどね」

 言葉にして闇を舞う煙に変えてはみたものの、勇人が洋子に浴びせた魔法、攻撃の成果を見るに必要性を感じないのが正しかった。

 怜と共に闇を掻き分けるように進み続け、魔法使いの魔力を〈分散〉していく。魔法使いは胸を押さえて苦しそうな様子で丸まった。地を這うように蹲るその姿を見おろす勇人の目、そこに感情の線など入ってはいなかった。命の一部をも魔力と共に世界に散らしてしまうその術式の扱い方は命の価値を覚えていないようで。

 勇人は戦いにおけるチカラの匙加減をすでに見失っていた。



  ☆



 それから日は一度昇って勇人の空から落ちて更にもう一度昇る。勇人の空に日が昇っている間、どこかの誰かの空からは日が落ちっぱなしなのだろうか。太陽の身体はひとつ、分かり切った話だった。

 学校へと向かう。その眼で捉える景色はいつも通りのものだった。いつもいつも見て過ごして実際に触れているはずのセカイ、そこには色がなかった。世界の色に心は染まらなくなっていた。

――そっか、これが俺の終着点

 勇人の隣から薄っすらとした影が襲いかかって覆いつくす。影の持ち主、それは勇人に向けて言の葉を風に揺らしながら落とした。

「終幕は、近い」

 何故だか印象を残さない声は灰色の瞳を連想させた。振り返れば金髪の男と思った通りの灰色の目が視界を覆い尽くすだろう。情報でしか覚えられない、そこに情緒を覚えることは許されない、そんな特徴的で情報だけしか残さない男の印象の謎の答えは勇人の手によってつかまれた。

――彼は……とっくの昔に俺と同じか、それ以上のステージに立っていたんだ

 感情は確実に薄れていた。もはや鈴香を魔法のセカイに触れさせない、魔女の手に渡さないという想いはかつての感情を未だに掲げて旗にして振っているだけのよう。

 考えごとと一緒に歩いていた結果は不意に示された。景色は回り、前に進まない。その軸に目を向けて勇人は言葉をこぼした。

「怜」

「こりゃあぶねえな、触覚消えてんのなやっぱ」

 そのひと言で勇人の中に自覚が生まれてしまった。

「やっぱり、人から遠ざかってるんだな」

 人間ではなくなってしまう感覚は勇人が人類の亜点に成ろうとしているのだと強く語りかけていた。

 それから感情の心地のしない一日を過ごし、学校生活は一旦区切りを設けられて。怜は勇人の方へと歩み寄り誘いを言葉にしていた。

「なあなあいまから一緒に寄り道しようぜ。な、昔の偉人だって寄り道してたんだぜ。藤原さんの寄り道ってな」

「ごめん」

 乾いた笑いを申し訳程度に見せながら勇人は続きを声にして奏で続ける。

「鈴香が風邪ひいたからさ」

 それは怜にどのような想いを色付けたものだろうか。怜は早速鞄を開き何かを取り出した。

「それはいけねえな、鈴香の風邪なら早く帰らねえとな」

 取り出した紙を手早く折りながら弄びながらその口で言葉を弄んでいた。

「何が原因かよく分かんねえが看病はしっかりとな」

 言葉の端に添えられたもの、それは赤い折り鶴だった。

「ほら、俺からできることはこれくらいだ」

「いや速いしうまいな」

「うまい早い、でも安くはねえぜ、俺の気持ちはな」

 高級お気持ち店、日之影、彼の出す気持ちは気持ちのいい程に真っ直ぐな本音だった。

 そんなやり取りを見ていた人々が、散り散りのクラスメイト達が言葉をこぼして認識のまだら模様を作り上げていた。

「あいつ妹の為に帰るってさ」

「ふーシスコンロリコンキンコンカンコン」

「明日妹の看病で休みますとか言い出すんじゃね」

 嗤いながら語られる言葉を聞き逃しているはずはなかった。それでもなお怒ることなく世に流してしまうだけ。それが勇人という人間の在り方だった。

 それから急いで足を動かす。目的地へと素早く。大切なあの子の待つ家に帰るべく。

 やがてたどり着くと余裕を持つ暇さえ与えないままに妹が眠るあの部屋へとすぐさま向かった。風邪、そうひと言で済ませたものの、熱を測れば38度台後半。予想だにもしなかった高熱の表示を見て勇人は慌てふためくばかりだった。勇人には治癒魔法や風邪を打ち破る魔法など扱うことも出来なかった。

「鈴香、大丈夫?」

 出来ることなど心配する事と看病することのみ。それ以上は医療従事者の仕事だった。

 細い声で唸りながら勇人の手を力なく握る。見た目からして緩い握り方は、力の籠もらないその手は鈴香が弱っていることをしっかりと語っていた。

「その……しばらく……一緒」

「大丈夫、今日は外でないから」

 妹が苦しみの渦に巻き込まれている、それ以上の言葉など要らない。親はお粥を作り、勇人はペットボトルに入った麦茶を持ち込んだ。これこそが彼らにできる最大の看病だった。

「ありがと……勇人、手、冷たい……ね。いつもは……あんなに、温かい、のに」

「大丈夫、またすぐにでも暖かくなるよ」

 それから気怠そうな様子と安らかな様、ふたつの表情を貌の中に同居させてベッドに身を預けていた。眠りに入っても夢を見てもすぐさま綻びが生じて上手く眠ることが叶わない。ただ眠りたいだけなのに。それこそが今の鈴香の本音だろう。軽い睡眠すらとることを許してくれない風邪を恨むだろうか。行き場のない感情、疲れて気怠くて途切れ途切れのそれは更に鈴香の体力を、気力を、奪い去り続ける。

 そうして過ごす時間の中、遂にひとりで過ごす時が来てしまった。勇人は優しい表情に顔を溶かしながら部屋に帰って行く。あの子ひとり残して勇人は眠りに就くことにした。



  ☆



 目を覚ましてまず向かったそこはやはり鈴香の部屋。風邪は治ったものだろうか、分からない。

 人の温もりを感じる機能の失われた手を鈴香のねこのような額に当てたところでなにも分からない。体温計を手渡して様子を見ることしか出来なかった。

 人の感覚を失うということ、そこにここまでの不便とそれに乗っかる悲しみを目に沁み込ませながら部屋を出る。ドアを開けて鈴香の部屋に入り込んだ途端、次にその目に入ったものは鈴香がベッドで寝ている様だった。

「は、はえ、どうなってんだ」

 朝ごはんすら食べていない、そんな勇人に襲いかかった朝の怪異。

 部屋を勢いよく飛び出してもゆっくりと誰にも見つからないように慎重に歩みを進めてみても、部屋を出て次に目にするのは弱り果てた鈴香の顔だった。かわいい妹がお出迎え、などと言っている場合ではなかった。

「な、なんでこんなことに」

 不明の正体を明るみに出そうと、感触無き手で探ってみて、記憶の奥へと飛び込み泳いでみた。暗闇に閉ざされた空間の中、声だけがしっかりと響いてきた。

――あいつ妹の為に帰るってさ

 黄泉返りし言葉に耳を傾け、思い当たる節を聞き取り続けていった。

――ふーシスコンロリコンキンコンカンコン

――明日妹の看病で休みますとか言い出すんじゃね

 勇人は目を開く。クラスメイトの軽い言葉、それが原因となっているのだろうか。

――まさか、そんなことあるのか

 そう、きっとそう。つまり、クラスメイトの冗談を本気にした現象。この世を軽々と見通すだけのお天道様でもしない失敗。

――めちゃくちゃだろ

 何をすれば出られるのだろうか、どうすれば出口を見いだすことが出来るものだろうか。つかむことの出来ない解決方法に頭を抱えるほかなかった。

 クラスメイトは今頃どうしているだろうか、やはりあのうわさを広めているのだろうか。もしかすると学校へ行くことが出来ないかも知れない。それひとつで身が竦むような恐怖感を覚えた。足はもつれてチカラも入らない。

「鈴香、分かるよな」

「なんで……出入り、してるの? 何回も」

 そう、やはり見えている。このままでは不審者兄ちゃんの誕生である。勇人は焦りつつもこの部屋から抜け出す方法を考えていた。

――なにか仕掛けはあるかな

 手に壁を着き本棚を見渡し取り出し仕舞い、探索を進めてはみるものの全くもって分からない、それが解ってしまったようだった。

「鈴香、何故か部屋から出られないんだけど」

 それはもはや変態の言い訳、普通ならばそう言われて追い出されてしまうだろう。しかしながら鈴香は微笑みで出迎えていた。

「分かる……私も、出たくないこと……ある」

「そうじゃなくて」

 勇人の顔に浮かぶ困惑、続いて出て来る感情は、大きな焦りの追加投入だった。

――これか、試してみよう

 勇人は再びドアを開き、足を踏み出す。踏み込んで、部屋と外の境界線を跨いで勇人はその目を閉じる。

 何者かがここに潜んでいることは間違いない。魔力のざわめきがそう語っていた。

勇人はその境界線の中の中のそのまた中の奥の奥の奥へ、意識を研ぎ澄まし想いの手を突っ込んで行った。

 その末に見つけた大きな闇の塊、陰の意を見いだしてその目を開く。

――見つけた

 その手を引いて、勇人は雷を呼び起こした。纏まってそこに在るそれを目の端で捉えながら例の言葉を小声で唱えてみせた。

「人の身を世俗から切り離し固まる大いなる闇よ、この世界に蔓延りし闇の中に〈分散〉されよ」

 突き出されたその手は雷を空間の中へ闇に向けて放たれて行く。様子は見えないものの、きっといつものひび割れとなって突き進んでいるところであろう。

それから一秒も数える間もなく境界線は弾けてドアはいつもの景色を覗かせていた。

 勇人は膝に手を着いて、見上げるように時計を見て、その針が指し示す時を捉えて目を見開いた。短い針が八の字へ、長い針が三の字へとその手を向けていた。


 つまり、遅刻が決定してしまっていた。

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