第29話 本

 放課後の廊下、四月ともなればそこも未だに明るくて安心感を与えてくれる。ここのところ霊を瞳に捉えて存在を認めてしまうことが苦痛で仕方がなかった。様々な未練から終幕の苦しみ、そういったものを延々とつかまされてしまう。分かってしまうということは恐怖よりも悲しみが強く平常の感情をも打ち破り暗い想いが勝ってしまうこと。

 昼間にも霊や妖怪の類いが出ないとは言い難いものの、明らかに闇に閉ざされた時間の内を動き回る。そういったモノが多くあった。

 廊下を渡る途中に異様なモノが映り込む。廊下の壁に寄りかかる男、しかしながらその希薄な気配は存在さえ感じさせずただ目だけを動かし由実を追っていた。その男はこれまで見てきた苦しみの怪異とは別物のように思えた。怪しい姿は異なる陰を表情にしていたのだから。

 その姿に対して幸詩郎は震えを、縮み上がる気持ちを抑え込むことすら叶わない。純粋な不審者の成れの果てはこの上なくおぞましい。普通の人生を歩んできた人物には理解など出来なくて平常心の蓋を煮えたぎり暴れ続ける恐怖の上に被せることが出来ない。


 見つめずにはいられない。恐怖の対象に注目せずにはいられない。驚異なる脅威は何を仕掛けてこようというものか、警戒の網を編み、張り巡らせずにはいられなかった。


 震える身体と強張る表情、それを見て取った由実は幸詩郎の顔をふっくらとした両手で挟んでそのまま由実の方へと向けた。

「私だけ見て」

「いやでもそういうわけには」

「他のヒトなんか見ないで」

 言葉は情は幸詩郎に気付きを与えた。きっと由実にも見えているのだろう。幸詩郎が想いを聴くことが出来た人物なのだから魔法のセカイに身を置くに相応しい魂の持ち主なのだろう。考え続けて煮詰め続ける。深めれば深めただけ納得の色が濃くなっていく。由実に対する想いもまた深くなっていく。心は底なしの海のよう。どれだけ暗く見通すことの出来ない深さになってもその深淵の闇色は美しいままだった。

「分かった。由実だけ見てるよ」

 歩き続け、図書館へと足を運ぶ。その道のりの中で由実は更に言葉を重ねて想いの塔を築いていった。

「私のこと、もっと見て欲しい。だから、私の好きな本読んで欲しい」

「もちろん」

 そこに断る理由も乗らない理由も見当たらない。しっかりと隣り合い歩いてたどり着いて。

 開かれたドアの向こうは静寂の迫力に充たされていた。

 背の高い本棚に収まった様々な紙の束。それらひとつひとつに異なる情報が、様々な物語が、ただひとつの情緒が書き留められ閉じ込められている。まさに世界の縮図の断片だった。

 知識や感情、人々の人生の一端をも収める図書室の中へと飲み込まれ、幸詩郎は由実が取り出した本を受け取った。

「これ。面白いよ、アナタに理解できるなら」

 それは海外のミステリー小説を翻訳したもの。きっとタイトルくらいなら多くの人々が知っていることだろう。幸詩郎もまた例外ではなかった。

「有名だけど確かに読んだことないな」

「こういう時って恋愛小説をオススメするべきなんだろうけど、私苦手で」

 嫉妬や退屈さで充たされ虚しさが蔓延るのだという。確かにそれでは愉しむことも出来ないのかも知れない。

 幸詩郎は小さな手が差し出した、由実によって差し出された本に目を向ける。様々な人生の先輩方が映画やドラマにするほどの作品。意外にも読まない人も多いこと。有名だからこそ内容にまで目を通したか否かといった話にまで漕ぎ着けるのだろう。

 幸詩郎は静寂の中最も大きな音を立てて椅子に腰かけ本を開く。出迎えた文字によって書き綴られた物語を追って幸詩郎は意外なことに気が付いた。

――話題になるドラマとかみたいなの想像してたけど、思ったよりキャラ濃いぞ

 個性に溢れた探偵は何を考えているのか判らせない。突飛な行動や様々な思考は言葉に変えて流してみせるものの、更に奥に何かを秘めているような。そんな魅力の淵を指先でなぞっているような感覚に落ちていた。

 幸詩郎が小説のセカイに夢中に、現を忘れ切っている内に由実は鞄を開いて手で何かを探り始めていた。ビニールコーティングが施されていてつるつるとした感触をもたらす教科書、画用紙を思わせる表紙に薄くて手慣れた感触のノートに小さくて厚めの文庫本。

 カーテンが閉じられて明かり任せに照らされたこの教室は鞄の中まで容易く見通すことが出来るはず。しかしながら由実は椅子に座ったまま床に置いたままの鞄に手を伸ばしているためか、目線はそこへ向けられていない。視界はそこを映してなどいない。

 弁当を包む布の荒い感触に鉄の筒のカタチ、水筒のものだろう。

 更に探り奥に奥へ奥の方、進むことでようやく捉えた感触。目的の物をようやく捕らえたそう。柔らかで小さな手が挟んだ感触は独特のザラザラ感を主張していた。分厚くて由実の指では挟むことで精いっぱい。片手で弄ぶことも出来ないそれは皮張りの重厚感を指先に微かに訴えていた。感触としては心地よさからは程遠い、そんな初対面の手触りは何処へ行ってしまったのだろうか。今となっては触れるだけで落ち着きをもたらしていた。

 中世の技術のように思えるそれは、由実が手にしている〈本〉は明るみに晒された。

 小さくて可愛らしい指で開いてはどの頁にも文字が刻まれていないことを確認し、由実は微笑んだ。

 本のセカイにのめり込み続ける幸詩郎の肩を軽く叩いて無理やり現実へと引き戻す。その小さな手の主は心のセカイに秘められたものを言葉にした。

「アナタに見て欲しいものがある」

 そこからは言われた通りにしか動かせない指示待ちのよう。幸詩郎は目を由実の指へと、それが運ばれた方へと動いて行く。彼女の指の差した先、示された視界の道の向こうに置かれた一冊の本を目にしてただ思ったことを声に乗せて飛ばすだけ。

「立派な本だね」

 魔法のセカイに身を置く者なのだろうか。由実は首を傾げた。もしもそうであるならば呑気を極めなければ出てこないような言葉を耳にして幸詩郎の万華鏡を思わせる右眼を見つめた。

「これが魔導書って分からないのね」

 少しばかり固い声を耳にして幸詩郎は微笑みながら皮張りの本の表面をなぞる。

「もちろん分かってる。異様な魔力を放ってるからね」

 果たして本当に分かっているものだろうか、疑いは深まるばかり、真相は霧の中へと紛れて溶け込むのみ。しかし幸詩郎の言葉を信じることしか出来ないようで由実は続きを声にして空気の中へと綴っていく。

「分かってるならいい。この本の凄いとこは」

 由実の手が本に触れる。吸いつくように深く触れて、由実の濃い茶色の目は閉じられた。

 そこから流れる沈黙の空気はわずか数秒の間この場の主演を務めていた。やがて開かれたのは瞳と本。開かれたページの中に書かれた文字に目を通して幸詩郎は目を丸くした。

「なんだよこれ、俺がさっき見てたページ」

 そこに書き込まれていた文字はまさについ先ほどまで目を当てて心をねじ込んでいたあの物語のあのページ。

「驚いた、ふふっ」

 由実は愉快な空気を纏って笑い、つい表情を笑顔色に染めてしまっていた。

「あ、かわいい……」

 幸詩郎の口から零れ落ちてしまった本音は果たして少女も何を与えるものだろうか。由実は固い雰囲気を滲み出しつつも表情を無で塗り固める。そこには恥じらいや苛立ちが混ざり込んでいた。

「勝手に人の顔見ないで、今は魔導書見て」

「由実の言うことなら」

 由実に肩を寄せながら魔導書へと目を移した。触れ合う肩、柔らかな感触に頬は熱を帯び、目は回る。ふらつくほどの情の揺れに惑わされていた。いつまでも惑わされていたかった。

「いったん閉じて、また開く」

 続いて開かれたページには何が書き込まれているのだろうか。覗き込むと共に幸詩郎は妙な表情を浮かべていた。

「4月12日、今日の幸詩郎の晩御飯はハンバーグ、母が面倒くさいといってレンジでチンして出来上がりの簡単仕様で。文明に感謝しなきゃ……なんだこれ、今日の日付か」

 由実は微笑んで幸詩郎の肩に頭を乗せて伝えた。

「今日の晩御飯、これは預言書。私の本は好きな本の特定のページを示す魔法の本」

 耳元で地声っぽさを残して囁かれた言葉、耳に結び付けられた由実の声は心を奪い続けていた。

「で、今見せてるのが預言書。アナタのこれからの行動は筒抜け。今夜」

 言葉はそこで切れた。肩に乗せられていた頭は素早く離れて由実は椅子から立ち上がった。

「なんでそんなこと、最悪」

 声は歪み切り、空気は舌がしびれるほどの強烈な辛味に包まれた。

「え、ごめん」

「昨日に続いてって書いてる。サイアク」

 責め立てる声は幸詩郎の行動に向けられたものなのだろうか、それとも心そのものにまで向けられたものだろうか、全くもって想像が付かなかった。

「そんなに綺麗な人が好きなら私とはバイバイだね」

「そんなつもりじゃ……」

 由実の声はやがて震え、眉を顰めて目は伏せられる。

「そうだよね、やっぱりそういうのだよね、私とはいい友だち、遊び」

 ひとりの妄想まで綴った預言書を恨みを向ける気も起こってはくれない。申し訳なさが幸詩郎に注がれ続けるだけで由実に言葉のひとつも掛けられない。

「そう……何も言わないんだ」

 魔導書を手に取ってさっと立ち上がる。勢いは投げやりな気持ちの表れ、涙が頬を伝い、身まで震えていた。

「違、ごめん」

 慌てて由実の肩に触れるものの、それは由実の勢いに勝つこともなく思い切り振り払われてしまった。

「触らないで、どうせ私なんて」

 由実は動くことなく立ち尽くしているだけ。力が抜けて、その手から魔導書はするりと抜け落ちて床に落とされた。

「私を本当に愛してくれる人なんていない、アナタも利用してただけ」

 開かれた魔導書には何も書かれていない。完全なる白紙で、綺麗な姿、由実の澄んだ声そのものだった。

「じゃあさ、私っている価値あると思う? 要らないよね」

「やめて、由実」

 視線を由実に向けようとしたその時、まっさらで美しさを保っていた本のページにあぶり出されるように焼き付くように文字が浮かび上がり始めた。

「もう、バカみたい。一生利用されるだけの人生でしょ、やめてやる」

 由実の言葉に呼応するように魔導書は文字を刻み円を創り上げる。輝きながら文字は由実の額を通り抜け、中へと入り込み。

 きっとそこで渦巻きながら魔法という形を成して行くのだろう。

 幸詩郎がアカシャの弓を取り出したその時、由実の目から感情は消え失せて代わりに左肩からは透き通る薄緑の立派な翼が生えていた。

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