第28話 歩く辞書

 それは光を追ってここまで来た男の話。幸詩郎は確かに光を追っていた。いつまでもボロボロのまま放置された校舎の中、微かな力で辺りを舞いつつ澱んだ空気をいつまでも溜め込んだ廊下を見つめる。あまりの風通しの悪さに悪い空気はいつまでも気分に訴え悪さを続けてしまう。

 学校全体に薄っすらと広がる澱み、それはもしかすると人が大人となるためにまき散らして来たものなのかも知れない。

 いかに空気や雰囲気が濁っていたとしても、窓から堂々と差し込む心地よい日差しは知らぬ顔をして辺りを希望のように輝かしい身体と心で照らし続ける。そんな光たちはガラスの窓の枠を担うアルミによって所々遮られていて、それが余計に輝きを強く思わせる。

 幸詩郎は歩き続ける。身体を焼く眩しさと心まで包み込む柔らかな光に惹かれて、手を引かれていた。

――とっても気持ちのいい天気だよ

 端目に図書室を映し、何事もなく足を進めようとしていた。いつも通りであればこのまま過ぎて行って決してあの大量に収められることで作り上げられた本の壁を目の当たりにすることなどなかっただろう。

 図書室のドアを視界の向こうへと流してしまおう、そうしようと進める足だったものの、これ以上進むことなく止められてしまう。

 幸詩郎の歩みの中、足音に紛れて声が聞こえたのだった。誰かを呼ぶような細くて寂しい孤独の声が足音に絡み付いて足にまで巻き付いて。

 幸詩郎はその想いに触れてしまった。寂しそうで悲しそうな声、他の人に利用されるだけだと弱々しく嘆く声は聞き苦しさを極めていた。

 まさに導かれるように、自然と引っ張られるように、気が付けばドアに手を掛けていた。

 入った先に広がる光景は本来彼には無縁な世界。積まれた書類や棚に綺麗に収められた本はどこか堅苦しさを演じているようだった。薄暗い部屋は静けさという衣を纏っていて、何処までも異質な空気をしていた。あの日差しにすら負けずに匂い続ける澱んだ雰囲気、それがこのドア一枚を隔てることで一切入って来ないというモノだからあまりにも不思議に感じられた。

 この部屋の中に納まっているのは本だけではなかった。本の香りに混ざって人が、異物のようにも思える柔らかな肉感がそこに留まっていた。座っているのは丸々とした柔らかそうな少女。表情は痛んでいて、ヒトというものに疲れ切っているようだった。

 少女は気配に気が付いたのだろうか、ゆっくりと顔を幸詩郎の方へと向ける。丸みを帯びた顔。ぽっちゃりとしたその姿は儚い安心感をも蓄えているようだった。やがて少女は幸詩郎が聞いた通りのか細い声で、図書室の静けさを壊さない音で、幸詩郎に訊ねた。

「どうしたの。アナタも私を利用しに来たの」

 言葉を噛んで出て来る味わいは苦みと辛味で出来ていた。その態度は初めから誰にも期待など求めていないよう。

「声が聞こえたんだ。誰かを呼んでるように聞こえる声が」

「あっそ。だったら私じゃないね。私はもう誰にも期待なんてしてないから」

 その態度に対して最悪という評価を付けざるを得なかった。初めから全てを突き放すような姿勢は人々の心にまで波紋を広げて決して良いとは言えない影響を与えて来るものだった。少女は口から滲み出る言葉のインクを彼の心に塗り付ける。会話という行動でこうした関係を綴っていく。

「どうせアナタも私に訊きたいことがあるだけでしょ。この『歩く辞書』に」

 歩く辞書、それはどのようなものなのだろうか。博識とでも言うのだろうか。疑問は渦巻いて止まらない。

「その顔、もしかして知らないの。生き字引、それの英訳がそうなんだけど」

 首を横に振るほかなかった。幸詩郎はただこの少女の寂しさの破片に触れてここまで来てしまっただけに過ぎない。うわさ話も英語も知らないといって差支えのないひとつのちっぽけな頭脳に過ぎないのだから。

「無知な人」

 か細い声は優しそうでありながらも落ち着きを持っていた。元々の声だけでなく、図書室のような静かな部屋に生きているが為に創り上げられた彼女の人生の色彩なのだろう。

 一方で言葉には棘があった。激しさに溢れ切っていた。この少女をこのような姿に仕立て上げてしまったのは周りの人々による扱いだろうか。

「どうせ私利用されるだけ。問題の解き方や言葉の意味に物調べ。私の人生は周りの都合で勝手に開かれて使い捨てられる辞書」

 幸詩郎は寂しさの正体を知ってしまった。きっと彼女は家の外では誰にも好かれていないのだろう。

 それはあまりにも悲しすぎる、想いは無理やり胸の内にせき止められて求められることだけを行なう人生。そこには情の欠片も与えられない。

「利用だけだなんてあんまりだよな、この際使用料取る手もあるよ。一回訊いたら五百円、ワンコインだよ安いだろ。払いたくないなら自分で調べてねってね」

「ふふ、腹痛い話。みんな頭抱えるかもね」

 少女の表情の端に自然な緩みを見て取って、幸詩郎はようやく安心をつかみ取る。それと同時に新しく欲望が生まれてしまった。

「ねえ、名前なんて言うのかな。俺は八女 幸詩郎」

「三芳 由実。はい、五百円ちょうだい」

「いや、待てよ」

 由実のことがもっと知りたい、由実とともに笑っていたい、そう思わされていた。自分の心にも由実の隠された魅力にも、想いのままに惑わされていた。

 そこから会話は多くはなかったものの、傍にいて時間はしっかりと溶けていく。気が付けば時は黒々とした墨のような闇を辺りに溶かし始めていた。放課後のひと時の末にふたりは帰ろうと立ち上がる。別れの時間。これまでの心地よさの余韻に浸りながらもやってきた完全下校時刻に幸詩郎の表情は寂しさに溢れていた。由実は顔を逸らしながら迸る温もり、あまりにも熱すぎる優しさにのぼせ上りながら幸詩郎に別れの挨拶を捧げた、本心から出た言葉を端に添えて。

「さよなら、もしよかったら……明日も来て」

「もちろん」

 その約束はあまりにも優しすぎた。初めて与えられた優しさに触れて、由実はぬくもった手をそっと胸に当てて笑顔の実を心の籠からこぼしていた。



  ☆



 朝は未だに寒さを残していた。三月の朝の空は暗闇に包まれたまま迎えていた。きっとまだしばらくは登校時に由実の顔を見つめることすら叶わないだろう。今はどのような景色よりも由実の顔を、様々な貌を目にしていたい。どこまでもこの甘くて薄味の想いに心地よく浸かっていたい、心行くままに溺れていたい。そんな儚い欲を叶えることも出来ずに打ち震えていた。隣を一緒に歩いているにもかかわらず、見えないだけで遠く感じられた。

 交わし合う会話。か細くて落ち着いた声はすぐ近くにいるのだと実感を沸かせ、より一層もどかしさを醸し出していた。

「私、男の子とちゃんと話すこと初めて、辞書扱いは別だけど」

 少し声が固いだろうか、顔が見えない分を埋め合わせるように声がよく視えた。

「そっか、俺も女の子と話すの初めてなんだよ。助けることは別としてね」

「ふうん、残念だったね不運だったね、こんなのが初めての会話相手で。それとも利用しようとでも思ったのかな」

 幸詩郎の心をいつまでも引き摺ってどこまでも個性的な心の跡形を刻む声からでた棘のある言葉に表情は思わず歪められた。どうして由実のこの言葉がここまで痛いのだろう、大事なものを削られるような気分を刻み込まれて傷だらけの心は歪な芸術作品を思わせる有り様だった。

 息を吸って、大きく吸って、微かに吐いて、全て吐いて、再び大きく吸って。冷静でいられない心、迷う感情の中に幸詩郎なりの真実を見いだして、息と共に感情を吐いた。

「そんなこと言うのやめてくれよ。由実はもっと自分に自信持っていいんだよ。本に書かれたこととか心無い言葉とか、本当のことはそれだけじゃないんだから」

 隣を歩く少女は足を止める。暗闇越しでも伝わる気配、それは風を通して頬を撫でた。

「ごめん、言い過ぎた」

 声は震えていた。あまりにも弱々しくて聞こえるか聞こえないかといった会話の中で致命的な境界線を彷徨いながらどうにか幸詩郎の耳にも届く。

「ほら、落ち着いて。俺は由実が力抜いて生きてくれればうれしいから」

「落ち着けないのはアナタのせいだけど」

 幸詩郎は由実の手を握って再び歩き出した。柔らかで冷たい手はどうしてここまでしっかりとした感触と温もりを与えてくれるのだろう。一方で由実がどう思っているのかまるで分らない。この景色を包み込む暗闇の澱がもどかしくて仕方がなかった。

 そうして美しい朝を過ごしながら学校にたどり着いた。由実の教室は幸詩郎が割り振られた教室のふたつ隣。すぐ近くの同級生だと知って心は勝手に盛り上がっていた、止めることなど叶わなかった。心の動きに頭は敵わなかった。

 由実は朧げな微笑みを浮かべながら手を振って幸詩郎を見送る。

「じゃあね、また放課後」

「それは出来ないね」

「何言ってるのアナタ」

 首を傾げる由実だったものの、幸詩郎はお日様の明るさに充ちた笑みを返すだけ。言葉の中に隠した意味が暴かれてしまってはきっと由実の笑顔は曇ってしまうだろうから。彼女はきっと昼休みに教室まで来てほしくはないだろうから。

 幸詩郎は教室の中でいつまでも落ち着きを持つことが出来ずに心が暴れていた、由実の顔が見たくてうずうずしていた。このまま放課後まで待つことなど到底できないだろう。

 そこまで味わうことでようやく気が付いた。遅すぎる自覚に思わず自身を責め立ててしまうところだった。


 幸詩郎は、由実に対して温かで柔らかな恋心を抱いているようだった。


 この恋がようやく明けてきた空に見透かされてしまわないよう、透き通って空気を通ってしまわないように隠し続ける。今日の昼休み、きっと周りも知ることになる。しかしそれでも今は誰にも気づかせないようにどうにか心からはみ出してしまわないように不可能な収納をいつまでも試み続けていた。

 授業にも集中できずに教師よりの出題に正答を示すことが出来なくて正当な態度で学問と向き合えていないことが暴かれてしまった。今日の体育の授業では野球をやっていた。飛んできた球、それも普通にとることが出来てしまう程の速さ、それがすぐ隣に落ちても尚動かない。クラスメイトたちの叫びに叩かれて、重々しい圧がのしかかってくる。潰されかけることでようやく幸詩郎は現実に視点を戻すことができた。

 心此処ニ在ラズ。

 移ろう心は何処に映っているのか。何を覗いても何に触れても何が香っても、心にはあの少女がいた。いつでもどこでも幸詩郎の心に由実の色を塗り付けては現実をも染め上げ続ける。あの微笑みを思い返さずにはいられなかった。歩く辞書、そう呼ばれる少女にこの症状の治し方を訊ねたくて仕方がなかった。

 幸詩郎の心にいつでも居座る由実に惑わされて集中どころではなくなって。

――どうすればキミのことしか想えないじゃなくてキミがいるから頑張れるって言葉に変えられるんだろう

 幸詩郎の悩みは出口が見えない鮮やかなトンネル。心の迷宮は何処までも複雑で出口は何処にもないようにさえ思えて。

 昼休みを待つ、ただそれだけのことが、四つの授業を乗り越えることがここまで苦しいことなど初めてのことだった。

 早く会いたい、早く今日の、今の君と顔を合わせたい。由実に会いたい。そうした一心を一身に絡み付けて焼き付けて、授業をひとつひとつ乗り越える。黒板の上に掛けられた時計の中で回り続ける針はたったの二本。時の流れ、人々が駆けた一秒まで示すことはしない。その一分はどれだけの長さだっただろう。五分があまりにも長く感じられる。心臓の鼓動が秒針だとすれば分針はあまりにも後れを取りすぎていて、来ない自由の時、追いついて来ない時計の針にもどかしさを感じ続けていた。

 早く来て、速く行きたい。これからの時間が恋しい、これからの関りが恋しい。

 由実の想いを掴む前に自身が想いを掴まれていた。


 やがて長い時を経て、ようやく迎えたこの時。机の固い感触も誇らしげに大きくなっていく埃の匂いも、ひたすら叩きつけられるこの感覚たちの全てに飽き飽きしつつも由実に会いたいという欲にだけは飽きずにいられた。

 勢いに任せて鞄に手を突っ込みパンを取り出して想いに任せて教室を飛び出して、すぐ隣の教室に向かっているとは思えないほどの威勢で異性の方へと向かう。

 ドアを開いたそこに、目の中に映った少女は窓から差し込む光に照らされてどこまでも輝いて見えた。

「アナタ来たんだ。ほら、そこの席勝手に使って」

 味気ない心の動き、他の人が同じ反応をしたのならそう思ってしまうだろう。しかし由実の態度、ただそれだけの確認で落ち着いていて可愛らしいもののように思えた。

 椅子に腰かけて机に身を預けて小さくまとまっているように見える由実の姿は愛らしさを漂わせていて、幸詩郎には『歩く辞書』などと呼んで知識の引き出しとして利用するだけの人々の気持ちなど理解できなかった。

 そんなことを考えながら由実を見つめていることわずか一秒。その一秒さえもが長くありながらも幸詩郎には短くて物足りなく感じられていた。

「何、私の顔そんなに変」

 訊ねられた言葉が由実の心理の真理なのだろうか、冷え切った目は色を感じさせない。

「な、なんだろ。由実のこと見てるだけで温かくて」

「こんなので満足できるなんて幸せ者」

 落ち着いた声の底に微かな揺れが、ぬるくて軽やかな弾みが見えた。柔らかで丸々とした頬に仄かな温もりを聴いた。きっと由実も何かを想いそれを隠している。素直に顔に出すことの出来ない想いのあり方はまるでかくれんぼ。

「じゃあ俺は幸せ者だね、由実」

「……ばか」

 小さな呟きは幸詩郎の耳にもしっかりと届いていた。ふたりの間に流れる甘い空気は薄っすらとピンクに色付いて柔らかに結び付けられるリボンの蝶。由実の目に感情は宿っていなかったものの幸詩郎から目を離すことが出来ないようでいつまでも見つめ合っていた。

「アナタってよく表情変わる。険しい表情はムリそうだけど」

 幸詩郎は目を丸くした。まさに由実の目が捉えた想像の通りで柔らかな表情だけが豊か。落ち込んだ貌の味は伝わってもどこか柔らかだと言われることさえあった。

「そういう由実は基本無表情だよね」

「表情変えたら子どもっぽいから」

 ぶっきらぼうに答える彼女、やはり本音は顔の蓋の内に隠れているようで。

 青春の掠れた甘みに充ちたふたりの時間、そこに割って入るものなどいるだろうか。それは突然訪れた。

「なあ、歩く辞書さんよお、この問題教えてくれね」

 訪ね訊ね。目の前の男は髪を茶色に染めていて耳には太い銀色の輪が飾られていた。きっとふたりがどのような話をしていても彼の態度に容赦という選択肢は現われないだろう。

 示されたノートに綴られた記号の数々。それを解き明かすには幸詩郎の頭でも十分と言えた。

「この程度の問題も解けないのかよ、邪魔しに来ないで欲しいんだけど」

「ああ、クソが。ヒトさまが困ってるなら手を差し伸べるのが当たり前だろ、常識も知らねえのかよ」

 常識とは何だろう。幸詩郎はその意味について迷いを覚えていた。この迷いの霧は決して晴れることはないだろう。目の前の男の常識とは自分に都合のいいこと、相手の気持ちなど考えるつもりもないのだから。

「つかお前よくもそんなきったねえブスな上にデブなやつとメシ食えるな。あれか。勉強に利用して上京でもするの」

 途端に言葉は止められた。手は伸ばされて軽い心で薄っぺらな言葉を吐き続ける男の口をつかみ、柔らかな瞳で懸命に睨み付けていた。

「由実のこと悪く言うなよ、由実がいなきゃ何も分からないくせに、頼りっきりなくせに」

 誰が何を話していようとも関係ない、そう言った様子で由実はノートを突き返した。

「解き方も書いたから。早くあっち行って」

「相変わらず不愛想だな。また利用させてもらうぜ」

 男はすぐさま立ち去って、ふたりの空間から消えて行く。

 ここから更に幾人かの生徒が由実に訊ねて来ることはあったものの、呼び名は歩く辞書かそもそも名を呼ばないか。誰ひとりとして由実の名前を呼ぶ人などいなかった。

「なんていうか、酷いな」

「別にいい。もう慣れた」

 言葉の裏に微かな棘を感じたのは気のせいだろうか、隠すことも出来ずにカタチを持って貌に滲み出た苦みは気のせいだろうか。


 幸詩郎にはとてもそうだとは思えなかった。

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