第五幕 知識に囲まれた想いの隠恋慕

第27話 幸詩郎

 ある冬のある日、グラウンドには人の知能では理解に苦しむ生き物が居座っていた。

 ドブよりも濃く深く、苔のようにも見える、とにかく不快感を呼び起こすには絶好の緑、右眼と口は重なり合っていて鼻はあるにはあるものの、どこにあるのか理解すら出来ない。

 左腕は背中から生えていて右脚はわき腹からすらりと伸びていた。身体の各部位その全て、何もかもが間違えた位置にあるにもかかわらずこれで正しい。身体は捻じれているにもかかわらず真っ直ぐであり、まさに支離滅裂を体現した常人の理解では決して追いつけないものだった。

――なんだよ、これ

 周囲が放った言葉をそのまま心で繰り返す。その少年、八女 幸詩郎はかつてクラスメイトが、先輩が手を伸ばすことによって解決したあの出来事を記憶のレコードテープに変えて脳の影にて再上映する。

 学校の亀裂から伸びた手、それは既に帰らぬ人となった父が帰ることも出来ずに挟まった姿。それを知ったのは学校の生徒に過ぎないふたりが幸詩郎に手を差し伸べてくれたからこそ。差し伸べてくれた手を取り進み、亀裂の先の手へと手を伸ばす。そこに流れる冷気は何処までも温かくてまさに心の温度。

 ふと目を現世に移した幸詩郎は視界いっぱいに広がる支離滅裂のバケモノに手を伸ばしていた。

「きっと、なにか困ってるんだろ」

 これまで異形の存在をこの視界で認めることの無かった彼だったものの、亀裂から生えた父の手を見て以来、世界を見通す視界が変わってしまったようだった。夜闇には透き通る布を纏い透き通る身体を持つ何者かを度々目撃するようになっていた。闇に透ける彼らは心の底をさらりと撫でるような恐怖を植え付けて来るものの、大抵は恨みの積み重ねの未練か開き直ったオトナなイタズラ坊や、といった様だった。

 目の前の支離滅裂のバケモノから感じ取ることの出来るものなどそう言ったモノと比べれば優しくありながらも恨みに溢れていて、この世を恨みつつ羨む色彩。強くありながらも弱々しく、筋の通らない思考が危険なことは間違いないものの、それ以上に魂の芯から敵意を感じられなかった。心の芯はきっと悪人ではない、自分勝手な心を持った女の過去が見えるものの、きっと悪ではない。

「おや、貴方が御近づきになられるとは」

 聞き覚えの残滓が声の持ち主の正体を必死に探る。振り向いてその姿を確認する。見覚えがあるはずなのに、それが誰なのか、見当もつかなかった。ここまで来て分からなければ気になって仕方ない。正体を探ることへの健闘を検討するものの、知っているはずのものへの探りは健闘までたどり着くことが出来ない。

「ああ、そうだった。我が名は無い、貴様らがよく口にする『名前の無い在籍者』そのものである」

 ひっくり返ってしまいそうになった。不明の前に更なる不明が立ちはだかっていた。

「そのまま触れるがいい、それからどう動くか、それを決めるのは視てからでいい」

 幸詩郎は言われるがままに触れていた。抗う気のひとつも起こせない心、どうしてしまったのだろう。やがて苔かドブを思わせる身体に触れて眼を閉じる、そうしてしまったのだ。

 目の前のバケモノが見てきたもの聞いて来たもの香っていたもの味わい続けていた事、その全てをその手でつかんでいた。



  先輩、どうして私のこと分かってくれないの


  ねえどうしてそこの気持ち悪いガキは先輩と一緒にいるの消えてよ


  いやだ、あんなのに倒されるなんて、どうして私に殺されてくれないの


  もう何もかもどうでもいい、このチカラで全て叩き切る


  誰が死のうと関係ない、私だけが生きてれば問題ない


  ああもういやだこんな姿、私の最大の屈辱


  引き摺って、どこに、それ、ヒトの魔力だけでいいから食べさせて、お腹空いた


  私を放ってどこ行くの、歩けないけど歩いて、学校に行こう、このままお墓で過ごすのは御免



 これまでどのような人生を歩んできたのだろう。幸詩郎は想う。想いが言葉になってポツリと零れ落ちた。

「なんて、人。自分のことしか、自分の為しか知らないんだ」

「そうだ、そういう人間なのだから」

 名前すら持たない声によって言葉が捧げられた。そう、あまりにも自分勝手で何をしようにも自分が中心。命すらも軽く見てしまうオンナ。

 それでも幸詩郎の中にある感情が湧いていた。いくら人として間違えた選択を続けていたとしてもこの仕打ちはあまりにも酷いもののように感じられた。

 しばらく、支離滅裂のバケモノと睨めっこしていた。空の貌は変わることもなく、雲はのんびりと流れるだけ。これから授業が始まってしまう。心の中で唱えたところで目の前の人を捉える目を逸らすことが出来ない。

――ええと、アナタの名前は

 心の中で静かに投げられた問い。声にも出さずに伝わるものなのだろうか。そこから一拍の沈黙が空気の味を変え、目の前の女は右眼と重なり合った口を開き、ひび割れた声でただひと言、名前だけを告げた。

 菜穂、幸詩郎が後輩の名を知った瞬間、それが彼にとって魔法のセカイの扉が突風を纏いながら勢い任せに開かれた瞬間だった。

 菜穂を救おう、開かれた可能性に誓いを載せて。意志を心の地表に刺し込み想いを差し込み強く固く温めてみるものの、そんな異界の色彩を持ってはみるものの、何をすればいいのか、どのように動いてみせればいいのか、全くもって見当もつかない。

 幸詩郎にとって魔法のセカイというものは霧に覆われなにも見えない山と何も変わりなかった。

 結局はお手上げ一択なのだろうか、魔法などというものに触れることが間違いなのだろうか。そもそも誰にも相談は出来ないものだろうか。すぐに背を向けようとする幸詩郎だったものの、頼りのあては記憶の中に既に居座っていた。

――そっか、勇人か隣にいたと思うあの人ならもしかしたら

 心の中でこれからの予定の点を打ち、行動の線で結び付けようとしたその時、ある男が声を掛けてきた。

「そこの支離滅裂のバケモノが視えるな」

 どうして見抜かれてしまったのだろう。行動がいけなかったのだろう。客観的に見れば今の幸詩郎はあまりにも挙動不審、視えている人物に言わせれば分かり切った話だった。

「俺には既に叶えた願いがあるから出来ないのだが、貴様なら可能だろう」

 それはつまり、他人のために一度しか使えない魔法、ひとつしか聞き入れられない叶えられない願いを使って欲しいということ。

 幸詩郎は願いを叶える能力の価値を考えた。ひとつ、もしもどのような願いでも叶うのならば父をこの世に呼び戻すことが、生き返らせることが可能なのだということ。

 心を叩く欲望。頭の中に響く命令、反響し続ける言葉。


  父さんを生き返らせる為に使えよ


 その欲望に、自分勝手という人が持っていて当然の感情のひとつに振り回されてしまうのだろうか、否、単純な情に仕えるような真似を幸詩郎は知らなかった。

 記憶の海、何もかもが美しく映る澄んだ追憶の水底に幸詩郎が以前関わったウワサを、その解決を思い出していた。

 あの手に触れるきっかけ、父との再会を形作ってくれたのは一体誰だっただろう。彼らは果たして自分勝手なだけの怪異解決の手段として幸詩郎を利用しただけだっただろうか。もし自分の都合だけなら幸詩郎を呼び出すことなどせずとも魔法だけで解決できたのではないだろうか。少なくとも本気を出していればすぐに終わらせられた話ではないだろうか。

「分かりました、俺の願い、菜穂さんを救う為に使います」

 男は一度頷き、幸詩郎に左手を差し出した。

「ようこそ、魔法のセカイへ。俺の名前はない。『名前の無い在籍者』とでも呼んでいただこうか」

 間違いない、間違いなく幸詩郎の知る異常以上の非日常。名前すらない人物が高校に所属しているということ自体おかしな話だった。

「はて、俺は以前自己紹介していなかっただろうか。していたところで忘れるか。魔法にロクに触れていなかったあの頃の貴様ではそうだろう」

 なんとも悲しい話だろうか。名前がないどころか殆どの人物に存在すら覚えてもらえず、存在を掲示する手段がうわさ話のみだということ。それも不確かな者として覚えられるしかないのだということ。

 実際のところ、幸詩郎の中でもこの男の存在は曖昧になっていた。今も尚、目の前の彼の姿を見ながらでも記憶をたどりその顔を思い出すことが出来なかった。

 名前の無い在籍者は靄のように記憶に微かに見えるだけ、意味だけを残すその声で伝えていた。そう、ただ菜穂を救うための情報だけを頭に植え付けるのだ。

「願いの叶える方法のことだがまず時間は深夜が都合良いな。美術科にあるのだが、コンクールの優秀作品の小さなアカシア。それを机の上に置く」

 つまり、美術科のある教室に忍び込むということ。その教室はまさに優秀作品という生徒の足跡が残された偉大な軌跡のひとつだった。

「次に遠ざかりアカシアを見上げる形でしゃがみ込み、油粘土を伸ばして作った板に願いを書くがいい」

 これはやはり自らの財布の口を開くことになりそうだった。他者を救うために金を出す。果たしてそこまでして幸詩郎に恩という形で何かが返って来るものだろうか。菜穂の心の声を聴くからに彼女は平気で恩を仇で返すだろう。既にそこまで透けて見えていた。

「続いて胸に粘土の板を当てて願いを染み込ませて三度唱えるのだ」

 想像を働かせた。駆け巡る嫌悪感を溢れ出る負の気持ちを必死に抑えた。粘土を抱くという行為、その結果服が汚れてしまう未来が既に見えているのだから。

 幸詩郎の思考は此の世のちっぽけな宇宙、脳の中で行なわれていて、外の者には想像も付かないのだろう。名前の無い在籍者は願いを叶える手段の続きの段階を声にし続けた。

「次が最後、アカシアに念を送りながらカメラを構え、そのシャッターを押せ。これで願いは叶えられる」

 この学校には不自然なまでにうわさ話が散りばめられていたものの、数多く何もかもを拾い上げることなど到底不可能に思えるものの、そこまで大きなうわさ話を取り逃しているという事実に驚きを覚えた。

「いい顔だ、そうだろう。何故そのような話を知らなかったのか、だろう」

 古のうわさ話、はるか遠い昔、この校舎が出来て十数年の頃に流行ったうわさ話を美術科の教室の隅で偶然拾い上げた、そう語られたものの、幸詩郎はそれだけの説明で納得することなど出来ないでいた。

 そんな事を考えている間にも幸詩郎の目に映る光景は変わり果てていた。

 景色は光となって、素早く流れゆく像となって、目にも止まらない速さで流れては幸詩郎の背後へと流れる。残像は尾を引いて遅れて流れて。過ぎ去る景色が運び損ねた香りを溜めながら、すぐに抜けて行く残り香を見つめながら、古びた木に積もった埃っぽい香りに見舞われながら、生徒の喧騒を耳にする。

 そうした行動、教室まで駆けるだけのことの中で幸詩郎は名前の無い在籍者のことを思い出していた。

 忘れない、忘れられない。

 魔法の世に足を踏み入れる前とは一転して記憶に残ってしまう。

 あの男は、黄金の髪のすぐ下の灰色の瞳。ガラス球を思わせるそこから感情のひとつたりとも見て取らせない。まさに灰色のビー玉がそのまま収められているような心地で幸詩郎の背に強い寒気が走っていた、今の世界の流れる速度と同じくらいの激しさで駆け巡っていた。

「あの目に感情なんて宿ってなかったよな」

 あまりにも不自然で、首を傾げていた。疑問は心をも傾かせて、幸詩郎の中は疑問でいっぱいで今にも溢れ出てしまいそう。肩まで浸かる不気味な感情に苛まれていた。

 あの男は感情を隠している風でもなく、だからと言って無表情が常なだけの変わり者とも様子が異なっていた。ただ単純に感情を宿していなかった。

 幸詩郎は何事もなく教室のドアを開き、特に何事もなかったかのように振る舞いホームルームの遅刻に頭を下げながら席に着き、特に何も変化の見られない、変わり映えが一切しないスクールライフを今日も終えた。



  ☆



 夜闇の中を進む。侵入が容易くないと言われている学校に音のひとつも上げることなく淡々と忍び込んでいた。

 その様はまさにあの名前すらない男の灰色の瞳のよう。感情の入り込む余地など何ひとつなかった。

 美術科へと続く廊下を渡りながら窓の向こうに透けて見えるグラウンドを端目に歩き続ける。そこにいる存在は夜という環境の中に溶け込みおぞましさを増していた。

――菜穂さん、今から助けるから

 廊下を渡り終えて美術科の生徒がコンクールに出した歴代の作品の保管室を開き、見渡して。そこには様々な絵画や彫刻が堂々と佇んでいて、そのおどろおどろしい雰囲気が不気味な空気を少々彩っていた。そこから小さなアカシアを手に取って保管室を抜けた。またしても見えもしない道を進み、教室のドアを開く。名前の無い在籍者は今頃菜穂を見張っているのだろうか。様子が分からない、見てもその距離と闇に隠し通されてしまっていて何処に居るのかそれさえつかむことが出来ない。

 教室の中、あの儀式は孤独という寂しさを纏いながら執り行なわれた。

 いつの日かの優秀作の小さなアカシアを机に置いた。月明かりや見当外れな街灯の光が射し込みその全貌を暴いてみせていた。

 幸詩郎はミモザの花を着飾った姿はおろか、アカシアの木などひと目にもその目に映した覚えなどなかったものの、その姿のあまりにも精巧な様はまさにアカシアだと思わされていた。知らぬ者に訴えかける強力な説得力はひとつの作品どころかひとつの知識としても成功していた。

 そうしたアカシアの木を見つめながら遠ざかり、しゃがみ込んで見上げる。

 一礼をして鞄から油粘土を取り出し、板状に伸ばして行く。続けて幸詩郎は願いを刻み始めた。


  菜穂を元の姿に戻してほしい


 どうして一度きりの願いを見知らぬ他人の為に使っているのだろう。そうした疑問は幸詩郎の中に虚しさを産み落としたものの、構うことなく続けた。むしろ他人のためだからこそその虚しさを、人として当然の情を抱くことが出来て幸詩郎は自身が聖人になど成れないのだと悟って行った。成人には全てを抑え込み子を育て上げる印象があり、それが人の心で行なわれているのだと改めて確認していた。

――父さん、また会いたかったけど、それは人生の後まで取っておくから、向こうで待ってて

 幸詩郎の腕は交差され、粘土の板を胸に当てて抱き締められる。何とも言えない心地を胸に染み込ませながらそこに書きこんでいた願い、それを幾度となく心で呟き唱え染み込ませ、やがて口にし始めた。

「菜穂さんを元の姿に戻してください。菜穂さんを元の姿に戻してください。菜穂さんを元の姿に戻してください」

 心で言葉で折り返し繰り返し声無しに声混じりに唱え続けられたその願いはやがて加速して行って。アカシアに向けられた願いは反射して幸詩郎を伝って願い一色、この世で最も純粋な環となる。

 最後の段階を踏むべく幸詩郎は願いの念をアカシアに向け続けながら、カメラを取り出す。果たしてデジタルカメラでも良いものだろうか、どれほど古い時代なのか想像も付かせなかったものの、もしかするとインスタントカメラというアイテムが大切なのかも知れない。美術科らしくすぐに形にする活動、想いを焼き付けることこそが大事なのだとしたら、同時に出てくる写真の方が大切なのだとしたら、それひとつで全てが水の泡となってしまうかも知れない。

 そうした思考が渦巻く中、それでも幸詩郎の指は景色を映像として切り取るあのボタンに触れ、そのまま力を入れて押し込んだ。

 それから数を思うまでもなく、思考も感覚も瞼を動かすまでも無い間に現れた瞬きの輝きに呼応するようにアカシアは実をつけた。本来は有り得ない姿、透明な実を枝から下げたその姿。どこかの国では男性が告白をする時に贈っていたこともある花であるのだそう。そうした花ではなく架空の実をつけて、熟れた姿など想像も付かせないようなガラスのようなものを枝から下げていた。

「これで、願いが叶うのか」

 これで終わりにしていいのか、全くもって分からない。

 戸惑い動くことも叶わない幸詩郎はひたすら立ち尽くしていたものの、一瞬の光が散り、数多の塵となって雨のように降り注いでいく様。その光景を目にして心を掴まれて、改めて動くことも叶わずただひたすら立ち尽くす。

 塵の雨は幸詩郎の瞳を通して様々な願いの花に色付いた姿を、黄色の衣に彩られて完成された姿を見せつけていた。

 そこにある願いの多くは恋を叶えること、金持ちになること、芸術家としての成功といったもので、今の幸詩郎にはありきたりなものばかりだった。

 その中に異彩を放った花弁を見いだして、願いを追う目を止める。

 その花弁の色は掠れていてくすんでいて、端がボロボロに砕けた歪なもので願いというモノからはあまりにも遠いものに感じられた。

 花弁が示す映像を凝視する。それは擦り切れても尚くっきりはっきりとした目立つ光景。あまりにも鮮明なそれは途端に幸詩郎の意を射た。


 願われたこと、それはどうやら死者の蘇生。願いを告げる男の表情はあまりにも強張っていて、隣に立つ屈強な男は腰に手を当てて胸を張り、得意げに笑っているだけ。


 映像はそこで途切れ、幸詩郎の目は現世を映していた。

  ああ、なんて悲しい経緯だろう

 出来事の端と彼らの表情を見ただけで何となく分かってしまう。あの願いの主は主であることを放棄した。そうしてふたつ目の願いに手を伸ばすことだろう。欲張って人の幸せ迄奪い取って高らかに笑うことだろう。そうした態度を想うだけで胸いっぱいの吐き気が肺を這うように昇り、重々しい気持ちとなって吐き気へと姿を変えて、喉元に留まったまま。そこで代わりに願いを叶えていた黒髪の男を思い出していた。あの人物、髪こそは闇のような美しい漆黒を体現していたものの、灰色の瞳、幸詩郎はそれを知っていた。いかに感情が宿っていたところで違うとは言わせない。その目をごまかすことなど出来なかった。

 名前の無い在籍者、彼もまたある運命に巻き込まれただけに過ぎないのだから。

 身勝手な男に、今は無き影に、苦い感情に満ち溢れた睨みを浴びせて幸詩郎は立ち去った。校舎を歩き、グラウンドを目指して進み抜けて。

 進んだ先にあのバケモノはいなかった。

 幸詩郎を出迎えたのは感情を見せない灰色の瞳、名前すら持たない彼は幸詩郎の姿を認めると共に形だけの礼を述べていた。

「おかげでこの子を助けることが出来た、勇人を邪魔するのは困ったが今では邪魔のひとつもないだろうし何よりここに異形として居座られた方が彼の妨げになるかも知れない」

 そこに本音は感じられなかった。心ひとつ見えてこない。名前だけでなく心も、魂まで落としてしまったように見えて仕方がなかった。それをただ放っておくほど、困りも想いも自覚しない人物をただ放っておくほど幸詩郎は大人として出来上がってはいなかった、同時に人としてある種の味わいがあって、言葉を漂って会話の中に流れ始めていた。

「本当にそう思ってるんですか、勇人の為って言いつつあなたにはどこにも気持ちが見えない、もしかして」

 願いのこと、人を生き返らせるというあまりにも昔のように思えること、今ではきっと社会に放り出されて幾年か、そんな男と目の前の金髪と灰色の目を持つ人物を重ねていた。

「われの願いのことならば、気にしなくていい。それから様々なことがありながらも今こうして生きているのだから」

 様々なこと、きっと感情を宿さなくなってしまったことにも理由があるのだろう。男は菜穂が温もりを求めるように甘えるように差し出す手を握りしめて、伝わらぬ一方通行の愛を訴える菜穂の身体を引き寄せてその腕で包みながらお礼の品の眠る場所を言葉に乗せて風に飛ばす。

「そうだ、美術科の生徒がコンクールに出してきた品々を保管する教室、アカシアもそこに在っただろう。そこの壁に立てかけるように置いてある枝を持って行くがいい。そして……それを弓にして並行世界との隔たりの綻びを撃て、矢は貴様の内にある」

 言葉の中に無造作に放り込まれた頼み、お礼の品を渡すついでに頼み事をする態度に軽い呆れを覚えつつも背を向けて教室へと戻って行った。

「それでいい、勇人をもっと戦わせなければ」

 聴覚の端にそのような言葉を捉えた気がしたものの、風によって切り刻まれて先ほどの言葉への意識は失われた。

 幸詩郎は進み続ける。美術科の作品保管室。そこに再び足を踏み入れてアカシアの枝を手に取る。

――アカシャの木、これで……穿つ

 美術準備室へと歩みを進めて闇を掻き分ける。グイグイと進んだ先に見えてきた目的のドアを開き、そこに眠りし美しき紐を手に取り結び付け、弓を形成する。形を成した美しさは子どもの頃遊びで作ったものと同じ純粋の姿を取っていた。

 それから幸詩郎は想いを探り、意識の深くへと潜って行く。ヒトの想い、同じ人物がもつ想いから生まれた異なる行動。こうしておけば、ああしておけば、もしもこれがあれだったら。そうした意思と感情のチカラが生み出した異なる道筋をたどる世界を探して動くことなく歩き続ける。

 やがて幸詩郎は異なる色彩を視て、その目を開く。右眼は言葉でも感覚でも言い表すことの出来ぬような色彩の万華鏡、想いや行動の違いのひとつで姿が変わり果ててしまうそれのような姿をしていた。

 想いを見て可能性を見透かす瞳、それが目に映したものは空間に入ったひび割れのような亀裂。

 この世界はガラス質なのだろうか、驚きに心の色を変えながら幸詩郎はアカシャの弓を構え、弦を引く。途端、美しく加工された弦はアカシアの自然と同化して蔓へと成り果てる。引かれた弓、なかったはずの矢はいつの間にかそこに在った。黄色の花が羽根の代わりに伸びたアカシャの細い枝の矢。それを留める指を離す、ただそれだけ。それだけのことで矢は当然のように空気を掻き分け引き裂きながら進み、亀裂をも突き破ってこの世界を飛び出して何処かへと飛んで行った。

 それを見届けてチカラは矢に吸い込まれるように抜けて行って、床にへたり込む。


 それからしばらく経った後のことだった。亀裂を通して作られた繋がりの道を通して並行世界から新たなるうわさ話がこの場にやって来たのは。



 周囲でドッペルゲンガーのウワサが広がり始めたのは。

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