第23話 魔女

 暗闇は何処までも広がって、空気にまで混じって人々が吸い込む空気にまで濃厚な不安の味を染み込ませていた。重々しい程にどろりとした闇を吸い込むように深く息を吸う。暗闇の味は香りは、深い虚無。

 そんな闇を掻き分け進む少女は口を張り裂けてしまいそうなほどに横に広げ、食欲一色の染められた瞳からは感情が見えるはずがなにか物足りなさを感じさせた。

 少女は闇のように黒いドレスを身に纏っていた。黒の生地の胸元や腹から開かれたそこからは白いひだのような造りの布地が広がり、右胸には白いキャンディーを思わせるリボンをチョコのかかった棒のお菓子が貫いたような飾りが縫い付けられていた。闇よりも黒く暗い帽子には白いリボンを撒いていてそこにもまた、キャンディーの結び目が留まっていた。

 少女は歩く。目の前にいる別の少女を狙って少女、〈お菓子の魔女〉は歩き続ける。走りながらも時に振り返り魔女の姿を捉えながら少女は吸い込む空気によって削られ掠れた声でひとり問う、誰にとも言わずただ返事も期待せずに問いかける。

「どうして、どうして……私を狙うの」

 少女を狙う少女の正体は聞き覚えのある魔女、噂の魔女の正体は見覚えしかない少女。

 巷でささやかれる魔女の正体が知った顔だったということ、彼らの見ないところで〈お菓子の魔女〉と呼ばれる知らぬ顔だったということ。

 理解は追いつかない。

「どうして、許して。去年太りすぎってバカにしたこと謝るから」

 目の前の魔女の姿をした少女は昨年までお菓子をこよなく愛してお菓子で作り上げすこぶる肥えた身体を揺らしながら純粋な脂ぎった笑顔を浮かべていた。その少女がある日を境に一週間程度でここまで痩せてしまったということ、おおよそ胸だけ豊満なままに小さくまとまった尻と可愛らしい顔、すっかりとへこみ綺麗に必要な分だけ厚みを残したお腹も何もかも嫉妬して更に酷い言葉を、「お菓子食べないの? あの頃のあなたが見たい」などと心にもない言葉で刺してしまったこと。全てを悔やみ謝りながら逃げるものの、〈お菓子の魔女〉にはどれほどの言葉が伝わったものだろうか。

「ねえお願い、これから仲良くするから、ねえ許して、ごめんなさい、魔女さま神さまごめんなさいごめんなさい」

 魔女は可愛らしい顔を醜い笑顔で歪めながらゆっくりと、しかしながらその見た目に反して慌て走る少女との距離を詰める速度で優雅に歩き、ドレスを揺らす。

「お願い、許して許して許して許してお願いしますお願いいたしますお願いしますお願いお願いお願いねぇお願い……」

 豪華なドレスはお茶会にでも行くための姿なのだろうか。彼女にとってのお茶とはお菓子とは、いったいどのようなものなのだろうか。お菓子は逃げ惑いながら考える。少女はお菓子なのだと気付かずに単にあの魔女の食料、メインディッシュなのだと勘違いしながら逃走を続けていた。

「助けて……だれか」

 暗闇に閉ざされたそこで、少女は影とすれ違った。見えないものの分厚い影。それはきっと少女を助けに来たわけではないのだろう。

 そこに立つ人物は、きっと少女よりも背の高い者は、子どものような声で優しい声にて言葉を奏でる。

「あの魔女は俺に任せて速く逃げて」

 突如現れた少年はいったい何者だろう。考える間もなくただ走って夜のどろりとした闇の中に逃げて行った。湿度の高い夜の中を駆けてその姿は闇に飲まれて行った。

 子どものような声をした少年、勇人は子どものような優しそうにも弱々しくも見える眼を魔女に向け、その姿を貫いた。

「さて、今の俺がどこまで魔女に届くか試してみようか」

 腕を引いて、青白い雷を集め濃縮させる。

 闇は相手の姿を見ることを許してくれない。雷は光を弾かせて闇に隙間を創り上げる。そうして現れた輝きは辛うじて目の前の女が纏う黒と白のドレスの大まかな形を映すのみ。

 魔女は頭を傾ける。闇という雰囲気の中に薄っすらと広がる味を噛み締めているようなその様はきっとこの状況を愉しみ噛み締めているのだろう。見えない顔にある種の貌を思い浮かべる。

――ああきっと、闇を取り払ったそこには

 目の前の女は、〈お菓子の魔女〉は、一歩踏み出し、地を思い切り踏み込んだ。そこから散るように舞う星は闇よりも暗く黒よりも黒い。深いそれめがけて勇人は腕を突き出し雷を放った。空気を引き裂きながら輝きの割れ目となって進むそれを見つめ、勇人は思う。


 昔より操れるようになった、上手く方向を定めることが出来るようになったのだと。


 心に残る印象と現実の乖離に戸惑いつつも瞳に宿る輝きを夜空の星のきらめきを隠すことが出来ずにいた。

 そうしている内にも雷はひび割れのように広がり曲がり進んで行って。やがてたどり着いた夜空のドレスの端に触れた途端、雷は一気に集って絡み付いて、魔女の右脚に、固いブーツに中に納まる足にまで食らいつき、魔女の表情から笑みを奪い苦しみの声を絞り出させて消失した。

――行ける、やるぞ

 再び腕を引いて雷を集める。相手は痛みに慣れていないのだろうか、捕食者は常に優位に立っていたのだろうか。右脚を曲げてよろめきながら逃げようとしていた。

「逃げるな」

 これまでどれだけの人々が叶わなかったのだろうか、生き残るための闘争どころか生き延びるための逃走という課題さえ叶わなくて。

 戦いの環境に適わない中、当然相手に敵うはずもなく、命ある未来を思い描くことさえ叶わなかった。

 もしも鈴香がこのような目に遭ってしまったら。

 想像するだけで怒りの熱が吹いてきた。感情は激しい炎となった。人々の希望を嗤い食らった魔女を許すはずがなかった。

 再び雷を放ち、〈お菓子の魔女〉を食い散らかしてはいるものの、魔女は逃走に全てをかけているのだろうか。その姿は闇の中へと消え去ってしまった。

 残された勇人、闇の中でただひとり疲れ混じりに佇む彼の気持ちは落ち着いて波のひとつも感じさせない。息が少し荒くはあったものの、想いの色は夜闇を思わせる静かな黒をしていた。



  ☆



 次の朝は慌ただしかった。目を開こうとするものの、瞼は闇を見ようと、光から目を逸らそうと、意識から逃げようとする。気だるさは頭を叩いて久方振りの痛みを差し込んで騒ぎ立てる。

 そんな感覚を無視して無理やり目を開き身体を起こしてすぐさま準備を済ませ、家を出ようとする。リビングを通りかかった時、柔らかな視線の気配を受けて振り向いた。

 そこには勇人によく似た顔をした小さな女の子が立っていた。心配を微かな目の緩みで表していた。緩やかな気持ちの流れで、仄かな揺れでしかしながら確かに力強く感情を現していた。

「あんまり……急がないで。その…………けが。したら大変だから」

 心配を言葉にする鈴香はあまりにもゆったりとした態度を取っていて、勇人の気持ちから表情までしっかりとほぐしてくれた。

「大丈夫、俺のスピードで急ぐから」

 靴を履き、玄関まで見送ってくれる鈴香に目を向けて心いっぱいの優しさを含んで言葉にした。

「心配ありがとう、行ってきます。鈴香も一日いい日にしようね」

 それだけを残してドアをくぐった途端、ドアが閉まるのを待つまでもなく走り始める。

 流れる景色は歩みの証。足が地を叩いたところでそうした感触は何ひとつ訴えては来ない。目と耳だけが景色の移り変わりを、勇人が新しい景色へと進んでいる様を映していた。

 耳が捉えた風の音、気ままに駆け巡るそよ風の笑い声はその姿を見せることなく触れさせることもなく愉快に声を上げ続けていた。

 勇人は心に描いた。実際のことなど分からない、仄かに色付いた想像を心の画用紙いっぱいに思い描いた。

 今日も風は生きている。触れた事にも気が付かないだけで、感覚を失うことと引き換えに強くなって思い入れも傾いてきた視覚と聴覚。ふたつの内のひとつ、耳で視る景色に想いを馳せながら急ぎ走り続けながら。


 怜はいつも風の声を聴いて生きているのだろうか。


 そうした飛び抜けた感覚の体験をしている友人を想うだけで湧いて出てきてしまう嫉妬を埃の雨にして募らせていた。

 走り続けて現れる景色たちを視界の中に流しては外へと向け続けて、やがてたどり着いた学校。普段であれば怜と共にくぐっていた校門も今日はひとりで通り抜けて焦る気持ちを鞄に仕舞い込みながら代わりに教材を取り出す。昨夜の出来事を思い出しながらも身に入らない、今でない今を見つめ続ける目に入らない朝礼よりも前に行なわれる授業を受けていた。受験生にとってはこの授業や勉強という知識の箱詰めの全てが大切なものなのだろう。怜にとっては課外も同然という扱いなのだろうか。テストの点数ひとつで印象をひっくり返してしまうつもりだろうか。あの鋭くありつつも邪心は秘めない目が印象的な彼は未だに姿を現さない。

――いつものことだけどさあ

 しかしながら今の勇人の態度は五十歩百歩やどんぐりの背比べといった言葉を当てはめられてしまうだろう。その態度は授業を受けるというよりも授業の場でその手を放して己の業のひとつに対して身を委ねこれからの予定について思考の糸を張り巡らせ続けていた。

 思考を絡ませ続けた時計の針は周り進み、授業に参加するという姿勢だけ取り繕って授業に不参加なままの勇人が代わりに歩み続けている時間、それは授業の幕が下りると共に終わりを告げた。思考のセカイから降りて、じきに訪れるであろう友人を待ち続ける。

 教室のドアは勢いよく開かれて、悪い目立ち方などと名付けられた態度の衣を羽織って浮いた雰囲気と同席して訪れた。

「勇人、お疲れさん。一応課外だから来なくていいんだよな」

「課外なんて建て前、普通に授業進んでるよ」

 中学三年生にもなればひたすら勉強することを強いられる。将来の目標と向かい合うために努力を欠かさずに行う。特に目標もなくただ歩き惑う。人によって世界と社会と向かい合う態度は異なるものだった。

 勇人は怜の目を見つめ、あの闇に閉ざされた刻に閉じ込められた戦いに、勇人が討ち取らなければならない宿命の種族との遭遇についてその体験を分かち合う。

「昨日、魔女に会ったよ」

「んあ? よし、聞かせろ」

 一瞬面食らっていたものの、理解の流れは風のよう。すぐさま飲み込み続きを求めて行った。

「昨日の夜、人を食べようとしてたんだろうね、黒いドレスの女を見かけたよ」

「年齢は? 身長は? 顔は? 美人だったか? ナイスバディだったか? 声は可愛かったか?」

「そんなの気にしてる場合か。しかも顔見えなかったし」

 怜の質問の数々に呆れを掴みつつも答えていた。

 怜は鋭い笑みを見せつけながらしっかりと口を動かし始めた。

「よかったぜ、もしも美人だ戦意喪失だとか言われたら大問題だったしな……刹菜の受け売りだが」

 刹菜と呼ばれた人物。昨日勇人に様々なことを訊いていたあの女はどこまで発言が捻じれているのだろう。勇人はそこが気になって仕方がなかった。それでも触れることなくただ向き合うべきことについて話し続けて行った。

「魔女とやらは人を食うっていう噂だったな。それならどうやって相手をおびき寄せるか」

 人をエサにしよう、近づく前に撤退させて迎え討とう、そう提案しようにも口は開くも声に言葉にできなかった。

 果たして有象無象の人間の中からひとりを狙って来てくれるものだろうか。

「やっぱり、これも真昼さんたちと話し合うべきか」

 それからのふたりは特に何事もなかったかのように学校生活の中で平穏を演じ続けることに専念するのみだった。

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