第17話 怜と怜
授業を受けている勇人。こちらはこれまでといつもと変わりのない和やかな子どもの顔をしていた。寒さをも感じさせない表情、実のところ寒さなど感じていなかった。勇人は恐怖に触れて日々夜々震え続けていた。感情を感じ取ることの出来る情報が遮断され続けて行く恐怖。食べ物の味も花の香りも木々の温度も手触りも、最後に感じたのは一体いつの話だろう。もはや遠い過去のことに思えていた。
進化と共に生きるために不要な感覚が切り捨てられて行く。きっと毒も温度も弱々しきものでは勇人を苦しみにすら至らしめることは出来ないだろう。強くなり身体が脳が不要だと考えた感覚は心の許可も無しに鈍り続ける。
勇人は思う。果たして人としての心を保ち続けていられるだろうか。もしも鈴香がいなかったならば、とっくの昔に生きることなどやめていたかも知れない。鈴香を驚異の手から遠ざけることと怜と仲良くし続けること。もはやそれらだけが生きる糧になりつつあった。その怜との会話の中にも不明な部分が現れ始めていた。過去に食べたことのあるものなら味は思い出せばまた味わうことが出来るものの、この若さにして大切なモノを確実に失っていた。
残された申し訳程度の触覚に未だ鮮明な聴覚、視覚。こうしたものだけでは映画のひとつも愉しむことが出来なかった。
食事のシーンや大切な人の温もりを分かち合うシーンのひとつをかつて知っていた感覚で補ってはいたものの、そうした行動の度に想いに襲われてしまう。もう、そうした感覚に触れることも叶わないのだと。
過去の感覚が亡霊と成って勇人のことを祟りに来るのだ。恨みもなくただ責め立て続けるのだった。
勇人は大きなため息をついて、黒板に書かれた内容を、ただ塗り付けられて刻み込まれた情報を、情報のままノートに移し写し続けていた。
――これ以上楽しみを奪わないでくれ
ここまでごくごく普通のありきたりを求めたことなどあっただろうか。鉄さびのような特別など必要なかった。
授業の内容も学校を卒業してしまえばなにひとつ必要なくなって、成績も特に問われることはない。
この先の人生が空っぽに想えて来て、これまでの経験が、癒しのはずのものが自分を責め立てていて、この上なく重い気持ちに苛まれるものだった。
授業が幕を閉じ、怜と共に歩き始める。授業は全て終わった。掃除もなくてホームルームも授業の終わりと共に軽く済ませられた。
「俺のドッペルゲンガーとやらぶちのめすぞ」
怜の張り切りは確かな熱を感じさせて、それがまた勇人の失われた感覚に訴えて来て、この上なく痛かった。
「どうした、元気ないな。まだ菜穂のこと引き摺ってるのか?」
そうではない、そう返してみせようと思ったものの、余計に話が拗れてしまいそうだと頭の片隅でつかみ取って頷いて見せる。
「気にすんなって、俺は確認したぜ。感情が控えめな目をしてたけど普通にクラスにいたからな」
勇人は思い返した。あの件以来菜穂はおろか名前の無い在籍者とも会っていないということ。いったい何をしているのだろう、もしかするとドッペルゲンガーの件を引き起こしている元凶のひとりなのではないだろうか。それを想うだけで内に気温相応の寒気が走っていた。
「そう言えば、名前の無い在籍者の姿も最近見ないな」
駆け抜けては戻ってきて、永遠に去ってくれないようにも思えるそれだったが、怜の言葉ひとつで温められて行った。
「あんまり気にすることじゃあねえだろう」
怜の目は本気のようで勇人に向けて芯の強い色を放り込んでいた。その雑な感情の向け方が、この上なく心地よかった。
「ただもし敵としてここまで来た時にはぶっ潰す」
「平和的な解決はないんだね」
「ねえよ、あんな名前すら教えてくれねえ失礼野郎にはな」
ただ単に教える名前が無いだけだろう。そう思ってはみたものの実際のところ名前を社会から隠している可能性もあった。現実的に可能なのだろうか。首を傾げ頭を必死に回転させてみる。しかしながらたかだかひとりふたりの無知の頭からひねり出される答えなどどれも真実味を感じられなかった。
何を思い何をしていても時間は平等に流れゆく。ふたりは時間に流されて進んで行って、景色の流れに目を任せることなく視線を泳がせて探し続ける。きっとこのままではドッペルゲンガーを見つけられないだろう。この街だけでもどれだけの広さを持っているのか、隣町、更に隣の市、見渡す限り広がる世界の中ヒトが踏み入る場所はあまりにも広くて途方もない。そんな中で手がかりもなく偶然ひとりの標的を見つけることなど到底できないのは承知の上でのことだった。ふたりが持っているのは昨日の手がかり、もしも相手もこちらを手探りで目にしようと手に掛けようとしているのならばきっと別の場所にいるだろう。
「人探しの絵本の何倍もむずいぞこのやろ」
「仕方ないよね、向こうも生き物なんだから」
生き物ってなんだよせめて人って言えよ。そう返す怜の言葉は明らかに笑いに震えていた。勇人もまた、沸騰するように這い上がって来る笑いを堪えることが出来なくて。
そうして愉快な雰囲気のまま今日の人探しは無念という結果を獲得して終わり、ふたりはそのままそれぞれの道を進んでひとりひとり暗闇の始まりの濃い青の空の中に溶けて行った。
☆
帰り道、己を省みることもなく歩き続ける怜の肩を叩く者の存在に思わず顧みた。
「なんだ、勇人か……いや、お前は」
途端に吹き荒れる烈風に飛ばされつつも風を掴んで舞い、宙を舞うように飛ばされていた。
その目で捉えた男、視界はその存在を捕らえることがやめられなかった。
――俺自身か
怜の髪は動きに合わせて乱れ揺れ、身体は地を目指す。瞳に映る怜は薄暗い笑顔を浮かべながら再び風を放っていた。
「てめっ」
短い叫びは感情の表れ、これまでの戦いの中でも特に厳しい状況に置かれていた。
風を再びつかみ舞う。手から滲み風に流された血が風に沿って途切れ途切れの道筋を描いて伸びるものの構うことはない。少々の痛みに嘆いている暇などありはしなかった。
相手は自分自身、同じ能力、恐らくは同じ実力の持ち主。そこに余計な思考を挟む余地などなかった。
宙を舞う怜は風を内側の魔力を何ひとつ外に染み出すことなく練り上げた後に風を操りドッペルゲンガーに向けて大きな一撃を放っていた。
「くそったれが、ドッペルゲンガーだかなんだか知らねえが言いたいことあんなら言えよ。何のための口だクソが」
言葉を添えて巻き込み気性の荒い風は空気を裂きながら地に立つ怜の方へと向かいゆく。
無言、それを貫く怜は手を伸ばし、薄暗い笑顔を更なる影で彩りながら風を放つ。
そこから見えてきた光景は怜の宙の移動を怠ってしまいそうなものだった。
風は弾かれ怜に向かって進み始める。空気を噛みながら襲いかかって来る不可視の獣を思わせる風を、魔力の流れで見通していた。
――完全に力負けか
思い直した。魔力を操り宙に滞在しながら別に魔力を練りながら扱う魔法など同格の本気の圧に敵うはずもなかった。
この環境、敵の方が状況に適していた。
風を掴み敵から遠ざかりつつ地へと降り立ち、駆け始めた。敵に背を向ける恰好はカッコ悪くて惨めそのもの。しかしそれでよかった。同じ姿の敵は怜の思惑など知ることもなく追いかけて来た。同じ思考は持っていないようだった。
角を曲がり、怜は敵がたどり着く時を待つ。一瞬が勝負の時。それを逃してしまえば全てに於いて台無しのひと言を自ら叩き付けることとなってしまう。心臓の鼓動は速まる。脈は激しく強くなって行って新鮮な焦りの情をいつまでも送り込んで来る。否応なしに行なわれる感情の換気は換気をも巻き込み乾いた緊張感を持ち込んで静電気を思わせる情の動きが張り詰めた空気を演出していた。
一秒、そこに現れる気配はない。
二秒、緊張の糸は意識をぶつ切りにしていた。
三秒、まだまだ来ることなく時は流れる。
四秒、実は自身の中で刻まれている時は意識が生み出したまやかしだと知る。
五秒、実は怜の中で過ぎ去ったこの五秒間は一秒にも満たないものだった。
やがて荒々しい足音が地を踏み荒らして大きな音を立てる。規則正しくはなくともある程度の揺れだけで刻まれ踏み鳴らされる足音。
それが一度、あからさまに大きく遅れていた。
――今だ!
怜の目の前に同じ姿を持った敵が現れた。曲がり角を意識して遅れた歩調が居場所をあからさまに示し、怜に行動の移行の瞬間を告げていた。
意識を研ぎ澄ます段階から反撃の段階へ。以降、怜の意向はくっきりはっきりとしていた。
「行こう、勝利の運命に」
怜は風を飛ばした。握りしめていた手を開いて、風に乗せて。風と共に舞ったもの、それは幾つもの草だった。敵の視界を防ぐ自然の欠片、緑のカーテン。相手が草に気を取られたその時、怜の気取りを着飾った声が相手に戦いの結果を遠回しに告げる。
『世界を駆け巡りし形無き旅人よ 黄昏には何処に居ただろう 今宵は何処に居るだろう 彼は誰時にはどこへと向かうだろう 辿る道にて色付く姿 持ち帰る香り 私は貴女を愛している 乙女ナル風よ ――』
唱えられたそれは本気の魔法の証、詠唱だった。速さこそがとあまり使われることの無い全力だったが、隙を生んで見せればひねり出し、戦いの結末をも決めてしまいかねない大技、大業。
風は渦巻いて、周囲を砕き始める。コンクリートの地面からはヒビが生み落とされて空気は風に支配されて。やがて例が呼び出した技は怜の隣に立っていた。
幼い無邪気な少女の姿をした風。どこまでも気まぐれで自由を謳歌し世界を駆け巡る風の姿として最も相応しいものだと怜は思っていた。
「目の前の敵を想いのままに打ちのめして」
風の少女は静かに頷いて怜の細くありながらも暖かで子どもにとっては頼りになりそうな手を強く抱きしめて、魔力を受け取る。
少女が口を開くと共に風は此の世の自然から人によって作られた景色まで、ありとあらゆるモノを渡って得たメロディーを奏でる。
それと共に風が絡み合った環が天上より舞い降りて敵を収めた。敵は藻掻き魔法を放ち続けるものの、そのどれもが無力なものだと弱々しく語っていた。
風の環が絡みを強めて互いの結びつきを濃く塗って、森羅万象の旅を幾度となく続けて来た歴史をその威力で示したのだった。
やがて風が止むと共に地に残され地に張り付くように倒れ込んだ敵の姿はぼろきれのようでみすぼらしいことこの上なかった。
「ありがとうな、戦いの時ばっかですまないな」
声を掛けながら風に目を移したその時、風の少女は微笑みながら口を開き、怜に音を聞かせてみせた。それは学校の音、怜にとっては聞き慣れたものだった。
「いつも見てるよ、ずっと一緒、か」
この業こそが怜の子ども好きによって生み出された彼の象徴とも呼べる代物だった。
倒れた怜を見つめる怜。一見異常な状態にも見えてしまうもののごくごく普通、常識からすればおかしなことでも非日常が常の世界からすればありきたり。この程度の状況はありふれていた。
この戦闘が終了したのだと悟ったことでようやく風の具現を解いて意識の残されたひとりの男は誰にともなく言葉を零す。
「さてどうすっかな、一般人が来たら……双子とかいってごまかすか」
もはや初めから嘘一色の選択肢。怜の頭の中に真実を告げるというものは存在しなかった。きっと医師に頭を診てもらうよう勧められるだろう。相手に状況を見ろと叫ぶ羽目になるだろう。
頭を搔きながら脳に思考を書き、連ねていく。これからどうするべきか、放っておいてしまえば相手はきっと再び襲って来るだろう。いかに厨二病と呼ばれる者でも流石に何度も同じ戦いを繰り返すことを、無用な痛みを欲しながら与えるほどの酔狂ではなかった。
迷い続けている内に長い影が怜の側へ足元へと迫って来た。
――マズい、来やがった
慌てて怜を背負うべく手を伸ばしてはみるものの既にその手は遅れていた。目の前に訪れたのはスーツ姿の女だった。全身が黒できっちりと崩れのひとつも無しに着こなしていて少しの固さと大きな格好よさを感じさせた。大きく膨らんだ胸の形を隠しきれていないそこ、胸ポケットには万年筆が挿し込まれていた。
「どうしたことか、私の胸に注目するなんて。既婚者のおばさんにね」
声は低く落ち着きがありつつもどことなく若々しさを残していた。そんな魅惑に充ちた声を拾い上げた耳は熱を帯びる。怜の顔じゅうが熱くなって行った。
「もじもじしてる? やはり胸見てたのねエッチ」
仕草から見た目から顔と声、全てに於いて怜はその女を知っていた。
「ペン挿すなよ、戦闘用の道具と思って身構えちまっただろ」
「ええ、戦闘用よ。胸ポケットのついたスーツ、探すのに手間取ったのだから」
余裕の笑みを浮かべる女、そこに年齢の影はあまり感じさせないものの、ほんのりと目立つほうれい線が歳を隠しきれていなかった。
「真昼さんなら任せて問題ないな」
「ええ、風が酷かったもので絶対怜くんだって思って走って来ちゃった。ファンだもの」
口を開いて目は閉じて。確実に冗談の一環なのだと怜は気が付いていた。真昼はこの辺りの地域の魔法使いの中では有名人。彼女にケンカを売って何事もなく帰って来れた者など数えるほど。割合にするとそれなりに多くなってしまうものの、そもそも真昼の実力を恐れて機嫌を窺う人物が多いという情けない実態由来のもので怜は完全に呆れ果てていた。
「満明は元気か、いや訊くまでもないか」
真昼の言葉によればもうひとつの戦場へと駆け付けているのだそう。きっとドッペルゲンガーに困らされている人物は怜だけではないのだろう。ただの特別などではない。少し普通から外れた平凡、それが怜が身を置いているセカイだった。
真昼は地に伏している、意識を失った怜を拾い上げ、肩の上にて干すように掛けて語る。
「最近並行世界から来た人が多いの。菜穂ちゃんの偽者によれば世界が滅んだからこっちに来て元の方を殺してなり替わる計画だったみたいね。因みに向こうでは菜穂ちゃんと怜くん付き合ってるってさ、唯一仲良かったとか誰にも構ってもらえないのとか……かわいそ」
「おめえの娘に言ってろ」
菜穂と付き合い別の日常を歩む。そう言った可能性もあったものだろうか。今の怜には全くもって理解できなかった。それとも勇人が傍にいてくれたことで菜穂の本性を見抜くことが出来たのだろうか。
「娘ねえ。あの子はあの子なりに色々悩んでたりするから難しいものよ」
「いや、口塞いでニヤけ抑えれば普通の見た目の普通の女だろ」
「あの子の良さ全否定ね、流石に許せない」
この親あってのあの娘。きっと親譲りの性格が災いしているのだろう。決して会いたいとは思えなかった。
やがて真昼は視線を肩に掛かった偽者の怜に移し、頭をゆっくり優しく撫でながら、感情を込めて丁寧に口にした。
「帰ったら菜穂と同じところに帰してあげるからね、元の世界に」
「殺害予告じゃねえか、あと俺にやってるみたいで恥ずいからやめて」
必死の訴えは無駄に終わること必至。真昼はわざとらしく担いだ怜の尻を優しく温かな手つきで撫でながら夜闇の中へと消えて行った。
「あのオンナ、いつか俺が寿命を決めてやる、命のピリオドを」
獰猛な言葉の中、どうしても憎み切れない感情が残り底を漂っていた。仄かに色付き飛び回る優しさはあの乙女、風のせいだろうか。
そう思っている時点で怜は自身の本性に気が付いていなかった。
夜の闇に閉ざされた景色、見えない道を開いては閉じて。進んでいるのかどうかは完全に街灯や人々の生活の中で灯された灯り、家の照明の残光が頼りだった。瞳に入る残光と風が連れて来た残り香。怜を彩るふたつの隅に居座る暗闇に目を通しながら真昼が告げていたことを思い出していた。
「確か言ってたよな。真昼さんの夫はもうひとつの戦場に行ってるとかなんとか」
怜が知らないところで戦いが行なわれている。しかしそれに目を向ける必要性など感じていなかった。
「あの『悪魔憑きの掃除屋』の腕なんか見たくねえしな」
風はいつまでも怜の身を包み優しく吹きながら「休んでいいんだよ、おやすみ」と耳元で呟いているように思えた。
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