第13話 心の闇

 菜穂はその手を振り上げた。日本刀はデタラメに振るわれて、斬撃は予想だにもしない方向から飛んで来る。勇人は私服の端を裂かれて思う。

――支離滅裂な刀だな

 そう、まさに支離滅裂という言葉を当てはめるに相応しい、そんな攻撃。その一撃はどこから飛んで来るものか、何処へと向かって行くものか、全くもって予想もつかない。夜空の下、霜夜の中に輝く銀閃はあまりにも恐ろしくあまりにも美しい。


 それは菜穂の心から生まれた攻撃だとは微塵にも思わせないひとつの芸術だった。


 菜穂が再び刀を振ろうと、上げた手を振り下ろそう、行動に移そう、霜夜にこの銀閃を映し込もう、そうしようとした時のこと。

 勇人は右手を後ろへと引いて雷を周囲から集めた。その輝きは、この上なく輝かしくてこの上ない暗黒のよう。

 勇人はなにも口にする余裕すら得られずにただその手を突き出した。空間をも噛み裂きながら染み込みの如く突き進み、菜穂の刀の出迎えもあって無事にたどり着いた。そこから見慣れた光景が訪れる。そのはずだった。しかしながら菜穂の刀は闇を裂き、内側へと入り込んだ〈分散〉の雷をも切り裂いてみせた。

「残念。あなたが使った魔法を指定して斬ればそんなもの無効の彼方へ飛んでしまいますもの」

 向こうの無効を無理やり叩き起こしてつかみ引き寄せる。もはや運命に対する反逆と言っても差し支えの無い能力だった。

 それから菜穂は更に勇人を切り裂こうと刀を振ってみせた。どこから飛んで来るものか予想もつかせない攻撃を躱すことなど出来るはずもなく、身体と斬撃はその存在を交わしてしまった。

 叫び声のひとつも湧いてこない。痛みは熱を錯覚させる。痛覚がほぼ失せた勇人の芯から現れた痛み。それはわき腹に噛み付くようにしつこく纏わりついては警告を発し続けていた。

――マズい

 痛みとは己の全身へと発せられる警告。進化によって薄れた痛みは傷つきにくくなっているということ、痛みの必要性がその手から遠ざかったということに他ならない。それが今、現れている。勇人はわき腹を押さえながら菜穂の攻撃によって暴れ狂う熱い感情を抑え込む。

 今必要なものは冷や水のような、霜夜の空気感のような心だった。

「勇人とか言った人、どうして私の怜とあんなに軽々しく接することが出来るのでしょう、どうして私の許しもなく怜に近付くものでしょう」

 女は心の底から黒々としていた。病んでいるのだろうか、支配欲が強いのだろうか。異常なまでの執着の理由を勇人に推し量ることなど出来ない。

 鈴香の笑顔を思い出す。形なき想いだったものの、暖かみはとても綺麗にその目に映されていた。

 怜の顔を思い出していた。例え大きく表情を変えなくても貌は心の端を滲ませて感情を訴えていた。

 ふたりの思いやりは本物の愛情友情の証で菜穂の想いはただ自分の気持ちを一直線にぶつけているだけ、愛の交差が見えなくて自分勝手な恋の衝動。己の恋心の都合しか考えられていなくて好きな怜の気持ちなど微塵にも考えられていなかった。

「どうしてだよ、どうして好きな人の気持ちのひとつも考えてあげられないんだよ」

 勇人には理解が出来なかった。

 勇人は理解を捨て去った。

 後ろへと手を引いて、菜穂に向けて雷を放って。それは再び菜穂の能力によって斬られてしまいそうになった、その時だった。

「勇人」

 菜穂は愛しの声の呼ぶ名を通して気が付いてしまった。きっと、失恋してしまったのだと。好きな人の声に刀の動きは一瞬鈍り、その隙を突いて雷は菜穂の身体に噛み付いて。

 菜穂の闇は内側から全て世界の中へと、菜穂の心を離れてセカイの有象無象の現象のひとつとして、〈分散〉された。

「勇人、アイツやっぱりやってやがったな」

 今この場で行なわれている戦いは怜の想像の範囲内でしかなかったのか。チーム分けの時の表情を思い出して勇人は理解した。菜穂は失恋したも同然、怜は菜穂の一方通行な想いなど手に取るように理解していたものだった。

「とりあえず、現状を教えてくれよ」

 一真の言葉に対して勇人は語る。身勝手な女の愚かな行ないに対する憎しみを声に滲ませながら、闇の如き狂気を陰のような脅威を失った女のことを未だに許していないという意志を声の中に、触れればわかる固さを持たせながら。

「あの女が立ちはだかってきたから心の闇を〈分散〉した、もう襲っては来ないよね、多分」

 怜も一真も安心をその手につかんで死者を生き返らせる計画を、その首謀者の教師を止めたことを話していた。名前の無い在籍者、彼のみが未だに菜穂に目を向けていた。

「どうしたんだよ」

 勇人の問いは名前すらない男にしっかりと突き刺さっていた。男は菜穂を鋭い視線で睨み射貫いていた。遠く感じられるそこにて星の輝きを受ける彼女の手は小刻みに震え、その瞳からは輝く闇さえ失われてしまっていた。

「まだ、終わっていないようだ」

 名もなき声が闇に波紋を創り上げて空気に澄み渡って辺りに震えを与えていた。耳にしたすべての人が驚きに満ち溢れて目を向けたそこに新たなる展開、誰もが望まない事が待ち受けていた。

 菜穂が表情ひとつ変えないまま刀を夜闇の空に向けて掲げていた。星の微かなきらめきを受けて刀は無機質な殺意を秘めた仄かな輝きを放っていた。

 やがて菜穂の刀は勢い任せに振り下ろされる。星の光をまばらに受けて薄っすらと輝く銀閃は何を分断しようというものか。空間を切り裂くように振り下ろされた途端、怜がしゃがみ込み、手を地に着く。傅くようなその姿は人としての誇りを失ったように映る。まるで菜穂の程度の低さを代わりに紹介しているようで虚しさに充ちていた。

「怜、大丈夫かな」

 勇人が持ち込んだ疑問を挟み込んで無理やり立ち上がる。

「何しやがるんだ、アホ菜穂」

 怜は動きながら確認していた。重くのしかかって来る気怠さは何を斬られた結果だろうか。菜穂の行動からして確実に何かを斬られてしまったことだけは間違いなかった。反撃の風を吹かせようと魔力を練り上げて、そこで不足を感じ、遅れて気が付いた。

「まさか、くっ、魔力を持ってかれた」

 魔力、つまるところ魔法使いにとってのエネルギー源のひとつ。戦いにおいてはもちろんのこと、日常生活の支えとして軽く扱うモノでさえ魔力を使って扱う。例えるならば便利な脚となる車からガソリンを半分抜き取られた気分、それを感じ取っていた。

 菜穂は表情ひとつ変えずに刀を構えた。

「闇を〈分散〉したのに……どうして」

 湧いてきた疑問は意識せずとも口から零れ落ちた。その問いに答えを持ち込んで来たのは名前すら持っていない存在。

「闇を〈分散〉した時、共に病みをも外へと追いやってしまったようだ。ただただ自分勝手以外のモノを知らないあの女は何をしたわけでもなくただ不満から病んで辛うじて人を見る心を持っていたようだな、それでも自己中心的でなけなしのモノ、所詮はそういう人物だということだが」

 周囲は静まり返っていた。空気でさえ木々でさえ、挟み込む音を持っていなかった。菜穂に目を向け、勇人に目を移し、その姿を映し、男は更なる言葉で纏め上げた。

「残念ながら、あれが彼女の心の根、本当の姿だ」

 心の闇どころか彼女の病みまで取り払ってしまった結果が今。人のことを見る心は傷によって塞ぐことによって現れたもの。本性は痛みによって抑え込まれていた。

 心の全てが回復してしまった今、あの女には人を想うチカラなど残ってはいなかった。

「愛がない、哀もない、他愛もない」

 男は口を閉じて下がり、闘いは全て彼らに任せるといった姿勢を見せていた。

 怜は残された魔力を、浅い力を無理やり練り上げて不完全な魔法を完成させていた。

 勇人は手の構えを解いていた。彼の力は菜穂相手ではもう役にも立たないことを分かっていた。

 一真はビニール傘を構えて菜穂を睨みつけていた。

「おい待てよ。あの時折れてたよな」

 怜の問いに対して笑顔を返す。更に言葉を加え、罪を声にしてさらけ出していた。

「俺の武器は下駄箱の向こうにありふれてるんだ」

 つまるところ、生徒が置いて行ったものを勝手に使っているという状態だった。

「正義のためだ」

 怜のため息は呆れと共に一真を止めることなど出来ないと語っていた。ここで嗜めてしまえばきっと孤独の闘い、勝ち目など万に一ほども残されないだろう。

 菜穂は刀を振ろうとした。

「そこ」

 怜の手が伸ばされ、風は足元から昇って腕を振り払う。

 菜穂は飛ばされかけた腕に目を向けて、そこにできた一瞬の隙。そこに一真は突っ込んでいた。

 走り進みやがてビニール傘は大きく振り下ろされる。そこに菜穂の刀が向かって受け止める。力を加えて傘を握りしめる、力同士のぶつかり合いは一真の表情から余裕を奪い、菜穂は相変わらずの無表情。そうして釣り合っていた双方の攻撃は物質の変形によって両方共に崩れ去る。一真が握りしめているビニール傘が曲がって均衡は崩れ去った。一真は空気の手によって地に投げ飛ばされて菜穂は勢い余ってバランスを崩す。

「ここを逃すな」

 駆け寄る怜の叫びを耳にして物理法則を超えた意識の向きが一真を突き動かす。地を跳ねるように脚を勢いよく振り回し、体勢を立て直そうとした菜穂の脚を打つ。勢い任せの攻撃は無事撃たれ、体勢は討たれ、気が付けば菜穂の目は地を見ていた。

 菜穂は立ち上がろうとするものの、上手く行かない。脚の感触が、位置が、角度が何もかもこれまでとは異なっている。今までと変わり果ててしまって動くことすらままならない。そう感じられた。

「人の姿から遠ざかりやがって、それともそれが真の姿ってか」

 怜の言葉を受け、その手から離れた日本刀に目を移した。星の瞬きを絶え間なく跳ね返して輝く鉄に映されたその姿を見て情は恐れおののき自身を激しく嫌悪した。美しき姿という自信は完全に失われていた。

 そこに映されていた姿、それは全身がドブよりも濃くて深い苔を思わせる緑に染まっていて右目と口が重なり合って左腕が背中から生え、鼻はあるにもかかわらずどこにもない。身体は捻じれていながらにして真っ直ぐで、全ての部位が間違えた位置に置かれていながらそれが全て正しいのだと語っている。

 菜穂の今の姿は生物学どころか常識を見る目からしてもあり得ないもので、しかしながら心の醜さの体現としては完璧な作品と化していた。そんな彼女の奇妙でおかしな姿を口で語ろうものならば、この言葉で纏め顕す他ないであろう。


 その姿は、身体の機能単位、存在という根本的な単位で支離滅裂だった。

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