第9話 学内のヒビ

 でーでぽっぽぽー でーでぽっぽぽー


 朝の訪れの実感はキジバトの優しい鳴き声によってもたらされた。

 大きな伸びをしながらこれまでのうわさ話の中でも未だに未解決な物を並べて行った。


 怜の言葉が蘇ってきた。明るい表情、戦意は強風となって彼の内に満ちて今にも溢れてしまいそうで、戦いが好きなのだろうかと問いかけたくなってしまうもので。


――知ってるか、学校で噂になってんだ。肝試しっつったか、アレ目的でがっこに忍び込んだヤツがいたらしくてよ。そこで目にしたらしいぜ、蠢く謎の群衆をな


 蠢く群衆とは何者だろうか。肝試しを行なう人物と訊ねられれば不真面目な生徒だろうかと言葉を返すところだったものの、実際には分からない。昨夜の幽霊船のことを考えてみてもあの学校においては男子生徒の大部分が疑わしい。誰の証言だったとしても信じられないながらに信じる他ないといった状況で。


 祖父の顔を思い出した。他者の魔力を糧に魔法を扱う【魔女】と呼ばれし存在、将来鈴香を狙って動く脅威になり得るのだというモノ。

 勇人は魔法使いという存在にふたりほど出会っているものの、魔女と呼ぶほどの風格は感じられない上に魔法は自身の魔力を練って扱っているのだそう。

 〈分散〉の使い方、肩のあたりまで手を引くという弓矢を思わせる仕草と共に周囲から集う雷。どちらかというと勇人自身が魔女といっても差し支えがなかった。実在を出来ない他の魔女たち、その実体を目にしてみたいと思っていた。

 いるのかいないのかそれすら分からない、それではこの世の中人々の口より湧いて出るうわさ話の亡霊たちと何も変わりがなかった。


 続いて金髪と灰色の瞳の男が脳裏を過ぎった。通りすがりに身をひるがえして怪しげな笑みを口元に浮かべている姿が思い浮かんでいた。

――回想でもこの態度……イラつくなあいつ

 怜の言葉によれば『名前の無い在籍者』美術科に所属している三年生。勇人たちが一年生だった頃には同級生だったのだそうで一体この国はいつから飛び級制度を設けたのだろうか。過去のニュースや普通科での話題を思い返し記憶という名の書籍を脳裏でせっせと捲ってはみるものの、何処にもそういった記述や話題、音も香りも残されてはいなかった。

 そう、もはや存在そのものに対して目を疑い口を開いてしまいたくなるほどの実体を持ったうわさ話でしかなかった。


 そうしたこれまでの学園生活の流れを思い返し、大きなため息をついた。

「なんだよ、殆ど学内に問題が潜んでる」

 うわさ話以外のことに関しても菜穂の問題があげられた。怜のことは大好きでありながら勇人のことが大嫌い、怜の友だちだったところでいなくなればといった冷たい目で斬り捨てようとする人物。どう考えても善人だとは思えなかった。何よりあの女の闇は刀に集うものだけではない、そんな予感が冬の風に、木陰にチラついて離れなかった。

「勇人、はろー」

 歩いている勇人の姿を捉えて声を掛ける人物といえば数える程しか知らない。おまけに軽い言葉をかけて来る人物といえば。霞ひとつない明確さ。天上で色付いている空のように澄んだ答えが結論へと足を運ぶ木橋となってそこに架けられた。

 その先では大切な友人が待ち構えていた。

「やっほー、怜、今日も待っててくれたんだな」

 当然、そう返された言葉は冷たさを思わせる低い声によって奏でられて、しかしながらその温度感を肌に突き刺すこともない。あまりにも平常の出来事。あまりにも平凡な挨拶は今ここで吹いて巻く木枯らしと変わりがなかった。乾いた木枯らしの中にもどこか温もりが感じられた。

「それにしても俺たちが解決すべきうわさ話っていくつあるんだろうね」

 特に深く考えて示したわけでもない問いではあったものの、それひとつで怜は立ち止まって深く頷きながら唸っていた。

「やっぱ学校の噂の数だけかな、七不思議とかと違って今そこでみんなが生み出してるわけだし」

「さあな、多分あのイカレ金髪倒したら終わると思うぜ、なんとなく」

 根拠も無しに伝えられた言葉に対して素直に頷くことなど出来なかった。しかし、彼もまたうわさ話を持っている人物、完全に否定は出来ないのが勇人としては情けなかった。

 今日の怜は髪を後ろへと流してカチューシャを着けていた。右端にだけ残された髪の房が冬色の風になびく姿が見ていて心地よくて勇人はつい目を奪われてしまう。

「ふっ、勇人も見習えよ、髪型変えるだけで印象変わるぜ」

「そ、そうなんだね」

 困惑を笑みで包み軽い笑いを声にして、薄っぺらな感情を向けて誤魔化していた。

 こればかりは人には言えないこと。勇人がその細い指に力を込めてでも無理やり塞いでしまいたいことだった。

 中学校に身を置いていた頃の話だった。髪を短く切って登校した時のこと。クラスメイトの女子が急にかわいいと喚きながら寄ってきた。その時の瞳は獲物を捕らえようという意志を感じさせるようなニヤけが、瞳の輝きが見て取れて。

 そうした過去に受けた言葉や反応が今にまで蔓を伸ばして絡み付いてきて、伸ばした髪を断つ真似はどうにも出来ないまま過ごしていた。

「そうだな、勇人はめっちゃ短くしたら子どもっぽくてかわいくなりそうなんだけどな」

「子ども好きめ」

 風は鬱蒼とした霧をも吹き飛ばし、少し前に忘れ去られたはずの秋の空のような爽やかな笑顔が勇人に色付いていた。



  ☆



 それは学校の中で広まりつつある温か、というよりは熱々なうわさ話。


  ねえ、知ってる? この学校にいくつかひび割れた場所があるんだけど


  なになに? 中庭のとこと一階の美術科の連絡通路の床だけじゃないのな


  そう、ほかにも女子トイレにもあるらしいよ


  よしっ、今日の昼休みいや、放課後忍び込もうぜ


  見つかったら追い出されるから……学校から


  だよなあ


 そうした男子生徒たちの下劣なうわさ話を耳にしつつこれから重要な話を聞くことが出来そうな予感を身に染みわたらせて、勇人はこの上ない緊張感を小刻みな震えに変えて露わにしていた。

 そこから先、聞き取れたことによれば理科実験室の鏡にも亀裂、音楽室の窓にも亀裂、とにかく割れ目が目立つ校舎なのだということ。

 しかし、去年は誰ひとりとして話題にすら上げていなかったうわさ話、勇人は男子生徒の次の言葉に大きな身震いをしてしまった。

「まるで今年に入ってから誰かがひびを入れたみたい」

 勇人には心当たりがなかった。ひび、腕を引いて集めた雷がそう見えるだろう。放った稲妻が空間のひび割れのようにも見えただろう。


 関係ない


 なにも関係ない


 心の中耳を塞いで首を激しく左右に振るものの、否定の言葉を心いっぱいに広げて純白心の大海原を繰り広げては見せるものの、これまでの行ないがどうしても頭を堂々と過ぎってはすれ違いざまに勇人を責め立てて来る。

「なに耳塞いでんだ」

 冷たくも温かく、伝えるべくして贈られた声を受けてその目は自己の闇を斜めに除け声の主の方へと向けられた。カチューシャを身に着けた同級生の男。髪形が変わっても尚切れ長の瞳と整った顔がその名を訴えるほどの存在、間違いようもない。

「怜」

 声を発してみて勇人はようやく気が付いた。物音の聞こえがいつもより籠っていることと自身の子どもじみた声がより一層強い響きを持っているということに。手を耳から離すことでようやく自覚をその手にしたのだった。

――耳、塞いでたんだ

 手を握っては伸ばして繰り返し手首を振って指を繰って手を操って。やがて得られなかった感覚が答えを自然と口にしていた。

「手の感覚が……足の感覚も、ほとんどない」

 勇人の人としての当然はすでに失われてしまっていた。〈分散〉を行なうために扱っていた右手が特に酷く感覚を損なってしまっていた。

「これってやっぱり」

 学校に漂うふたつ目の実家を思わせる独特な香りも、自らの湿り気の味も何ひとつ感じられなくなってしまっていた。

――そっか、人とは離れてるんだな

 学校の中、人という存在として亀裂が入ってしまったのだと肩を落とす。その肩すらひびが生えてしまわないか、必要のない心配にまで駆られてしまう。勇人は始まりの火のことを思い出していた。あの人を人だとすら思っていない老人がどのようなことを語っていたのか。確か魔女と同じ力だと言ってはいなかっただろうか。

「勇人、魔法の副作用が厳しいか」

 励ましとして怜が手を肩に置くものの、それさえ無が乗っているようにしか感じられなくて違和感を得るといった話以前の問題でしかなかった。

 そう、今の勇人は味覚と嗅覚と触覚が失われていた。

「魔女は人の姿してっけど人じゃねえしな。女なら感覚にはなんにも異常出ねえらしいけどよ」

 染色体の片方が変異した存在が男であり、魔女もまた、女から染色体の片方が異なる姿を取ることで異様な進化を遂げた者なのだとその落ち着いた声によって教え込まれた。

「ってわけだし今は気にすんな、俺が人に戻して感覚を取り戻させた上で勇人の魔力だけで〈分散〉出来るように育ててみせる」

 怜の話によれば子ども好きが高じて物の教え方の練習も軽く行なっているらしい。

「教師は大学行けねえから無理だし子どもに嫌われる職業なんざ子に触れる機会増えるとしてもゴメンだしお断りだが優秀な父になりてえってな」

 いい夢だね―― その時告げられなかったひと言。自身の余裕の無さを永遠に呪いたくなるほどの過ちだった。

「ついでに向こうの亀裂の噂聞いたよな」

「途中まで」

 怜は大きなため息をこぼし、視線から憐れみと優しさをこぼしていた。

「分かった。教えるから覚えろ。ひび割れだ」

 怜の語りによって頭に刻み込まれた。脳の亀裂に入り込む学校の亀裂の情報たち。中庭の壁面、一階美術科に続く連絡通路、理科実験室の鏡、音楽室の窓、女子トイレ、二年生の教室。様々だったものの、怜のまとめの中でも警戒ポイントは現実離れした亀裂だった。

「いいか、今言った中にも非現実的な現実が眠ってるかも知れねえが特に気を付けるべきとこは、学校のプールの水面に入った亀裂と空間の亀裂。それらに飲まれた奴らは帰って来れねえんだってな」

 眉唾物に思えるうわさ話、しかしながら今の勇人には、非日常の経験を積んで来た彼にとっては否定も出来ないものだった。

 更に怜の言葉によって情報が書き加えられた。

「あとな、この学校、たまに間取りと壁の音が釣り合わねえんだ、多分俺がどっかできいたうわさのことだな」

 夜に忍び込んだら現れるモノたちが住む、そんな場所があるのだろうか。勇人はその存在に寒気を感じ、失われた気温の感知に代わって大きく身震いをした。

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