第7話 手を放して

 勇人は祖父に対する苛立ちを、水を突沸させてしまう熱量の怒りを底でくねらせながら夜を過ごしていた。

 今の心情が気持ち悪い。

 正直な想いはそうなのだろう。しかしながらそれを向けるべき相手はそこにはいなくてましてやなにもない此処にぶつけたところでただ怒りが空回りするだけに過ぎないことなど分かっていて。

 勇人は想いを巡らせる。自身を家族だとすら思っていない祖父。利用する時だけ都合よく家族という言葉を古びた頭脳の押し入れから取り出して。

 中途半端にそういった言葉だけを覚えているその態度がどこまでも憎い。想いは黒々としていて苦しみの紅に染め上げていて。

――あの野郎

 隣の部屋の鈴香に聞かれてはならない、あの子に対しては家族だんらんを装わなければならない。その想いだけが全ての暗い想いを喉元で引き留めていた。喉を引き裂いたところで出て来るのは悲鳴だけ。苦しみは絶対に晒してなるものか、そういった想いを持ってただ立ち尽くして。

 やがて無理やり迎えた睡眠の世界、そこに映された夢の幻像は勇人が繋いでいたつながりの糸が次から次へと切れて行く夢。

 目の前に立っている少女が見下したような嗤いを含んだ顔をしていて嫌な印象を受けた。その隣では老いた男が無機質な色をした目を向けていて、人生の積み重ねの中で大切なことに未だに気が付いていない姿勢があまりにも見苦しかった。

 更にその隣には若い男がいた。年上のようにも同い年のようにも見える彼は感情のひとつも見通せない表情を見せていた。ここに立っているということはきっと敵なのだろう。

 目の前にいる敵は三人、統率の取れていない揺れと雰囲気でそこにいるだけ。きっと永遠に分かり合うことなど出来ないだろう。

「菜穂とか言ったな、まずはお前だ」

 子どものような声は大して響きもしない叫びとなって相手に向けられた。腕は肩のあたりへと引かれて、闇の中から紫色の稲妻が集まっていた。



  ☆



 眼を開いたそこはなにも変わらない日常の中。人生のページはまたひとつ捲られていた。

――あれ、夢だったんだ

 気が付いたところで夢は夢。幻のひとつであってそれ以上でも以下でもない。

 カーテンの隙間から零れ落ちるように入って来る朝の日差しは優しく透き通っていていつも通りに勇人を出迎えていて、少しだけ安心を得られた。

 カーテンを開いて大きな伸びをして欠伸を噛み殺し、制服に着替えて下へと降りて。

 朝食など簡単に済ませて勇人はドアを開いて外へ飛び出した。秋の涼しさはいつも通りに風によって彩られ、明るい感情を吹き込んでくれる。心は自身の世界はひとつの部屋なのだろうか。澱んだ気持ちなど外へと吹き飛び爽快感が胸を充たす。心の換気は清々しさ全開の寒気の中で行われていた。

 心なしか昔より少しだけ様々な景色や感触から得られる気持ちが浅くなっているように思えて、それでもこうした平凡な景色が味方に思えていた。

 校舎にたどり着くと共に勇人はクラスメイトのひとりとの接触を試みた。失敗する理由など何ひとつなく、彼はすぐさま答えてくれた。

「よお、どうしたんだよ、ってか厨二病コンビじゃなくて片方だけって珍しいな」

 用がある、そう言って話を繋ぎ続けて行った。

「あのうわさ話、校舎の亀裂から手が伸びてるってやつ、流したのは君だろう」

 同級生は目を見開き、顔を逸らして口を塞いでいた。

「大丈夫、俺はただ手に触っただけだよ。その手の思い出が流れ込んで来たんだ」

「どこで聞きつけた。誰が原因だと洩らした」

 同級生は認める素振りの欠片も露わにすることなく、真実にひたすら霧を撒いていた。どこまで隠し通すことが出来ると思っているのだろう。きっと白を切ることで話をも切り真実への道をも切ることが出来ると思い込んでいるのだろう。しかし勇人に誤魔化しなど通用しなかった。

「誰も言ってないよ、俺がただ亀裂から生えて来た手を握って来ただけ」

 嘘偽りない事実はどこまで通るものだろうか。会話術交渉の技術、そうしたものが何ひとつ身に着いていない勇人にはこの突飛な事実に嘘を織り交ぜることが出来なかった。結果として今ここに疑われる厨二病コンビの片割れという状態が生まれていた。

 これ以上はどう足掻いても進むことが出来ないのだろうか、子どもじみた顔と声では非日常の説得力など生み出すことも出来ないのだろうか。無念なことだが今日の放課後再会を諦めてあの手を縛り付けるうわさ話の闇を世界の中に〈分散〉してしまうべきだろうか。諦めかけていた勇人の肩に手が置かれた。

「どうしても信じられない信じてくれない信じてもらえない信じさせることができない。貴様の悩みはどれだろうか」

 勇人の背後から語りかける男の存在を認めて肩を震わせる。

「そこまで驚かなくてもいいじゃないか」

「なんでいるんですか、上級生ですよね、美術科ですよね」

 その男は、『名前の無い在籍者』は、勇人に向けて不自然な笑みを向けた。美術科以前に本人の表情が彫刻を思わせる作り物のよう。

 男の声によってこれまでの話はすべて断ち切られてふたりは無理やり連れだされた。

 名前の無い在籍者、魔法使いに向けてそう名乗る彼は果たしてこの世に実在している者なのだろうか。確かに見えている、確かに触れられる。確かに、そう思っている自身の感覚の全てが不確かに思えていた。何を捉えても何をしていても確実にこの世に影響を及ぼしているにもかかわらず全てがまやかしのように思えていた。世界が現実という名の幻想の演目を行なっているように見えてしまう。そもそもなに故に魔法使い以外からは名のひとつも訊ねられないものだろう。


 勇人はあの男の傍にいる間何ひとつ現実感を得られないでいた。


 葉はざわめいて豊かな緑という色で語りかけていて、風は透き通る身体で人々の心にまで吹き抜けては何事もなかったように過ぎ去って行った。

 照り付ける陽射しは熱をほどほどに運ぶ爽やかな秋空の朝、中庭付近の校舎の壁を飾る無機質な亀裂を前に並んだ男が三人。自然の彩りに対してあまりにも飾りっ気のない景色と男ふたり、彼らの後ろにているようないないような曖昧な気配を漂わせて立つのは金髪の男。

「さあ、そこの名も知らない少年よ、あの手をその手でつかみたまえ」

 名も知らないと言ってるひとの名前がないんだけど、湧いて来て勢い任せに吹き出そうになった言の葉をどうにか喉元で捻り抑え込んで、勇人はその幼い声を上げずに様子を見つめ続けることに徹した。

 少年は手を伸ばす。亀裂の中にはなにも見えなかったものの歩み近付いて、手を伸ばし近付けて。詰まる距離、ピントはどこで合ったのだろう。突然亀裂から飛び出た半透明の手をその目に捉えて思わず一歩後ずさる。

「い、いつからいたんだ」

「最初から」

 後ろから名前の無い声による返答が来て少年は再び手の方へと近付いた。

 あまりにも希薄な存在、それはきっと一度背を向けてしまえば二度と目にすることもない、そう思わせるほどに現実離れした奇跡。

 一方で勇人は名前の無い在籍者の言葉、それを色付ける声に対して違和感を抱かずにはいられなかった。確かに何を言っているのか、どのような感情を込めて話したのか、思い返すことは出来たものの、その時の声、あの男の声が思い出せなかった。ただ話した内容が情報となって頭の中に残るだけ。そもそも声を聞いたのかどうかを思い出すことも出来なくてしかし話しているはずだと頭は理解していた。その違和感は計り知れない。果たして本当に言葉を交わし合っているのだろうか、相手は別の手段を用いているのではないだろうか。

 一度現実の地から非現実の宙へ足を離してしまうと思考はひたすら幻想の入り乱れし混沌へと飛び立って飲まれて身体を突き回されて侵食されて、その不気味な感覚に恐れを抱きつつも病みつきになってしまって離れられない。

「勇人、目の前に集中しろ」

 響いた声に引き戻されて辺りを見回す。いつもと変わりない可愛らしい自然が繰り広げる人とは離れた世界の愉快な宴、古びた校舎に刻み付けられた立派な亀裂、そこから伸びる実体無き手。少年は手の霊を掴み虚空を見つめていた。その瞳はどこを見ているのだろう、何を見ているのだろう。焦げ付いたべっこう飴を思わせる微かに透き通ったこげ茶の瞳は目の前にはない目の前の何かに向けられていた。

「思い出を見返して遊んでいるな」

 名前の無い在籍者は感情を見透かせない陰のある笑みを口元に浮かべてみせた。



 オヤジ!


 声はただ水底に落ちるように響いた。


 そこにいるのか


 暗闇の中、鮮明なものは自身の声だけだった。


 頼むからもう一回姿見せてくれ


 見えて来た光は薄っすらとしたリボンのようにヴェールのようにその姿を伸ばして、少年の姿を透かした。そこでようやく気が付いた。少年は光の方へと向かって走っていたのだと。


 会いたいんだ、頼む


 もう決して出会うことが許されない、生と死というくっきりとした形の無い境界線に阻まれてどれだけの金を積んでもどれだけの学びを得ても出会うことの叶わない遠い場所へと旅立ってしまった父ともう一度会う、そんな反則をして、罰当たりな関りは紡がれた。


 目の前に立つ父に声を掛けて一年弱の出来事を語って、父もまた現実というしがらみから解き放たれたからだろうか、会社での愚痴や自身の業務の中での杜撰な行動の数々を隠すことなく光の中ふたりの秘密としてさらけ出していた。



 学校の壁の亀裂に向けて手を伸ばす人、その姿は傍から見れば単なる不審者でしかないだろう。

 名前の無い在籍者は手をゆっくりと掲げた。のろのろとした動きであるにもかかわらず残像を残すというそれは勇人の中に確かな違和感を植え付けていた。

「とどめ刺さないのか」

 灰色の瞳が射貫いたそこには少年と繋がれた手があった。亀裂から伸びた仄かに温かな橙色に色付いた空気に透ける帯が絡みついていて、勇人は今ようやく手を呪縛から解放する術を見つけ出した。

「そうだね、いつまでもそこに放っといたらいけないね」

 そのまま放置してしまえば彼が卒業したあとも置き去りにされて野ざらしのまま亀裂に挟まれ孤独を味わい続けるだけだろう。

 うわさ話、少年の持つ寂しさによって生まれた帯に縛られたその手を放すため、勇人はいつも通り右手を肩へと引いた。雷は空気中より集い、勇人の子どものような声によっていつもの術式発動の合図が唱えられる。



  目の前に固まりし闇よ、世界に蔓延りし広大なる闇の中に〈分散〉されよ ――――

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