第6話 手

 怜には秘密の関係。菜穂の憎悪など勇人の中に仕舞ったまま取り出すこともなくただそこに在るだけ。怜の耳に入ってしまえばきっと彼女の好意も怜との今の絶妙な関係も壊れてしまうだろう。将来永遠の愛を誓い合うことになるかも知れないふたりの関係に邪魔を入れる気などどうにも起きない。

 怜の待つ教室へと戻ると共に言葉は交わされる。

「生きて帰って来たな」

「怜の方こそ、先に着いてやられなかったね」

 何がだよ、互いに言いたいその言葉は出て来ることもなく。分かっていてその上で行われる半ばふざけた心情を胸に行なわれるやり取りが勇人にとっての心の支えとなっていた。

 菜穂と怜が付き合ってしまえばこうした日常も色を変えてしまうかも知れない。彼女は勇人に対して大した憎しみを住みつかせ心の端に染み付かせて生きていた。怜に向けられる物はきっとこの上なく明るい感情で、この態度の違いは永遠に変わることがない。

 菜穂は、関係の妥協の味を、人との関わりの中に潜むえぐみというものを知らずにいた。

 菜穂は知らなくていい感情、怜には教えたくない関係。譲り合いの精神は片方しか持ち込んでいないが為に永遠に相手に譲ることしか出来なかった。ならば勇人もまた、敢えて譲ってやる必要などない。そう心に擦りつけていた。

「勇人、ちょい顔色悪いな」

 何かに感づいてしまったのだろう。勇人の顔に出てしまっていた感情の表層に触れ始めた怜の手をそこで止めていた。

「いや、大丈夫だから」

 それからやって来た静寂の中、気まずい想いを抱えながらクラスメイトの声に密かに耳を澄ましていた。

「知ってるか学校の裏庭の近くに校舎のひび割れがあるよな」

「ああ、不自然なとこな、誰が壊したんだろうな」

「そのひび割れから手が飛び出すらしいぜ」

「なんだそれ」

 話によればそこから飛び出す手は誰かが近付いて来るのを待っているらしい。まるで誰かを引き摺り込むのを待つように。

――また、手なのか

 勇人の心の中ではそうした言葉が渦巻き続けていた。

「どうした勇人、具合いでもわりいのか」

 怜が心配そうな顔をして勇人の顔を覗き込んで来た。近くにはっきりとした男の顔、その仕草も表情もあまりにも似合わなくて、ついついおかしな笑いがこみあげてきていた。

「んだよ、俺がなにかしたか」

「いやいや、ありがと、少しだけ元気が出て来た」

 わけわかんねえ。そうこぼしてつなげられた会話はそこで切れ、怜は自身と得意げな表情を混ぜ合わせて顔に塗り付け、堂々とした感情を浮かべながらうわさ話をこぼすクラスメイト達を見つめていた。

「あれ、俺がやったんだよな」

 なにがどうしてそうなった。訊ねたい気持ちを抑え込んで勇人は乾いた笑いを掲げてみせていた。きっといつもの厨二病、勝手にそうだと断定していた。

「そっか、怜って強いんだな」

「めっちゃ強いぜ俺はよお」

 校舎に刻み込まれた傷、そうとも呼ぶことのできる亀裂に勇人は今の人間関係を想っていた。怜と菜穂と勇人。三人の関りなどずっと亀裂の模様に沿って展開されていていつ終わってしまってもおかしくはなかった。その時勇人と菜穂は互いの大切な人の他人という考えで落ち着くことが出来るだろうか。そこが百点満点の関係なのだと勇人は思っていた。怜の菜穂に対する言葉も姿勢も全ては素直になれないだけだと思い続けていた。

 やがて来た授業の時、続いて終わる教師の教え。そこから導き出された愛無き愛校の掃除、学校生活はいつも通りに流れて今日も一旦幕を降ろして生徒たちはなんとか解放されたのだった。勇人は怜に用事があるのでと告げてひとりで中庭へと向かって行く。校舎に入ったわずかな亀裂、それは勇人の目にはあまりにも大きく映っていた。これはまさに三人の関係のカタチのよう。あまり甘みのない青春は後に嫌な余韻を残してしまうだろうか。秋の風のざわめきに耳を澄ます。木々が着込んだ葉のざわめきが心地よくて心を癒してくれる。巻き上げられた砂が微かに浮き立ち漂い地表に淡くて荒い層を創り上げていた。

「この亀裂の隙間から、出て来るんだよ……な」

 自信はない。自身の見たものでもない。うわさ話に踊らされる心地はあまりいいものとは思えなかった。

「言ってもうわさだしなあ。ホンモノかどうかわかんないしそういうこともあるか」

 そう残して立ち去ろうとした時、コンクリートを叩く高くて優しくも鋭い無機質な音が届けられた。

 勇人の口からは声のひとつも出ては来ない。それは間違いなく聞こえて来た。身体は強張り震えて恐怖に支配されてそれでも振り返らずにはいられない。

 回り切り替えられた視界の中、それはいた。

 亀裂の隙間から飛び出る薄青色の手。微かな隙間の中、手によって亀裂は破片を散らしながら微かに広がっていた。そうして落ちる破片がコンクリートの地面を叩いて無機質な調べを奏でていた。

――ホンモノだった

 しかしうわさ話は告げていた。誰かを待っている。

 その根拠はどこから、首を傾げる仕草を待ってましたとでも言わんばかりにその手は幾度となく折り動かされ、手招きをしていた。

 のろのろと動かしながらも残像を目に焼き付けるように残すそれは幻覚なのか現物なのか異物なのか霊なのか。これまで通りのうわさ話が生んだだけに過ぎない存在は此の世ならざる色彩を塗り付けたような色合いに異形の姿をしていたものの、目の前のそれはごくごく普通の手。薄く透き通る水色の帯が絡みついていて鬱陶しいといった様が手の動きのちょっとしたぎこちなさから伝わって来る。

――参った、あれは……ホンモノの幽霊だ

 目の前のそれは昨日の幽霊のように石もなく漂う怠惰の塊を体現した魂などではなかった。明らかに意思を持って手招きをしている。どこかもの悲し気な雰囲気を漂わせながら何度も幾度も繰り返し何度でも幾度でも行われていて。

 元は人間だということを自然と訴えかけていた。

 何ひとつ躊躇を抱くこともなく〈分散〉してしまうにはあまりにも生々しい存在。死しても尚生々しい存在であり続けて生を訴えていた。勇人は腰を曲げて目の前にて生ける死した者との会話を試みた。

「未練はなんだ」

 しかしそれは相変わらず手招きを続けるのみ。少なくとも今は死人にも口はある世界観だったものの、目の前のそれには口は無し。

 勇人は自身の手を見つめ、躊躇いの心と戦う。どれだけ払っても潰しても奥に大量に潜んでいるのだろうか。次から次へと湧いて来る薄暗い感情は止まることを知らない。

 つかんでしまえば引き込まれて帰って来れないかも知れない。鈴香を救えなくなるかも知れない。それでも手を伸ばす。きっと勇人が素直に優しく接している姿こそが鈴香が求めている姿なのかも知れない。

――兄妹ともに甘いな

 自覚を持ちながらもそのまま実体無き手をつかみ取った。異様に冷たいそれは心に澱を創り上げて溜め込んで。特に何もなくただ暗い感情を運び込むだけのように思えていた。

 しかし、そんな彼の脳裏に突然雷が走った。迸るそれは鋭い輝き。繰り返し走り続けて勇人の脳を意識を叩いて来る衝撃は耐えることの叶わない代物に思えていたものの、やがてただの閃光から姿を変えてみせていた。それは初めは眩しすぎるもの、続いては色付いた閃光、やがてははっきりとした追憶の像へと姿を変えていった。

 そこに見えるもの。それはあの手が過ごしてきた日々なのだろうか。

 子どもの手を取って歩く姿、一緒に微笑んで、駆け回って、飛びついてくる男の子。手の主の姿を見通すことは出来なかったものの、楽しそうに子どもとはしゃいでいる姿が手に取るように想像できた。

 微笑ましい光景はいつまで続いてくれるだろう。いつまでも続いていて欲しい、それが勇人の意見だった。しかしそれらは過去のこと。どれだけ祈ったところで人の力で変えられるほど甘いモノではなかった。

 やがて男の子は育ち、高校生へと姿を変えていた。勇人はその姿に見覚えがあった。この学校の制服に身を包んだその男、その顔はいつも見ているクラスメイトのひとり。それも、このうわさを流していた集団の内の一人であることを確認した。

――なんで、あいつが

 驚きと共に手は自然と離れて、足もまた、自然とこの地を離れていた。勇人は一旦帰ることで次の日に、クラスメイトとの接触の予定を定めたその日に全てを託すことにした。流石にこの時間まで理由もなく居残りしている想像など妄想の類いにしかなり得なかった。

 家に帰って来た。いつもは感じて愛してやまない自然たちの声も今日ばかりは聞く気にもなれなかった。

 ドアをくぐった、靴を脱いだ、リビングへと向かってドアを開けた途端、祖父は勇人を睨みつけていた。

 皺だらけの顔で勇人に放り込む問いには声には鈴香想いでありながら勇人は捨ててもいいと言った方針、刺々しい感情が見て取れた。

「のこのこと帰って来たな、まだまだここまで早い時間だというのにどの面を下げて」

 冷たいまなざしは家族を見つめるものなどではなかった。果たしてこの男は孫のことをどのような者として見ているのだろう。

 祖父は、目の前の血の繋がった他人は表情を変えることもなくただ問いかけた。

「果たして、どれだけ強くなれたのだろうな。鈴香を魔法に近付けないための警備としてどれだけ使えるものか」

 もはやひとつの道具としての視線しか向けられていなかった。男の目には勇人のことなど鈴香の身に厄を持ち込まないための安全装置にしか見えていないのだろう。

「強くなってはいるな。ふむ……あと二年か三年、使い物にならなければ捨てるだけのことだが間に合ってくれればいいのだが」

 そこから重ねて加えられた言葉に目を見開いていた。

「大切な家族なのだからな」

 勇人の奥に乾いた水が湧いてきて渦巻く。激しい炎と混ざり合って巻き上げられて、おぞましい程に黒々とした情の煤を生み出し張り付かせていた。

 こぶしを強く握りしめた。熱をも心をも握りしめる想いを込めて思い切り。本音が零れ落ちてしまわないようにしっかりと。

――何が家族だ

 勇人の脳裏を過ぎったのは学校で見かけた手だけの幽霊。子どもと共に遊んで中学に上がったのちには勉強に悩む息子に知恵の手を差し伸べて時には一緒に悩む姿。部活動の大会で応援していい成績を収めた瞬間を見た途端はしゃいで喜ぶ姿。

 まさに家族の姿だった。

 目の前の男、息子のことを道具のように扱うだけの男が同じ関係を語る姿を目の当たりにした勇人の中で血よりも赤く身体よりも熱い怒りがただただ増えて膨らんで暴れ狂っていた。

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