第5話 相性

 朝から涼しい気温だった。涼しいといった感想が生まれる段階などとうに通り越して肌を震わせる寒さへと貌を変えてしまっていた。

 勇人は身体を震わせながらブレザーに甘える気持ちで歩いていた。

「よっ、やっと俺らの季節らしくなってきたよな」

 勇人の歩みに同行、同じ目的地を目指す仲間。クラスメイトの日之影 怜はブレザーを華麗に身に纏い、片目が隠れる位置に手を掲げる。

 そう、厨二病患者大好物、学校制服名物の季節なのだった。

「怜は今日も元気そうだな」

 勇人は自身の寒がりを記憶や今の実感から確かめて余裕などないのだと悟っていた。怜は明るい笑顔で勇人の肩を叩く。いつもならばここでその強さに苦言を飛ばしてしまうはずだったものの、今日はそれほどの痛みどころか押されて空気を掻き切るような衝撃さえその身を叩きにかかってくることはなかった。

「なんだ、強くなったのか嬉しいぜ」

 怜の喜びの影で勇人は陰を思わせる感情を巡らせる。そう、強くなった分も多少はあるかも知れないものの、明らかに昔より感覚が鈍っているように思えた。脚が地を踏む感覚も風が運んで来る微かな自然の香りも、勇人自身の中で万華鏡のように移り変わりいつでも少しずつ異なるものを映す色彩も、何もかもがくすんで色あせて鈍っている。何もかもが闇に飲み込まれ始めているような感覚に得も言われぬ不安を抱き始めていた。

 勇人の表情にかかる薄い煙を見通してか、怜は怪訝な表情を向けていた。

「大丈夫か、どうにもいつもより顔が暗いぜ」

 瞳を撫でる薄っすらとした闇のひとつにすら気が付いてしまう、それは確かな友情の織り成す業だった。

「いつも通り笑っていてくれよ、可愛い顔で」

 本気の心配は心に染み入って不安を優しくほどいてくれた。ほの暗い想いを運んで学校へ身を流してみても授業という時間に身を置いてみてもきっと集中など出来ない。それが分かり切っていただけに怜から与えられる感情は、怜の言葉より汲み取られた想いがこの上なくありがたかった。

 秋風は寒気を身に染み込ませ、秋の訪れを訴えかける。それはまさに四季の変貌。この国は世界の中でも非常に多くの貌を持っていて、常に人々の心を豊かにしてくれる。

 勇人は表情を緩めて明るい声で怜に返事を贈ってみせた。

「秋風にやられてただけだよ、俺寒がりなんでね」

 感情を隠すべく事実を覆いかぶせて創り上げた答えは怜に明るい感情を上手く伝えられたようで、笑いの声を混ぜながら言葉を射ていた。

「そうだったな、勇人は寒がりだったな。コート着ろよ、かっこいいぜ」

 果たして学校指定のコートなどあっただろうか。記憶の中に散りばめられた知識を集めて繋ぎ合わせてはみたものの、答えなど見つかりそうもなかった。

「おっ、着いた着いた。今日も授業とか教師とか言う悪魔どもが住まう見栄えだけ立派なおんぼろな城がよ」

 そうして入り込む学校、秋風は校舎の中に入っても微かに残って漂って寒気を纏っていた。この寒気のひとつ、それすら感じられない日が来てしまいそうで、それを想うだけでも勇人の胸は締め付けられ、不安に息が詰まって身体がふらついていた。


 勇人が送る戦いの日々は、確実に身を蝕んでいた。


 心が潰れるか身が下の世に落とされてしまうか。いつの日にか訪れる限界に目を向けて、深淵に落とされた気分を噛み締める。きっと周りの人々とは異なって、栄光か並みのものか、それにすら届かずに苦しみの中へと落ちて墜ちて堕ちておちてオチテ。

 もはや自身の感覚のひとつさえあてにはならなくなってしまうだろう。頼りないことこの上ない。怜と鈴香のふたりだけが心の支え、人生を歩む中での道しるべの光になっていた。

 学校での授業はもう役に立つ気がしなかった。卒業まで必要だから受けるだけ、親の話、勇人を大学に進ませる金などないとのこと。彼の進む先、終着点を見通しているように思えた。いや、きっと知っているのだろう。やましい世界の中の住民とは言えどもやましさだらけで表に出られないとは言えども、その狭い世界の中では由緒ある一族が、ある時期から同じ手段を用いて勇人と同じ業をいくつもの代にて与え続けて来た軌跡を一切記していないはずなどなかった。家に帰ってからの予定は立てられていた。

 家族が総じて包み隠している情報を、どこかに残されている記録を探し出すこと、それこそが目指す場所、呪われた一族の宿命を終わりにすることが出来ないものか調べることが叶えば更によし。

 勇人の代で薬を飲んで自らの身を心を自身の中の存在価値をも削って戦う運命の鎖を断ちたくて。

「おーい、勇人、昼休みだぞ」

 怜と勇人のふたりがこの場にいて、周囲は揶揄う視線を向けていた。

 そう、彼らはクラスの中では最強厨二病コンビと名付けられている。その役割を演じながら勇人はふと思う。もしも怜にも本当に魔法のチカラが、風を操って戦う裏の姿があったとしたら、厨二病コンビは一体どのような意味を持つことになるだろう。きっと生半可な揶揄いなど通用することがなくなってしまうだろう。

 勇人は今日もまた、怜の話を聞いていた。このふたりの会話の中で繰り広げられる世界、それはごくごく普通の魔法のある日常。最近どうにも明らかな敵とは遭遇出来ていないのだとのこと。

「ネタ切れかな」

「ネタがこっち回って来るの待っててくれよ」

 そう返されては信じたフリのひとつでも見せることが当然のように思えていた。とは言えど、話すことはあるらしい。

「前に言った日本刀と巫女服のふたつ見せびらかした女。時代錯誤もいいとこだよな」

 怜が言葉にしたのは過去の掘り起こし。勇人は大きく頷く。こうした話を冗談だと思い込んでいたが為に時代に見合わない恰好も特に考えることなく受け入れていた。

「俺は別段好きってワケでもねえのによお、あんにゃろおもっきし懐いて来るんだよな」

 惚気だろうか。厨二病の味付けを変えることを覚えてしまったようだが勇人としては出だしの時点で嫌気の時代に突入していた。全ての想いを破る勢いだった。

「何より先輩って言って来るくせに他全部敬語も丁寧語もなしだ。酷くねえか」

「はは、それは災難だったね」

 乾いた笑いと共に湿った想いの友の話を、彼が弾く声を耳に入れずに弾き飛ばしていた。バトルファンタジーのようなもうそうならば幾らでも聞くことが出来たものの、恋愛の妄想、それも特に経験のない男が手探りで行うものなど聞くに堪えなかった。せめて小説と名付けられた髪のフィルターが欲しい、そう思わざるを得なかった。

「後で会わせてやろうか。一応勇人のことは話したしな」

 妄想は既にそこまで進んでしまったのか、哀れなことこの上ない。友に対する想いとは思えない程に冷たくて鋭くて味気のない感情を抱いていた。そんな彼の呆れが疲れとなって顔に表れ始めた時のことだった。

 廊下の向こうから駆けて来る女子の姿を目にして勇人は驚きのあまり目を見開く。短いスカートはひらひらと舞って瞳に宿る輝きはゆらゆらと揺れる。黒い髪を乱れさせながら走って、勢いよく飛びついて、怜を抱き締めてくるりふわりと可憐な一度の回転が目の前で踊る。

「菜穂来やがったな、さっきお前の噂してたばっかだぜ」

 噂をしていた、その言葉を噛み砕いて飲み込むまでの五秒間、更に加えて十秒近く。流れていく沈黙の時間の価値など全く気にすることなく思い切り静寂の香りに浸っていた。

 そんな勇人をよそに菜穂が開いた口は怜の噂通りの言葉の照り付けを浴びせていた。

「先輩、なんで私のとこ来てくれなかったの、一緒に愛を胸の中で燃やし合おうって言ってたのに」

「俺には友だちがいるんだお前と違ってな」

「……え、作り話じゃなかったのか」

 怜の言葉を受けて変わる彼女の貌の天気。明らかにあざとい様子で頬を膨らませて分かりやすい不満を述べていた。その態度は勇人のことなどこの場にいないと叫び散らしているよう。ふたりだけの世界がその場で創り上げられていた。

「お前って言うのダメって言ったのにー。あとねあとね、私に友だちなんていないんだから」

 言葉を切って繋げた態度に勇人は呆れを覚える他なかった。菜穂は怜の手を両手で包んでその胸にて抱き締める。そこから更に怜と分かち合おうと口は開かれて、あふれ出る想いは自然と澄んだ声となり零れ落ちて空気に乗せられ手渡された。

「ずっと一緒にいてよ」

 周囲の環境を見る目など持ち合わせていないのだろうか、盲目か、そっと毒づくものの、あの女の耳にまで届くはずもなかった。勇人の呆れは先ほどの怜の表情への共感の色に塗られていた。ここまで鮮やかで強烈な色の嫌悪感は珍しい。ビビットカラーの嫌悪は気が付けば足を一歩、後ろへと引き下げていた。

「菜穂いい加減にしろ、勇人も分かったな、これは悩むだろ」

「あっうん、いいカップルだと思うよお似合いお似合い」

「っざけんな」

 もはや心など込めている余裕などなく、本音は遠回しの言葉と共に動きに湿っぽい色を付けていた。関わらないのが一番、この人生の中でまさか戦い以外の出来事で使う日が来るなど誰が予想できただろう。勇人には到底叶わなかった。目の前の女相手だと何も敵わない、手も足も出ない、手が届かない手詰まり、そうした言葉が脳裏で幾つも幾重にも巡り続けていた。

「そこの人が勇人って言うのね、先輩から話は聞いてる。正直話だけでも気に入らなかったけど、いい人だったのかしら」

 なに故に気に入らなかったのだろう。理由を問おうにも、怜が妄想を織り交ぜて話す姿がチラついて、勝手に理由の想像となって脳裏に居座っていた。

「ああよろしく」

 怜に対する態度、周りどころか怜の表情のひとつも窺うることなくいちゃいちゃとひとり気持ちよく想いを現実という舞台の劇にして本音を演じ上げる哀れな存在。気に入らないのはこっちの方だ、そんな言葉を抑え込んで仕舞い込んで難の無い言の葉を選んで心の棘のある一閃の光に代わってきらめきを瞳に散りばめてみせた。

 勇人の言葉を耳に入れた途端、菜穂の目が一瞬だけ、その眼光が刹那にのみ、鋭くなったように見えた。

「よろしく」

 返す言葉は穏やかだったものの、心穏やかでは済まされない。彼女の顔から滲み出る雰囲気にそう言った文字が敷き詰められているような気がした。

 乾いた空気を見て取ったのだろうか、怜が間に入って無理やりふたりの間に流れる空気を断ち切って見せた。

「帰れ帰れ」

 そうして菜穂を追い返そうとするものの、菜穂は勇人に少しだけ話があると言って無理やり引っ張って行く。

 勇人がたどり着いた場所、誰もいない壁、無機的な視線、埃っぽくて黒々とした異様な空気を纏いながら放たれた言葉に勇人は目を見開かずにはいられなかった。

「もう怜と話さないで、関わらないで」

 その表情は必要以上に真剣で、好きな人と関わるだけの友に対してそこまで言う菜穂の神経が理解できなかった。


 間違いなく彼女は勇人や怜の目からすれば遠い世界の住民だった。


 そんな考えを経て現実に出遅れてしまったのだろうか、勇人の立つ地は本当に床なのだろうか、学校の安定した木目の床の上に立っているとは思えないふらつきは、足を取って嘲笑う空気感は、果たして見た目通りの場所なのだろうか。勇人は今、何処にもいない、如何なる処にもいられない、そんな感覚に立ち眩みにも似た形なき深淵へと落ちていた。

 怜と同じ段階にいることも許さないあの女が心に隠し持つ剣によって、空間までをも切り裂かれているように、セカイそのものが刻まれて踏み出すことも叶わない状態のようにも思えていた。

――ああ、菜穂といったな……見えたよ

 あの剣、それこそがあの女の能力のカタチ。

 勇人の視界は闇に落とされて飲み込まれて行く。菜穂の心の刃の色は菜穂の色そのもので、勇人は気が付いてしまった。

 今のままでは菜穂の思うがまま。あの女はきっと勇人と怜の関係を斬ることなど容易いものだと思っているのだろう。実際のところ、そうなのかも知れない。だからこそ、縁を切るために必要な関りという過程を踏み飛ばしてあの刀で切り裂いて。

――だめだ、怜だって……俺だって

 一緒に話すあの麗しい追憶をその目に焼き付ける。怜が勇人の肩に置いた手の感触、いつも髪形を変えている半分程度の事実を印象として残してくる切れ長の目が特徴的な友人、今日の髪形は確か。

――今日は右半分だけ下ろしてた

 今日の髪形を言えた、今日も明日も笑って過ごす。勇人は心に叩き込む。言いなりはいけない。あの女の、あの面だけが整った己を世界だと思い込む嬢王気分の肉の仮面を剥がして内の醜い実体を世の中にまき散らしてみせたい衝動が風となって闇をも吹き払う。闇は霧だったのだろうか、まやかしは見る見るうちに遠ざかり、この世界のただ一点、菜穂の心の刀に集約されていた。

「友情を、ひとつひとつ違った形のパズルのピースを、たかだかひとりの想いのままに噛み合わない形に捻じ曲げられると思うなよ」

 途端に集約された闇は更なる密度の高さへと練り上げられて行った。


 菜穂の能力が通用してしまう元凶はきっと己の弱さ、気を強く持って、意志を示して仲良く笑っているのだと貫き通すことでひとりのワガママは打ち砕かれるものだったのだろう。


 勇人は闇を瞳で捉え、右手を肩の後ろへと引いた。弓を思わせる精神、周囲より集う雷は絶望の闇に塗り潰されていて希望が無い。それ故に絶望一色こそが美しい希望なのだと錯覚させられる。

 勇人は気が付いてしまった。この能力は、確実に勇人の魂を蝕んでいた。

――ダメだ、打ち勝って。弱みに住まうのはそれこそ今回の魔法と同じことだ

 瞳の中に、このセカイの中に存在しない光を宿し、唯一の輝きとなる。創り上げられた希望は強い意志を引き出して、自然とあの言葉を引き出して闇のセカイの出口へと導いていた。

「ひとりの哀れなる乙女の心の本質にこびりつきし闇よ、この世界に蔓延りし広大なる闇の中に〈分散〉されよ」

 突き出された手はそのまま闇ですらないただただ暗い黒の景色の中から大切な温もりをつかみ取った。稲妻がその闇で黒を破りながらどこまでも遠く見る目の前に、すぐ近くにて凝り固まる闇に噛み付いて入り込み、内側から砕いて行く。勇人の赤みがかった茶色の瞳はその様子など最早捉えてはいなかった。つかみ取った希望はふたつ。重ねられた手はふたり分。これから危機に巻き込まないために力をつけているふたりの理由。いつでも隣にいる同級生と毎日家で顔を合わせる妹。いつまでも一緒にいられるように、ずっと笑っていられるように、巻き込まないように負けないようにと想いを握りしめて。その手を握りしめて温もりをもらって心に温もりを送り込む。

 一度目を閉じて開いて映り込んだ景色に目を見開いた。菜穂が苦しそうに胸を押さえて床に倒れ込んでいるという有り様。あの戦いは現実にまで染み込み世界を非日常の色に染め上げて行った。

「保健室に」

「黙れ加害者」

 黒い髪の女が向けた言葉は殺意に輝いたおぞましい刃。人の闇は何処までも際限なく生み出されてこの世の何よりも濃くて分厚い存在となる。

 人々のうわさ話やちょっとした冗談が産み落として来た異形の存在を思い出し、菜穂に伸ばしていたその手を引っ込めた。きっとこの少女は再び闇と共に生きるようになるだろう。どこまでも深みに嵌ってやがては恨みの原因を忘れて憎しみは癖となって誰とも分からぬが浅く関わった他人を捌け口なのだと勘違いしてまき散らして。

 そんな人物とそもそも関わるつもりのない怜の縁の繋がりを保つ必要などあるのだろうか。

 悪影響の残響だけが想像のみなもに波紋を作る。決して幸せになることなど叶わず誰かを幸せにしようなどとも思うこともないその少女、この歳にしてこれからの人生の幸福度が自らの手によって下げられている彼女の俯く姿を見下ろして、そっとため息をついていた。

――ああ、なんてかわいそうな人だろう

 そうした想いの淵に引っ掛かった別の色の想いを傍目にしてそれを手首に優しく掛けていた。その想いを見つめて安心を得て目前の少女を置いて立ち去り、想いを何度でも触れて味わって見つめ続ける。

 友だちや家族と共に生きる自分という決して色あせない水底の宝石たちを。

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