第4話 怜

 空が夜の顔をして妖しい世界へと染まって行く。目はあまりにも頼りなくて心の模様が容易く見て取れる、そんな時間のことだった。怜は髪をおろして目の前に立つ女と言葉を交わし合っていた。

「よお、菜穂お前のこと勇人に話してやったぜ、いきなり日本刀向けて来た女ってな」

「いつの話よ」

 菜穂、そう呼ばれた女は顔を押さえてゆっくりと首を左右に振っていた。そこに示された感情は闇の中でもはっきりと見えて来て怜の貌に妙な笑みをもたらした。

「あとお前って言わないって約束だったでしょ、先輩」

 菜穂の声が先輩という音を発する度に怜の口からは大きなため息が生まれ落ちて行った。

「菜穂の方こそ先輩ってなら敬語つかえよ」

 私はいいの、先輩の特別なんだから。そのような言葉を返してみせる菜穂の笑顔に対して怜は表情を歪めずにはいられなかった。怜には菜穂の特別など必要なかった。

「それで、勇人とやら、本物の魔法使いなの、怜の間違いじゃないよね。実は魔力高め魔法の才能のある一般人でしたオチないかしら。唐津家のメガネの娘みたいな例もあるし」

 先ほどの菜穂に続いて怜もその首を左右に振った。意味合いなどふたりそれぞれ闇の中に溶かした色彩ほどに異なっていたものの。

「わり、これは間違いねえんだ。勇人の魔力が最近一般人とは思えねえくらいには安定してきてんだ」

 菜穂は絹のように滑らかな髪を揺らして怜に顔を近付けた。闇に覆われてよく見えなかった姿、純白の衣と鮮やかな紅の袴という色合いで構成された巫女装束と呼ばれる格好をしていた。菜穂の顔は既に触れ合いそうなほどに近付いていた。滑らかな髪がそっと怜の肌を撫でて、怜の中に奇妙な震えを呼び起こした。

「誰が何を言ってもふたりきりの関係だからね、私の特別な……せ、ん、ぱ、い」

 甘々な猫なで声やあざとい仕草、そうした姿が怜にとって受け入れがたいのだということに未だに気が付いていなかった。

「あと勇人についてだが」

「そんなヒトの話、いらないんじゃない。ふたりの時間を」

「あいつ、若葉 勇人って言うんだ」

 途端に菜穂の顔は強張って目は見開かれる。瞳は色がくすんで震え上がって留まることを知らなくて。気持ちというものが正直に静寂の闇の中で音を立てていて、あまりにもうるさかった。心臓の鼓動の音のひとつさえ耳を塞ぎたくなるくらいにうるさくて忌々しい。

「あの唐津家の先祖に無力化されたはずの若葉家、大人しく死んでしまえばいいのに、そのくそ男も先祖よろしく私の家の仕事を奪い続けるつもりなのね、金を枯らして飢え死にさせるつもりなのね」

 目の前の特別な人にとって大切な人のことをどこまでも罵り続けていた。特別の大切など、この女の考えの中にはいなかった。

「よせ、勇人はそんな悪いやつらとはちげえよ。アイツは、カワイイ顔して子どもみたいな声して優しくて一緒にいて楽しいだけの普通の魔法使いだ」

 どのような言葉も都合が悪ければ菜穂の塞がれた心の耳には届いて来ないのだろうか、菜穂はひたすら首を振って、怜の手を強く握りしめた。

「嫌だ、私の敵となんか仲良くしないで。私の味方でいてよ、私以外の全員を敵に回してでもずっと私の特別でいてよ私だけのあなたで」

 想いをせき止めていたのは頭脳なのだろう。全ての余裕を失って湧いて来る言葉は激しく流れる水のよう。表情から想いの凄みは増していることが窺えて、怜には恐怖の感情しか獲得できなかった。気持ちの悪い恐怖心が生々しく撫でて来て、背筋に弱々しくて強烈な悪寒が走っていて生温かな感情に心を侵されていた。

「はっ、あんまり艶めかしい態度でくっついて来ようってなら風で吹っ飛ばすぞ」

 夜の風は優しくて、ひんやりとした空気をかき乱すこともない。菜穂の感情の生々しさに対して抱かれた嫌悪感はしつこい程にこびりついていて、鮮度がいつまでも落ちない。

 新鮮であるほど腐臭の強いモノもこの世には存在するのだと大いに思い知らされていた。

 そんな気持ちなど汲み取ってくれるはずもなく、菜穂は夜話中でひんやりとした手で温もりを染み込ませ続けていた。

「そんなこと言わないで、吹き飛ばすのは敵だけにして」

 それなら。そう返そうとするものの、その口を噤む。菜穂とこれ以上言葉を紡いでいたくなかった。戦いで対面する相手に向ける激しい敵意よりも深くて静かでそれでいて内では滾って想いを焦がし続ける憎悪。

 怜の中では菜穂が普通の敵よりも質が悪くて歯止めを効かせずにどこまでも侵略してくる優しき巨悪に想えていた。

「知らねえよ、俺はもう行く」

 それだけ告げて立ち去ろうと手をほどいて振り返る。今宵は戦いは無し、暗闇の静寂の中に弾む活き活きとした魔力の奔流も弾ける感覚もそこには無いことを確認して歩みを進める。

 遠ざかる怜の背を追うように菜穂も歩き出そうとするものの、菜穂は菜穂で別な異形の存在を嗅ぎ取っていて例の向かう方へと歩むことは叶わなかった。振り返り、怜とは反対の方向へと進んで行く。まさに心の距離の開きを刻み付けているようでどこまでも空しく想えていた。

 怜と別れて進んで目の前に蔓延るモノは闇、大いに広がり行く偉大なる月と星の海の下、地上と名付けられた海底空間。そこに紛れしモノはこの世のモノではないものか、或いは此の世の者という考え方そのものが人類の視覚本位のものなのだろうか。

 巫女装束を纏い、日本刀を握る手に必要以上の力を込める。

 目の前に広がる闇の中、どうしても怜の貌がチラついて色付いた残像となって眼のまえから離れてはくれない。

「先輩、絶対に私」

 絶対に、続きは声にもならずに状況という存在の手によって切り落とされた。

 目前にて漂う足のない幽霊ども。下半身からは太い緒が伸びていて、まさにいつの日かの人類が抱いていた幽霊という存在の偏見によって形作られていた。

「そう、何も知らない人類が軽いイメージで姿変えちゃったのね」

 うわさ話や有名になったマンガやドラマ、そういったものによって根付いてしまった印象を持ったまま実際にその状況になってしまった人々。彼らの持つ空想のチカラに引っ張られて同じような姿、同じような行動を取る。

 つまるところ、特に理由もない恨みや特に理由のない怨念を持ったタチの悪い怨霊共がそこにはいた。

 闇を駆けるハリボテの怨念、偽りと言っても差し支えのない程に薄弱な怨霊。その人々のうわさ話によって創り上げられた偽りの暗黒を斬り裂くべく、刀を掲げたその時のことだった。

「うわあ、ここにも幽霊いっぱいだな。怜喜びそうだな」

 夜の闇を打ち木霊して響く声は子どものものだろうか、「れい」とはそこにいるではないか。

「れい……怜。まさかね」

 思い込みだった、そうした思い込みを抱えて思い込みだと思い込んでいる真実を振り下ろした刀の重みで引き裂いた。

 きっと別の霊、幽霊仲間、或いは他の「れい」と名付けられた人物だろう。特別珍しい名前であるわけでもない。

 菜穂の刀は空気を切り裂いて、誰の身を捉えるわけでもなく衝動に任せて闇に空っぽの一閃を引いた。

 ただそれだけの事であるにもかかわらず、恰好だけの斬撃で誰にも当てていないはずが。


 目の前、刀が届かない程には離れている霊が短い悲鳴を上げながら霧のような薄い身体を千切られ消滅していった。


 これこそが菜穂の持つ能力。〈斬撃の巫女〉としてのチカラだった。

「当てるのは心だけ、目に見えていれば、全ての過程を排して戦える」

 その能力は、世界に矛盾を産み落としていた。幾つも幾たびも幾程でも、菜穂が斬る前に斬れているという矛盾を武器にしていた。

 夜闇を裂く子どもの声をしっかりと耳にして、軽い笑いを浮かべていた。

「き、消えた」

「あの子には摩訶不思議を提供しようかしら、そもそも幽霊自体が非日常、ひとつ加えたところでね」

 希薄なモノが消えた、ただそれだけの話だった。幻想を幻想で打ち破ったところで幻想を理解しない人物には見分けがつかない、きっと霊が気まぐれで姿を消したと思うだけだろう。

 菜穂は怜の姿がチラついて思考を邪魔してしまうその目に再び霊の姿を映し込み、刀を振る。それだけで除霊が出来てしまうのだから楽なことこの上なかった。

 菜穂の能力は、便利で強すぎる。本人にその自覚はしっかりとあった。

「私自身の力で出来ることならその過程を斬って結果だけをその場に巻き起こす現象、それが私の一族、〈斬撃の巫女〉霧島家に伝えられし秘術」

 得意げになるまでもない、人類の精神衛生上良くないモノをこの世から取り除くこと、ただそれだけのことに一喜一憂するまでもなかった。

 菜穂が感情を注いでいたいのはどこの何者かもつかないような霊ではなく、ただひとりのあの人である怜に対してだった。

 そうして想いを巡らせながらも実際にやっていることは恋などとは程遠い戦い。自身が惨めに想えていたその時のことだった。

 静寂の闇の向こうから届いて来る相変わらずか細くて高い声が彼の姿勢の変化を告げていた。

「人のうわさ、それによって霊の姿が変わるものなのか」

 子どもだと思っていた声が述べた発音や言葉、そこから感じられるものは明らかに歳不相応の雰囲気だった。

「確か和服の女性の霊も当時のひとだったりそういった偏見からそういう姿になることも」

――何あの人、何分析してるの

 菜穂の頭の中に上がり込んで来た疑問符はその姿を増やし続けて行った。仲間を呼んでは増えて上がり込んできては増殖して、もはや分からない。

 あの言葉がどこまでもおかしなものに感じられた。

「じゃあ、あれはヒトの闇だね」

――絶対そんな声してる歳じゃないでしょあなた

 菜穂の思考の中は愉快なことになっていた。コメディともシュールな現実ともある種のホラーともつかない思考の中で、戸惑いに流され回され続けていた。一方で声の主はしっかりと動き出していた。

 その正体は突然現れた細くて鋭い稲妻の輝きによって照らされた。背丈からして明らかに中学生以上だということだけは見て取ることが出来た。

「目の前にて纏まり漂いし闇よ、この世界の中に流れ広がり蔓延りし大いなる闇の中に〈分散〉されよ」

 均衡を保つ者、その言葉が相応しいその男が肩の後ろにまで引いていた手を突き出した途端、雷は弾けて周囲へと張り巡らされて散りながら空気のひび割れとなり始めた。

 少年の所作は、弓矢を扱う様を連想させた。

 そこからしっかりと全ての霊を消し去り、少年は膝を曲げて手を着いて肩で息をする。それからすぐさまふらつく身体に鞭を打って立ち去り始めた。

 ひとり残された菜穂は大きなため息をついて、目には映らない少年を睨みつけていた。

「あれは、私の仕事を人知れず奪ってしまう……大きな敵」

 顔は確認できなかったものの、背丈とその歳に見合わない声だけはしっかりと脳の中に、忌まわしき記憶、憎むべき相手として刻み込んだ。

 忘れないように、時が来たら容赦を持たずに命を地の底へと叩き落とすことが出来るように、強く深く何度でも、闇の感情と共に刻み付けていた。

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