第3話 影

 首を絞め付けられて勇人の脳は声にもならない悲鳴を上げ続けていた。意識が自身よりはるか遠く、手を伸ばしても届かない程に離れたところにあるような感覚に陥っていた。これは怪談ではない、噂が生んだ異形、勇人の思う魔法の話。このような結末など望んでなどいない。鈴香を助ける前に己を守る術のひとつでも身に着けておかなければ。

 勇人は何処か現実から手を放したような意識の中で腕を後ろに引いた。影は後ろ、勇人がそのまま〈分散〉のチカラを使おうとも前に撃ち出すことしか出来なくて仕留めることなど不可能だろう。

 しかし、今はそれでよかった。

 空気中より魔力が闇を携えて雷の姿を取って勇人が引いた手のすぐ傍へと集まり始める。暗黒の輝きは、光よりも鋭くて余程救いになる闇の閃光。

 雷の輝きが弾けて跳ねて空気を破裂させ、周囲を愉快に漂う。ただそれだけで光よりも明るい輝きとなって影を引きちぎった。

「輝きの中で形を崩す」

 勇人を羽交い絞めにしていた影の腕は千切られて解放された。意識は闇に導かれ、現実へと引き戻される。振り返ったそこに立つ影は表情のひとつも持たない張りぼての貌をしたホンモノの脅威。人の背後を取って不意打ちを企んだその姿はまさに影法師そのものが裏切ったかのよう。かき消されたはずの腕は当たり前のように元に戻っていた。

「光じゃ影は崩せないか」

 世界を闇に閉ざしてしまうのはどうだろう。指ひとつ鳴らすだけで部屋の全ての明かりから扉に窓の全てを閉ざす屋敷を知り尽くした主のように手早く格好よく行なう様。実体無き影に『弱小な実体』という状態を創り上げるのはどうだろう。そこから一撃の殴りで仕留めるという迅速な解決。当然出来るはずもなかった。勇人に出来ることは何者か、何らかの要因でそこに固められし闇を世界に蔓延る大きな闇の中に〈分散〉することだけだった。

 如何にして解決しよう、加速する思考の中に明らかに自身のものではない記憶が混ざり始め、自身の想いの影となり集中力を分散していた。

――なんだよ、この記憶

 勇人が男でありながらも魔女のチカラを振い続けるごとに蓄積されて行くモノ、きっと正体は闇なのだろう。そう、闇を〈分散〉する度にその一部を勇人が引き受けているのだという事実が今になって意識の表層にまで浮上していた。

 思考の全てを振り払う。苦しみも思い出せる他者の記憶も絶望も、全ては後回し。目の前の影はただ立っていた。勇人と影、人の目と無いはずの目が合って、影はその手を勇人に向けて伸ばし始めた。

 仲良く過ごすつもりだろうか、友だちにでもなるつもりだろうか。


 どちらも違う


 勇人は追憶を追って確信を持った。女子たちが話していた内容は如何なものだっただろう。その手を繋いで向かう先は。

 想いを走らせつつも勇人は向けられた手に向けて手を伸ばす。歩みを進めてその手は、その距離は、少しずつ縮まって行く。空間は確実に迫り、実体の有と無は互いの存在を結び合い、影はそこに無い顔に全ての企みを含んだ笑みを浮かべる。そんな禍々しい存在でしかない影と触れ合い向かい合う勇人。


 彼もまた、同じ笑みを浮かべていた。


 繋がれた手はしっかりと結ばれて、もう片方の手は肩よりも後ろへと引かれて空気を裂くような闇の雷がそこに集められて顕現していた。

「ここで、噂を終わりにしよう」

 弾ける暗闇の輝きを目にして影はどのような想いを抱いただろう。逆光かそれともそもそもの素顔なのか、全くもって表情は見通すことが出来なかった。

 勇人はいつも通りの細くて高い声で影に、うわさ話が産み落とした人の闇に言葉を噛み締めながら告げる。

「目の前に固まり立ちはだかりし闇よ、この世界に蔓延りし闇の中に〈分散〉されよ」

 引かれた手は正面へと向けて勢いよく突き出された。目の前にて状況が分かっているのか分かっていないのか、それすらつかませずにただそこに在るだけの黒くて薄い存在に向けて、雷が弾けながら噛み付きにかかる。

 輝きは影と重なって、影は光に掻き消されて。それでもうねり進み空間をかき乱すひび割れの進行。やがては影の端をつかみ取ることが叶い影を内側から砕き始めた。

 目に映し、影が崩される様を見届けて、ひざを折って手を着き疲れを露わにしつつ立っていた。

「これで、終わってくれ」

 やがて稲妻は消え失せて、噂に産み落とされた影も消え去っていた。きっとあれはなにかの見間違いから噂になって生まれたものなのだろう。

 勇人は疲れた身体を、力の抜けた身を引き摺るように教室へと向けてのそのそと歩みを刻み始めた。

 そうして廊下を抜けようとしたその瞬間のことだった。すれ違う金髪の男、髪の色を除いてはそこらに身を置く人々と同じ格好をした何の変哲もないはずの男が通りゆく。何もおかしなことはなかったはずなのに勇人はついついその男を目で追ってしまっていた。

 男は立ち止まり、口を開く。

「どうしたのか、顔に何か付いているのか」

 何もおかしなところはなかったはず、ごくごく普通だったはず。しかしながらその目の中にガラス玉を思わせる灰色の瞳から違和感を見いださずにはいられなかった。

 高校三年生とは思えない髪色に余裕しか感じられない態度、瞳の中に映されている違和感は益々濃く深くなっていく。彼という異質を感じさせる存在を目にして勇人はその感情を声にせずにはいられなかった。

「あなたは、上級生じゃないんですか」

 もしかすると美術科に所属しているのかも知れない、もしかすると宙を絹のように整えられた姿で漂う煙を思わせる年上の雰囲気、そのオーラは平気な顔をして彼を裏切るかも知れなかった。

 男は勇人の疲れ切った姿を頭から靴の先まで見通して固い微笑みを浮かべてみせた。口元だけで笑っているようにしか見えず、その目は笑みなどには曲げられないといった態度を取っていた。

「お前こそ同級生でもないのにこの階をうろつくとは不審人物だな」

 返って来た答えは勇人に向けられているにもかかわらず、どこか別の場所に向けられているような錯覚に陥っていた。

「冗談というものだ、美術科の上級生とでも関りがあるのだろう、それかお前自身が美術科で向こうに用があるか」

 声がただの情報として流れて来る、そのようにしか感じ取ることが出来ない。何故だか処理が追いつかなかった。それは明らかに疲れから来るものとは異なって、やはり目の前の男からは違和感の波を多大に受けていた。

「私は美術科の三年、受験生ではないのでね、少しばかり浮いているだろう」

 勇人は男の放つ言葉を無言で否定してみせていた。流れる沈黙。言葉も許さない雰囲気の中で勇人の思考は回転を続ける。とんでもない、浮いている理由はどうにも美術科に通うような生徒だから、といった処に居座っているようにも思えた。それとも異なる気配。その異質な気配すらこの男が美術科を選んだ所以に、芸術との由縁にでも成り得た。

「何か言ってみたらどうだ、ここで打ち切られるような縁でもあるまい」

 果たしてそうだろうか、頭の中では否定してみせるものの、男が口にした言葉通りの予感がこびりついて固められて、これからも出会う機会があるような、そんな予感一色に染められていた。

「まあいい、残りの時間はゆっくりと過ごすがいい」

 疲れが顔に出てしまっていたのだろうか、男はそうした言葉を残して立ち去っていた。

 残されたひとり、付き纏う静寂。流れる感情は大きく虚しくありつつも、何処までも浸っていたくもあって、しかしきっと時間が、大切な友人がそれを許してはくれないだろう。そうした確信を持って帰って来た。

 笑顔で出迎えてくれる友人がこの上ない安心感を与えてくれる。彼がいる限りはうわさ話の闇に、世界を構成する様々なセカイの狭間の絶望に溺れないで済むような気がしていた。

「おかえり、遅かったな、何か面白いことにでも遭遇したか」

「そうなんだよ聞いてくれよ」

 そう語り、三年生の教室にて常に待機している教師に用があったという嘘から入り、うわさ話の影を倒し、独特な男と会話した、そこまできっちりと話してみせた。きっと怜にとっては冗談のひとつで済まされるだろう。分かった上で構築されゆく彼らの世界観、勇人の手によって不足した事実が付け足されることにより出来上がるひとつの紛い物、それこそが楽しみのひとつでもあった。

 勇人の話を聞き終えて、真っ先に怜は訊ねる。

「美術科の金髪、本気で言ってるよな、冗談じゃねえよな」

 少しの隠し事を加えつつも出会ったという事実は覆すことが出来なかった。

「あいつには気を付けろ、あれは……魔法使いたちの中でも恐れられし者だ、人の身を外れし者」

 誰がそれを言い始めたのだろう、分からない。怜の言葉と眼差しから真剣以外の感情が全くもって視えて来ない。そこでようやく勇人はあの男から汲み上げて味わっていた違和感の正体に気が付いてしまった。


 あの男の目には、感情という光も影も、何ひとつ住み込んでいなかった。


 高校、大学、学びを得る段階を経る時には特に問題はないだろう。しかし、社会に出た後はどうなるだろうか。他者と大きくズレた思想や感情は社会との壁を、関係の亀裂を生み起こすことが殆どだろう。今が栄光、あまりにも凡俗な立ち位置、その程度のものこそが彼にとって幸せの最頂点なのかも知れなかった。

 怜の眼差しは言葉と共に勇人を射貫いていた。強く刻み、感情の傷跡を残すように深く突き刺すように。

「あの男だけはダメだ『名前のない在籍者』だけは」

 名前に相当する部分を持ち合わせていない男、それでいながら何故だか何人たりともそれを指摘しない。チカラ無き者は。

「そう、俺たちには魔法の才能があるからそれに気が付いたんだ」

 これは怜の検証の果てに導かれた結果。指摘した時にはそう言えばとの言葉を残しつつ、その次には既に気にしていない、摩訶不思議に充ちたひとつの現象だった。

「なによりだ。アイツ、去年は一年生だったくせに今は三年だ」

 この学校、それどころかこの国に飛び級などという制度は存在しないはず。かと言って海外からのホームステイかと問われればそのはずもない。

 勇人の思考の中、ある予感が突き刺さって抜けないままでいた。


 まるで、勇人との接触をはかるために学年を弄ったかのように思えていた。

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