第2話 最強厨二病コンビ

 朝は確実な速度で訪れた。太陽が空の端から顔を覗かせておはようと語りかけてくるようで愛おしく思えてくる。あの暑苦しい程の熱を注いで訴えかけていた夏の太陽は今年の内は現れそうもなくてどこか寂しく思いつつもあの暑さは勘弁だという気持ちの方が強かった。

 勇人は腕を伸ばして欠伸を噛み殺し、目の端に蓄えられた微かな涙を掬い上げて制服に着替え始めた。

「おはよ、勇人……今日も、可愛い……ね」

 ゆっくりと歯切れ悪く途切れ途切れに不器用に話す高くて優しい声は明らかに妹の鈴香のものだった。恐らく起きてからの行動は全てその目に収められていたことだろう。

「鈴香、全部見てたな」

 特に何も口に出すことなく、口元を緩めて優しく微笑んでいるだけ。それが答えなのだと見てよさそうだった。

「まあいいや、別に覗かれても困るわけでもないし」

 やましいことなどなにひとつない、そのはずだった。

 鈴香は柔らかな目から温かな感情を注いで話を続けた。

「勇人って……いつまでも、声…………子ども、みたい」

「言うな、ちょっと気にしてるんだ」

 鈴香はいつでも勇人のことを下の名で呼び捨てにするように育てていた。自身に兄として誇れるものがないからだろうか、情けない人物だからだろうか、お兄ちゃん、そう呼ばれるだけで湧いて来る気持ちはどんよりとしていて重たくてしかも棘だらけの辛い感情まで連れて来るといった有り様。

 朝ごはんを済ませて鞄を手にしてドアを開く。青空は何処までも澄み切った爽やかな気持ちを風に乗せて運んでくれていて、ただ歩いているだけで気持ちのいいものだった。地面を踏み締める感覚が、地に着いた脚が跳ね返されるような感覚が靴越しに伝わって来て愛おしくて、いつまでも味わっていたかった。

 全身で様々な感覚を味わい続けるようになったのはいつだろう、小さな頃から既に好きではあったものの、今ほど異様に好んではいなかった。ここ最近何かが抜け落ち始めているような、自身が伸び上がっているような、そんな感覚に襲われることがあった。


 そう、戦いが始まってから、それからのことだった。


 日常の中のほんの少しの時が非日常に塗り替えられて、更に些細な日々が愛おしくなって行って、それでもいつの日かこの手を離れて行ってしまうような気がしていた。手を伸ばしても届かないそれはどれ程虚しいだろうか。初めての恋が叶わずに枯れ果てた時の想いにも似た感情が既に心の澄で叫びを上げ始めていた。

 歩いていた、映る景色のひとつひとつに想いの色を乗せながら心行くまでに。そんな勇人の肩に首に、突然何かが巻き付けられるような感触を覚えた。

「よお勇人、今日も脅威に立ち向かってっか」

 声を掛けて来た人物は背の高い男、切れ長の瞳は全てを射貫くように捉えるように強くある、そう思わせる説得力が根拠もなく佇んでいた。

「よっ、怜。ええと、今日はオールバックかな」

 程よく伸ばされた髪は日によってその姿を変える。勇人ほど癖の強い髪では容易に真似など出来ない芸当だった。

 怜は目を細めてニヤリと笑いながら言葉を選び話を続ける。

「んで、どうだ。昨日も最強の俺の最強の相棒さんは何かぶちのめしたか」

 怜の訊ねはきっと冗談のひとつに過ぎないだろう。勇人は妖しい笑みを浮かべながら真実を乗せて混ぜながら答えてみせる。

「ああ、もちろん。この世ならざる奇妙なバケモノを消し去ってやった」

 顔も声もきっとこうした言葉に似合っていないものだろう。それでも構わない、それでもこの会話は続けられた。

「そいつはよかった。俺なんかよ、魔法使いの野郎ぶっ潰してやったぜ。二メートルもあったかどうか、そいつが女を襲おうとしてたから風で吹き飛ばしてやったんだ、そしたらよお」

「そしたら、続きがあるのか」

 ガールを救う話に続きがある、心の中にそっと仕舞っておくことに決めた。怜は目を更に鋭く細めて続けて語り始めた。

「あのクソったれた女、俺に日本刀なんざ向けてきやがったんだ、私でも倒せる相手だった、余計なことしないで。だってさ。強がってやんの」

 きっとこれは作り話、周囲からの痛々しい目が注がれて苦しさや気まずさが放り込まれるものの、何処か憎むことが出来ないでいた。

「またなにかおっきな声で話してるよあの最強厨二病コンビ」

 最強厨二病コンビ、この関係にその名を付けられたのは一体いつのことだろう。気が付けばそう呼ばれていた。

 そもそもこの関係の幕開けは怜から持ち掛けられたものだった。どこか同じ雰囲気がする、お前も魔法のセカイの者だろ。そういった言葉を向けられて始まった関係。

 初めは遊びの一環、互いに分かり合っている冗談なのだと思い込んでいたものの、勇人はつい二か月前に彼を置き去りにして正真正銘の魔法を手にしていた。それも男が魔女のチカラを手に入れているという事実、それから何もかもがズレて行っているように思えて仕方がなかった。


 今の勇人にとってはこうした時間のひとつが心の支えにすらなっていた。


 孤独を否定する貴重な時間、ただただ楽しい友人との会話がかけがえのないものと変わり果てていた。

 そんな時間に区切りを付けるチャイムが辺りに響く。これから学生の本分である勉強の時間が始まるという時のこと。

 怜は忌々しそうに時計を睨み付けて何処へともなくただ言葉を投げ付ける。

「始まっちまったか、下手な魔法より余っ程むつい学問が」

 そうして当然のように始められた授業は、黒板に文字を書きながらひたすら話す太った男による教育の時は一旦終わりを告げた。みんなが立ち上がると共に怜は大きな欠伸をしながら遅れて立ち上がる。その様を勇人の瞳はしっかりと捉えていた。

――絶対寝てたな

 呆れ混じりに向けた視線に対して返って来たものはこの上なく爽やかな日差し付きの笑顔。間違いない、怜はもはや授業に対して熱い想いなど持っていなかった。暑い想いを持つと言えばきっとあのことに対してであろう。

 怜は勇人の前に立ち、いつもの話題を出し始めた。

「知ってるか、学校で噂になってんだ。肝試しっつったか、アレ目的でがっこに忍び込んだヤツがいたらしくてよ。そこで目にしたらしいぜ、蠢く謎の群衆をな」

 魔法やオカルト、都市伝説にうわさ話といった様々な怪しい話。怜の中では作り話なのかも知れない、分かり切っている現実を隠して愉快に豪快に厨二病という仮面とマントを身に着け振る舞って。そうした青春の日々が過ぎ去って行き着く先は虚しさか思い出か。綺麗な思い出なのか人には聞かせられないような恥の思い出なのだろうか。


 どうか怜には勇人が味わっているセカイが染みとなって侵入して来ませんように、そう願うばかりだった。


 それからもうふたつの区切りある睡眠時間を経て訪れた昼ごはんの時、教室の一角にてひと纏まりの女子生徒たちがひそひそと話していた。勇人の耳に届いたもの、それが勇人の注目を奪い取って行った。

「えーなにそれ」

「知らないの。学校の中じゃ有名よ、昼十二時半、三階のトイレ近くの廊下に何故か人がいないと思ったら要注意」

 そこから語られる情報のひとつも聞き逃さないように、耳で全てをつかみ取れるように、授業の中ですら発揮しない全力の集中をしていた。そう、怜の言葉が届かない程に。

「そこに……イル。人を引き摺り込んで一緒に地獄にオチヨウトスル影が、デモケッキョクヒトヲオトスダケ。ソレハ、シニノコッテツギノヒトヲマツノ」

 勇人はハッとして振り返り、黒板の上に設置された時計を確認する。針は、十二の位置から少し逸れた位置と4の数字を通り過ぎた辺りを指していた。十二時ニ十分を過ぎた。


 噂の時は、近い。


 勇人は残った弁当を素早く掻き込み片づけを始めた。

「お、おい。どうしたんだ勇人」

 怜は目を見開いて訊ねるものの、正直に言えるはずもない。代わりに選び取り出した言葉で無理やり納得させるしかなかった。席を立ち、鞄に弁当を仕舞いながら告げた。

「悪い、ちょっと用事」

 あまりにも聞き苦しい発言、きっとこれから何度も通用するような万能感も説得力もないだろう。

「ちょっ、待てって」

 怜の呼び止めなど聞いている暇もなく、ただ駆け出す。教室を勢いよく飛び出して、風を受けて風に後押しを戴いて。そよ風が癖のある髪を軽く揺らして肌を擦る感触がこそばゆくてそれがいつになく愛おしい。


 どうしてだろう、男ながらに魔女のチカラを宿して以来、感覚のひとつひとつがこれまで以上に愛おしく感じられた。


 元々の勇人の感性が更に研ぎ澄まされているのだろうか、確かめてみるものの真実は分からない、それでも何故だか不自然に愛おしくて幾ら味わえども恋しくて、やがて来る結末にその感覚が付いて来れるかどうか、そんな昏い想いが仄かに蔓延っていた。

 床を足で叩くように、着いているのかいないのかはっきりと見通すことの出来ない軽やかさで進み行く。廊下を抜け、階段を一段飛ばしで迅さをさらに増して。駆ける足に「速く」と命令をぶつけていた。焦る心は目的地へ「早く」と祈りを唱えていた。

 主にこれから受験生が収められた三階。噂や安らぎと言った雰囲気など既にはち切られて周囲には冬の訪れよりも早く冬の乾燥よりも激しくピリピリとした空気が張り詰めていた。ここにいる人々の大半は人生が懸かっているのだ。この緊張は当たり前のものでしかなかった。

 今この空気感に居合わせるには最も相応しくない人物である勇人は心に意図無き圧を掛けられながらもこの階のトイレのある廊下を目指す。普通科と美術科の棟を結ぶ連絡通路の曲がり角のすぐそばにあるトイレ、そこに人通りのない空間を見た。

「ここが、噂の」

 時間の確かめようはなかったものの、人はいない。影はそこにいるのか、いないのだろうか。分からない、確認できない。窓から差し込む光の外側に追いやられて微かな存在感を残し伸びる影から自身の足元から生えた影までもが例の影のように思えて仕方がなかった。

「なにも……いないのか」

 疑いは深まるばかり、人がいないのも偶然なのだろうか。きっとそうであるに違いない。今この時期ならば人通りが少ない時間が増えていても不自然ではないだろう。

「ただの噂だし、そういうこともあるか」

 後ろを振り返り、見渡しつつも気を抜いて歩き出そうとゆっくりと一歩を踏み出した。

 これから戻って怜と楽しく話すこととしよう、いつも通りの空想に事実を織り交ぜながら平和に。

 そうは言っていられない状況、妹を守るためなら実戦の実績は幾つでも積んでおきたい、何も出来ないことを悔やみつつも一歩二歩と足を鳴らし床を鳴らしたその時だった。

 首に何かが巻き付いて勇人の動きを引き留める。日常を歩むための足は地から引き離された。

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